ニュージーランド移住記録:みたび

移住は帰らなくてもいい終わりのない旅。人生そのものも旅。そして気づき始めたあの世への旅。旅と夢限定ブログ

アデレード行:移住博物館の特別展

2020年04月19日 | オーストラリア:アデレード

急に投資家モードとなって
闇雲に周辺散策はしても
不動産屋には駆け込まず
何度目かのノーステラス


南オーストラリア大学



アデレード大学



古い建物を見て歩くだけでも

観光客には新鮮です。ここは


医者が入居していました。

見るからに高そ~(笑)


オーストラリアらしい黄色



やってきたのは移住博物館

この時に続いての再訪です。


気になっていた赤いランタン
のある中華系移民の特別展

前回は時間がなかったので
5日目に舞い戻りました。


白豪主義で最も標的になった
中華系でありながら20世紀の
アデレードでセレブの地位に
昇りつめたシムチョン家



厳しい白豪主義と豪奢な展示

この落差こそが興味深い


「しかし、なんでシムチョン?」

中国人の姓ならまず1文字
欧陽菲菲の欧陽のように
2文字の姓は非常~に稀。


シムチョンは北京語ではなく
どこかの方言の当て字ながら
多分、姓シム、名チョンが
ひとつになったもののよう。


シンガポールやマレーシア
にはシム(Sim、沈)姓の人が
少なくなく(友人にもいます)
これは福建語や潮州語読み
なんだとか。これらの地域は
広東省や海南省などとともに
19世紀に多数の海外移民を
輩出して華僑ネットワークを
形成しており、シムチョンも
その辺が出生なのかも


一家の物語は初代シムチョンが
1891年にオーストラリアに移住
して、ジョン・シムチョンと
名乗るところから始まります。


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アデレード行:まさかの四都物語

2020年04月17日 | オーストラリア:アデレード

2018年5月の初めての
アデレードも5日目に入り
100年以上前に建設された
アデレード青果市場跡地
新しいコミュニティーを
形成しているのを目にして

急にインスパイアされた私


「アデレード、アリかも
頭の中でピカっと電球が灯り
これが点くと物事が急展開
という経験を人生で何度もし
今回も動きがあるのを覚悟


私たちは結婚翌年の私30歳、
夫26歳からシンガポールで
不動産投資に乗り出し
細く長く続けて25年以上。


アデレードを訪れた時点で
海外ホテル不動産投資を
ハワイとクイーンズランド州
ヌーサで始めていました。


このブログでもその経過を
細かく綴ってきましたが、
2017年10月のメルボルンで
オーストラリア主要都市の
投資下見の旅、三都物語
を完了していました


アデレードは下見の下見
ぐらいの気持ちでしたが
やはり行く先々で相場や
市況を確認する日々(笑)



童話に出てくるような家



観光地の物件はほとんど

投資対象にならなそうで


それが価格に反映されて

値段も手頃ながら利回り
の低さも容易に想像でき
見聞を広めるに留まって
いたのですが・・・


イーストエンドに来て



考えが変わりました

「アデレード市内かぁ
と新しい発想にスイッチ。


その後は闇雲に周辺散策



やっていることは一緒でも



観光客から投資家にギアが



シフトするから面白い(笑)

周辺の売りに出ている家や
商業不動産をチェケラー


元タットゥー屋だった路面店

自分には関係ない物件でも
不動産相場を形成するもの
の情報は直にインプット


周囲の環境、客層、暮らしぶり

(※1874年に私邸として建設
された現在の陸海空軍人協会)


街並みや、交通の便



商店や飲食などの充実度



再開発がありそうな用地

(※この裏は更地でした)


などなど自分の目と足で
確認することが基本のキ



ネットのスクロールだけ
ではわからないものが
わかってくる気がします。



そして何よりも自分たちが
気に入るかどうか



投資先には何度も訪れたい
方なので、この点は重要

まさかの四都物語となり(笑)
リアルゲームの始まりです。


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アデレード行:青果市場の今昔

2020年04月16日 | オーストラリア:アデレード

朝食の前も後も歩きます。

「20分シティー」ですから


20分で行きたい所に行ける
というのは本当に便利だし
観光客でなくても楽しそう。

いかにも教会だった建物に
こんなサイケなドアが付き
芸術センターになっていて
天気が良ければ街歩き最高


やってきたのはイーストエンド
といわれるエリアでかつての
賑わいがわかる古い建物群

このホテルは1853年創業
明治維新前の江戸時代💦


このひと際大きな門構えは
かつてのアデレード青果市場



門だけで4、5階建ての高さ

何でも大きいオーストラリア


壁に青果市場の文字が



市場は1903年に建設認可が
出て1904年に開業。拡張が
繰り返され、2度の大戦や
大恐慌を乗り越えながらも
市民の台所として街を
支えてきましたが、1988年
に84年の幕を閉じました。


