ニュージーランド移住記録:みたび

移住は帰らなくてもいい終わりのない旅。人生そのものも旅。そして気づき始めたあの世への旅。旅と夢限定ブログ

ハワイ行:アメリカ最南端のパン屋

2018年02月05日 | ハワイ:ハワイ島

ハワイ島南西ホナウナウのペインテッド教会を出てさらに南下。

辺りは行けども行けども火山岩


建物らしきものはほとんどなく

岩がゴロゴロするばかりで植物はごくわずか。


暖かいせいか、不思議と荒涼とした印象はなく

岩の黒さが青空に映えました。


島を一周するハワイ・ベルトロードがあるばかりで

他には何も見当たりません。


やっと村らしい村にたどり着きました。

島の最南端の集落ナアレフ
南周りだと他にランチを食べられそうなところがなく
最初から立ち寄るつもりでいました。


エアビーのオーナーにも必ず寄るように言われてましたが

ココっ


営業しているのが信じがたい

オンボロさ(笑)


ちょっと立派な建物は、

やっぱり郵便局
なぜか郵便局ってどこも立派。州のではなく国のだから?


建物も古けりゃクルマも古い

よく車検通ってるなー(笑)
(※NZにもどっこいどっこいなのがありますが


それでも交通の要所なのかレストランが2、3軒ありましたが
お目当てはココ
 
プナルウ・ベイクショップ


アメリカ最南端のパン屋

なんだそう。確かにそう


店は観光センターも兼ねていて



日除けになるキオスクや池もあって

かなりの広さ。


19世紀にサトウキビ農園に入植したポルトガル人が持ち込んだ
スイートブレッドが看板商品

同じポルトガル発祥のものが日本ではカステラ
マレーシアではマーライカオになったとみられ
スイートブレッドもポルトガルつながりの姉妹品


ここはドライブインも兼ねていて料理も充実していました。

どこに行ってもこればかりの、私のシーザーサラダ


夫はロコモコ



食後はマラサダ

これもポルトガル語なんですね
マラサダ=ハワイだと思っていました。
コーヒー栽培といいポルトガル系の影響が色濃いハワイ


私たちもシンガポールに住んでいたときは、マレーシアのマラッカ
香港に住んでいたときは、すぐ隣のマカオと
大航海時代を経た国だけあって先々でポルトガル系にご縁あり
美味しい物がたくさんある文化なのもありがたい


美味しいだけでなく店全体に温かさが感じられる

素敵な場所


手頃なお土産も揃っていて助かりました。

いろいろなフレーバーのクッキーを買いました。


プナルウを出た後は島の西側とは対象的に



緑豊かな光景



そして青い

空と海


これが同じ島なのかと思うほどの違い



どちらもハワイ島の素顔です。



平らな土地も多く農業も盛んのよう。



ベルトロードという命名が納得できる眺め



左ハンドルでもなんとかなる(by夫)交通量

このまま島を一周して空港へ


ポリネシア文化と西洋文化と日系文化が混じり合う

私たちの来し方を見るような場所だったハワイ島
これから何度も何度も訪れそうです。


「よろしくねっ

「・・・・・・」

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ハワイ行:聖ベネディクト・ペインテッド教会

2018年02月04日 | ハワイ:ハワイ島

前のオーナーの趣味らしく、ちょっと和テイストでもあった

カイルアコナのエアビー
アメリカ本土からの新オーナーのもとでどう変わるのか?
2人でせっせとDIY中でした


2泊3日だった街を後に



ハワイ・ベルトロードの州道11号線をさらに南下



目指したのは
聖ベネディクト・ペインテッド教会
これは正式名で、
通称はペインテッド・チャーチ


「塗装教会?ペンキを塗っただけの教会ってこと?」
英語でも日本語でもなんともチープな響きだったので(笑)
「一夜城的なも?」と思いつつ、名前が気になってやってきたら


