ニュージーランド移住記録:みたび

移住は帰らなくてもいい終わりのない旅。人生そのものも旅。そして気づき始めたあの世への旅。旅と夢限定ブログ

タスマニア行:カスケードブリュワリー

2024年09月15日 | オーストラリア:タスマニア

2023年3月のタスマニア4日目


ホバート最高峰のクナニ山に
向かいカスケード通りの緩や
かな坂をしばし上って行くと



カーブの先に忽然と現れたの
がカスケードブリュワリー。

今年で創業200年。オースト
ラリア最古のビール醸造所🍺


第一印象は正直なところ3つ
「これってファサードだけ?」
「トゥイHQにそっくり」
「お化け屋敷みたい」



ファサードだけではなくちゃ
んと後ろに建物があります。

でもなんだかちぐはぐ感


トゥイHQはNZの首都ウェリ
ントンを北上した何もないマ
ンガタイノカの草原に立つ、
トゥイビールの醸造所です。

こちらは約100年後の1931年
完成で、かなりアールデコ風


土地がいくらでもある場所で
あえてこんなに高層の建物を
建てるって、ビール醸造には
高さが必要なんでしょうか。


明るく写っていますが、重厚
な石造りの建物が不吉に見え
クナニ山に向かう緩やかな地
形もなぜか風水悪く感じられ



お化け屋敷を感じました(笑)



この直感はまんざら間違いで
はなかったようで、1年後に
すぐ近くの世界遺産カスケー
ズ女子工場(オーストラリア
の囚人遺跡群の1つの女囚刑
務所跡)を訪ねたとき、この
一帯がいかに湿度が高く住む
には厳しい地かを知ります。



巨大な貯蔵タンクが林立し、

現役の工場なのを実感しても


視界には200年の隔たりが同
居してなんとも不思議です。



ビールだけなく多数のノンア
ル飲料も製造していました。



実がたわわになった栗の木🌰

「栗も香りづけに使われる」
んではなかったか(うろ覚え)


予約制で工場見学ができて、



バーも併設されていました。



日曜日だったこともあり満席
(※バーの入口)

庭を子どもが走り回っている
ファミリーバーというのがオ
ーストラリアやNZっぽい(笑)


滞在中に再訪すること決定



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タスマニア行:コーヒーからビールへ

2024年09月14日 | オーストラリア:タスマニア

2023年3月のタスマニア4日目
この旅行記もやっと4日目に


ホテルの敷地内で日向ぼっこ
していた可愛い艶々の黒猫



気温は低めでも毎日晴天で、
目いっぱい動き回れる最良の
天気でした。日光が心地いい



「ここの3月ってこうなの?」
と空港からのタクシーの運転
手に聞くと、頭を振り振り、
「とんでもない。2週間前は嵐
みたいな天気だったんだよ」
と言われ、好天はまさに恵み


朝ごはんは下調べしておいた
ジンジャーブラウン

目的地への通り道だったのと
美味しそうなメニューで即決


しかし、日曜日とあって満席



予約なしは無謀でしたが、予
約まで時間のあった席ゲット



店の配慮がありがたかった~



私はハロウミたっぷりのパワ
ーサラダ。野菜の鮮度が光る



夫は毎度おなじみ挟み物系で

独特の大きさで自家製パン?


人気店らしく近くにスポーツ
グランドもあり、子連れの家
族もたくさん見かけました。

典型的なネイバーフッド(ご近
所)カフェ。コーヒーはもちろ
んですが、食事と居心地が鍵


食後はクナニ山を正面に長く
緩い坂をどこまでも行くと、



正面に忽然と現れた一度見た
ら忘れられない不思議な建物

カスケードブリュワリー
ここが午前の目的地でした。


今年創業200年を迎えるタス
マニアビールの祖の醸造所🍺

ロゴはタスマニアタイガー
創業した頃はまだたくさんい
たのに今は絶滅しました(涙)


