ニュージーランド移住記録:みたび

移住は帰らなくてもいい終わりのない旅。人生そのものも旅。そして気づき始めたあの世への旅。旅と夢限定ブログ

タスマニア行:青空市場サラマンカマーケット

2024年05月24日 | オーストラリア:タスマニア

2023年3月のタスマニア3日目


ホテルからテクテクと19世紀
を下っていったら、突然21世
紀に出くわしたような光景



オベーションオブザシーズ号
高層ビルが1棟、水上に横た
わっているようなものかと

展望カプセルが稼働中です。


2頭立て馬車で王室関係者の
ように手を振りながら通り過
ぎていくアメリカ人観光客



バスもどんどん乗りつけて、



誰もが吸い込まれるように一
定方向に向かっていきます。



ここはプリンセス埠頭という
場所で、この先のサラマンカ
通りで毎週土曜日に立つ青空
市場はタスマニア観光の目玉



マーケット好きには堪らない

いざ、いざ、いざ


いきなり、気になるお店

薪オーブンで焼いたタスマニ
アホタテ貝だなんて観光客の
ハートをわしづかみしそう。


しかも、子どもたちがせっせ
と働いていていい光景です。

店主の息子さんと同級生かな


私はここに即決でした



夫は本格的ホットドッグに🌭



地元ロースタリーのコーヒー

さすが島。かなりが地産地消
らしくそれがまたイイです


サラマンカ通りに沿っては手
作りグッズを売る店が鈴なり



周囲からは驚くほど米語が聞
こえて来て、クルーズ客が相
当来ていたよう。ハワイでよ
く見るアメリカ人の爆買いを
こんな場所で見かけるとは


コロナはなくならなくても、
コロナ禍が終わったのを実感


フェルトの恐竜がカラフル



個性的なウッドのネクタイ




アフガニスタン料理のボラニ



店内で作っていて美味しそう



ナンに具が入ったようなもの

美味しかった~


控えめでクラシックな看板に
ピンと来て入ってみたのは、



みやげ屋。何ヵ所かのぞきま
したがここは品揃えも価格も
素晴らしく、キーホルダーや
ティータオル(ふきん)を購入



店主一家らしい店員の接客も
ピカ一でまるで高級店並み。
おみやげは今も大事に使って
います。ぜひ再訪したい店


ジンジャーエールの専門店



シルバーのアクセサリーを真
剣に選んでいた男子3人組。



見た目も香りも引き込まれそ
うなラベンダーファームの店



タスマニア産オイスター

小ぶりながら濃厚な味で飛ぶ
ような勢いで売れてました。


感動だったゴミ分別の本気度

国や自治体によって基準がバ
ラバラで地元民でないと判り
にくいのを、実際の容器で示
してくれるのはありがたい🙏


リサイクルするビンと缶以外
はすべてコンポスタブル(堆肥
化できる有機素材製)というの
もスゴい。市場で容器を統一
しているのかもしれません。
やってくれるよタスマニア


古銭を使ったアクセサリー

私の誕生年の1962年もある


キーホルダーは戦前の物から

アイデアと手造り感の勝利


通り沿いの店舗の上は住宅

一等地でかなりが民泊かな?


ココでチョコの大人買い

前日に1枚買っていて気に入
ったので迷わず。リアル店舗
はないそうで買えてラッキー


長居しても見応え、食べ応え
買い応えのある場所で土曜
日のホバートは外せなそう

ぜひ、またいつか


コメント (2)
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タスマニア行:ノースホバートからアーガイル通り

2024年05月23日 | オーストラリア:タスマニア

2023年3月のタスマニア3日目


旅行記18本目にしてやっと3
日目に入りました。再び晴天


ホテル隣のフッティー(オース
トラリアンフットボール)グラ
ンドでは女子チームが練習中



アメフトを防具なしでやるよ
うな超ハードなスポーツ。オ
ーストラリア以外でやってい
る国がないほど危険ですが💦


男もすなるフッティーといふ
ものを、女もしてみむとてす
るなりの国オーストラリア

いいなぁこういうカルチャー


この辺はノースホバートと呼
ばれるエリアで街にも近い庶
民的な住宅街のようでした。



この造りの家は戦前の労働者
の典型的な家。クルマがなか
った頃の家で築100年以上か



NZでも全国の至るところ特
に土地と利便性が貴重だった
都市部でよく見かける古民家

(※ウェリントン)


南島のプチフランス、アカロ
の民泊(以前は住宅でした)



オークランドの民家

ここは売家の時に中も拝見
(※この話はコチラでも)


車庫スペースがないので横か
ら見るとこんな感じなのも、



他の場所とそっくりか

(※ウェリントン)


