M・バルガス=リョサ 旦 敬介訳 (新潮・現代世界の文学)
《あらすじ》
突如現れた流浪の預言者。世界の終末を説く男は、たちまちにして貧困と飢えに悩む人々の心を捉える。人間の誇りと深い憎しみ、不寛容な戦いの壮大な叙事詩。
《この一文》
”「何十人も何百人もが死んでいっている」。クンベの司祭は通りの方をさし示しながら言った。「どうしてなんだ? ただ神を信じたがゆえにだ。ただ、神の法にしたがって生きようとしたがゆえにだ。またもや、無実の人間が虐殺されているのだ」 ”
19世紀末、ブラジル奥地のカヌードスの地にコンセリェイロ(預言者)率いる宗教集団が街をつくり始めます。
ブラジル共和国はこれを許さず、軍の大部隊を送り込みますが、共和国側の当初の思惑と反して、カヌードスの激しい抵抗に軍は壊滅的な打撃を受け、陥落までには1年という長い時間を要します。
ブラジルの歴史的事実だそうです。
人間にもっと寛容の性質が備わっていたら、世界は違う風に現れてくるのではないかと思います。
信念を持つことは美徳とされがちですが、信念を持つということは同時に自分の考えを尊重し、他者の考えは排斥することであるとも言えるでしょう。
つまり、信念が不寛容(他者を許さない心)と結びつくのです。
とくにその信念が社会構造に関わる場合には、激しい争いを生むことになるのかもしれない、とそんなことをひしひしと感じさせられる1冊でした。
もちろん、一番の問題は貧困なのですけど。
貧困や差別といったこの世界の不条理に説明を付けてくれるのが、たまたま宗教であっただけのことかもしれません。
神様を信じる人々がどうして憎しみあって殺し合うのか、私にはどうにもわからないでいたのですが、もしかしたら信仰と寛容ということは全く関係のないことなのかもしれません。
コンセリェイロのもとに集まった人々は、殺した軍の兵士を裸にして睾丸を切り取って口に詰め込み、木に吊るして鳥に食わせます。
正しく埋葬されない人間は地獄に堕ちると考えていたからです。
負傷した兵士には、傷口に潜り込む性質のある虫を送り込み、生きたまま内臓を食いやぶらせたりします。
カヌードスの人々はほとんど老若男女の区別なく戦いに参加し、徹底的に殺戮します。
それもこれも、彼らにとって最後の地を守るためなのです。
迫害され、ようやく安息の地を見つけ、ひっそり暮そうと思っていた彼らには、こんな奥地にまで攻め込んでくる共和国を決して許すことなどできないのです。
一方で、共和国はどうして彼らを認めることができなかったのか。
近代国家を目指す共和国は、新しい税制に反対し国勢調査にも参加しないカヌードスの街が次第に巨大化していくことに脅威を感じます。
共和国としては、人々を奴隷制度から解放し、不平等や無知から人々を救い出そうという理想もあるにはあるのです。
が、勢力争いによる仕組まれた不確かな情報のために、カヌードスの後ろには王党派やイギリスがまわっているに違いないなどの憶測が乱れ飛び、ついには討伐隊を派遣することになるのでした。
どうしたらよいのでしょうか。
死が人間にとっての究極的な恐れである限り、殺し合うことは止められないのでしょうか。
いつか段階を上がって結論が見えてくることを願います。
もうひとつの問題は我々がどちらが正しいかなんて知らないことでしょう。
ただ信じているだけだから、正義のためだと言ってはひどいことだってできるのです。
引用した部分は、七つの大罪を全て犯したジョアキン神父の言葉です。
彼はこの作品中で最も変化する人物のひとりで、脇役ではありますが、私はかなり移入してしまいました。
神父の彼は、酒にも女にもだらしなく、気さくではありますが極めて小心者でもあります。
その彼が、内縁の妻がコンセリェイロに従って出て行った日から変わります。
命がけでカヌードスのために武器を調達してきたり、最後には銃を取って戦いにも加わります。
何が彼をそうさせたのか、ただ信仰のためだけではないようでしたが、まだよくまとまりません。
他にも作中には魅力的に描かれる人物が多く登場します。
カヌードスに加わった人だけでなく、軍の人間の持つ理想や、ヨーロッパからやってきた革命家の考えなど、色々な立場から世界を描き出しています。
長くなるわけです。(約700頁、重い)
その他の人物に対しての私の意見も書きたかった気もしますが、やめておきます。
書いても書ききれない、物語の分量に劣らない厚みと深みを持った傑作でありました。
《あらすじ》
突如現れた流浪の預言者。世界の終末を説く男は、たちまちにして貧困と飢えに悩む人々の心を捉える。人間の誇りと深い憎しみ、不寛容な戦いの壮大な叙事詩。