ホナウナウの丘の上に立っていたのは小さな白亜の教会

さすがカトリック教会


華麗さや緻密さがプロテスタントととは全然違い
木造建築でよくぞここまで!という繊細さ。
 
でも、ずっと白壁でどこが塗装教会


と思いつつ、一歩中に入るや・・・・・・







正面の輝くばかりの白い祭壇以外は



天井といい壁といい柱といいあらゆる面が

壁画で覆い尽くされています


それは宗教画だったり



ヤシが繁るハワイの風景を模したものだったり。



ヨーロッパの教会だったらフレスコ画となりそうなところも



遠近法を活かして奥行きをもたせて

平面を限りなく高く深く押し広げ
小さな空間に巨大な宇宙を生み出しています。


なんという情熱。なんという宗教心。
寝食も忘れ一心不乱に自分の魂まで塗りこめたような絵。

描いたのは教会を建てたベルギー人宣教師ジョン・ベェルゲ神父


1899-1902年にかけて教会が建設され、その後絵が描かれたそう。

神父は絵画の教育を受けていない我流画家だったそうで


流派や技巧に頼ることなく、ほとばしる情熱を

これでもか
これでもか
これでもか
・・・・・

・・・・・

・・・・・


と絵筆に込めていったからこそ、宗教というものを超えて

観る者の心を打つのでは。


振り向けば極彩色の空間が闇に沈むような外の眩さ。



外に出れば丘の向こうはただただ碧い太平洋



こんな場所に眠る幸運を得た人たち



いかついトラックでやってきた白シャツの男性が

教会の入り口にひとり座って、いつまでも海を眺めていました。


ハワイ島は雄大な景色に感動しきりでしたが、
建物としては最も忘れがたい場所になりました。

カイルアコナに来るときは必ず立ち寄りましょう。

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ハワイ行:カイルアコナの夕陽

2018年02月03日 | ハワイ:ハワイ島

コナ・コーヒー三昧で思いがけず長くなった1日。
一番の繁華街カイルアコナに戻った後は駆け足


モクアイカウア教会

ハワイ最初のキリスト教会


1820年に建設が始まり1837年に完成した

会衆派教会
カメハメハ2世の許可を得てここからハワイでの教化が開始。
最初は木造だったそうですが何回かの火災を経て
現在の石造りになったそうです。


内装はハワイ原木のコア。



尖塔は一帯のランドマークで教化の象徴のように見えます。

石造りに造り代えられるとき、土着宗教の神殿ヘイアウの
石が使われたというのが新時代の幕開けを象徴するよう。


正面のひときわ優美なイギリス風の建物は

かつての王族の別荘だった

フリヘエ宮殿

今は博物館になっていますが、時間切れで訪問できず


たまらなく可愛いハワイ王朝の紋章



こちらは商業施設のランドマーク

コナ・マーケットプレース


そして

コナ・イン


本来だったらここでカクテル片手に



沖を行くカヌーでも見ながら



夕焼けを楽しむべきなんでしょうが

(※風見鶏の代わりに風見舟


私たちはこちらへ。

前の日に雲で夕焼けが見られなかった場所


イギリス風の小さな教会前のビーチにつながる静かな庭



一緒に夕焼けを見ていたのは番のインドハッカだけ。



なにせ夫は大の夕焼けフェチ

タイミングはもちろん場所も重要(らしい)


排水用なのか通気用なのか石壁にはいくつも穴が開いていて



インドハッカがそこに納まって夕陽をみています。



鳥にもわかる美しさ

まるで演出のようにカヌーがゆっくり横切っていきました。


この熟れた柿のような色は空気中の火山灰の乱反射なのだと
画廊のご主人がお客さんに説明していました。

だから、ハワイ島の西側でしか見られない夕陽なのだと。


何気ない1日であって感謝の念でいっぱいになる荘厳な輝き

沈んで行く陽とは反対に、明日もがんばろうという
前向きな気持ちが心の中で昇ってくるようでした。


夜はフォスターズ・キッチンという店へ

スポーツバーのような店で
これがアメリカ的なレストランでもある?


2階で眺めがいいかなーと思ったら
 
暗くてほとんど何も見えませんでした(笑)


お料理もアメリカン(爆)



店内はほぼ満席で予約なしで座れたのはラッキーでした。



こんなに食べていたとは



男性から女性への転換でホルモン投与を始めたらしい
トランスジェンダーのウエイトレスがサーブしてくれてました。


お店の出口に書いてあったマハロ
ハワイ語で「ありがとう」

自分に正直に生きる若い彼女の姿に逆にこちらが
ありがとう
正直なことは強くて潔くて美しい

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ハワイ行:コーヒー三昧の長い1日

2018年02月02日 | ハワイ:ハワイ島

かつての典型的な日系コーヒー農園だった内田博物館の後は



ケアラケクア・ランチ・センター(KRC)へ



ランチはlunchではなくRanchなので

ケアラケクア大牧場
アメリカやオーストラリアではランチと言うけれど、
NZは国土が狭いせいか牧場(ファーム)ばかりなので
なんだか新鮮な響き


そこにあるチョイスマートというスーパーへ。

ここに入っていた(らしい)カフェに行きたかったのですが
もうなくなっていました。


ここもグリーンウェル一族の所有で

1870年にできたグリーンウェル・ストアの実質的な後継店
でも、一族の話になったらあと3、4本はいっちゃうので
ここは端折って、



超遅めランチに

なかなか素敵なラナイ(=ベランダ)がありました。


地元産の詰め合わせ的シーザーサラダ



目の前は20世紀初頭の建物らしいコナ劇場

一帯はオールドコナとも呼ばれかつての町の中心部


今やカイルアコナに人の流れが移り

すっかりノスタルジックな場所になってしまったよう。


その後は高台から海辺にかけての下りのドライブ

やってきたのはキャプテンクック記念碑の近く


でもなんでもない場所で、単なる迷子

会えるものなら会ってみたかったウミガメ
いたのは地元の人だけで、道だけ聞いて退散~


無事着いたのは

ケアラケクア湾州立歴史公園
ケアラケクアは一帯の地名なんですね


みんながスノーケルやカイヤックを楽しむビーチの奥には



石を積み上げ農耕の神ロノを祀ったヒキアウ・ヘイアウ

ハワイの人には神聖な神殿跡なのだそうです。


湾の対岸に当たるのがキャプテンクックが没した場所

イギリス人としては最初にNZに到達した人でもありますが
記念碑まではカヤックでしか行けないそうで望遠で見ただけ。
(※一応陸路もあるようですが、時間も用意もなく要再検討)