こんな造りもNZにあるある



デッキの装飾がオーストラリ
ア的。19世紀後半からの流行

NZには定着しませんでした。


こんな感じもオーストラリア
っぽいなぁと思います。港町
は港湾労働者が多かったので
こういう古い造りの家が多い

パースでも見ました。


古民家を改装すれば高級住宅



170年前の建物がいまだ現役

レンガ造りのなせる業なのか


至る所にタスマニアデビル

アーガイル模様なのは道の名
前がアーガイル通りだから。


動物愛護団体のチャリティー
ショップ?閉まっていて残念



これも19世紀の建物でしょう

アイスクリーム工場でした。


これは目を引く建物。アール
デコ風ながらカクカクの屋根
がベルギー風?手前が店で奥
が住宅か宿舎だったのかな

見ているだけでも楽しい


「海の子」という名のバー。
港湾労働者が集まりそうな店

みんなでガン飲み🍺🍺🍺


タスマニア大学の建物にはラ
イオンとタスマニアデビル。

1890年開校。NZ最初の大学
オタゴ大学が1869年開校で
オーストラリアと肩を並べて
いたほんの短い古えの時代。


王立ホバート病院



大学や病院など公共の建物が
急に増えてきて街の中心部に



目に前に海が見えて来て、と
思ったらこれはダーウェント
川。島中央部のセントクレア
湖を水源とする全長190kmの
大河。ホバートは河口近くに
建設された州都で港も内湾に



川とはいえ相当の水深がある
のでしょう。ロイヤルカリビ
アンのオベーションオブザシ
ーズ号が停泊していて驚き

収容人数4,000人超のド迫力


「コロナ禍は終わった」を実感


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タスマニア行:無事出所

2024年05月22日 | オーストラリア:タスマニア

2023年3月のタスマニア2日目
世界遺産ポートアーサー史跡


重苦しい気持ちで隔離刑務所
から出て来ると、美しい庭園



カラスがたくさんいたのは



洋ナシがたわわだからのよう



大ご馳走が安全に食べ放題



ここはガバメントファーム(公
営農場)と呼ばれる場所です。



今は芝地や庭園になっていま
すが、かつては菜園や牧場が
広がる中に建物が点在してい
る一大農場だったそうです。



刑務所設立当初の1830年代か
らジャガイモとキャベツの生
産が始まりましたが、肉類は
輸入の塩漬けに頼っていまし
た。1850年代に農場が完成し
酪農や養豚が開始しました。



かつての教会



隣にはさらに大きな教会跡



大きな教会は1938年の絵にも



ひと際手入れの行き届いた庭
園はオリジナルガーデンと呼
ばれるかつての公園で、1846
年にイギリスから持ち込んだ
外来種を中心にできた庭園。



入植者の女性や子どもが散策
したり、当時の流行だった園
芸活動の場でもあったそう。



1870年頃。奥はガバメントコ
テージ。手前は今も残る噴水

閉館の時間が迫り庭園散策は
残念ながら別の機会にでも。


石とレンガを組み合わせた壮
麗な大所帯の刑務所は1870年
でさえ「タスマニアで最も立
派な建物」と称されました。



過酷な史実を乗り越えて、今
は歴史の生き証人としてただ
静かにたたずんでいるばかり



入って来た受付のある本館に
向かったところ、すでに閉ま
っており、外に出られない💦


脱出不能の刑務所から本当に
出られなくなった観光客2人



駐車場の右へ左へとあちこち
回って「塀を乗り越える?」
とまで思いましたが、なんと
か職員の通用門らしきものを
見つけて無事脱走しました

ここから入ったのですが(笑)



ホバートへ帰る途中で夕食に

バリラベイ・オイスターズ


蠣の養殖場に併設されたレス
トラン。3月はまだ時期尚早
かもしれないと思いながら、



まずは無事出所に乾杯🥂



料理はシーフードプラッター



てっぺんはモートンベイバグ
和名はウチワエビモドキとか

本当にクイーンズランド州の
モートンベイからのものかも


オイスターは小ぶりながら1
ダースありホタテはカレー味



サラダもあって食べ応え満点



無事ホバートに帰り着き、長
かった2日目無事終了です


2日目の話だけで13本。執筆
期間は中断を含めて3ヵ月💦
内容は1年3ヵ月前の話で超マ
イペース旅行記が続きます


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タスマニア行:沈黙の隔離刑務所

2024年05月21日 | オーストラリア:タスマニア

2023年3月のタスマニア2日目
世界遺産ポートアーサー史跡


アサイラムの後は、とうとう
最後の主要な建物、セパレー
トプリズンこと隔離刑務所へ



建物の前に立つや、牢獄のイ
メージそのままの人を寄せ付
けない不気味さとほぼ窓のな
い造りに胸騒ぎを覚えるほど

「ここは監獄」と感じました。


囚人同士で語らえ、中庭でな
ら喫煙もできた4階建て刑務
所が開放的にさえ思えるほど
閉鎖された、重苦しい建物。



入口には「静粛に」の警告

この建物の中では囚人は言葉
を発することを禁じられ、看
守も手話を使っていたそう。


黙って参観することで往時の
静寂とその中で感じられる気
配を追体験しようという趣旨


目出し帽に囚人番号だけの完
全に個を抹消された異様な姿

囚人たちがここに送り込まれ
ることをなにより恐れたのが
入館前より察せられました。


中に入るとそこはまさに監獄

看守が座っていた椅子と、ず
らりと続く穴蔵のような独房


ここは懲罰房と呼ばれる最も
厳しい居房だったそうです。



反対側はかろうじて陽が入り
ますが各房は窓がないのかも



1号室

のぞき穴と食事を差し入れる
小さな扉。牢獄そのもので、


無言の扉が続いていました。



外から窓が見えた場所は教会



出入口を見張るのぞき穴



隔離刑務所の建設は1848年に
始まり、建設は鞭打ちなど体
罰から隔離や沈黙で支配する
心理的懲罰へ舵を切った象徴
となりました。一方で1,100
人に膨れ上がった囚人の多様
性に対応するため、福利厚生
の拡充
も始まった時期で、飴
と鞭が併用されていたよう。