1824年といえばハンター通り
にぽつぽつ倉庫が建ち始めた
ホバート黎明期の19世紀初め

そんな頃にこんなに立派な建
物でビールを作っていたとは


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タスマニア行:エリザベス通り

2024年09月13日 | オーストラリア:タスマニア

2023年3月のタスマニア3日目


ホバート港を出てホテル方向
の北に向かってテクテク散策



白亜の建物は新聞社マーキュ
リー。なぜ屋上にTOXIC(毒)
の旗?社主が鮭の養殖に反対
しているからという説あり。



土曜日も午後遅くなると閑散
としている商店街をブラブラ



いかにも老舗そうな店名と絵

カフェ・コーヒーショップ


エリザベスストリートモール

1970年代に誕生した青空モー
ル。ホバート一の商業エリア
だそうですが、静かなもの。


可愛い壁画は猫に見えるフク
ロネコ。現在はタスマニアに
のみ生息している肉食有袋類

やっぱり猫に見えるけど(笑)


オーストラリアやNZには今も
あるあるの20世紀初頭の商店

100年以上経っても立地がい
いし頑丈な造りで現役です。


夜はホテルから近かったノー
スホバートのイタリア料理🍕
キャピタル

ここもエリザベス通りです。


古い建物をインダストリアル
スタイルに上手くまとめて



カラフェで飲めるのもイイ👍



よく歩いた長い1日に乾杯🍷



旅先では断然イタリアンの夫

大満足なスタートに


オリーブも艶っ艶

温め方も完璧だったような?


私はサラダがあればご機嫌



マルゲリータもちょうどの量



私がほぼ唯一頼むスイーツ

ティラミス


美味しいマキアートでした。



28本目にして、3日目終了
最終何本になることやら


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タスマニア行:ジャム缶男爵

2024年09月12日 | オーストラリア:タスマニア

2023年3月のタスマニア3日目


ヘンリー・ジョーンズが30歳
で破たんしたジャム工場を買
収した際、すでに18年間にわ
たる業界経験がありました。



ジョーンズは経験から、事業
の成否がジャム製造に必要な
すべてをいかに手中に収める
かにかかっていることを早い
段階から見抜いていました。


まさに垂直統合型経営の発想
で、自動車メーカーが部品供
給会社から販売会社までを子
会社化したり系列化して、傘
下に置くのと同じ方法です。


これにより経営コストを抑制
し、利益を最大化することが
できる、まさ資本家の発想


ジョーンズは缶詰出荷に必要
な木箱製造のために木材の伐
採権や製材所、原材料供給元
の果樹園やホップ畑、輸送を
担う船会社、船の燃料を産出
する炭鉱、缶製造のための錫
めっき工場等を、次々に買収
もしくは出資を通じて系列化
し傘下に収めていきました。

(※工場前に荷揚げされた木
箱製造のための木材の山)



(※出荷される木箱入り缶詰)


また、果樹農家に対して資金
を融資したり保険代理店とし
て発言権を強めたりなど、ジ
ョーンズ社はますます影響力
を強め、タスマニアの果樹・
ホップ生産への垂直統合に危
機感を募らせる生産者たちの
公開討論会も開かれました。


ジョーンズはまた、政府によ
る賃金設定や労働環境への関
与に強く反対していました。


1907年には王立委員会(※政
府が特定の事案に対して設立
する第三者の専門家による諮
問機関)から、工場の賃金や
労働環境について厳しく批判
される事態ともなりました。


財力と権力の集中で事業の効
率化と資本家の利益が上昇す
る反面、そのとばっちりに苦
しむ人々がいるのはいつの世
も同じ。特にタスマニアとい
う外部から遮断された島での
下請けの苦悩は深刻でした。

(※水路と陸路で続々と原材
料が集まり、海路で国内外に
製品輸送するという好立地)


しかしジョーンズはモットー
“I excel at everything I do”
(自分が行う全ての事に秀でる)
どおり逆風の中でも前進し、
海外にも活路を見出します。


タイの錫鉱山への出資は莫大
な利益をもたらし、イギリス
へも積極的に進出し、第1次
大戦中には英軍に航空機を寄
贈し、1919年にはタスマニ
ア経済への貢献が認められ、
Sirの称号が授与されました。
(👆実に政治臭漂う展開)