その後は再び博物館があったコナ史学会博物館に戻り



今度はグリーンウェル農園見学



この手のコーヒー農園見学はどこも無料のようで



ツアーが終わったらコーヒーを買ってもらうという趣旨のよう



コーヒーの木を見せてもらったり



実がコーヒーになるまでの説明を聞いたり



作業場を見学したり



でも私はたわわになっているアボカドに痛く感動

(※常に感動ポイントがズレてる件)


美味しいコナコーヒーもご馳走になり
チョコでコーティングした手作りのマカダミアナッツなど購入。

(※家ではネスプレッソの軟弱なヤツ


ハワイ・ベルトロードの州道11号線を北上して

コーヒー三昧だった長い1日を終えてカイルアコナに戻りました。

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ハワイ行:内田博物館

2018年02月01日 | ハワイ:ハワイ島

今年ももう2月ですね。
2017年3~4月の生まれて初めてのハワイの旅行記
なんとか9ヵ月遅れの1月中には終えたかったのですが


終わるどころかどんどん長くなり
最初の訪問先ハワイ島からすら脱出できず(笑)


初めて訪れる場所は見るもの聞くものすべてが新鮮で
ついつい長くなってしまいます


もうしばらくお付き合いを



=============



H.Nグリーンウェル・ストア博物館を出たあと、すぐそばの

コナコーヒー・リビング・ヒストリー農園


リビング・ヒストリーですから、生きた歴史
過去を再現するのではなく保存したままの展示です。
かつての典型的な日系コーヒー農園が見られる貴重な場所。


通称「内田ファーム」と呼ばれているそうですが

受付兼おみやげコーナーには見事な毛筆で書かれた
内田博物館


キャビネのドアは全て洗濯板
ここからしてアガる昭和生まれ(笑)
(※生家は生まれたときから洗濯機だったけれど)


庭ではロバが草を食んでいました。

かつては重要な輸送手段でした。
カワいい~


パパイヤ



パイナップル



バナナ

他にもアボカドやマカダミアナッツも。


菜園

青々した新鮮な野菜


えっいきなりコーヒー



青い実がびっしりなっています。



農園の中に立つ内田家

一家は1925年にコナにやってきて翌年にこの家が完成。
そのわずか3年後には大恐慌
大変な船出だったことでしょう。


ちょっとした生垣も自然で実用的

目隠しにもなって花や緑が目に優しい。


素朴な木目に映える植え込み



和風にアレンジされた素敵な玄関

実用のための番傘や下駄が実に美しい


一歩中に入るや、そこはもう

日系「大草原の小さな家」(笑)


初めて訪れたのに胸が苦しくなるような郷愁



私は過去世のどこかで移民だったことがあり

ほの暗い家の中から眩い外を眺めていたことがある
と根拠はなくても確信してしまうような光景。
NZでも同じような事を何度も経験しました。


貧しく大変だったけれど、一家で団結して生き抜いた人生

家族のありがたみが骨身どころか生まれ変わっても残るほど
深く深く刻まれた過去世だったような気がします。


それ以外、初めての光景に目が潤んでしまう理由がわかりません。

ここは台所で、大きな蒸し器


農園に持って行くお弁当の袋

丈夫な米袋を再利用


このタイムマシーンのようなものは

オーブン
何を焼いていたのか?


煮炊きは釜で。

暑いハワイの家の中で、火を使うことは重労働
キッチンの風通しは何よりも重視されたそうです。


寝室

日本から引っ越してきたときに持ってきた柳行李
子どもの頃に生家で見たことがあります。


日本で見慣れた規格とは違う小さな布団



天井はトタン屋根の熱が下りてこないよう

白い布で覆われていました。奥はタンス


外ではコーヒー豆干しの実演

ホシダナ(干し棚)と呼ばれ


棚の下にはローラーがついていて

女子どもでも屋根の下に出し入れできました。


コナは午後になると雨が降るので、その時だけ

豆をしまえるように日系人が考案したものだそう。


1960年代生まれぐらいの日本人であれば

初めてであってもどこか懐かしい内田家
1994年まで実際に家として使われていたそうです。


私もいつか、どこかで

大草原の小さな家に住むローラだったのか(笑)


行けてよかった


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ハワイ行:移民一世とはなにか

2018年01月27日 | ハワイ:ハワイ島

「ハワイにもこんなイギリス風の建物があるなんて

と思った
H.Nグリーンウェル・ストア博物館


中に入ったら



キムラさんが黙々と働き(笑)



藍の絣に白い前掛け、ジーンズに足袋というファッション
日系コーヒー農家の女性の典型的な作業着だったそう。

新しい土地で新しい生活を築きながら
図らずも新しい時代を築いていった移民の先駆者たち


イギリス人だろうが
日本人だろうが
ポルトガル人だろうが
中国人だろうが
フィリピン人だろうが
どの民族にもどの家庭にも

本が何冊も書けるほどの逸話があったことでしょう。


大農園の小作農から小農園主になった日系たち
家族総出で懸命に働き、コナに根を下ろしていきました。


カギ(鉤)