ここを訪れた多くが足を止め
たであろう、こんな場所に似
つかわしくないおもちゃの絵



9歳のジェームスは1843年の
ロンドンで、大人にそそのか
されて玩具を3回盗んだ罪で
7年の流刑を言い渡されポー
トアーサーに送られました。


「ブツがよければ2、3ペンス
もらえた」そうで、そうでな
ければタダ働きだったのか。


ジェームスはここの独房にも
いたことがあり、刑を終えた
後どんな人生を歩んだことか


ポートアーサーだけでなく、
オーストラリアの流刑施設に
は多くの子どもも送られまし
た。その多くはジェームスの
ような窃盗の罪で、お腹を空
かせてパンやお菓子を盗んだ
り、スリをしたりといったも
のが多かったそう。しかし、
当時のイギリスは重犯には非
常に厳しく、年端も行かない
子が送り込まれてきました。


1830年代まで続いたとされ
るイギリスの産業革命で、貧
しく苦しい農村の生活から逃
れようと職を求めて人々が都
会に殺到し、ロンドンを始め
多くの場所でスラム街ができ
ました。極度の貧困から大人
も子どもも犯罪に手を染め、
社会問題になっていました。


流刑植民地制度は、若い犯罪
者を大量に送り込むことで植
民地建設とスラム街解体の両
方を狙っていたとされます。


重苦しい気持ちで外に出ると
庭園が広がっていました。



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タスマニア行:アサイラム

2024年05月19日 | オーストラリア:タスマニア

2023年3月のタスマニア2日目
世界遺産ポートアーサー史跡


広く、たくさんの施設があり
流刑施設の中でも貴重な場所


病院を出て緩やかな丘をさら
に下っていくと、敷地の外れ
の目立たない場所に意外なほ
ど大きな建物がありました。



これはかつての地方自治体役
場で1895年の森林火災の後
に建て替えられたものです。


当初の建物は1868年に完成し
た「精神病院」でした。他の
建物と比べても立派で、当局
の力の入れようが判ります。



収容されていたのは刑務所や
他の流刑施設から送られて来
た人々で、当時は患者ではな
く「狂人」と呼ばれました。


立派な専門病棟の開設は、静
かで快適で清潔な環境の中、
優しい治療や軽い運動を通じ
て治療を進めるという当時の
新しい治療法の一環でした。


1876年には100人の収容が可
能だったにもかかわらず、入
所者は18人でうち17人は傷病
兵でした。精神疾患の患者は
1人だけだったということか?


1874年に施設を訪れた作家が
危険なためグルグル巻きにさ
れた半裸の患者を目撃してい
ます。ピーター・ムーニーと
いう男性は独房の中を確認し
ようと、看守がドアののぞき
穴からのぞくと、指を出して
目を繰り抜こうとする、とし
て恐れられていたそうです。


理想と現実。新しい治療法と
古い対応が、医療関係者とは
限らない軍人の看守によって
同時進行していたようです。


建物は1889年に政府が役場と
して地方自治体に移管しまし
たが6年後に森林火災で焼失


再建された現在の塔の時計は
刑務所の建物にあったものを
移し替えたものだそう。今も
正確に時を刻んでいました。



ポートアーサーの広大な敷地
にはあちこちに標識があり、
それを見つつ散策していまし
たが、アサイラム(asylum)と
いう表示が気になりました。



現在の英語でこの単語を見聞
するのは、まず「亡命」のこ
とでしょう。ほとんどが政治
亡命で、難民の収容施設もア
サイラムです。刑罰として送
り込まれる囚人と自由を求め
てやってくる難民は真反対の
立場。中国語訳でも「保護施
設」という曖昧なものです。


建物の前に立ち、解説を読ん
で初めて、アサイラムがもう
1つ意味する「精神病院」、
患者を「狂人」と呼んでいた
感覚からすれば「狂人病棟」
だったことに気づきました。