ジャム生産の最盛期1920年代



当時の工場はイギリス以外で
最大かつ最も近代的と称され
従業員1,100人を擁し、川上
から川下まで一貫した生産・
輸出販売体制を築きました。

(※一貫生産を行った内部)


一時はハンター通りの端から
端までジョーンズが仕切り、
ヘンリー・ジョーンズ帝国と
呼ばれる繁栄を誇りました。


『ジャム缶男爵』と揶揄され
たジョーンズは1926年病死。


ジョーンズの死後、工場はな
んと!1892年に経営破たん
したピーコックのジャム工場
をともに買い上げて以来の仲
だった元従業員パルフレイマ
ンが引き継ぎ、1965年まで
製造が続けられたそうです。


1977年に工場跡を州政府が
購入し、今はアート関連施設
や店舗が入居する複合施設に


25番地は現在ヘンリー・ジョ
ーンズ・アートホテル
になり

館内のバーは IXLロングバー


かつての興亡はともに歴史の
中に沈み、変わらぬ眺めだけ
が静かに広がっていました。



思いがけずハンター通りの話
で足踏みしてしまいました。



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タスマニア行:ヘンリー・ジョーンズ帝国の萌芽

2024年09月11日 | オーストラリア:タスマニア

2023年3月のタスマニア3日目


ジャム王と称されたジョージ
・ピーコックのジャム工場が
経営破たんした際、救済に乗
り出したのが、その後ハンタ
ー通りの顔となる若き日のヘ
ンリー・ジョーンズでした。


ジョーンズはウェールズ系移
民の子として1862年に生ま
れ、12歳からピーコックのジ
ャム工場で働き始めました。


最初の仕事はフルーツ缶詰の
ラベル貼りでしたが、数年後
には優秀なジャム職人となり
ハンター通りの偉大な先代2
人バンスターとピーコック同
様33番地に住んでいました。


21歳で結婚、3男9女の父に


1885年に入ると事業はオース
トラリア本土との競合に晒さ
れ、ジョーンズは弱冠23歳で
工場長に抜擢されます。1892
年に経営が破たんするや、ピ
ーコックの息子ともう1人の
従業員とともに会社を買い上
げ、H.ジョーンズ社を設立し
ます。30歳の大勝負でした。


G.ピーコック&サンズ社から



H.ジョーンズ社に



ジョーンズは自身のモットー
“I excel at everything I do”
(自分が行う全ての事に秀でる)
をブランド名のIXLとします。

(※工場の煙突にもIXLジャム)


1898年までには新工場建設や
商品の多様化で業績は回復に
向かいます。ジョーンズはジ
ャム製造にとどまらない大胆
な事業の多角化に乗り出し、
後にヘンリー・ジョーンズ帝
国と称される版図の拡大に向
けて突き進んでいきました。


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タスマニア行:ジャム王の盛衰

2024年09月10日 | オーストラリア:タスマニア

2023年3月のタスマニア3日目


一時はヘンリー・ジョーンズ
帝国と言われるほど隆盛を誇
ったジャム工場の誕生までに
は幾度か変遷がありました。



今も残るハンター通りを代表
するこの建物は、1820年代に
ウィリアム・バンスターが31
番地と33番地に倉庫兼住宅を
建てたことに始まりました。

(※イギリス式は道の両側で奇
数と偶数の住所が分かれるの
で、31と33番地は連番です)


バンスターはアザラシの皮や
塩の仲買人で、シドニーとの
国内交易で財を成し、後に通
りの35番地も購入しました。


31番地は長らくパブとして利
用され、1827年には宿泊施設
にもなり、最初のホバート商
工会議所が入居。1階はマー
チャント(商人)たちの会議に
使われ、地下では船員や港湾
労働者があり金をはたくまで
飲んだくれていたそうです。