コーヒーの実を摘むのに使われたもの


コーヒーの実を入れた
ラウハラ・バスケット

タイヤのインナーチューブで縁を強化し
ストラップはゴザの再利用という一世の知恵


金属製バスケット

雨天でのコーヒー摘みに使われたそう。


竹製バスケットと子ども用の缶

子どもも重要な労働力だったので、缶や籠を首から提げ


落ちた実を拾ったり下の枝の実を採ったりしたそう。

涙ぐみそうになるほど可愛い姿
日系人の子どもは4、5歳になると農園で働いていました。


1910年の段階で日系農家はコナのコーヒー生産の80%を担い
一方でキャプテンクックとアメリカンファクターズの2社が
業界を牛耳り、コナ・コーヒーの70%を支配していたそうです。


日系農家は生産したコーヒーを全てこの2社のいずかに卸し、
代わりに食料品や日用品を2社の店からツケ(借金)で購入し
支払いはコーヒー豆で行うという危うい契約下にありました。


けれどアメリカが第一次世界大戦に参戦すると戦争特需が起き
日系農家の経済状態も大きく改善していきました。

コナからの出征兵士
NZでいえばアンザック兵たち。


1928年まではコーヒー豆の高値が続き、全てが順調でした。
そして迎えた1929年。米国株が大暴落し世界大恐慌に突入
コーヒー豆価格も史上最安値に急落してしまいました。


価格の暴落で日系農家の2社への借金は雪だるま式に増え
(※支払いは価値が暴落したコーヒー豆で行うため)
夜逃げしたり自己破産をしたりする農家が相次ぎました。


しかし、取引先が2社しかないため農家には交渉力がなく、
残った農家も10~30年間の収穫を担保に借金を重ねる状態で
1929年に1,100だった日系農家は
1938年には580にまで減少してしまいました。
多くの二世はコーヒー産業を離れ、街に働きに出ました。


苦労して今日の生活を築いてきた一世の親が借金に苦しむ中、
コナに残った二世たちは業界再編に向けて立ち上がり、
2社の支配から逃れて財政的に自立する道を模索し始めました。


その中で農家は一致団結し、代表を立てて2社と交渉し
アメリカンファクターズから借金の98%の棒引きを勝ち取り
交渉は成功しました。

1938年に借金から解放されたE.モトヒロさん
それまで長く苦しい10年だったことでしょう。
こうしてコナのコーヒー産業は土壇場で破たんを免れました。


暗黒の時代が終わって、ようやくひと息つくかつかないかのうちに
1941年12月には真珠湾攻撃が起き
コナだけでなく全米の日系社会が闇暗に閉ざされます。


それを覆すように、ハワイの日系二世志願兵は1,500人の募集に
1万人近くが応募し、コナからも第一陣で25人が出征しました。


赤紙ならぬ黄紙

第一陣だったヤスミツ・デグチさん


二世志願兵たち

何人が還り何人が還らぬ人となったのか。


コナ・イッセイ・コーヒー・パイオニアと称えられる一世たち

全てを乗り越えた1953年の集合写真


彼らの弛まぬ努力と不屈の精神でコナ・コーヒーは残り
「移民一世とはなにか?」
と改めて自分に問いかけるきっかけにもなりました。


すでに決めていたこととはいえ、この4月のハワイ旅行の後
私たちは5月にNZ国籍を申請し、去年8月にNZ国民になりました。


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ハワイ行:コナ・コーヒーと日本人

2018年01月26日 | ハワイ:ハワイ島

H.Nグリーンウェル・ストア博物館の小さな空間は

静かな衝撃がさざなみのように押し寄せる場所でした。


有名なコナ・コーヒーのことを、私は全く理解していませんでした。

「ハワイ産のおみやげ用コーヒー?」
ぐらいな認識しかありませんでした



コナの地名を世界に知らしめたコナ・コーヒーの起源は
今から200年近く前の1825年にさかのぼるそうです。
オアフ島のボキ首長がブラジルから苗を持ち込み、栽培開始。



しかし、1860年にはコーヒー農園はサトウキビ農園に凌駕され
ハワイのコーヒーはほぼ姿を消しました。


ただし、ハワイ島のコナとハマクアのコーヒーは生き残りました。
コナは傾斜地で水が乏しかったためにサトウキビ栽培に向かず、
それがコナ・コーヒーに幸いしたのです。


世界的なコーヒー価格の値上がりを受けて、マウイ島から
ポルトガル系コーヒー農民がコナに移り住み、
中国人、日本人が小作農として入植してきました。

コナ・コーヒーと日本人はごく初期から関係があった訳です!


