移住は帰らなくてもいい終わりのない旅。人生そのものも旅。そして気づき始めたあの世への旅。旅と夢限定ブログ
どこかの
公園で出会った母子
(※クライストチャーチのサム
ナービーチに似た場所でした)
娘には伸び伸び育ってほしい
と願いながら、帰国を心配し
ている母親。帰ったら伸び伸
びできない理由は、塾通いや
お受験といったことではなく
母親が日本国籍を取ったか取
らないかにかかわらず、「在
日」であることのようです。
「ここにいれば誰もそんなこ
とは気にしないので・・・」
という言葉には、帰ったら気
にされるという心配が滲んで
おり、そういう状況に置かれ
る娘さんを憂うようでした。
「私は日本国籍を捨てたの。」
「えっ」
心底驚いた彼女の目と出会い
どれほど意外な返答だったか
ここの国民になりたいから国
籍を取ったこと、日本政府は
二重国籍を認めていないので
日本国籍を捨てたこと、を伝
えると、ずっと伏し目がちだ
った彼女がしっかり顔を挙げ
「私」を見据えていました。
彼女が「日本国籍を取った」
と言ったので「私」はあえて
「捨てた」と言いました。国
籍は取捨選択ができるもの。
日本にいた彼女が日本国籍を
取り、ここにいた「私」がこ
この国籍を取るところまでは
同じでも、彼女が帰国を思い
悩んでいるところは違う点。
名前や国籍どころか、今や性
別さえも自分で選べる時代。
長いようで短い子育て、そし
て人生。母子に笑顔の絶えな
い日々が続くよう祈ります。
=============
会話の中に一度も「ニュージ
ーランド」という言葉は出て
きませんでした。状況として
は「オーストラリア」や「カ
ナダ」でも構わない内容か。
母親の白く消え入るような美
しい憂い顔と、よく日に焼け
た、健康そのものの娘さんの
弾ける笑顔が対象的でした。
こういうリアルな夢を見るた
びに「この登場人物たちは実
在するんだろうか」と思って
しまいますが、どうなのか
身辺立て込んでいるのと、体
調不良が重なってしまい、旅
行記が中断していますが、早
早に再開したいと思います。
今朝印象に残る夢を見たので
今日は夢日記にしてみます。
=============
「私」はNZのどこからしい海
岸近くの公園にいます。クラ
イストチャーチのサムナーに
似た、護岸も兼ねたコンクリ
ートで整備されている場所。
(※サムナービーチ)
幾重にもなったコンクリの筋
の上や間を、子どもたちが楽
しそうに走り回っています。
その中の1人、5歳ぐらいに見
えるアジア人の女の子が突然
立ち止まり、話しかけてきま
した。アクセントのない流暢
な英語で、ここの小学校に通
っているのだと判りました。
小さな子らしく、自分の言い
たいことを一方的に話し、こ
ちらはふんふん聞いているば
かりですが、その話しぶりが
なんとも可愛らしく、知らな
い大人に堂々と話しかける社
交性は既にいっぱしでした。
私たちが話しているのに気づ
いたのでしょう。少女の母親
が話しかけてきました。色白
で鼻筋の通ったうりざね顔。
韓流ドラマの女優のような正
統派美人で「韓国人かな?」
と思いましたが、女性の口を
突いたのは、日本語でした。
彼女は気品のある仄かな笑顔
を絶やさずに、日本国籍を取
ったこと、娘はここで育った
こと、もうすぐ夫の仕事の関
係で帰らなければならないこ
とを淀みなく語りましたが、
言葉の端々に逡巡が感じられ
誰かに胸の内を告げたかった
ところに「私」が現れたのか
娘には伸び伸び育ってほしい
という言葉の裏には、帰った
ら伸び伸びできないかもしれ
ないという、口にはできない
不安が見て取れました。それ
を言葉にできないことにこそ
問題の根の深さを感じます。
娘さんは他の子に混じって、
公園の中を右に左にと元気に
走り回りながら、隠れたり、
誰かを呼んだり、それはそれ
は楽しそうにしていました。
(つづく)
2023年3月のタスマニア3日目