その後は何になったのか


住宅やオフィス



カフェやレストラン

周囲のアパートメントや
オフィスから降りてくる
人で平日は混み合いそう。


城壁のような塀に囲まれた
広大な敷地の中が、4本の
くの字型の道で区画され、

独特のコミュニティーを
形成しているようです。


道の1本リバーマンクローズ



各道には大きな門があり



リバーマンクローズの門の
中はカフェになっています。

この立地だけでアガります。


市場設立時の理事の名を
冠したバードンアベニュー



アデレードのストリート
アートは攻撃的ではなく
品のある美しいものが多い。



オールド&ニューがセンス
よく両立していました。



4本の道の中では飲食が
一番充実しているらしい

エベネザープレースのの門


ベルジアン・ビアカフェ



NZにもあるアレです



ヘイジュピター

フレンチ・ビストロ


「アデレードで20代を送って
いたら数年は住んでみたい
場所だったかも

と思いつつ、20代でも在住
でもない50代のNZ人は全く
別の事を考えていました


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アデレード行:ルイジ・デリカテッセン

2020年04月15日 | オーストラリア:アデレード

5日目の朝は下調べをして
朝食のカフェを決めてから
(※前夜の経験から💦)
勇んで外に出ると・・・

パトカーと消防車に先導
された大勢の人たち


デモにしては整然として静か



なんだか楽しそうだし



ワンコやチビっ子



パフォーマンスも



そうかメーデー

5月1日ではなく週末の5日に
やっているのが礼儀正しい
月-金で働いている人が
仕事を休まずに参加してる。


確かに労組が強そうな地盤



いろいろな主張も。

放射性廃棄物の廃棄禁止


2018年5月だったので、
アメリカはシリアから出て行け
のプラカードを持つ人々。



やっとたどり着いたカフェ

席数が少ない中テーブル確保


キター

検索して料理の写真を見た
時からここに即決でした。


フレンチトースト風の

フローレンス

マッシュルーム好きの夫は

ルッカ


料理の名前がイタリアの地名
説明を聞かないとなんだか
わからない不親切設計💦

そこで店員と一見のお客の
間に必ず会話が生まれると
いうなかなか粋な初期設定。


話すのが面倒な人には面倒
面倒ではない人には楽しい
(↑基本こっちの私たち)

お隣さんが頼んだ全部載せ
イタリア丸ごとメニュー(笑)


写真を撮らせてもらい
両テーブルでワーワー


店の思惑にまんまとハマる
観光客たち。そこにオーナー
のルイジ登場という段取り

外まで出て来て手を振って
見送ってくれたのが本人
ありがとう


念のためググってみたら
「えぇぇぇえ💦」
メッシートマトという
知らない店になってる


あんなに流行っていたのに
ビジネス売っちゃったの?
でも写真のメニューが一緒?


と思ったら移転してました
ルイジ・デリカテッセン
かなり大きくなったようで
これはまた行ってみよう


メッシートマトはサイト
やメニューがそっくりで
暖簾分けしたのかな?


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アデレード行:週末に出遅れて

2020年04月14日 | オーストラリア:アデレード

初アデレード4日目も暮れ
適当な店でハッピーアワー



オフィス街の仕事帰りに
寄りたくなるような店

パブリック


ワイナリーでは飲まないのに
こういうところでは飲む(笑)



