ニュージーランド移住記録:みたび

移住は帰らなくてもいい終わりのない旅。人生そのものも旅。そして気づき始めたあの世への旅。旅と夢限定ブログ

夢見:昭和40年

2024年11月30日 | 浅き夢見し

なんと半年ぶりの夢日記で、
最近思い出せる夢が少ない


=============


「私」は知り合いの男性と雑
談をしています。誰だかはわ
かりませんが、元同僚とか友
だちとか、気兼ねのない人。


「それって昭和40年だから」
と話の中で彼がサラっと言い


「昭和40年って西暦何年?」
これまたサラっと聞く「私」


「昭和40年だよ
「西暦だと何年


ここでお互いハタと会話が平
行線なのに気づき、男性は明
らかに「そんなことも知らな
いのか」と呆れた表情です。


「私」は私でなぜ西暦を尋ね
てはいけないのか、内心憮然


弾んでいた会話が急に止まり
「昭和に25足すと西暦だっけ」
古い記憶を辿りつつ渋々計算
しようとして目覚めました。


=============


「昭和40年は1965年。それぐ
らい判る。妹の誕生年だし」


目覚めた瞬間にそう思いまし
たが、夢の中では計算してお
り、即答できませんでした。


昭和の間に日本を出たので、
平成や令和はお手上げです。


平成〇年と言われると、つい
「それって昭和何年のこと?」
と聞き返したくなります(笑)


日本の役所関係の書類はすべ
て元号表記で、家の売却だの
相続関係だの書類の記入のた
びにググっては元号を確認し
「行政のグローバル化は遠い」
と遠い目になったものです。


昔の台湾留学中は1912年を
元年とする中華民国歴があり
タイに駐在していた夫もタイ
歴(西暦+543年)がありまし
た。そこを離れれば忘れたよ
うに、元号ももう判らない。


日本を出て40年。まぁそんな
ものかと夢でも思うNZ暮らし


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タスマニア行:ローンセストン入り

2024年11月29日 | オーストラリア:タスマニア

2023年3月のタスマニア5日目


ブライトンからタスマニア州
第2の都市ローンセストンま
での約170kmは途中の道路工
事で約3時間かかりました。


延々続く工事の規模や作業員
の数からみて、コロナでの地
方経済対策の一環かと思われ
ました。NZでも地方のあちこ
ちで道路工事が進みました。


宿はウィンダラ・オン・ハイ



1880年築の140年前の邸宅を
宿泊施設に改装したもので、



出窓やステンドグラスにビク
トリアン様式の面影が残る。



ホテルなのかと思ったら、鍵
が置いてあるエアB&B形式
で、鍵の取り方は通りかかっ
た他の宿泊客に教わり、初っ
端から自助努力と相互扶助



たまたま彼らはキウイ(=NZ
人)のグループだったので、立
ち話で「どこから来たの?」



コロナ後の観光業へのてこ入
れでNZからタスマニアへの直
行便が20数年ぶりに復活し、
私たちもですが、かなりのキ
ウイが来ていたのでしょう。



宿泊には朝食が付いていたの
で「続きは明日の朝ごはんで」

と言われたものの、ごめんな
さい、私たちはカフェ飯へ


ハイストリートというだけあ
って瀟洒な高台の立地で2階
はさぞや眺めが良かったはず

私たちは1階の部屋でした。


部屋はシンプル&コンパクト



朝出たら夜まで帰らないので



初めての場所ならこれで十分



夜は予約をしておいたBSBこと
ブリスベンストリート・ビストロ

雰囲気はレストラン調ながら


料理も、サービスも全般

名前どおりビストロ調かな


前菜はタスマニアのタコ

生ニンニクが添えてある


メインは夫がビーフと思われ



私は魚でシーフード尽くし



デザートは夫の好物クレーム
ブリュレ。ここのはオレンジ



私はティラミスだったもよう



コーヒーで長かった1日の〆



写真どおり付け合わせが単調
で、料理ももてなしも印象が
薄く、店の人と話した記憶も
ありません。疲れていたのか


しっかり寝てまた出直そう


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タスマニア行:キャンベルタウンの新オーストラリア人

2024年11月28日 | オーストラリア:タスマニア

2023年3月のタスマニア5日目


タスマニア旅行記も早40本
まだ5日目なので1日8本計算


この量の多さに、興味深さ、
気に入り具合、ひいては思い
入れが反映されているかと。


すべては私個人の感覚の反映
なので観光地としての有名無
名とは無関係。オーストラリ
アは興味の尽きない宝島なら
ぬ宝陸。「隣国で良かった」
と、訪れるたびに思います。