流刑者が受刑者ではなく「囚
人」だったのと同じ感覚か。


アサイラムカフェ

遅い時間で閉まっていました。


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タスマニア行:流刑地の病院

2024年05月18日 | オーストラリア:タスマニア

2023年3月のタスマニア2日目


高台のスミス・オブライエン
・コテージ
から降りて来ると
右に損傷の激しい大きな建物



ここも鉄のフレームで支え倒
壊を回避し保存しています。

世界遺産ですから管理や補修
は最善を尽くしているはず。


レンガの建物がここまで傷ん
でいるのは森林火災のせい。



プリズンドクター(矯正医官)
だったDr.ブロウネルの診療室

1830年代前半に木造の診療
所ができ開業していました。


ブロウネルは常駐医として2
度ポートアーサーに勤務し、
1840年に再赴任したときは
子ども9人の11人家族でした
が、15ヵ月間駐在したそう。


ポートアーサーと周辺の流刑
施設の囚人だけで約2,000人


さらに管理する軍人たちとそ
の家族をたった1人で診るの
ですから大変な激務でした。


1842年には年間延べ13,000
人を診療し、本格的医療施設
の拡充は待ったなしでした。


1842年に待望の病院が完成

堂々たる砂岩のファサードで
左右の切妻のウイングの上に
は石工の囚人が彫ったヒポク
ラテスと聖ルカ(聖路加病院の
路加)という医療の聖人たち
(※写真は1877年の払下げ後、
森林火災前の1880~90年代)


フレームで支えていたのはこ
の建物でしたが、外からは見
えないようになっています。



内部は6病棟からなり、売店
や食堂も完備していたそう。


当時の健康上の問題はビタミ
ンC不足からくる敗血病、労
働中のケガ、胸の病でした。


囚人は炭鉱や伐採業務にも就
き、ほとんどが危険な仕事で
結核は命取りだった頃です。


治療以外の医療従事者の任務
は囚人全員の毎週の健康状態
の確認、鞭打ちの立ち合い等


周辺の民間人の医療にも対応
していましたが、ほとんどが
往診だったそう。さすがに刑
務所には来られなかったか


払下げ後教会の寄宿舎となり
ましたが、1895年の森林火災
で半焼、保険で再建したもの
の1897年の火災で再び焼け、
現在の姿を留めるばかりに。



スミス・オブライエン・コテ
ージと右の病院、左の刑務所



4階建ての製粉所兼穀物倉庫
の完成が1845年。刑務所へ
の改築工事
の完成が1857年
なので、病院はそれよりも遥
かに早く完成していました。

(※写真は1870年代の刑務所)


1833年に流刑施設となったポ
ートアーサーは1840年代には
受刑者数が1,100人にのぼり
画一的で厳格な軍隊式管理か
ら、福利厚生の拡充へと十年
足らずで軌道修正していかざ
るを得なくなっていました。


必要に迫られたものとはいえ
柔軟で現実的な対応が、大英
帝国の流刑植民地政策を支え
ていたのではないでしょうか


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タスマニア行:最も著名な流刑囚

2024年05月17日 | オーストラリア:タスマニア

2023年3月のタスマニア2日目


世界遺産ポートアーサー史跡
の小高い丘の外れに、ぽつん
と立つ黄色の瀟洒なコテージ

スミス・オブライエン・コテージ


収容されていたのはウィリア
ム・スミス・オブライエン。
(1803-1864)



立派な肖像画が残っているこ
とからも一般庶民ではないこ
とが察せられます。イギリス
の国会議員にしてアイルラン
ドの自治を訴える青年アイル
ランド運動の指導者でした。


アイルランドは1800年にイギ
リスに併合されたものの、庶
民の生活は苦しく、運動は併
合の撤廃を求めていました。


おりしもアイルランドは1845
~51年まで続いた、英語で単
に大飢饉(Great Famine)と
呼ばれる歴史的なじゃがいも
飢饉に見舞われていました。


じゃがいもの疫病のため主食
が深刻な凶作となり、食糧不
足によりアイルランド人の死
者が100万~150万人に上っ
たと推定される歴史的大惨事


にもかかわらず、併合により
アイルランドは食料輸出を迫
られ自治権奪回を求める声が
急速に高まっていきました。


スミス・オブライエンは1848
年にアイルランド各地で農民
蜂起を先導するものの失敗に
帰し、死刑判決を受けます。

(※死刑判決後に護送されるス
ミス・オブライエン。ウィキ
ペディア
より。この物々しさ
に事の重大さがうかがえます)


その後、恩赦を求める署名が
8万筆に達し、当時ヴァンデ
ィーメンズランドと呼ばれた
タスマニアへの流刑に減刑さ
れました。1850年8月ポート
アーサーに「入獄」し最も著
名な「囚人」になりました。


しかし、その年の11月に、ス
ミス・オブライエンは仮出獄
許可への条件を受け入れ、5
年間タスマニアに滞在した後
イギリスに入国しないという
条件の下ベルギーに転居し、
1856年には特赦により帰国を
果たしました。帰国後は政治
活動にはかかわらず1864年に
訪問先のウェールズで病死。


スミス・オブライエンは複合
姓で、オブライエンはSirの称
号や城を持っていたアイルラ
ンドの有力貴族だった父方の
姓で、イギリスっぽいスミス
姓は母の旧姓。母の遺産とし
て広大な土地を相続したとき
に、両親の姓をつなげてダブ
ルネームになったそうです。