バンスター自身は野心家では
なかったらしく「平凡な男」
と自称し、アザラシ漁の衰退
とともに一線を退いたのか


次に登場したのが、ジャム製
造を手掛けるジョージ・ピー
コックでした。彼は1869~
82年にかけ荒廃していた27~
33番地を辛抱強く買い上げて
いきました。その間13年間


ピーコックはイギリス本国で
ビジネスを学び、ホバートで
はジャム王と称されました。
1882年ハンター通り工場始動

(※写真は1885年頃)


また敬虔なクリスチャンで、
会社経営でも宗教を重んじ、
祈祷や説教を行って、従業員
に厳格な禁酒を命じました。


慎重な経営にもかかわらず、
会社は1892年に経営破たん
開業からわずか10年でした。


その救済に乗り出したのが、
ピーコックの息子と2人の従
業員でした。従業員のうちの
1人こそが若き日のヘンリー
・ジョーンズだったのです


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タスマニア行:ハンター通りの商人

2024年09月09日 | オーストラリア:タスマニア

2023年3月のタスマニア3日目


1813年にホバート港での交易
が始まり、20年代には海沿い
のハンター通りに瀟洒な倉庫
が立ち並び、ハンター通り
商人と呼ばれたマーチャント
(商人)たちは、続々と新植民
地の礎を築いていきました。



貿易で功成り名を遂げた彼ら
は、地場銀行や企業の掌握だ
けでなく、農村部にもその影
響力を拡大していきました。



一部は司法や行政にも進出し
ハンター通りの商人たちは20
世紀初頭までホバートの経済
と政治を牛耳ったそうです。


彼らは保守的で社会的な支持
を得ていました。商人たちが
登場する以前、支配的な地位
にあった植民地の役人は特権
を利用して汚職三昧だったた
め、経済発展で民間が力を持
つことにより、悪しき慣行が
排除されていったようです。


商人たちは金に飽かして祖国
英国のライフスタイルを実現
しました。ピアノや高価な家
具、美術品を輸入し、絹や麻
をふんだんに使い、多分に成
金趣味ではあっても現地の文
化の担い手でもありました。


しかし、権力の集中が良いこ
とではないのはいつの世にあ
っても自明の理。ホバートも
例外ではありませんでした。


ハンター通りで中心的な役割
を担ったのが、ヘンリー・ジ
ョーンズでした。その名は今
もジャム工場跡に残ります。



彼なくしてハンター通りの商
人は語れませんが、建物はジ
ョーンズ以前の先人によって
200年前に建てられました。


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タスマニア行:ホバートの礎ハンター通り

2024年09月06日 | オーストラリア:タスマニア

2023年3月のタスマニア3日目


州都はホバート港を囲むよう
に建設され、地の果てのよう
なタスマニアでの植民地建設
において、外の世界との玄関
口の重要性がしのばれます。



クルーズターミナルに続くプ
ロムナードはハンター通りと
いわれ、まさにホバート植民
地建設の礎となったエリア。
(※奥に見えるのがクルーズ船
建物がどんなに小さいことか)

往時の豪勢を今に伝えます。


1813年に港での交易が認可さ
れると、植民地への物資供給
を商機と見た船主や船長たち
が続々とここに集まり、流刑
囚たちを使いこぞって石造り
の瀟洒な倉庫を建てました。


ハンター通りの名は荒海に漕
ぎ出す鯨漁師を指したそうで
1850年頃までは沖合で漁がで
きたものの、その後は外洋へ

(※2艘による沖合捕鯨1849年)


ハンター通りの位置。目の前
が船着き場になっていて、荷
揚げや荷積みに最適な立地。



船着き場からのハンター通り

小さな貨物船がひしめいて、
活況を呈したことでしょう。


同じ場所でも今は静かなもの



すべてに事欠く新植民地での
物資の輸入は、すぐに輸出と
の双方向の交易となり、羊毛
や皮革、小麦、鯨油、木材等
のタスマニア産品がオランダ
領インドネシア、中国、イン
ド、英国へと運ばれました。


船隊を組んで貿易業に携わり
事業を拡大していった彼らは
ハンター通りの商人と呼ばれ
ベニスの商人(The Merchant
of Venice)よろしく、マーチ
ャント(商人)として海運で財
と名を成し、いずれは当地の
権力も掌握していきました。