=============


ボノロング野生動物保護区
あるブライトンからタスマニ
ア州第2の都市ローンセスト
ンまで約170km。一路北上
で2時間未満の距離でした。


島を縦断する、州都ホバート
とローンセストンを結ぶ幹線
ミッドランドハイウェイ(全長
176km)は変化に乏しい風景


半分以上来たところで突然、
澳洲人



中国語でオーストラリア人を
意味する巨大な漢字が道端に
現れ、思わず停車しました。


一文字直径10mの大きさと赤
高速で走っていても目立つ


これは2003年にアーティスト
のグレッグ・リョン氏が制作
を依頼されたもので英語名は
「中国菜園」。中国野菜や花
で「澳洲人」と描き、町の多
文化な歴史とオーストラリア
人の意味を併せ持つという。


説明によると、ここは1890年
代初めにやってきた中国人た
ちが小屋を掛けて住んでいた
場所。彼らは育てた野菜を天
秤棒で担いで売り歩き生計を
立てていました。10km離れ
た町まで出かけて行くことも



文中には、「中国移民農家」
(Chinese immigrant farmers)
とか「新オーストラリア人」
(new Australians) とサラり
と書いてありますが、1890年
代といえば、黄禍論が吹き荒
れていた頃。中国人たちは入
国時に人種差別の骨頂である
人頭税を課されていました。


タスマニアも1887年より中国
人に人頭税を導入しました。


莫大な借金をしてかつかつで
やって来る彼らに、渡航費用
並みの税を課して入国を拒も
うとする制度ゆえ、細々と青
果商を営むために海を渡る者
など、1人もいなかった時代


彼らがここに住んでいたのも
ここに住むことだけを許され
男ばかりで助け合いながら、
目立たないよう静かに身を寄
せ合って暮らしていたはず。


本国から人頭税を払って来た
のではないのなら、ここにい
た「新オーストラリア人」た
ちはどこから来たのでしょう


間違いなく鉱山からでしょう。


19世紀半ばに海を渡った中国
人の多くは世界的なゴールド
ラッシュの波に乗った男たち


元が本国で食い詰めた農民な
ので、異国でも多くが自給自
足の生活を続け、鉱山閉山後
に帰国する当てがなければ、
過酷な差別の中で野菜を売っ
て糊口をしのぐのが、最も手
っ取り早かったのでしょう。


NZ南島アロータウンでも金
が枯渇した後、同じ展開に

(※杖をつきつつ天秤棒を担
いで行商する老いた中国人)


例えばハート型のタスマニア
の右肩に当たるブルーティア
平野のポイメナはかつて錫鉱
山として栄え、1870~80年
にかけてブームが起きた場所

(※ここから150kmの距離)


対岸の本土ビクトリア州のゴ
ールドラッシュが1860年代に
終了するや、一部の中国人が
錫鉱に移って来た可能性があ
りそうです。当時は鉱山から
鉱山へと渡り歩いていた時代


鉱夫の仕事を失った彼らは差
別の中でも生きられ、本国へ
の送金が続けられる地を求め
て各地に散っていき、ここに
流れ着いた者が道端に住み着
いたのではないでしょうか。