19世紀末にハワイは正式にアメリカの一部となり、20世紀に入るや
世界的なコーヒーの供給過剰で価格が暴落し、コナ・コーヒーも
瀬戸際に追いやられ、ポルトガル人や中国人が去っていきました。


経営難に陥った農園主たちは農地を5エーカーごとに小分けにし、
日系人小作農に家屋とともに貸し出す代わりに
収穫の3分の1を賃貸料として受け取ることにしました。

コイナリウの3エーカーの土地を年30ドルで貸し出すための
1919年の賃貸契約書


こうしてコナでは白人経営によるコーヒー大農園時代が終わり
日系農園主による家族経営農園という形態が誕生し、
100年近く経った現在も日系アメリカ人家族による経営が続き、
独特のコーヒー産業を形成しているそうです。


コーヒーチェリーと呼ばれる赤く熟れたコーヒーの実の
皮を剥き、中の種を取り出しているヨシマツ・キムラさん
1928年

それが90年前だろうが
ハワイだろうが
農園だろうが
移民同士として胸に迫る
一世の姿でした。


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ハワイ行:コナで見つけたNZ

2018年01月22日 | ハワイ:ハワイ島

2017年3~4月ハワイ旅行記
20本書いたところでホッと
していてはいけない


まだ10本以上ありそうで、
がんばらないとー


カイルアコナでの朝食
の後にやってきたのは

コナ史学会博物館


でも、そういう名前の博物館
があるわけではなく、
コナ史学会の博物館や催し
が周辺に集まっています。


史学会はコナに入植した
イギリス人グリーンウェル
一家の博物館に、さまざまな
ものをプラスしコナの歴史を
今に伝える貴重な活動を行っ
ている歴史愛好家団体です。


その旗艦となっているのが
H.Nグリーンウェルストア博物館
1870年に入植者の日用品店
として建設されました。

「これって、ケリケリの
ストーンストアじゃん

思わず2人で同時にハモって
しまうほど似ていました。


ケリケリのストーンストア 

1836年に完成した現存する
NZ最古の石造りの建物。
宣教師が設計しオーストラリ
アの流刑囚が建設するという
当時ならではの組み合わせ
宣教師たちの食物貯蔵庫
として造られたものです。


例によってな~んの下調べも
ないままフラりとやって来た
のでヘンリー・ニコラス・
グリーンウェルが1850年まで
にこの地にやってきたイギリ
ス人だと知ってビックリ


ヒロで見てきた古い建物はサトウ
キビやパイナップル・ブームで
建てられた20世紀初頭の建物で、



スパニッシュ・コロニアルだの



アールデコだの

世界的に流行ったスタイル


そこにそれよりも半世紀も古い
イギリス風な石造りの建物が
忽然と現れたので、NZから来た
身にはただただ驚きでした
かつて栄えたNZの地方都市を
訪ねてきたかのよう(笑)



1930年頃のグリーンウェルストア

他の建物がアメリカ風かトロピ
カル風なので石造りは特異。
コナに現存する最古の建物で
ハワイでも屈指の古さだそう。


そこで見つけたグリーンウェル
のイギリスの生家

18~19世紀初頭の家でしょう。


「まるでケンプ・ハウス

NZのストーンストアの隣にある
のがケンプ・ハウスで1822年に
建てられた宣教師の住居です。
ここは増築を繰り返したので、
渡り廊下は後付けかも
渡り廊下がなければそっくり


博物館の前は崩れた石がその
ままになっていました。



1850年にグリーンウェルが
建てた自宅跡

1960年代に取り壊されたそう。


その奥がかつてのストア、
今の博物館。



家はこんな建物だったそうで、
まさにイングリッシュコテージ

今でもNZの地方に行けば
お目にかかれそうです。


思わずNZのマンゴヌイ
ミルベイの家を思い出しました。

ペニー・コテージ


グリーンウェルの家の絵は



マンゴヌイのラサール・
コテージにそっくり

トタン屋根の錆び方まで
似てませんか(笑)


ラサールは1830年頃に
マンゴヌイに入植していおり
グリーンウェルがコナに落ち
着いたのとほぼ同時期


当時は大勢のイギリス人が
一攫千金を夢見て
太平洋をウロウロ
してたんでしょうね~


グリーンウェルの家にもストア
にもハワイの原木コアが
ふんだんに使われたそう。

これもNZのカウリと一緒。
コアも帆船のマストになる
ほど高級材だったそうです。


コアで作った家具



NZでもあらゆる手段を講じて

切り倒され運び出されたカウリ


まるで木の悲鳴が聞こえて
くるかのような光景



その強さ、美しさ、希少さ
ゆえに繰り返された悲劇
カウリのテーブル

ハワイでも同じことが
起きていたんですね~💦


入る前から感慨と動揺

そしていよいよ中へ


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ハワイ行:カイルアコナ入り

2018年01月17日 | ハワイ:ハワイ島

気がつけば、ハワイ旅行記もこれで20本目


去年の初オーストラリア旅行だった
サンシャインコースト・ブリスベン旅行記が27本だったので、
新記録はまちがいなし


これからワイキキ入りですから、まぁのんびりやりますわ
と言いたいところながら
行ったのが去年4月ですでに9ヵ月遅れ
巻いてかなきゃ~



ギョロ眼に赤フンで1人でぽつねんと立っていた

カメハメハ大王を後に、


最北端コハラから州道270号線、そしてベルトロードの19号線で

ハワイ島の西側の町カイルアコナへ。
国際空港もあり、カメハメハ1世の頃はハワイの首都だったそう。


南下していくに連れ

景色がどんどん変わり


左右ともに開けて



一面、火山岩だらけに



視界が真っ黒(笑)