代々国会議員を務めるような
有力者の家に生まれながら、
農民のために立ち上がったも
のの夢は潰えて、流刑の地に


「明るくて風通しが良く、高
台にあって健康的だ」と本人
が評した自身の名を冠した古
のコテージ。住人がいなくな
った後は執務室や軍の病院に
なり、1877年に刑務所が閉鎖
されて払い下げられました。


第2次大戦後は政府が買い上
げて1970年までユースホステ
ルになっていたそうで84年よ
り原状復帰が図られました。


陽当たりのよい丘の上にぽつ
んと佇む姿がなんとも印象的

ポートアーサーは当時の社会
を反映していた場所だったの
だと改めて感じる逸話です。


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タスマニア行:分速6kmの通信手段

2024年05月16日 | オーストラリア:タスマニア

2ヵ月も放置してしまいまし
たが、シレっと再開します。


この間もご訪問下さった方々
にお詫び申し上げます。この
ブログではなぜかよくある中
断で深い理由はありません。


あえて言えば、今年3月の2回
目のタスマニア旅行の前にこ
の初回を書き終えたかったの
ですが、てんで間に合わない
うちに力尽きとっくに行っ
て帰って来てしまいました。


またまた周回遅れに突入中💦



=============


2023年3月のタスマニア2日目


世界遺産ポートアーサー史跡
はとにかく広い。100エーカ
ー以上あり東京ドームの9倍

と書いておきながら私は東京
ドームを知らないのですが


高台にあるこれは

手旗信号器
これは後世のレプリカです。


ブース司令官は着任した1833
年に最初の手旗信号器を設置

人が旗を持って信号を送る代
わりに信号機を使うことで、
複雑で多様な内容をいち早く
遠くまで送ることができる装
置。手動の電報のようなもの


ブースは機密コードを含め、
3,000種の信号を編み出し、
3年後には数か所の信号機を
経て15分でホバートと通信
ができるようになったそう。



ここからホバートまでは90km
19世紀の分速6kmの通信手段

海軍での経験があったとはい
え司令官は多芸多才でないと
務まらなかったのでしょう。


建物と比べても相当の大きさ

次の信号機から可視できなけ
ればならなかったのですから


それまでは密使が馬を走らせ
ては急を告げていたのか


囚人の脱走や物資不足はもち
ろん、刑務所での騒乱の際に
は一刻も早く応援を要請する
必要があり通信手段は命綱。



下には長い階段があります。
(※1851年の絵)

脱出不能の陸の孤島は、管理
する側にとっても危険で孤立
の地であったのが判ります。


なおも行くと丘の上に黄色い
コテージ。いくら中世的と揶
されるほど装飾的な建物が
あるとはいえ、ここは広大な
刑務所の敷地内。目を引いた
瀟洒で陽当たりの良い建物。



上級将校の宿舎かと思ったら
超例外的な囚人施設でした。

スミス・オブライエン・コテージ


収容されていたのはウィリア
ム・スミス・オブライエン。
(1803-1864)

(※写真はウィキペディアより)


彼はポートアーサーで最も著名
な「囚人」で、コテージは敬意
を表し彼の名を冠しています。


長くなりそうなのでまた改めて
中断しないようにしましょう


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タスマニア行:囚人がいれば看守もいる

2024年03月15日 | オーストラリア:タスマニア

2023年3月のタスマニア2日目


世界遺産ポートアーサー史跡
でのハーバークルーズを終え



再び史跡内の散策を再開。な
にせ広い場所なので歩け歩け



海から広々とした高台に続く
刑務所の左側にあたる場所は



かつては今や想像もつかない
ほど、建物が密集していまし
た。その規模はどんなに丁寧
な解説や逞しい想像力をもっ
てしても追いつかないほど。

(※写真は1860年頃)


それらは刑務所を管理する司
令官を頂点とした軍人たちの
執務室や宿泊棟でした。囚人
が増えるにつけ、こうした施
設も増え続けていきました。


立派な石造りの司令部の入口



石とレンガの司令官執務室

大きな窓から刑務所が見え


出入港する船、続々とやって
来る囚人、兵站所に荷揚げさ
れる物資が良く見えたはず。



流刑地ポートアーサーの礎を
築いたチャールズ・オハラ・
ブース司令官。在任は1833~
44年の11年間に渡りました。



ブースは厳格さと公平さで知
られ、すべての囚人を罪状に
かかわらず平等に扱い、制度
に一定の透明性を導入したこ
とは、当時としては画期的で
した。同時に例外を認めない
硬直した管理体制でもあり、
良くも悪くも軍隊的でした。


ブースが建設を急いだ監視塔

19世紀にあっても「中世的」
と揶揄された装飾的な外観


1年間かけて1836年に完成

司令部や兵舎の警備が目的


監視塔の後ろ高台にして最後
部に兵舎3棟がありました。



当初は軍曹1名、兵士15名用
の木造1棟でしたが、1844年
には将校3名、兵士249名に
なり、48年には3棟目が完成

塔から続く階段の先が兵舎跡


この2軒からなるコテージは

タワーコテージと名付けられ
(※監視塔の右後ろにあった)