ここはキャンベルタウンとい
う場所。現在の人口約800人

唯一目についた1939年に建て
られた市庁舎タウンホールは


博物館に転用された後、この
時点で売りに出ていました。



黄渦を越え、長らく続いた白
豪主義も乗り越えて、彼らの
存在が「オーストラリア人」
としてここに記されるまでに
110年以上が費やされました。


同じ外見の日系NZ人として、
無名の彼らの忍耐と先人とし
ての歩みに敬意を表します。
彼らあっての、今ですから。


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タスマニア行:取り組みに感謝

2024年11月27日 | オーストラリア:タスマニア

2023年3月のタスマニア5日目


野生動物病院と療養所を兼ね
ボノロング野生動物保護区
の話もとうとう4本目です。


さらに行くと別の柵にまたま
たタスマニアデビルデビ
ル好きにはたまらない場所



しかもこの疎らな毛といい、
枯れ草まみれといい、見すぼ
らしさピカ一で最高に可愛い



ここは藪のあるやや広い高齢
デビル用エリア。いわば養老
院。何匹かが棲んでいます。

踏み鳴らされた立派な獣道
どれだけクルクル回ったのか


切り株のお立ち台にも1匹



しばらくモゾモゾしていて、



やっとポジショニング決定



着地してこのまま寝るのかな



自由は制限されても安全な場
所。一晩中探し回らなくても
ごはんと水と寝床があって、



寿命4~6年の晩年を過ごすに
は決してワルくはない場所。



人目はあるけれど少しでも穏
やかな老後の日々を楽しんで



デビル同様今やタスマニアだ
けに生息しているフクロネコ

とうとう会えました


ネコと言っても水玉が目印の
肉食の有袋類フクロネコ科。


この子の名は「ナッツ」商業
用の大きな鉄製ゴミ箱に閉じ
込められ頭を負傷してここへ



脳に障害が残り、丸くしか歩
けなくなり、ついたあだ名は
ドーナツ。しかし、数ヵ月に
及ぶ集中リハビリの奏功で徐
徐にまっすぐ歩けるようにな
ったばかりか、元気な子をた
くさん産んで立派な母親に


子どもの何匹かは、60年前に
絶滅したと言われる本土での
再生計画の一環で、ビクトリ
ア州へ。いつか本土にも野生
のフクロネコが戻れば、ナッ
ツ母さんも貢献したことに💪

(※この子もナッツの子孫か)


園内には野生動物病院として
の活動をガラス越しに見られ
る場所もあり、大小さまざま
な形の動物や鳥への麻酔のか
け方や、実際の治療もビデオ
で見学することができます。



痛々しく足を怪我したデビル



リリースは胸を打ちます。



どこにいるのかわかって



海に駆けて行くペンギン😭



デビルも袋から出されるや



目が悪くても、森へ一目散😭



ボノロング野生動物保護区は
NPOなど慈善団体ではなく自
立した小さな民間企業です。


入園料やグッズ販売だけでな
く、募金、民間や動物保護団
体等から支援を取り付け、野
生動物保護のため24時間年中
無休で活動を続けています。


その中で目を引いた企業支援


送配電事業者タスネットワー
クス
は「電柱と電線の所有者
として」の責任感で支援し、



ビクトリア州の地銀ベンディ
ゴ銀行は商業用洗濯機と乾燥
機の提供という目立たない支
援を続けて日々の運営を助け



富士ゼロックス(という会社は
なくなりましたが)のタスマニ
ア代理店は2013年より、デビ
ルの繁殖支援を始め早10年!

当時「自然保護のために企業
からアプローチを受けること
は稀だった」と園側が認める
とおりの状況でしたが、個人
ではなかなかできない規模の
支援を息長く続けている企業


支援でたくさんのデビルが子
孫を残せたことでしょう。相
手は生き物。継続は力なり💪


弱肉強食という自然界の摂理
以上に人間の営みに追いやら
れる野生動物。棲み処を追わ
れ、餌場や営巣地を奪われ、
事故に遭ったり罠にかかった
り、水、大地、食物の汚染も
今や気候変動も大きな脅威


地球は人だけのものではない
ということを常に忘れず、自
分にできることをしていこう

取り組みに感謝🙏また次回


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タスマニア行:デビルは回るよいつまでも

2024年11月26日 | オーストラリア:タスマニア

2023年3月のタスマニア5日目


野生動物病院と療養所を兼ね
ボノロング野生動物保護区
の写真だけで実に300枚以上



動物は動くわ私の腕はないわ
で枚数だけは大量で、それを
取捨してまとめてさて何話?