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タスマニア行:ホバート港散策

2024年09月05日 | オーストラリア:タスマニア

2023年3月のタスマニア3日目


カフェを出て目の前のホバー
ト港周辺散策へ。海ではなく
ダーウェント川に突き出たエ
リザベス埠頭。帆船がよく似
合う古色豊かな端正な佇まい



1804年の開港でシドニーのジ
ャクソン港に次ぐ国内2番目
の歴史を誇る港で、州都の水
の玄関口として、運輸や漁業
だけでなく、南極へのゲート
ウェイ、クルーズ港でもあり

(※漁船、観光船、帆船、クル
ーザーとあらゆる船が停泊中)


オベーションオブザシーズ号
も難なく停泊できています。



「河口近くとはいえ内湾で
と思って、一応調べてみたら

ここは世界屈指の深水港だそ
うでお見それしました~(笑)


停泊中に稼働する展望カプセ
ルは、まるで有人ドローン



世界最大級の豪華クルーズ船
が入港できるということは今
後にも大いに期待できそう。

(※かつて南極を目指した探検
家に捧げられた銅像『南へ』)


『フットステップス』(歩み)
と名付けられられた質素な服
装の4人の若い男女の銅像は
かつて島に送られた流刑囚。

イメージではなく、4人全員
ジョン・ケリー
キャロル・エドワーズ
ジョアンナ・リンカーン
ルーシー・フロスト
という実在の流刑囚でした。


銘板には1803~53年の50年
間で女囚1万3,000人とその子
ども2,000人がこの地に送ら
れたことが銘記されており、

歩みは自由への歩みでした。


オーストラリアの世界遺産の
1つ囚人遺跡群(2010年に文化
遺産登録)、11ヵ所のうち5ヵ
所がタスマニア
にあることが
改めて思い起こされました。


周りの人に交じってぶらぶら
歩いて着いた先は、オベーシ
ョンオブザシーズ号の搭乗口



みんな吸い込まれるように入
っていき、首からパスを下げ
ていない一般人は本来ここま
で来られなかったらしいので
すが、なぜか私たちはスルー


途中何人も制服を着た警備員
がいたのは、そのためだった
のかとここで気づくという。




「ないな」
「ないね」



クルーズに乗り込んでいく人
たちの後姿を見ながら、自分
たちがいつかそれに続く可能
性のなさを、思わず確認した
私たち。人智の及ばない自然
や無作為な日常の営みを垣間
見ることに、旅の楽しみを見
出しているので、旅こそ地に
足をつけたものでありたい。


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タスマニア行:移民のダイナミズム

2024年09月03日 | オーストラリア:タスマニア

2023年3月のタスマニア3日目


「ダシダシ?ダチダチ?」

と飛び込んだカフェは当然な
がら英語っぽく、ダーチー&
ダーチー・ベイカース
という
パティスリーが豊富なカフェ


相当な人気店らしく、観光客
らしき人たちが次々に入って
きてはショーウィンドーの可
愛いスイーツを写真どころか
動画で舐めるように撮る撮る


席もかなり埋まっていてテー
ブルがあったのはラッキー



やや遅い時間で2、3時でカフ
ェが閉まるオーストラリア(N
Zも)のカフェ難民の救いの場

混んでいて天井の写真のみ(笑)


スイーツの豊富さ豪華さに加
えウエイトスタッフが全員制
服を着ていたり(普通は黒いT
シャツなどかなりカジュアル)
ただのカフェではないらしい


「名前からして移民第1世代の
店かな」とピンときちゃう
自分も移民第1世代。DACIっ
てどこの姓?イタリアとか



DACIは旧ユーゴスラビア、
コソボの姓でした。店はダー
チー夫妻が経営しており、そ
れでダーチー&ダーチー。夫
婦別姓が普通な中で、2人は
同性。それで2人のダーチー