ホテルからテクテクと19世紀
を下っていったら、突然21世
紀に出くわしたような光景
オベーションオブザシーズ号
高層ビルが1棟、水上に横た
わっているようなものかと
展望カプセルが稼働中です。
2頭立て馬車で王室関係者の
ように手を振りながら通り過
ぎていくアメリカ人観光客
バスもどんどん乗りつけて、
誰もが吸い込まれるように一
定方向に向かっていきます。
ここはプリンセス埠頭という
場所で、この先のサラマンカ
通りで毎週土曜日に立つ青空
市場はタスマニア観光の目玉
マーケット好きには堪らない
いざ、いざ、いざ
いきなり、気になるお店
薪オーブンで焼いたタスマニ
アホタテ貝だなんて観光客の
ハートをわしづかみしそう。
しかも、子どもたちがせっせ
と働いていていい光景です。
店主の息子さんと同級生かな
私はここに即決でした
夫は本格的ホットドッグに🌭
地元ロースタリーのコーヒー
さすが島。かなりが地産地消
らしくそれがまたイイです
サラマンカ通りに沿っては手
作りグッズを売る店が鈴なり
周囲からは驚くほど米語が聞
こえて来て、クルーズ客が相
当来ていたよう。ハワイでよ
く見るアメリカ人の爆買いを
こんな場所で見かけるとは
コロナはなくならなくても、
コロナ禍が終わったのを実感
フェルトの恐竜がカラフル
個性的なウッドのネクタイ
アフガニスタン料理のボラニ
店内で作っていて美味しそう
ナンに具が入ったようなもの
美味しかった~
控えめでクラシックな看板に
ピンと来て入ってみたのは、
みやげ屋。何ヵ所かのぞきま
したがここは品揃えも価格も
素晴らしく、キーホルダーや
ティータオル(ふきん)を購入
店主一家らしい店員の接客も
ピカ一でまるで高級店並み。
おみやげは今も大事に使って
います。ぜひ再訪したい店
ジンジャーエールの専門店
シルバーのアクセサリーを真
剣に選んでいた男子3人組。
見た目も香りも引き込まれそ
うなラベンダーファームの店
タスマニア産オイスター
小ぶりながら濃厚な味で飛ぶ
ような勢いで売れてました。
感動だったゴミ分別の本気度
国や自治体によって基準がバ
ラバラで地元民でないと判り
にくいのを、実際の容器で示
してくれるのはありがたい🙏
リサイクルするビンと缶以外
はすべてコンポスタブル(堆肥
化できる有機素材製)というの
もスゴい。市場で容器を統一
しているのかもしれません。
やってくれるよタスマニア
古銭を使ったアクセサリー
私の誕生年の1962年もある
キーホルダーは戦前の物から
アイデアと手造り感の勝利
通り沿いの店舗の上は住宅
一等地でかなりが民泊かな?
ココでチョコの大人買い
前日に1枚買っていて気に入
ったので迷わず。リアル店舗
はないそうで買えてラッキー
長居しても見応え、食べ応え
買い応え
のある場所で土曜
日のホバートは外せなそう
ぜひ、またいつか
2023年3月のタスマニア3日目
旅行記18本目にしてやっと3
日目に入りました。再び晴天
ホテル隣のフッティー(オース
トラリアンフットボール)グラ
ンドでは女子チームが練習中
アメフトを防具なしでやるよ
うな超ハードなスポーツ。オ
ーストラリア以外でやってい
る国がないほど危険ですが💦
男もすなるフッティーといふ
ものを、女もしてみむとてす
るなりの国オーストラリア
いいなぁこういうカルチャー
この辺はノースホバートと呼
ばれるエリアで街にも近い庶
民的な住宅街のようでした。
この造りの家は戦前の労働者
の典型的な家。クルマがなか
った頃の家で築100年以上か
NZでも全国の至るところ特
に土地と利便性が貴重だった
都市部でよく見かける古民家
(※ウェリントン)
南島のプチフランス、
アカロ
アの民泊(以前は住宅でした)
オークランドの民家
ここは売家の時に中も拝見
(※この話は
コチラでも)
車庫スペースがないので横か
ら見るとこんな感じなのも、
他の場所とそっくりか
(※ウェリントン)