店を出る頃には陽も落ちて

さて夕食にでも


と思ったらこの日は金曜日で

どこもかーなーり満席


平日から週末並みに混み合う
オーストラリアの外食シーン
本チャンの金花となったら
アデレードでもスゴかった💦


探し回るのダメ、待つのダメ
週末難民決定

白旗上げて空いている店へ。


予約なしでもOKな韓国料理

コリアジュン


こうなったら食事ができれば



ぐらいで多くは望みません

麺はやっぱりコレでした。


おふくろの味的なご家庭の味

寒かったので温まりました


調べたらこの店も閉店して
もうなくなっていました。
これもリーストリートの店

コス18リーも今はなく、
リーストリートは激戦区


30話目にして4日目終了


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アデレード行:アデレードの不動産王

2020年04月13日 | オーストラリア:アデレード

人生初の野生ワラビー

大興奮でアデレード市内に
戻り、レンタカーを返して
2日間のドライブ終了


再び「20分シティー」
歩き倒すことに


となると、とたんに気になる

この看板


こんなだったり



あんなだったり。



アデレード到着のその日
から気づいていましたが

とにかくその数がスゴい。


「なんなんだろう?」
「企業名にしては業種不明」
「ロゴや色も統一されてない」



「市民にだけわかる風俗店?」



「それにしては数が多いし💦
目抜き通りのビル1棟って



不思議に思う人が多いのか
ググったらすぐに答えが

人名でした。


ギリシャ系移民の子でこの
地で商業不動産王となった
コンスタンティン・ジョージ
ポライツ(Polites, 1919- 2001)
が、不動産を購入するたびに

自分の名前を掲げていき


こうなったらしいです

貧しい農家に育ち、これが
彼の成功の証だったそう


これがポライツ家の企業名でした。

ポライツ・ビルディング
プリンスズ・グループ
プリンスときたか(笑)


西武グループみたい
どちらも不動産で当てたし。


これも



これはポリス(笑)

色も似てるとか💦


今は三代目の孫の代だそう。



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アデレード行:ポートノアランガとマウントロフティー

2020年04月12日 | オーストラリア:アデレード
ウィランガを出た後は、
観光案内的にはマクラーレン
ベールというワインの郷を
訪れるべきなんでしょうが


ナゼかこっちに来ました



ポートノアランガ桟橋



全長300メートルだそう。



広大なビーチが続いていて、
港という地形には見えません。



でも長大な桟橋のおかげで
かつては沖合に船が停泊でき
たのですが、港の機能はとう
になく、ポートノアランガと
いう地名と桟橋だけが残り、
今は絶好の観光スポットに。


カニをとってもいいそう

この手の立て札は「禁止」が
多いのに「許可」ときた(笑)


なぜこんなに長い桟橋なのか
というと、沖合に1.6キロの幅
でリーフがあるからだそう。



リーフにぶつかり沖で白波が
立つという不思議な光景



潮の干満によりリーフが露出
する場合もあり見えました

これじゃ確かに船は通れない💦


桟橋の突端の足元はこんな

スゴい波、風、音、しぶき


リーフが天然の防波堤となり



ビーチは波が穏やかで
比較的安全なんだそうです。



長い桟橋のおかげで水深があり
ここは太公望やダイバー天国

1日でこんなに獲れるもの


アワビは1人5個まで

直径13センチだなんて
食べてみた~い


ウニは1人20個まで



ホタテは1人50個まで



ロブスターは1人4匹まで



サメは1人1尾まで(笑)



オーストラリアらしい色の
地層が剥き出しに。



海岸にはカモメではなく

ハトの群れ


桟橋正面の赤い屋根は宿泊施設



1930年に姉妹が始めたものを
今のオーナーが拡張したそう。

夏の混雑が目に浮かびます。



その後はガラっと場所を変えて

マウントロフティー


頂上までクルマで来れます



アデレードに戻る道なりでした。

見渡す限り全方位緑・緑・緑
今年の夏の大規模森林火災で
この一部も焼けたかと思うと
残念でなりません。


な、なんとここで人生初ワラビー
8回目のオーストラリアにして
初めて野生の彼らに遭遇 

静かに草を食んでいるだけで


ピョンピョン飛び回っている
訳ではありませんでした。

ちょっと迷惑そうながらも
至近距離での写真もOK


いやぁアデレード最高
(↑単純ちゃんスギる~💦)


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アデレード行:ウィランガ・ウォークス

2020年04月11日 | オーストラリア:アデレード
幻のようなクラレンドン
出て、やってきたのは
ウィランガという街



クラレンドンとは比べられ
ない大きな場所でしたが、
やはり19世紀が息づく街。



クルマを停めて降りてみると
歩道にプレートが埋め込まれ
建物の由来が書かれています。



歴史散策には持って来いの
ウィランガ・ウォークスと
いうものがあり、アプリ
使って説明を読んだり聞い
たりして回れるのですが、


上手くダウンロードできず💦
プレートと自主ウォーク
1キロもないハイストリート
という真っすぐな道です。


ハイストリートの高台に建つ
元裁判所兼警察署兼厩舎



植民化は測量から始まります。
1839年にジョン・マクラーレン
によりこの地の測量が始められ
ここに郵便局、測量局、警察署
の3つの事務所が建ち、裁判所
の前身になったそうです。