スクっと立っていて動かない

「まさかね


と思ったら、やっぱりまさか

置物ではなく本物でした(笑)


置物なんかいらないほどの数

清掃中の他の場所のも臨時に
ここにいたので、大変な密度


住環境の良さがわかる毛艶

人馴れしていてこの近さ


さっそく夫の手からモグモグ

専用の餌場もあり食事は十分


水飲み場も大きく自然な造り



草地でくつろいでいる個体も



カンガルーは数が多く行動範
囲も広く、交通事故に遭いや
すく、ケガが治って野生に放
すかどうか悩ましいらしい。


かといって、どんどん数が増
える中で一生ここに収容して
おくこともできません。確か
他にも収容場所があったはず


再びタスマニアデビルがいる
柵に来たら、走って来る



か、可愛い



でもとっとと走り去っていく



やっぱり本当だったのか



デビルは同じ場所をクルクル



周るそうですが、それは事実



かなりの速度で何回転もして



たまに逆回転。止まりません



ずっと走っている証拠に1、2
匹しかいない柵の中には獣道



清潔そうなふかふかの寝床も
用意され夜行性なのにナゼ



原因ははっきりとは判らず、
自然界ではないので落ち着か
ないからではという説も。
野生の行動ではないのは確か


4~6年の寿命がさらに縮まり
そうで切ない。ぐっすり寝て
🙏

「・・・・」


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タスマニア行:デビルに再会

2024年11月25日 | オーストラリア:タスマニア

2023年3月のタスマニア5日目


野生動物病院と療養所を兼ね
ボノロング野生動物保護区


ここにいる動物はすべてケガ
や病気で運び込まれて来た個
体で、人に見せるために飼わ
れている訳ではありません。


そのため野生に復帰して檻が
空だったり新入りがあったり

(※新入りのヤブワラビーがい
るため静かにという注意書き
隠れているのか寝ているのか
見えませんでした。野生動物
にとっては大変な変化です)


さらに公開していない場所で
もリハビリや保護を続けてい
るそうで、相当な数を収容中


お次はボノロングの顔、施設
のロゴにもなっているデビル



近っ



トレードマークのシャウト
ほぼこれしか持ち技がない

大人になるまで2年。寿命6年
野生だったらせいぜい4年と
いう超短命。何でもかみ砕く
鋭い歯は一生伸び続けるそう


えっ、入る



鉄板入り安全靴なら大丈夫

タスマニアデビルはハンター
ではなく、弱ってもいない大
きな獲物を襲うことはなく、
これぐらいなら大丈夫そう。


目の上に白い部分があって、
目を大きく見せることで敵に
より大きな動物と勘違いさせ
る弱い生き物ならではの模様



体毛も色も全般に疎らです。

なんとも見すぼらしい姿が
私は大大大好き


ナゼか突然寝だすし💤(笑)



個体によっては耳の中が赤く
デビルっぽいのですが、ちぎ
れたようにヒラヒラした個体
もいてこれも見すぼらしい



目が悪いので大きな鼻の嗅覚
だけが頼り。しかも夜行性

デビルというにはあまりにも
情けないすべてが好きです



この柵にいるのは若い新入り

たくさん子孫を残してね🙏


次に会ったのはハリモグラ

南オーストラリアのカンガル
ー島
で野生のに会いました。


地面に刺せる長い鼻と鋭い爪
夜行性で非常に目が悪いので
嗅覚が頼り。大きな鼻の穴



飼育員のところにやって来た
のか、偶然通りかかったのか

彼女の声に反応したのかな


そのままえっちら通り過ぎて



鼻を前面に進む姿は小型戦車



草むらにお帰りでした。



アカオクロオウム

オーストラリア固有種で寿命
50年。しかし、大陸側にのみ
生息し、タスマニアにはいな
い上、この個体は元ペットで
野生には戻せないのだそう。


ワライカワセミ

鳴き声が人の大笑いのように
聞こえることからこの名前に


オーストラリア中にいるのか
と思ったら、タスマニアには
20世紀の初めに持ち込まれた
外来種。固有種との間で餌や
営巣で競合し、野生に返さな
いことを奨励しているそう。


オーストラリアガマグチヨタカ

フクロウかと思ったらヨタカ
という別の科なのだそうで、
ガマグチは英語のFrogmouth
(カエルの口)の直訳でした!