こんな造りもNZにあるある
デッキの装飾がオーストラリ
ア的。19世紀後半からの流行
NZには定着しませんでした。
こんな感じもオーストラリア
っぽいなぁと思います。港町
は港湾労働者が多かったので
こういう古い造りの家が多い
パースでも見ました。
古民家を改装すれば高級住宅
170年前の建物がいまだ現役
レンガ造りのなせる業なのか
至る所に
タスマニアデビル
アーガイル模様なのは道の名
前がアーガイル通りだから。
動物愛護団体のチャリティー
ショップ?閉まっていて残念
これも19世紀の建物でしょう
アイスクリーム工場でした。
これは目を引く建物。アール
デコ風ながらカクカクの屋根
がベルギー風?手前が店で奥
が住宅か宿舎だったのかな
見ているだけでも楽しい
「海の子」という名のバー。
港湾労働者が集まりそうな店
みんなでガン飲み🍺🍺🍺
タスマニア大学の建物にはラ
イオンとタスマニアデビル。
1890年開校。NZ最初の大学
オタゴ大学が1869年開校で
オーストラリアと肩を並べて
いたほんの短い古えの時代。
王立ホバート病院
大学や病院など公共の建物が
急に増えてきて街の中心部に
目に前に海が見えて来て、と
思ったらこれはダーウェント
川。島中央部のセントクレア
湖を水源とする全長190kmの
大河。ホバートは河口近くに
建設された州都で港も内湾に
川とはいえ相当の水深がある
のでしょう。ロイヤルカリビ
アンのオベーションオブザシ
ーズ号が停泊していて驚き
収容人数4,000人超のド迫力
「コロナ禍は終わった」を実感
2023年3月のタスマニア2日目
世界遺産ポートアーサー史跡
重苦しい気持ちで
隔離刑務所
から出て来ると、美しい庭園
カラスがたくさんいたのは
洋ナシがたわわだからのよう
大ご馳走が安全に食べ放題
ここはガバメントファーム(公
営農場)と呼ばれる場所です。
今は芝地や庭園になっていま
すが、かつては菜園や牧場が
広がる中に建物が点在してい
る一大農場だったそうです。
刑務所設立当初の1830年代か
らジャガイモとキャベツの生
産が始まりましたが、肉類は
輸入の塩漬けに頼っていまし
た。1850年代に農場が完成し
酪農や養豚が開始しました。
かつての教会
隣にはさらに大きな教会跡
大きな教会は1938年の絵にも
ひと際手入れの行き届いた庭
園はオリジナルガーデンと呼
ばれるかつての公園で、1846
年にイギリスから持ち込んだ
外来種を中心にできた庭園。
入植者の女性や子どもが散策
したり、当時の流行だった園
芸活動の場でもあったそう。
1870年頃。奥はガバメントコ
テージ。手前は今も残る噴水
閉館の時間が迫り庭園散策は
残念ながら別の機会にでも。
石とレンガを組み合わせた壮
麗な大所帯の刑務所は1870年
でさえ「タスマニアで最も立
派な建物」と称されました。
過酷な史実を乗り越えて、今
は歴史の生き証人としてただ
静かにたたずんでいるばかり
入って来た受付のある本館に
向かったところ、すでに閉ま
っており、外に出られない💦
脱出不能の刑務所から本当に
出られなくなった観光客2人
駐車場の右へ左へとあちこち
回って「塀を乗り越える?」
とまで思いましたが、なんと
か職員の通用門らしきものを
見つけて無事脱走しました
ここから入ったのですが(笑)
ホバートへ帰る途中で夕食に
バリラベイ・オイスターズ
蠣の養殖場に併設されたレス
トラン。3月はまだ時期尚早
かもしれないと思いながら、
まずは無事出所に乾杯🥂
料理はシーフードプラッター
てっぺんはモートンベイバグ
和名はウチワエビモドキとか
本当にクイーンズランド州の
モートンベイからのものかも
オイスターは小ぶりながら1
ダースありホタテはカレー味
サラダもあって食べ応え満点
無事ホバートに帰り着き、長
かった2日目無事終了です
2日目の話だけで13本。執筆
期間は中断を含めて3ヵ月💦
内容は1年3ヵ月前の話で超マ