1854年に完成した現存の営舎

妻帯者の将校向けでした。


模型でもちゃんと黄色い建物

(※左側)


増築を繰り返したのが見て取
れる小さな建物群は司令官の
使用人部屋、洗濯部屋、厩等



1877年に刑務所が閉鎖され、
民間に払い下げられると、建
物の大半は取り壊されたり森
林火災で焼失したりし、レン
ガが持ち出され荒廃した姿に

元はどれだけの量があったか


レンガは官民の建物に再利用
され、今もホバートのどこか
に残っていることでしょう。



多くは建物の擁壁を残すのみ



監視塔は払い下げ後は博物館
になり森林火災も免れたもの
の、タワーコテージは1897
年の火災で半焼。再建後は養
鶏場として利用されたそう。


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タスマニア行:流刑囚の見た景色

2024年03月01日 | オーストラリア:タスマニア

2023年3月のタスマニア2日目


世界遺産ポートアーサー史跡

刑務所の外には警備室。目的
を知らなければ穏やかな印象
さえ受ける青い屋根に六角形
の見晴らしが良さそうな窓。
しかし、大きな嵌め殺し窓が
無言で目的を告げています。


警備室の前はかつての港で流
刑者だけでなく出入港する船
や物資も監視していました。

今や空き地になった左手には


兵站所がありました。

(※写真は1860年頃)


史跡内には30棟以上の歴史的
建造物やその跡が残されてい
ますが、兵站所の完成は1833
年で真っ先に造られた建物の
1つ。その重要性が判ります。

今は跡地のみ残され芝の更地


兵站所は食料と衣料を備蓄し
ていましたが、最大備蓄量は
3ヵ月分のみ。目の前は埠頭
で物資を運んで来る船の出入
港管理も重要な任務でした。


受刑者にとって兵站所は宝の
山。警備を厳重にしても何度
も強盗に入られたそうです💦

目の前に警備室があるのに


荷揚げのために小さなクレー
ン👇も設置されていました。



1877年に刑務所が閉鎖になる
や建物は荒廃し、1880年の暴
風雨で床が剥がれ、埠頭も流
されて、1884年には廃墟に。


今も海中に残るクレーンの基石



ここからはハーバークルーズ

入場料に含まれていました。


史跡全体が見渡せて、思った
以上に広いことが判ります。



史跡はタスマン半島の縦に割
れた左側に位置し、周囲の岸
が良く見えますがここは海



天気もよく絵のように美しい
風景が広がりますが、ここか
ら南極大陸まで2,600kmほど



冬の寒さや暴風雨には流刑囚
も看守もその家族も苦しんだ
ことでしょう。外の世界から
海と山で隔絶された陸の孤島



島流しのイメージそのもの。

流刑囚たちは周囲の森林
伐採にも駆り出されました。


ここから先は外洋。悪天候な
らその荒れ方はいかばかりか



いくら想像力を逞しくしても
この美しさ。流刑囚の恐れや
苦しみは想像の彼方でした。



しかし、船が折り返し刑務所
が見えて来たときに、突然、



当時と同じ景色を見ている

と思うと鳥肌が立ちました。


流刑先がイギリスから目と鼻
の先のアメリカから、遠路は
るばるオーストラリアに変わ
り、ささいな罪で子どもまで
送り込まれた流刑植民地制度


あのどこかで寝泊まりし、



あの塔から監視されるのか

誰もが食い入るように見つめ
た景色を私も見ていました。


20分ほどのクルーズですが、
深い印象を残す体験でした。



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タスマニア行:世界遺産ポートアーサー史跡

2024年02月29日 | オーストラリア:タスマニア

2023年3月のタスマニア2日目


世界遺産ポートアーサー史跡



この地の流刑植民史は1830年
に質素な木造の建物として始
まり、1833年に流刑施設とな
るやその重要性が急激に増し


1845年には流刑囚が4階建て
の製粉所兼穀物倉庫を建設。

(※写真は1870年代)


1840年代の受刑者数は1,100
人にのぼり、1854年には製粉
所兼穀物倉庫の刑務所への改
築工事が始まり1857年完成。



格子窓に刑務所を感じます。



同年に2階建ての台所や洗濯
場も増築され、時計台も設置

その後も増改築が続きます。


建物は自由に参観できます。



改築により、1、2階には各
136室の独房が設けられ、重
刑の素行の悪い囚人を収容。



人1人が横になるのが精一杯
な大きさだったようです。



3階は食堂、図書館、教会で
夜間は学校に。4階は素行良
好な囚人348人の寮でした。



当初7年間1862年頃まで、こ
こはトイレのある休憩場兼運
動場で、囚人たちが仕事後の
時間や週末を過ごしました。



1862年以降、施設が閉まるま
での15年間はトイレを撤去し
てレクリエーションルームに


素行良好な囚人は喫煙もでき
1815年のワーテルローの戦い
戦勝記念パイプも発掘され当
時の暮らしぶりを知ることに



1870年の報告では、11ヵ所
の風呂にはタオル、石けん、
櫛も用意されお湯も出たそう


しかし、ここが刑務所である
ことには変わりなく、夏場は
4時45分、冬場は6時15分起
床で1日重労働に駆り出され



看守への不服従や粗暴な言葉
使いでも処罰がありました。



ここを出て自由になるには長
く厳しい道のりがあり、その
期間と労力こそが、植民地建
設を推し進めるカギでした。

(※流刑囚が焼いたレンガ)