クシャおじさん的なこの表情
は防御態勢なんだそうです。



夜行性で虫を好むため、クル
マのヘッドライトに集まる虫
を追って事故に遭うことがあ
り、ここの多くは羽や目の障
害で野生には戻せないそう。



運び込まれる動物のほとんど
は交通事故など人の営みで傷
ついたそうで胸が痛みます。


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タスマニア行:野生動物病院ボノロング野生動物保護区

2024年11月24日 | オーストラリア:タスマニア

2023年3月のタスマニア5日目


リッチモンドを出てやって来
たのはブライトンという場所

周辺の電線にはディスクのよ
うな丸いキラキラするものが


「電線を守るための鳥除け?」
と思ったら説明があります。



電線ではなく鳥を守るために
送配電事業者タスネットワー
クスが行っている保護政策の
一環でした。プラスチックデ
ィスクは風に揺れ、夜間は光
るので、大型の猛禽に電線が
あることを示し、接触による
ケガ防止を目指しています。



さらに電柱の上に止まり木を
設置するなど対策を講じ、万
が一ケガをしてしまった時に
24時間対応する野生動物病院
への支援も行っているそう。


その野生動物病院を年中無休
24時間体制で開業している
ボノロング野生動物保護区



敷地内には多数の小さな建物
があり、24時間体制を支える
待機所や宿泊所のようです。



24時間体制の最大の理由は交
通事故などでケガをした動物
や鳥を一刻も早く救うためで
無料ホットラインに電話すれ
ば彼らが回収に来るか、指示
を受けて発見者が持ち込むこ
とで、救える命を少しでも増
やそうと取り組んでいます。


「野生動物に触れあえる柵の
ない動物園」ぐらいの観光地
感覚で来ていたら、とんでも
なくハードコアな所でした。


入場料を払うときにカンガル
ーの餌も購入。素朴な材料

購入も活動支援になります。


うわぁあスゴい数の🦘

(※この時、他のエリアの清掃
中でここに集まっていました)


1日4回飼育員によるガイドツ
アーがあり、参加しました。


まずはオーストラリア固有種
ウォンバットから。クマハナ
(熊鼻)ウォンバットという種
類で草食の中型有袋類です。



飼育員の声に誘われて小屋の
中からえっちらおっちら登場

まだ子どもなんだそうです。


母親代わりの飼育員が大好き



というのも、このこは孤児🥲



赤ちゃんの時に母親が交通事
故に遭い、その袋から救出さ
れたそうで園で育ちました。



「親が死んでいても袋を見ろ」

という注意書きを道路端でも
見ましたが、有袋類が多いオ
ーストラリアでは重要です


よくがんばったね



まだまだ甘えたい盛りのよう

でもウォンバットは鋭い歯を
持ち、触るのは厳禁。彼女の
シューズも鉄板入りだとか


コアラのようにシッポのない
まん丸のお尻は、噛まれても
簡単には傷つかない硬い骨で
覆われ、また四角いフンをす
るのでも有名なウォンバット



四角いので転がらずに積み上
げることができ、それがテリ
トリーの目印になるそうです
が、どうして四角く排便でき
るのかは謎なんだそうです


説明が終わるととっとと小屋
に帰っていきました。夜行性
なのでやっぱりお眠なのかな

可愛いくて強いウォンバット


さて、お次は


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タスマニア行:古の町リッチモンド

2024年11月23日 | オーストラリア:タスマニア

2023年3月のタスマニア5日目


オールドホバートタウンを出
るとそこは今のリッチモンド

200年前とあまり変わらなそ
うな光景が広がっています。


かつての教会

今は宿泊施設に


かつての裁判所

今はギャラリー


ここも造りからして19世紀の
建物ですが、今はカフェに



オーストラリアの古い町には
漏れなくある観光名所、牢獄

警察署もセットでウケる~


裁判所もあって3点セット



リッチモンドの発展は1805年
の石炭採掘から始まったそう



この舗装もない坂の先ローラ
ンド(低地)と呼ばれたコール
(石炭)川の岸が炭鉱でした。

水路で輸送したのでしょう。
なんとも恰好なロケーション


高台から川は見せませんが、
盆地なのはよくわかります。

お墓もあり、石炭が枯渇した
後は眠りについたような場所


道の正面には今の町には不釣
り合いなほど大きな、時計台



1838年完成の聖ルーク教会

国内最古のイギリス国教会


リッチモンドは1833~38年に
掛けて交通の要所として道路
建設が進み、教会建設時は町
のピークだったのでしょう。


建物はほぼ当時のままだそう
ですが、塔に時計が付いたの
は1世紀近く経った1922年。


ホバートの聖デイビット教会
の建て替え時に寄贈され、他
の面が埋まる日は来るのか



近くの教区牧師館。牧師や警
察署所長、医者などの住居に



リッチモンドの発展は流刑囚
なしには語れず、道路、橋、
牢獄、裁判所から聖ルーク教
会まで彼らが建設しました。

(※リッチモンド牢獄)