イペース旅行記が続きます
2023年3月のタスマニア2日目
世界遺産ポートアーサー史跡
アサイラムの後は、とうとう
最後の主要な建物、セパレー
トプリズンこと隔離刑務所へ
建物の前に立つや、牢獄のイ
メージそのままの人を寄せ付
けない不気味さとほぼ窓のな
い造りに胸騒ぎを覚えるほど
「ここは監獄」と感じました。
囚人同士で語らえ、中庭でな
ら喫煙もできた4階建て刑務
所が開放的にさえ思えるほど
閉鎖された、重苦しい建物。
入口には「静粛に」の警告
この建物の中では囚人は言葉
を発することを禁じられ、看
守も手話を使っていたそう。
黙って参観することで往時の
静寂とその中で感じられる気
配を追体験しようという趣旨
目出し帽に囚人番号だけの完
全に個を抹消された異様な姿
囚人たちがここに送り込まれ
ることをなにより恐れたのが
入館前より察せられました。
中に入るとそこはまさに監獄
看守が座っていた椅子と、ず
らりと続く穴蔵のような独房
ここは懲罰房と呼ばれる最も
厳しい居房だったそうです。
反対側はかろうじて陽が入り
ますが各房は窓がないのかも
1号室
のぞき穴と食事を差し入れる
小さな扉。牢獄そのもので、
無言の扉が続いていました。
外から窓が見えた場所は教会
出入口を見張るのぞき穴
隔離刑務所の建設は1848年に
始まり、建設は鞭打ちなど体
罰から隔離や沈黙で支配する
心理的懲罰へ舵を切った象徴
となりました。一方で1,100
人に膨れ上がった囚人の多様
性に対応するため、
福利厚生
の拡充も始まった時期で、飴
と鞭が併用されていたよう。
ここを訪れた多くが足を止め
たであろう、こんな場所に似
つかわしくないおもちゃの絵
9歳のジェームスは1843年の
ロンドンで、大人にそそのか
されて玩具を3回盗んだ罪で
7年の流刑を言い渡されポー
トアーサーに送られました。
「ブツがよければ2、3ペンス
もらえた」そうで、そうでな
ければタダ働きだったのか。
ジェームスはここの独房にも
いたことがあり、刑を終えた
後どんな人生を歩んだことか
ポートアーサーだけでなく、
オーストラリアの流刑施設に
は多くの子どもも送られまし
た。その多くはジェームスの
ような窃盗の罪で、お腹を空
かせてパンやお菓子を盗んだ
り、スリをしたりといったも
のが多かったそう。しかし、
当時のイギリスは重犯には非
常に厳しく、年端も行かない
子が送り込まれてきました。
1830年代まで続いたとされ
るイギリスの産業革命で、貧
しく苦しい農村の生活から逃
れようと職を求めて人々が都
会に殺到し、ロンドンを始め
多くの場所でスラム街ができ
ました。極度の貧困から大人
も子どもも犯罪に手を染め、
社会問題になっていました。
流刑植民地制度は、若い犯罪
者を大量に送り込むことで植
民地建設とスラム街解体の両
方を狙っていたとされます。
重苦しい気持ちで外に出ると
庭園が広がっていました。
2023年3月のタスマニア2日目
世界遺産ポートアーサー史跡
広く、たくさんの施設があり
流刑施設の中でも貴重な場所
病院を出て緩やかな丘をさら
に下っていくと、敷地の外れ
の目立たない場所に意外なほ
ど大きな建物がありました。
これはかつての地方自治体役
場で1895年の森林火災の後
に建て替えられたものです。
当初の建物は1868年に完成し
た「精神病院」でした。他の
建物と比べても立派で、当局
の力の入れようが判ります。
収容されていたのは刑務所や
他の流刑施設から送られて来
た人々で、当時は患者ではな
く「狂人」と呼ばれました。
立派な専門病棟の開設は、静
かで快適で清潔な環境の中、
優しい治療や軽い運動を通じ
て治療を進めるという当時の
新しい治療法の一環でした。
1876年には100人の収容が可
能だったにもかかわらず、入
所者は18人でうち17人は傷病
兵でした。精神疾患の患者は
1人だけだったということか?
