2023年3月のタスマニア5日目
タスマニア旅行記も早40本
まだ5日目なので1日8本計算
この量の多さに、興味深さ、
気に入り具合、ひいては思い
入れが反映されているかと。
すべては私個人の感覚の反映
なので観光地としての有名無
名とは無関係。オーストラリ
アは興味の尽きない宝島なら
ぬ宝陸。「隣国で良かった」
と、訪れるたびに思います。
=============
ボノロング野生動物保護区の
あるブライトンからタスマニ
ア州第2の都市ローンセスト
ンまで約170km。一路北上
で2時間未満の距離でした。
島を縦断する、州都ホバート
とローンセストンを結ぶ幹線
ミッドランドハイウェイ(全長
176km)は変化に乏しい風景
半分以上来たところで突然、
澳洲人
中国語でオーストラリア人を
意味する巨大な漢字が道端に
現れ、思わず停車しました。
一文字直径10mの大きさと赤
高速で走っていても目立つ
これは2003年にアーティスト
のグレッグ・リョン氏が制作
を依頼されたもので英語名は
「中国菜園」。中国野菜や花
で「澳洲人」と描き、町の多
文化な歴史とオーストラリア
人の意味を併せ持つという。
説明によると、ここは1890年
代初めにやってきた中国人た
ちが小屋を掛けて住んでいた
場所。彼らは育てた野菜を天
秤棒で担いで売り歩き生計を
立てていました。10km離れ
た町まで出かけて行くことも
文中には、「中国移民農家」
(Chinese immigrant farmers)
とか「新オーストラリア人」
(new Australians) とサラり
と書いてありますが、1890年
代といえば、黄禍論が吹き荒
れていた頃。中国人たちは入
国時に人種差別の骨頂である
人頭税を課されていました。
タスマニアも1887年より中国
人に人頭税を導入しました。
莫大な借金をしてかつかつで
やって来る彼らに、渡航費用
並みの税を課して入国を拒も
うとする制度ゆえ、細々と青
果商を営むために海を渡る者
など、1人もいなかった時代
彼らがここに住んでいたのも
ここに住むことだけを許され
男ばかりで助け合いながら、
目立たないよう静かに身を寄
せ合って暮らしていたはず。
本国から人頭税を払って来た
のではないのなら、ここにい
た「新オーストラリア人」た
ちはどこから来たのでしょう
間違いなく鉱山からでしょう。
19世紀半ばに海を渡った中国
人の多くは世界的なゴールド
ラッシュの波に乗った男たち
元が本国で食い詰めた農民な
ので、異国でも多くが自給自
足の生活を続け、鉱山閉山後
に帰国する当てがなければ、
過酷な差別の中で野菜を売っ
て糊口をしのぐのが、最も手
っ取り早かったのでしょう。
NZ南島
アロータウンでも金
が枯渇した後、同じ展開に
(※杖をつきつつ天秤棒を担
いで行商する老いた中国人)
例えばハート型のタスマニア
の右肩に当たるブルーティア
平野のポイメナはかつて錫鉱
山として栄え、1870~80年
にかけてブームが起きた場所
(※ここから150kmの距離)
対岸の本土ビクトリア州のゴ
ールドラッシュが1860年代に
終了するや、一部の中国人が
錫鉱に移って来た可能性があ
りそうです。当時は鉱山から
鉱山へと渡り歩いていた時代
鉱夫の仕事を失った彼らは差
別の中でも生きられ、本国へ
の送金が続けられる地を求め
て各地に散っていき、ここに
流れ着いた者が道端に住み着
いたのではないでしょうか。
ここはキャンベルタウンとい
う場所。現在の人口約800人
唯一目についた1939年に建て
られた市庁舎タウンホールは
博物館に転用された後、この
時点で売りに出ていました。
黄渦を越え、長らく続いた白
豪主義も乗り越えて、彼らの
存在が「オーストラリア人」
としてここに記されるまでに
110年以上が費やされました。
同じ外見の日系NZ人として、
無名の彼らの忍耐と先人とし
ての歩みに敬意を表します。
彼らあっての、今ですから。