建設が拡大する中、労働力不
足が深刻化し、流刑囚は極度
の食料・衣類不足に直面し、
空腹ゆえにカンガルーに罠を
仕掛けるほどでした。窃盗が
横行し治安が悪化しました。

(流刑囚@ミニチュア村)


犯罪は厳罰に処されたため、
流刑囚の不満はさらに高まり
労働放棄や襲撃も起きたとか


彼らの建てた建物群は200年
を経ても使われていたり遺構
として静かに佇んでいたり。



またいつかゆっくり訪れたい
古の町リッチモンド



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タスマニア行:ミニチュア村オールドホバートタウン

2024年11月22日 | オーストラリア:タスマニア

2023年3月のタスマニア5日目


朝食を済ませて向かったのは
オールドホバートタウン
という模型のミニチュア村。


「この手は子ども向けかな?」
と思っていたらとんでもない


資料を集めに集め、できる限
り史実や地理に忠実に1820年
代のホバートを16分の1の大
きさで再現したものでした。

(※赤い塔は教会の鐘楼。今は
もうない建物を再現したもの)


まるで当時を俯瞰しているか
のような生き生きした臨場感

手の込んだ見ごたえのある村


大工だったジョンとアンドリ
ュー・クイックが3年をかけ
て作り上げ1991年に開園


60棟以上のコンクリート製の
建物(うち10棟は現存)と500
体以上の粘土製フィギュアで
構成された村は、本物の樹木
で覆われるという凝りよう

30年以上を経てもこの大きさ
盆栽技術を生かしているとか


木はタスマニアンマートルと
いう樹高40mにもなる樹種

これも16分の1で揃えてる


人が写り込まないと実際の小
ささが写真では判らないほど

(※ホバート病院)


1820年頃のサリバンスコーブ

重犯者たちがノーフォーク島
から移送されてきた、ホバー
ト発祥の地ともいうべき場所


行商のパン屋



実在したアモット兄弟の肉屋

エプロンの血やおこぼれを待
つ犬など芸コマが素晴らしい


当時は日常だった酔っ払い



アボリジナルの人々



特に目を引いたのが派手な囚
人服に身を包んだ流刑囚たち

こういういで立ちの人を日常
に目にすることを改めて実感


石や木材を切り出し、道路や
建物を造って、村を建設し、

彼らなくして植民地建設はあ
りえなかった、重要な労働者


時には集団で脱獄を試みたり



時には重刑に処されたり



史実を包み隠さずに再現

(※流刑刑務所)


今のホバートを知っていたら



建物や位置関係が分かって



もっと楽しめたのでしょう

(※コミサリアットストア


幾度かの改装を経て博物館に)



1808年築のイングルホール



屋根窓が追加された現在の姿

古いものが今に生きている


当時の建物の原型のような家



今も多くが使われているはず

(※バッテリーポイントの家)


1820年代のハンター島と呼
ばれていた頃のハンター通り



当時のダーウェント川の河口
は鯨の宝庫で船の航行に支障
が出るほどの数だったとか。

1803年に最初の捕鯨が行われ
ハンターたちが押し寄せると
あっという間に捕鯨基地誕生


数々の建物ができては建て替
えられて、発展が続きますが



ここのは1820年初の街並み



行ってきたばかりの現在の姿



園全体を貫くのはオーストラ
リアで2番目に英領化された
歴史の重みと、本土との間の
バス海峡をフランスから守る
という矜持。そしてなにより
深い郷土愛と温かいユーモア
が、心に響く気がしました。