《この一文》
”「何十人も何百人もが死んでいっている」。クンベの司祭は通りの方をさし示しながら言った。「どうしてなんだ? ただ神を信じたがゆえにだ。ただ、神の法にしたがって生きようとしたがゆえにだ。またもや、無実の人間が虐殺されているのだ」 ”
19世紀末、ブラジル奥地のカヌードスの地にコンセリェイロ(預言者)率いる宗教集団が街をつくり始めます。
ブラジル共和国はこれを許さず、軍の大部隊を送り込みますが、共和国側の当初の思惑と反して、カヌードスの激しい抵抗に軍は壊滅的な打撃を受け、陥落までには1年という長い時間を要します。
ブラジルの歴史的事実だそうです。
人間にもっと寛容の性質が備わっていたら、世界は違う風に現れてくるのではないかと思います。
信念を持つことは美徳とされがちですが、信念を持つということは同時に自分の考えを尊重し、他者の考えは排斥することであるとも言えるでしょう。
つまり、信念が不寛容(他者を許さない心)と結びつくのです。
とくにその信念が社会構造に関わる場合には、激しい争いを生むことになるのかもしれない、とそんなことをひしひしと感じさせられる1冊でした。
もちろん、一番の問題は貧困なのですけど。
貧困や差別といったこの世界の不条理に説明を付けてくれるのが、たまたま宗教であっただけのことかもしれません。
神様を信じる人々がどうして憎しみあって殺し合うのか、私にはどうにもわからないでいたのですが、もしかしたら信仰と寛容ということは全く関係のないことなのかもしれません。
コンセリェイロのもとに集まった人々は、殺した軍の兵士を裸にして睾丸を切り取って口に詰め込み、木に吊るして鳥に食わせます。
正しく埋葬されない人間は地獄に堕ちると考えていたからです。
負傷した兵士には、傷口に潜り込む性質のある虫を送り込み、生きたまま内臓を食いやぶらせたりします。
カヌードスの人々はほとんど老若男女の区別なく戦いに参加し、徹底的に殺戮します。
それもこれも、彼らにとって最後の地を守るためなのです。
迫害され、ようやく安息の地を見つけ、ひっそり暮そうと思っていた彼らには、こんな奥地にまで攻め込んでくる共和国を決して許すことなどできないのです。
一方で、共和国はどうして彼らを認めることができなかったのか。
近代国家を目指す共和国は、新しい税制に反対し国勢調査にも参加しないカヌードスの街が次第に巨大化していくことに脅威を感じます。
共和国としては、人々を奴隷制度から解放し、不平等や無知から人々を救い出そうという理想もあるにはあるのです。
が、勢力争いによる仕組まれた不確かな情報のために、カヌードスの後ろには王党派やイギリスがまわっているに違いないなどの憶測が乱れ飛び、ついには討伐隊を派遣することになるのでした。
どうしたらよいのでしょうか。
死が人間にとっての究極的な恐れである限り、殺し合うことは止められないのでしょうか。
いつか段階を上がって結論が見えてくることを願います。
もうひとつの問題は我々がどちらが正しいかなんて知らないことでしょう。
ただ信じているだけだから、正義のためだと言ってはひどいことだってできるのです。
引用した部分は、七つの大罪を全て犯したジョアキン神父の言葉です。
彼はこの作品中で最も変化する人物のひとりで、脇役ではありますが、私はかなり移入してしまいました。
神父の彼は、酒にも女にもだらしなく、気さくではありますが極めて小心者でもあります。
その彼が、内縁の妻がコンセリェイロに従って出て行った日から変わります。
命がけでカヌードスのために武器を調達してきたり、最後には銃を取って戦いにも加わります。
何が彼をそうさせたのか、ただ信仰のためだけではないようでしたが、まだよくまとまりません。
他にも作中には魅力的に描かれる人物が多く登場します。
カヌードスに加わった人だけでなく、軍の人間の持つ理想や、ヨーロッパからやってきた革命家の考えなど、色々な立場から世界を描き出しています。
長くなるわけです。(約700頁、重い)
その他の人物に対しての私の意見も書きたかった気もしますが、やめておきます。
書いても書ききれない、物語の分量に劣らない厚みと深みを持った傑作でありました。
この「世界終末戦争」についてはここではじめて知りました。なんだかすごく重そうだけど面白そう。そのうち読んでみたい本のリストに入れておこうっと。
物語の世界が濃いというかなんというか独特です。
私も最近はさぼっていて、あまり開拓していないので、そろそろボルヘスなんかは読みたいところですねー。
昔はどうしてだか、ボルヘスとは相性が悪くて、すぐに眠くなり・・・。