1874年に施設を訪れた作家が
危険なためグルグル巻きにさ
れた半裸の患者を目撃してい
ます。ピーター・ムーニーと
いう男性は独房の中を確認し
ようと、看守がドアののぞき
穴からのぞくと、指を出して
目を繰り抜こうとする、とし
て恐れられていたそうです。
理想と現実。新しい治療法と
古い対応が、医療関係者とは
限らない軍人の看守によって
同時進行していたようです。
建物は1889年に政府が役場と
して地方自治体に移管しまし
たが6年後に森林火災で焼失
再建された現在の塔の時計は
刑務所の建物にあったものを
移し替えたものだそう。今も
正確に時を刻んでいました。
ポートアーサーの広大な敷地
にはあちこちに標識があり、
それを見つつ散策していまし
たが、アサイラム(asylum)と
いう表示が気になりました。
現在の英語でこの単語を見聞
するのは、まず「亡命」のこ
とでしょう。ほとんどが政治
亡命で、難民の収容施設もア
サイラムです。刑罰として送
り込まれる囚人と自由を求め
てやってくる難民は真反対の
立場。中国語訳でも「保護施
設」という曖昧なものです。
建物の前に立ち、解説を読ん
で初めて、アサイラムがもう
1つ意味する「精神病院」、
患者を「狂人」と呼んでいた
感覚からすれば「狂人病棟」
だったことに気づきました。
流刑者が受刑者ではなく「囚
人」だったのと同じ感覚か。
アサイラムカフェ
遅い時間で閉まっていました。
2023年3月のタスマニア2日目
高台の
スミス・オブライエン
・コテージから降りて来ると
右に損傷の激しい大きな建物
ここも鉄のフレームで支え倒
壊を回避し保存しています。
世界遺産ですから管理や補修
は最善を尽くしているはず。
レンガの建物がここまで傷ん
でいるのは森林火災のせい。
プリズンドクター(矯正医官)
だったDr.ブロウネルの診療室
1830年代前半に木造の診療
所ができ開業していました。
ブロウネルは常駐医として2
度ポートアーサーに勤務し、
1840年に再赴任したときは
子ども9人の11人家族でした
が、15ヵ月間駐在したそう。
ポートアーサーと周辺の流刑
施設の囚人だけで約2,000人
さらに管理する軍人たちとそ
の家族をたった1人で診るの
ですから大変な激務でした。
1842年には年間延べ13,000
人を診療し、本格的医療施設
の拡充は待ったなしでした。
1842年に待望の病院が完成
堂々たる砂岩のファサードで
左右の切妻のウイングの上に
は石工の囚人が彫ったヒポク
ラテスと聖ルカ(聖路加病院の
路加)という医療の聖人たち
(※写真は1877年の払下げ後、
森林火災前の1880~90年代)
フレームで支えていたのはこ
の建物でしたが、外からは見
えないようになっています。
内部は6病棟からなり、売店
や食堂も完備していたそう。
当時の健康上の問題はビタミ
ンC不足からくる敗血病、労
働中のケガ、胸の病でした。
囚人は炭鉱や伐採業務にも就
き、ほとんどが危険な仕事で
結核は命取りだった頃です。
治療以外の医療従事者の任務
は囚人全員の毎週の健康状態
の確認、鞭打ちの立ち合い等
周辺の民間人の医療にも対応
していましたが、ほとんどが
往診だったそう。さすがに刑
務所には来られなかったか
払下げ後教会の寄宿舎となり
ましたが、1895年の森林火災
で半焼、保険で再建したもの
の1897年の火災で再び焼け、
現在の姿を留めるばかりに。
スミス・オブライエン・コテ
ージと右の病院、左の刑務所
4階建ての製粉所兼穀物倉庫
の完成が1845年。
刑務所へ
の改築工事の完成が1857年
なので、病院はそれよりも遥
かに早く完成していました。
(※写真は1870年代の刑務所)
1833年に流刑施設となったポ
ートアーサーは1840年代には
受刑者数が1,100人にのぼり
画一的で厳格な軍隊式管理か
ら、福利厚生の拡充へと十年
足らずで軌道修正していかざ
るを得なくなっていました。
必要に迫られたものとはいえ
柔軟で現実的な対応が、大英
帝国の流刑植民地政策を支え
ていたのではないでしょうか
2023年3月のタスマニア2日目
世界遺産ポートアーサー史跡
の小高い丘の外れに、ぽつん
と立つ黄色の瀟洒なコテージ
スミス・オブライエン・コテージ
収容されていたのはウィリア
ム・スミス・オブライエン。
(1803-1864)
立派な肖像画が残っているこ
とからも一般庶民ではないこ
とが察せられます。イギリス
の国会議員にしてアイルラン
ドの自治を訴える青年アイル
ランド運動の指導者でした。
アイルランドは1800年にイギ
リスに併合されたものの、庶
民の生活は苦しく、運動は併
合の撤廃を求めていました。