先住民には侵略者であっても
入植した人たちにも生活があ
り、それがリアルに再現され



矛盾の中で、植民地化が進む

誰にも巻き戻せない時の流れ


郷土愛は多数の克明にして簡
潔な説明にもにじみ出ており
じっくり読めば理解が深まる
だけでなく、狭いミニチュア
村が広大な広さを持ちます。

ヘビを仕留める女性
カンガルーの皮を剝ぐ男性
木から落ちる少年
タスマニアタイガー

を探せというお題


見つけました



当時はまだいて今は絶滅した
タスマニアタイガー😭

夫は全部見つけたらしいです


タスマニアデビルも発見



実はここ、1月に売りに出て

訪ねた3月にはもう売却済に


「売れたんだよ~」
と嬉しそうに言っていた受付
の男性は多分一からここを造
り運営していたアンドリュー

(※開園時。中央左が彼。右の
ジョンは父親だったのかな?)


30年以上ご苦労さまでした💐
素晴らしいものを残してくれ
てありがとう。いつまでもこ
のクオリティーが保たれ、ホ
バートに詳しくなって、いつ
かまた再訪できますように🙏


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タスマニア行:夜中華と朝カフェ

2024年11月21日 | オーストラリア:タスマニア

20ヵ月遅れでお送りしている
2023年3月タスマニア旅行記


今年2月から書き始めたとき
は、3月のタスマニア再訪ま
でに書き終えたかったのです
が、もちろん無理な相談で
未達となったらこの体たらく


9ヵ月経っても終わっていな
いという。なんとか中断せず
このまま終えたいのですが、
写真だけでもまだ千枚以上
なんとかがんばりたいです。


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長かった4日目の夜は初日
続いて再びアジア飯。中華へ

バックパッカーが集まるバッ
パーの1階に入居していた、
ポットスティッカー


餃子をウリにしていましたが
メニューが豊富な店でした。



水餃子



芥蘭



さらに野菜をたっぷり補給



ワンタン麺

まるで昼食のような軽食ぶり


翌5日目はホテルをチェック
アウトして、ダーウェント川
を渡り古い町リッチモンドへ



アッシュモア・オン・ブリッ
ジ・ストリート
で朝ごはん



レンガが温かみを醸す店内



窓際の席を希望したら、お馴
染みさんの予約まで時間があ
ったので通してくれました。



生真面目そうにびっしり書き
込まれたメニューにタジー
(=タスマニア)を感じます



旅先の夫は常にバーガーで🍔



プルドポークで食べ応えあり



私はサワードウ付「今日のスー
プ」のチャウダーだったかな

濃厚でこれまた食べ応えあり


NZでもオーストラリアでも
トーストの焼き具合が命
バターをケチらず、こんがり
黄金色が鍵。日本人がご飯の
炊き具合にこだわるのと一緒



移民経営のカフェがなかなか
気づかないか到達できない価
値観。地元民のハートをつか
む色と焼き上がりのお手本か


広々していて、もてなしもさ
り気なく、居心地いいカフェ
でしたが、予約客の高齢女性
と付き添いの人が現れて(ほぼ
日参とか)、私たちはお暇


ブリッジ通りという名のとお
り、この町はサンドストーン
(砂岩)造りのリッチモンド橋
(※流刑囚により1825年に完
成した国内最古かつ現在も使
われている石の橋)が見所だっ
たのに、何も知らずにとっと
と先を急いでしまった私たち