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タスマニア行:世界遺産囚人遺跡群の半分がある島

2024年02月28日 | オーストラリア:タスマニア

2023年3月のタスマニア2日目


ハート型のタスマニア島の南
東に位置する、ひと際入り組
んだ地形の奥に州都ホバート


そこから東にぐるりと回り込
むカニの爪のようなエリアが
タスマン半島

(※出所:ウィキペディア)


ホバートから90kmでも、非動
物園アンズー
から目と鼻の先の



世界遺産ポートアーサー史跡



なんとも壮麗で、まるで城跡



でもここはかつて、流刑囚た
ちに最も恐れられた流刑地。



おとぎ話のような外観とは似
ても似つかぬ過酷な史実の場



18世紀の大英帝国はアメリカ
での独立の機運の高まりを受
け、キャプテン・クックを密
使に「アメリカに代わる植民
地の発見」という賭けに出ま
す。クックは東回りでオース
トラリアに到達し、1770年
に東岸をニューサウスウェー
ルズと称して領土化を宣言。


その前にNZも「発見」したの
にご不要だったようで植民
地宣言はされませんでした。


1776年、アメリカ独立宣言。
独立戦争は1783年まで続き、
最終的にイギリスはアメリカ
を失います。5年後の1788年
にオーストラリアへ初代総督
アーサー・フィリップを送り
込み新たな植民地建設に着手


建設の担い手となったのは流
刑囚たち。殺人や強盗はもと
より、パンや家畜を盗むとい
った軽犯罪でも、島流しとし
てアメリカに代わり遠いオー
ストラリアへ送られました。


1788~1868年までの間に、
実に16万5千人の流刑囚が送
り込まれ、オーストラリアの
植民地建設は流刑囚なくし
ては、あり得ませんでした。

(※流刑囚のための足かせ)


オーストラリアの世界遺産20
ヵ所のうちのひとつは、かつ
ての囚人遺跡群で(2010年に
文化遺産に登録)、それらは
11ヵ所で構成されています。

(※フリーマントル刑務所も)


そのうち約半数の5ヵ所がタ
スマニア
にあるという数字か
らしても、この地がイギリス
の流刑植民地政策上いかに重
要だったかがうかがえます。


5ヵ所のうち最大にしてタス
マニアの流刑政策を雄弁に物
語るのがここポートアーサー

壮麗さには訳がありました。


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タスマニア行:非動物園の生き物たち

2024年02月27日 | オーストラリア:タスマニア

2023年3月のタスマニア2日目


UnZooという名の非動物園は
檻がないどころか、敷地の境
界の柵も取り払っているので
保護しているタスマニアデビ
以外は出入り自由。確かこ
のコ👇は自らやって来たと言
っていたので、入るのは自由



カンガルー🦘も多数います。



適度に身を隠せる藪もあり、


走り回れる開けた場所もあり



ヒトはごはんをくれて写真を
撮っているだけなので安全

ゆっくり近づけば逃げないし


すぐそばまで来たりします。



ちょっと立ち話という感じ



コミュニティーができている
よう。もめ事があれば出てい
くこともできて、自由です。



この鮮やかな鳥は、



サンショクヒタキ

オーストラリア固有種


「キミはどこかで会ったね?」

顔が蛍光色の大きなガチョウ


このブログをググってみたら

カンガルー島で会ってました。


ロウバシガンという名前で、
世界で最も希少なガチョウの
1種。塩水でも生きられるそ
うです。ゆえに天敵のいない
小島でも暮らせるのだとか。

体重4kgの大きな鳥で多くの
肉食動物には歩くご馳走か


一時は絶滅の危機に瀕し種の
保存のためにNZにも移入され
ましたが、タスマニアでは個
体数が十分戻っているそう。



アンズーの個体は自由に外に
出られるものの、ここに留ま
り、水鳥全般がそうなように
同じ番と生涯ともにいるとか

安全でごはんもあってイイね
(※農家にすれば害鳥だし💦)