緑豊かな東側とは違う荒涼とした景色

岩だから木が生えないんでしょうね


町に入るや、すぐ海へ

夕焼けフェチが若干1名いるため駆けつけました


こんな夕焼けウォッチングの特等席発見

しーかーし、この日は雲が厚すぎて見えませんでした


今夜の宿泊はコチラ

というのは冗談で、これは教会(笑)
クック諸島のラロトンガにあったのにそっくりで
元はイギリス国教会だったんじゃないかな
(※今は違っていました)


カイルアコナでもエアビー泊

コロラドからリタイアしてきた(確か)60代ぐらいの夫婦の家
玄関、バス・トイレ、キッチンが独立していてなかなかグッド


夜は繁華街をウロウロしてみたものの



いかにも観光客向けの店ばかりでワイワイガヤガヤ

地元の人が来るような店を好むので


ちょっと外れたタイ料理にしました



全くもって



見てのとおりのものでした



お客がほとんどおらず

観光客向け?地元の人向け?どっちも?
静かに食事ができサービスも良かったです。


帰りにスタバで夜コーヒー

こんなに殺風景なスタバが今まであっただろうか(笑)





一夜明けて




「ハワイの朝はやっぱりアサイだよね~

とか、ヒロでは毎朝スタバだったくせに言ってみる


この掘立小屋な造りがLOVE



柱がそのまま電柱になってるし~(爆)

NZを越えるアバウトぶり。


その2階で

起きて生きろ、と


目の前はこんな景色

昔なら1日まどろんでいてもOKだったのか(笑)


ベーシック・カフェという店でした。

ここは機会があれば再訪しまーす


そしてやっぱりココへ



さーて、カイルアコナ散策開始


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ハワイ行:「農園から食卓へ」メリマンズ

2018年01月16日 | ハワイ:ハワイ島

ラウパホエホエを出て次の町らしい町ホノカア

真っ直ぐ来ればヒロから車で1時間
でもブログでは5本目にしてやっと到着(笑)


ここは交通の要所でもあり、19号線はここから内陸に向かいます。
さらに海岸線を北上する道は州道240号線に。

早くから開けていたのがわかる築90年の大きな木造建築


ヒロ第一銀行の支店だった建物は

今ではレストランに


ハワイ島が最も輝いていた頃では?



バンク・オブ・ハワイの支店は今でも現役

ちゃんとATMがあります。


劇場

大恐慌の頃に完成


日系人の名前を冠した建物もたくさんありました。

ヤマツカ


ハセガワ

サカタ
コタケ
・・・・
・・・・


一番大きな建物

これも築90年


郵便局

ハワイのはどこも古いせいか立派な建物が多いです。


こんなカワイイ本発見

確かに絵になる町


不動産はけっこういいお値段(←ちゃんとチェック笑)

家も敷地も大きいけれど、中古の戸建てが5~6千万円
本土からリタイアしてくる人もいそう。


目の前は真っ青な空と海



ところが、ベルトロードの19号線に沿って山道に入ると

まさかの雨


前のクルマが見えなくなるほどの霧

さっきまでの青空はどこへやら


やってきたのはハワイ島内陸部最大の町ワイメア

ここも交通の要所で北上する250号線、南下する190号線と
直進して島の西側に抜ける19号線に分かれます。


お目当てはココ



古そうな建物が並ぶ一角でクリニックがたくさん入居してます。



でもお目当てはお医者さんではなく(笑)

メリマンズ
地産地消による地元食にこだわる
「農園から食卓へ」コンセプトのパイオニア、ピーター・メリマンの店


かなり繊細な作りのサンドイッチとバーガー



素材の新鮮さは言うまでもなく。

ここはぜひ来てみたかったので目標達成
いつかマウイやカウアイの店にも行ってみたい


ここからはベルトロードを外れて北上し、あの方に会いに



ギョロ眼に赤フンの

カメハメハ大王
ここは大王の故郷カパアウという小さな村


後姿の方が王様風(笑)