下調べがほぼゼロゆえですが
やり残しを作っておき再訪の
口実になれば!という口実


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タスマニア行:タスマニア王立植物園

2024年11月20日 | オーストラリア:タスマニア

2023年3月のタスマニア4日目


バッテリーポイントを出た後

タスマニア王立植物園


1818年開園で200年以上の歴
史を持ち、市の中心から徒歩
圏内という好立地の上、無料

ダーウェント川を見ながら、
園内のカフェで一息。私の誕
生日(2月7日)の番号が来て


タスマニア全体に言えること
ですが、今どきの映えを狙わ
ず、実に誠実にして質実剛健

地に足が着いた生き方が好き


古いものを大切にし着実に後
世に伝えようとしています。

開園150周年記念花時計も50
年以上の年月を経ています。


時計の縁は多肉のエケベリア

見事なびっしり度


NZやオーストラリアで大雑把
にパイン(マツ)と称される巨木

ほとんどマツではありません


タスマニア原産のフオンパイ
ンもマツ科ではなく、マキ科

耐水性と耐久性に優れ腐りに
くいため船舶などに利用され
軽く加工が容易な材質だとか


太鼓橋が見えてきて、これが

ここの見所の一つ日本庭園


いや、これはモネの睡蓮の池
を模したものよね?赤くないし



モネの橋が日本の橋を模し、

それを模した橋という訳か


本家本元の赤い太鼓橋登場



ホバート市と焼津市が姉妹都
市のため、1987年に日本人造
園家K.ハラダ氏の設計で建設



島の反対側のクイーンズタウ
ンから700トンの石を運び込
むなどして完成させたそう。



椿や桜、つつじやもみじと季
節ごとに楽しめる庭だとか。



設計に忠実であろうとする努
力の跡が随所に感じられて、



太鼓橋も渡ってきました(笑)



流しそうめんでも流れてきそ
うな不思議な建造物は噴水

木製の樋を水が流れ続ける。


これは1772年にフランス人探
検家マリオン・デュ・フレヌ
がタスマニアに到達した200
周年記念噴水で、既に築50年


西洋人としては1642年に到達
したオランダ人エイベル・タ
スマンに続き2人目130年ぶり


探検隊の1人フオン・デ・ケ
ルマデックが船の修理に用い
た樹が、後にフオンパインと
命名されたのだそうです

(※噴水もフオンパイン製)


ドンと現れた巨大カボチャ



足と比べてもこんな大きさ

シンデレラがカボチャの馬車
に乗るという発想が、荒唐無
稽でもないと思える大きさ


ここは地域のみんなで管理す
るフードガーデンで野菜や果
実がたわわに実っています。

美味しすぎて丸かじりされて
いるコス(=ロメインレタス)


絶大な人気食材のイチジク

他にも豆類や葉物野菜が多数


「写真とっても、野菜とるな」
の注意に思わず笑いました💦



開園150周年記念アーチ

記念碑がやたらに多い植物園
来し方を大切にしています。


大きな温室もありました。



市民に長く深く愛されている
のを感じるまさに市民植物園



ぜひまたいつか



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タスマニア行:バッテリーポイント

2024年11月19日 | オーストラリア:タスマニア

2023年3月のタスマニア4日目


カスケードブリュワリーを出
て向かったのは、市の中心部
で前日の青空市場サラマンカ
マーケット
のすぐ南に位置す
る、バッテリーポイント地区


面積でいうと700平米しかな
く1辺1kmもない小さなエリ
ア。でもそこは最高級住宅地

入植が早い分、ジョージアン
様式(1714~1830年)が多く


市の中心に徒歩で行ける場所



19世紀の建物がほとんどで、



レンガ以前の石造りや木造も



聖ジョージ英国国教会

街のシンボル


この時代のバッテリーとは電
池ではなく砲台のことで、い
わば砲台岬。1818年に沿岸警
備のために設置された砲台は
礼砲以外に使われたことはな
く、1878年に撤去。その跡地
は公園となり、1934年になっ
て砲台に続く火薬庫代わりの
トンネルが発見されたそう。


あまりにも地の果てのタスマ
ニア。こうした経緯に、つい
ぞ戦場になることのなかった
長閑な歴史が感じられます。


イルカ🐬のお住まい



バッテリーポイントマナー
いう名のかつての邸宅を宿泊
施設に改装した1834年の建物



大きなテラスで、眺めは抜群



水辺の通りはナポレオン通り

敗将でも地名に残るのか~


その向こうはダーウェント川



バッテリーポイントの歴史は
ホバート港(1804年開港)とと
もに始まり、ここは1839年に
開業した造船所跡地だそう。



造船所を始めたジョン・ワト
ソンが建てた倉庫は現在、タ
スマニア木造船ギルド本拠地

ギルドは1880年頃に建造、20
08年に再建されたタスマニア
最古のヨット、テラリナ所有


NZのウェリントン、オリエ
ンタルベイによく似た風景



今でも一帯には船舶関連の建
物があり、修理工場なのか



エドワーディアンっぽい住宅



目の保養になるような可愛い家



こんな小さく簡素な家が好き



いつまでも見ていたいけれど



そろそろクルマに戻って次へ



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