このコは多分初めてでは

タスマニアヤブワラビー
和名はアカハラヤブワラビー


タスマニアのヤブワラビーは
左のアカクビヤブワラビーと
右のタスマニアヤブワラビー



タスマニアヤブワラビーは体
重5~6kgほどで、ずんぐりし
ていて耳の短いウサギのよう



なんとも穏やかな小さい動物



人慣れしていて近くで見られ
るのは自然界と違うところ。



また会おうね



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タスマニア行:デビルに恋して

2024年02月24日 | オーストラリア:タスマニア

2023年3月のタスマニア2日目


クルマで向かったアンズー

UnZooなので非動物園とでも


檻がないどころか、敷地の境
界の柵も取っ払ってしまい、
野生動物が敷地内を自由に出
入りできるというコンセプト



どんな動物や鳥に会えるかは
その日次第という場所です。

カンガルーは必ず会えます。


なんと言ってもここの目玉は
タスマニアデビル



その名前のとおり、今やタス
マニアにしか生息しない有袋
類最大の肉食動物。顔は熊の
ようで大きさは小型犬ほど。


アンズーでは必ず会えるとい
うので期待していましたが、

お留守💦


ここもお留守か見えないか

夜行性で会うのは難しいのか


園内はよく整備されていて、



『ヒト』だけが檻に入っていて

自分から都会という檻に入り
自然との接触を失っていると
いう、皮肉たっぷりの解説




薄っすらとピンクのものが


やっぱり

デビルの耳でした
フカフカの草の上で寝てる。


なおも行くとデビルの墓地が

ここで亡くなったデビルたち
が手厚く葬られていました。


ここは1日数回デビルショー
があるそうで、どこにいる



待っているうちに参観者同士
で「あれじゃないか」と発見



仰向けになって完全無防備で

寝てる


なんとも人間くさい足と手(笑)



飼育員が登場してご機嫌伺い



か、可愛い



ぐっすり寝ていたところを起
こされお冠夜行性ですから

八重歯も可愛いデビルの歯
は生涯伸び続けるそうです。


ごはんの生肉をもらい巣穴へ



肉食なので食事は新鮮な肉



タスマニアデビルの寿命はた
った5年で、平均で4年とか。
大人になるまで2年なので、

ヒトの10年はデビルの1年
哀しいほど短命な動物です。


かつてはオーストラリア中に
生息し、死んだ動物を餌にす
る森の掃除屋でしたが、野犬
を祖先に持つディンゴがアジ
アから導入されたことで、餌
にしていた小動物がディンゴ
の餌食になり、3500年前に
大陸からは姿を消したそう。

(※ディンゴ)


しかし、ディンゴがタスマニ
アにまで来なかったため、島
のデビルは生き残ったそう。

よかった


デビルの餌の50%は小型カン
ガルーのワラビー、40%はポ
ッサムだそうで、鋭い嗅覚で
死んだ動物を探し出すそう。


デビルは雄たけびの強烈さか
ら命名された名前ですが、ハ
ンターではなく闘う術もない
ため死んだ動物を食べるとか



死んだウシでもウマでも何日
もかけて骨まで食い尽くしま
すが、一番の逸話は、打ち上
げられて死んだクジラが悪臭
を放つ中、数十匹のデビルが
その中に棲みついて、食べ続
けているのが目撃されたこと



私はナゼかデビルにぞっこん




夫も相当気に入ってしまい



アンズーでぬいぐるみを買い



旅行に行くときはいつも一緒

@タイ、チェンマイ


デビルの話になるとキリがな
いのでまた改めて続けます。


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タスマニア行:充実のカフェカルチャー

2024年02月21日 | オーストラリア:タスマニア

2023年3月のタスマニア初日


予約していなかった夕食は行
き当たりばったりのマレーシ
ア料理。オフィス街にあった
ので空いているかと思ったら
大盛況(笑)

(※マレー凧のインテリア)


ちょっと待って席を作っても
らえたのはラッキーでした。

@サワックカフェ


タスマニアといえども侮れな
いオーストラリアの外食事情



シラチャ―がある

この時点でメキシコでのハラ
ペーニョの凶作で、シラチャ
―はスーパーの棚から消えて
いました(ハワイやオースト
ラリアのスーパーでも探して
いた私)。類似品を置くか、シ
ラチャ―のボトルに類似品を
詰め替える店が続出していま
した。みんな苦労していた頃


夫はラクサ



私も麺で



さらに焼き餃子



この店でオークランドからホ
バートまで同じ飛行機だった
カップルとばったり再会。声
をかけたら、なんとアメリカ
からの旅行客あの後シドニ
ーに行くと言っていました。


コロナ禍が去り、大旅行時代
が戻って来たのを実感するよ
うな経験でしたが、この後、
それどころではない体験も


ホバート2日目も快晴。ホテ
ルからクナニ山がよく見え、
ロケットのようなNTA塔も



ブランチに選んだカフェ

ボーン・イン・ブランズウィック


ホバートの食材とメルボルン
の洗練をタスマニア生まれの
オーナー2人が追求したとか



この1皿に興味を持ちココへ



タスマニア産タコのスクラン
ブルエッグ+ペースト状サラ
ミのンドゥイヤの組み合わせ

地元産タコ🐙がありました。


バーガーがビーフではなくチ
キンだったので、夫はコーン
とズッキーニのフリッターに



凝った料理ばかりだったのは
オーナーの1人がアマチュア
料理人の登竜門であるTV番組
マスターシェフ・オーストラ
リアの出場者だったからか


イマドキのオーストラリアっ
ぽさが、タスマニアでは新鮮



ピジョンホールといい、ココ
といい充実のカフェでした。


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