おりしもアイルランドは1845
~51年まで続いた、英語で単
に大飢饉(Great Famine)と
呼ばれる歴史的なじゃがいも
飢饉に見舞われていました。
じゃがいもの疫病のため主食
が深刻な凶作となり、食糧不
足によりアイルランド人の死
者が100万~150万人に上っ
たと推定される歴史的大惨事
にもかかわらず、併合により
アイルランドは食料輸出を迫
られ自治権奪回を求める声が
急速に高まっていきました。
スミス・オブライエンは1848
年にアイルランド各地で農民
蜂起を先導するものの失敗に
帰し、死刑判決を受けます。
(※死刑判決後に護送されるス
ミス・オブライエン。
ウィキ
ペディアより。この物々しさ
に事の重大さがうかがえます)
その後、恩赦を求める署名が
8万筆に達し、当時ヴァンデ
ィーメンズランドと呼ばれた
タスマニアへの流刑に減刑さ
れました。1850年8月ポート
アーサーに「入獄」し最も著
名な「囚人」になりました。
しかし、その年の11月に、ス
ミス・オブライエンは仮出獄
許可への条件を受け入れ、5
年間タスマニアに滞在した後
イギリスに入国しないという
条件の下ベルギーに転居し、
1856年には特赦により帰国を
果たしました。帰国後は政治
活動にはかかわらず1864年に
訪問先のウェールズで病死。
スミス・オブライエンは複合
姓で、オブライエンはSirの称
号や城を持っていたアイルラ
ンドの有力貴族だった父方の
姓で、イギリスっぽいスミス
姓は母の旧姓。母の遺産とし
て広大な土地を相続したとき
に、両親の姓をつなげてダブ
ルネームになったそうです。
代々国会議員を務めるような
有力者の家に生まれながら、
農民のために立ち上がったも
のの夢は潰えて、流刑の地に
「明るくて風通しが良く、高
台にあって健康的だ」と本人
が評した自身の名を冠した古
のコテージ。住人がいなくな
った後は執務室や軍の病院に
なり、1877年に刑務所が閉鎖
されて払い下げられました。
第2次大戦後は政府が買い上
げて1970年までユースホステ
ルになっていたそうで84年よ
り原状復帰が図られました。
陽当たりのよい丘の上にぽつ
んと佇む姿がなんとも印象的
ポートアーサーは当時の社会
を反映していた場所だったの
だと改めて感じる逸話です。
2ヵ月も放置してしまいまし
たが、シレっと再開します。
この間もご訪問下さった方々
にお詫び申し上げます。この
ブログではなぜかよくある中
断で深い理由はありません。
あえて言えば、今年3月の2回
目のタスマニア旅行の前にこ
の初回を書き終えたかったの
ですが、てんで間に合わない
うちに力尽き
とっくに行っ
て帰って来てしまいました。
またまた周回遅れに突入中💦
=============
2023年3月のタスマニア2日目
世界遺産
ポートアーサー史跡
はとにかく広い。100エーカ
ー以上あり東京ドームの9倍
と書いておきながら私は東京
ドームを知らないのですが
高台にあるこれは
手旗信号器
これは後世のレプリカです。
ブース司令官は着任した1833
年に最初の手旗信号器を設置
人が旗を持って信号を送る代
わりに信号機を使うことで、
複雑で多様な内容をいち早く
遠くまで送ることができる装
置。手動の電報のようなもの
ブースは機密コードを含め、
3,000種の信号を編み出し、
3年後には数か所の信号機を
経て15分でホバートと通信
ができるようになったそう。
ここからホバートまでは90km
19世紀の分速6kmの通信手段
海軍での経験があったとはい
え司令官は多芸多才でないと
務まらなかったのでしょう。
建物と比べても相当の大きさ
次の信号機から可視できなけ
ればならなかったのですから
それまでは密使が馬を走らせ
ては急を告げていたのか
囚人の脱走や物資不足はもち
ろん、刑務所での騒乱の際に
は一刻も早く応援を要請する
必要があり通信手段は命綱。
下には長い階段があります。
(※1851年の絵)
脱出不能の陸の孤島は、管理
する側にとっても危険で孤立
の地であったのが判ります。
なおも行くと丘の上に黄色い
コテージ。いくら
中世的と揶
揄されるほど装飾的な建物が
あるとはいえ、ここは広大な
刑務所の敷地内。目を引いた
瀟洒で陽当たりの良い建物。
上級将校の宿舎かと思ったら
超例外的な囚人施設でした。
スミス・オブライエン・コテージ
収容されていたのはウィリア
ム・スミス・オブライエン。
(1803-1864)
(※写真は
ウィキペディアより)
彼はポートアーサーで最も著名
な「囚人」で、コテージは敬意
を表し彼の名を冠しています。
長くなりそうなのでまた改めて
中断しないようにしましょう