ご主人のナサーは母国の戦火
を逃れ1999年にタスマニアの
ここホバートに移住し、2002
年から本土のメルボルンへ。


そこでイギリスから来ていた
シェリルと出会いました。2
人ともプロのベイカーでパン
やパティスリー作りへの情熱
が愛を育み2003年に結婚💕


2008年にナサーの念願だった
ホバート帰還を実現し、2人
でヨーロッパ風のカフェをオ
ープンさせて大成功。タジー
と呼ばれるタスマニアっ子の
ハートをつかんで今や3店舗


カフェや小売りで消費者に応
えるだけでなく、卸売りで地
元の飲食業も支えています。


ナサーはレストランを経営す
る家に育ち、シェリルはロン
ドンの高級レストランで腕を
磨き、そんな2人が地の果て
のようなタスマニアで長年の
情熱と夢を大きく開花させる


誰にでもストーリーはあるも
のの、海を越え大陸を越えて
移り住む移民たちのストーリ
ーにはひと際心惹かれます。


言葉や文化の違いを越えて、
さまざまな民族が対等に出会
い、渡り合い、ときにぶつか
り、ときに支え、生涯続く友
情や愛情を育み、その国の一
部となって国を担っていく。


移民のダイナミズムはアメリ
カンドリームなど特定の国の
話ではなく、受け入れる準備
と度量、何よりその重要性を
理解する国なら、どこにでも
起きうるものだと思います。


2本続けて旅行記らしからぬ
話になりましたが、これも旅
に出たからこその気づきかと


次回は旅行記に戻ります。


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タスマニア行:英国章のフランス語

2024年09月02日 | オーストラリア:タスマニア

またまた間が開いて、3ヵ月
ぶりとなってしまいました。


このブログに限ってよくある
理由不明の中断。自分では半
年ほど開いたかと思っていま
したが(全く見てもおらず💦)
久々に波が来たかもしれず、
これに乗ろうと再開します🏄


放置中もご訪問下さった方々
に、深く感謝いたします🙇


=============


2023年3月のタスマニア3日目


州都ホバート観光の週末のハ
イライト、サラマンカマーケ
ット
を出て街の中心部散策へ



タスマニア州議事堂



1番上に英王室紋章である英
国章。複雑な紋章をオースト
ラリアらしい黄色のサンドス
トーンで忠実に彫ってある

DIEU ET MON DROIT
(God and my right
神と我が権利)


一番下のリボンの中の文字は
フランス語!(※サークルの中
も古フランス語らしいですが)


ここまで大きいとモットーが
はっきりと見え、私でも意味
がわかった簡単なフランス語


こういうものはラテン語で決
まりなのかと思い込んでいた
無知な身ゆえ、なんだか感動


このモットーは12世紀のリチ
ャード1世が戦時のときの声
として用いたそうで、王はフ
ランスの家系だったために、
英語が得意ではなかったとか


死ぬか生きるかの合戦に向け
ては母語で臨んだようです。


12世紀は「1192(いいくに)つ
くろう鎌倉幕府」成立の頃。
(※最近は成立時に諸説あり?)


15世紀に入りヘンリー5世が
イングランド王室の紋章のモ
ットーにこれを正式採用して
以来現在のイギリス国章にも


と、もちろんググって調べま
した。「イギリ王室は長らく
フランス語を使っていた」と
言われますが、その契機につ
いても調べてみたところ・・


11世紀のウィリアム1世はフ
ランスのノルマンディー公が
出生ながら、イングランド王
の崩御につけ込み英仏海峡を
渡って攻め入り、ノルマン朝
初代イングランド王に即位。


即位後は土地の没収や反乱の
鎮圧など強硬姿勢で君臨。別
名・征服王。王朝は12世紀中
葉まで90年近く続きました。


英仏は14~15世紀の百年戦
争以前から攻めたり攻められ
たりを繰り返していながら、
肝心なところはフランス語っ
て、イングランド王室の血統
や文化の多様性を見る思い。


変わった名前のカフェを発見
「ダシダシ?ダチダチ?」

ヨーロッパ風の名前と構えで
ここでひと休みすることに。


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