 
さぁ、ここからはいよいよ島の西側へ

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ハワイ行:幻のヒロ鉄道

2018年01月15日 | ハワイ:ハワイ島

ヒロから北上する州道19号線のハワイ・ベルトロード



かつての鉄道のルートでもありました。

ハワイ島にはハワイ・コンソリデーテッド鉄道という私鉄があり
サトウキビブームに乗って1899年に創業しました。


前身はヒロ鉄道といい、著名実業家ベンジャミン・ジリンハムが
自身のサトウキビ・プランテーションとヒロ港を結ぶために
ヒロ南部に鉄道を建設したのが始まりでした。


南部路線はサトウキビ需要に支えられて順調に発展したものの、
その転機は1907年に訪れます。


ジリンハムたち実業家は国と州にヒロ港の防波堤建設を陳情し、
その見返りとしてヒロ鉄道はヒロ北部の鉄道建設を命じられます。


このハマクアコーストに沿って北上する北部路線は



3本のトンネル、35本の木造や鉄筋の構脚橋を必要とし
 


建設当時、単位当たりの建設費が世界最高だったとか

ラウパホエホエの先、パアウイロというところまで建設されたよう。


その頃はNZでも盛んに鉄道建設が進んでいたので

建設現場の様子がそっくりで、難工事ぶりがうかがえます。
当時の技術の粋を集めて危険な作業が続いたのでしょう。


ヒロ鉄道は建設費負担に耐え切れず、1914年に経営破たんし、
ハワイ・コンソリデーテッド鉄道として再編されました。


新会社にとっても北部路線は非常にお荷物だったものの
観光鉄道として人気を博し、サトウキビ輸送の需要もあり
第二次世界大戦中は特需もあり、経営は急速に改善しました。


鉄道に平行していたカメハメハ・アベニュー



今も残る古い建物に当時の繁栄がしのばれます。



終戦を迎え、莫大な借金から立ち直った絶好のタイミングに
1946年のエイプリルフールデー津波が島を襲います。
構脚橋が壊滅的被害を受け、鉄道は廃業を余儀なくされます。

(※流されてしまった鉄道橋)


折りしも鉄道輸送が道路輸送に取って代わられる時期でもあり
鉄道跡の一部が今日(こんにち)のハワイ・ベルトロードに
なっていることにも時代の変遷を感じます。

(※鉄道橋が撤去され、ベルトロードに)


鉄道と引き換えに建設された防波堤。

これがなかったらヒロの被害はもっと甚大だったと言われ
防波堤は今でも残り、鉄道は消えました。


あの日、水平線の向こうから津波が来なかったら

ヒロはどうなっていたのか?


1960年の津波の方がもっと大きかったしモータリゼーションの中、

いずれにしてもヒロ鉄道は幻となる運命だったのでしょう。


次回はぜひ、ラウパホエホエ鉄道博物館に行ってみましょう。

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ハワイ行:慟哭のラウパホエホエ岬

2018年01月14日 | ハワイ:ハワイ島

ホノムを出てハワイ・ベルトロードをさらに北上すると




「あれじゃない

海に突き出た地形で、すぐにわかった場所


近くに色褪せた白黒の写真

事情を知る誰もが足を止める場所なのでしょう。


写真に記された赤い番号を目にしただけで

動悸がするようでした。


下りて行くと花で埋め尽くされた記念碑が。



狂おしく咲く鮮やかな南国の花々

おびただしい数の生花


最近亡くなった身近な誰かを悼むようでありながら、

70年以上も前のいにしえの人たちを弔っていることに
強い衝撃を覚えました。


ここはラウパホエホエ岬といい



流れ出た溶岩が固まって海に突き出し岬となり

今では広い公園になっています。


ここにはかつて大きな学校があり



教職員の宿舎もありました。

周囲のプランテーションで働く労働者の子どもたちのために開校し


60年超のその歴史は1946年4月1日に唐突に終わりました。

あの日のエイプリルフールデー津波で学校施設は全壊
生徒と教職員合わせて24名が帰らぬ人となりました。


犠牲者の先生と生徒たち



どちらにもたくさんの日系人がいます。



フローレンス・ナカノ先生

お子さんのステラちゃん(4)とノーマンくん(3ヵ月)と犠牲に。


三方を水に囲まれたような場所

逃げ場はなかったのでしょう。


ハワイ全土で159人、ヒロだけで96人が亡くなったので、
ラウパホエホエの24人の被害がいかに大きかったことか。

ヒロの太平洋津波博物館でも大きく取り上げられていました。


学校は2度と再建されることはありませんでした。

当時の残がいが今でも野ざらしになっています。


今は公園として住民の憩いの場となり

家族連れがバーベキューを楽しんでいました。


海岸で遊ぶ子どもたち。



しかし、長閑な光景と隣り合わせで



岩場には荒波が打ち寄せ



行き場を求めて悶え苦しむように



荒れ狂っていました。



身悶えしながら失われた命を嘆き悲しむように



何者をも寄せ付けない

魂の慟哭のように見えました。


もう2度とこんな悲劇が繰り返されないように

と祈りつつ、次の目的地へ向かいました。


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ハワイ行:人の一生を見る村ホノム

2018年01月13日 | ハワイ:ハワイ島

アカカ滝からベルトロードに戻る途中にあるのが

ホノムという小さな古い村


ここもかつてはサトウキビのプランテーションで栄え、

世界大恐慌で時代が止まってしまった場所のよう。


古さを隠すようにカラフルに塗り分けられた店は

ほとんど閉まっていました。


いつかの段階で前壁だけ追加したらしい張りぼての建物



手入もされないまま年代とともに古びていく建物。



民家



2010年の国勢調査によれば村の人口は500人

過疎化が進んでいるようでアカカ滝を目指す大勢の観光客が
ただただ通り過ぎて行くだけの場所


人種別で最大だったのが30%を占めているアジア人

村の様子からみて多くが日系人と思われます。


ホノム・ホンガンジ(本願寺)



ホノム・オダイシサン(お大師さん)

教会と一緒でさまざまな宗派が信者を集めていたんでしょう。
建物の立派さに当時の権勢がしのばれます。



せっかくだったので歩いてみました。



閉まったままの店も多い中、ニスを塗りたての商店街の外廊下が
かつてふんだんにあったのであろう良質の木材でやたらに美しく、

NZの田舎で今では伐採が禁じられ保護されているカウリを
惜しげもなく使った建物に出会った時のような複雑な想い。
いったい1日に何人がここを歩くのか?


役目を負って表舞台に立ち
役目を終えて舞台裏へ
まるで人の一生を見るような場所

どうか静かで穏やかな余生であるように。


再びベルトロードに戻り、さらに北へ



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ハワイ行:ハワイ・ベルトロードでアカカ滝へ

2018年01月12日 | ハワイ:ハワイ島

ハワイ島のヒロを後にした後は、一路北上



海岸線に沿って島を一周する道はハワイ・ベルトロードと呼ばれ



ヒロから北上するルートは州道19号線。
右手に海、左手にハワイ最高峰マウナケア山(標高4,205メートル)

(※ハワイ火山国立公園より)


こんな小さな太平洋上の島に富士山より高い雪の降る山があり
冬は冠雪で真っ白になり、スキーもできるなんて

ここに世界11ヵ国が計13基の天文台を設置し
巨大な天体望遠鏡で日々宇宙の神秘に挑んでいるとは、
なんとも不思議


一帯はのどかな田園地帯でいかにも肥沃そうな土



タロイモ畑もあります。



NZだったら間違いなく牧場になっているでしょうが

さすがにハワイは暑すぎる


やってきたのはアカカ滝

大自然の中で轟音を響かせる落差135メートルの見事な滝 


滝の素晴らしさもさることながら

もっと感動したのが


このオオプ・アラモオという、成魚で12センチほどのハゼ

オス


メス



このオオプたち、サケのように淡水で生まれ海水で育ち、
半年を過ぎると淡水を溯上して産卵するのです。

その生まれ故郷とは淡水も淡水


このアカカ滝の上

マジか


オオプはハゼなので腹びれが吸盤状になっており、

それで滝の裏の垂直な岩壁を登るそう


滝登りを終えて一人前の成魚になるので
登っているときは海で半年を過ごしただけの未成魚


10センチあるかないかの魚が垂直の135メートルを登る

誰も見たことのない姿とはいえ、壮絶な命を賭けた挑戦
一寸の虫にも五分の魂
10cmのオオプには5cmの魂
たいしたものです


アカカ=オオプ
と私の中でしっかりと刷り込まれました。


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ハワイ行:モンキーポッドの木の下で

2017年12月22日 | ハワイ:ハワイ島

ヒロのダウンタウンから少し離れた場所にある

鳥居


ここはハワイ王朝最後の女王となったリリウオカラニ女王が

寄贈した公園で、その名を冠したリリウオカラニ公園


日系人がヒロの開拓に尽くしたことを記念した

日本庭園風の造りで1917年に完成したそうです。


かと思えばこんな巨大なバニアンツリーもあり

日本と南国がほどほどに共存しています。


この本格的な茶室は

裏千家第15代からの寄贈で


今でも茶会が行われているそう。



塔や



凝った太鼓橋まであり



結婚写真撮影のメッカのよう



アジア系や



ポリネシアン系の人ばかりで



このサイズ感といい



こんな雰囲気といい

NZのアイ(ランダー)ちゃんのノリにそっくり
やっぱりポリネシアンの血は争えない(笑)


近くにはホテルがたくさんあり

次に来るときはこの辺に泊まろう


ホテルの敷地内でも

一大撮影大会(笑)
おめでたいこと、誰もとがめたりしないよう。


橋でつながったココナツ島



地元の子が楽しそうに遊んでいました。



ここからヒロのダウンタウンが一望できました。

何度も何度も津波に襲われながらも立ち直った街
今でも大勢の日系人が暮らす街


そして大勢の日系人が眠る街でもあります。

旅先での墓地には興味がある方ですが、


このアラエ墓地には思わずクルマを停めてしまいました。

こんな風に思うのは自分だけかと思ったら、
トリップアドバイザーでページができていました
スゴい高評価だし


それぐらい目も足も止まるような美しい場所でした。



日本人にはこの日本の墓石と漢字がなんとも胸に詰まされます。



生花でも造花でもたくさんの植物が供えられ

いかに故人がしのばれているかがうかがえます。


プランテーションで働いていたのは日系人だけでないので
いろいろな国の人のお墓もありました。

ローシャだなんてポルトガル人かな


モンキーポッドの木の下で結婚を祝うハワイ生まれもいれば



モンキーポッドの木の下の異国の地で永久の眠りにつく人も。



自分もまた移民の日系一世なのだということを、深く自覚したヒロ。
たくさんのことに感動し、学び、考え、いよいよヒロを後にしました。



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