それまではブッシュインという
宿泊施設で裁判が行われていた
のですが、対応しきれなくなり
1854年にここを改築して裁判所
にすることになったそうです。


その後も増改築が繰り返され、
1929年まで裁判所兼警察署と
して利用され、1970年以降は

博物館になりました。


広い敷地をドヤ顔で歩く
カササギフエガラス

「ナンかようカー


看板にはウィランガスタジオと
ありますが今はカフェでした。

元は1886年に創業したパン屋


青いドアが目立つここは元教会

ブルードアスタジオという名の
商業施設で現在はヨガスタジオ


中でダンスをさせないために
床にわざと傾斜があったとか。



オッドフェローズホール
という1863年に建てられた
文化交流会館で1930年代
まで現役だったそうです。

現在は私邸


ここは教会だったものが
レストランになり今はB&B



ここも古い建物のB&B



ここは1857年にできた肉屋

今はワインショップ


場所柄ワインを売る店が多く

ここもそうでした。


横から見るとすごい増築ぶり

歴史的建造物指定があって
もなくてもみな古い(笑)


ウィランガホテルは
1868年創業。今はパブ。



長屋状態ですが全部パブ(笑)

地元では「ミドルパブ」と
呼ばれているそう。


由緒があってもなくても
古い建物は経て来た年月
と手造りのぬくもりの
せいか温かみがあります。

ここはアイアンワーク工房


猫とカワセミなんて最高



壁の剥がれ方までアート風



こういうものがあちこちに。



大きなガラス工房

工房がたくさんあります。


有名なチョコレート専門店

散策にはいい場所でした


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アデレード行:19世紀の幻クラレンドン

2020年04月10日 | オーストラリア:アデレード

2018年5月の初アデレード
旅行記も4日目に入りました。


どうやって検索したのか今や
思い出す術もないのですが、
「このパン屋に行きたい
と私が言い出し、4日目は
村のパン屋からスタート


市内から南下して30分ほど。
何もない通りのパン屋



周囲にカフェの1軒もなく

店は雑貨屋が1軒のみ。


1840年ときたもんだ

NZだったらワイタンギ条約
締結の年で、事実上植民地化
が始まった180年前です


パン屋にはコーヒーもあり
外にテーブルもあって完璧。

こんな朝ごはんになりました。


せっかく来たので散策へ

教会か、消防署か、幼稚園か。
究極の選択肢(笑)💦


ウィキ先生によれば、一帯の
開発は1840年から始まり、
1846年にウィリアム・リー
という実業家が購入した土地
にワイナリーが作られたそう。


このリーさん、市内にも広大
な土地を購入し、あの裏路地
のリーストリート
に今も名を
残していたというプチ発見



撮影年不詳のワイナリーの写真

(※ウィキペディアより)


スゴいのは写真にある右の2軒が

そのまま残っています


これは1853年に建てられた
聖書キリスト教会

入植初期の小さくて簡単な
石造りの建物の典型だそう。
1900年に売却され市役所に。


今も村で一番大きい隣の建物

1868年に建設された
クラレンドン警察署兼裁判所


屋根にたくさん十字架があり
教会だったのかと思いました。



建物は使われていないようで

庭は非常に丹精されていました。


開拓当初からある雑貨屋は
まさに村の生き証人で、
立派な歴史的建造物指定。

今でも現役なのがスゴい


ここはレストランでしたが

営業しているのかどうか?


他にも古き良き時代を伝える

美しい建物や


美しい家がいくつもあり



どこも庭が素晴らしい



21世紀どころか20世紀にも
取り残され、19世紀を今に
伝える博物館のような村。

片付けられた公衆電話


パン屋には何台か業務車が
停まり他には何もないので
貴重な立ち寄り場所のよう。

この運転手はウインクして
乗り込んでいきました。


偶然見つけた店のおかげで
ひと時の19世紀散策でした。



今思い返すと幻のようです。



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アデレード行:ファームショップとメイキッチン

2020年04月09日 | オーストラリア:アデレード
2018年5月の初アデレード
かれこれ2年前の話を
1年半後に書き出し
3ヵ月の沈黙を経て復活
 (↑「放置」ともいう💦)


なんとか今月中に終えたい
と思いつつ、話は5泊6日の
3日目の終わりに来ました。


=============


バロッサを出てアデレードに
戻る途中でパッと立ち寄った

マギー・ビアズ・ファームショップ


ここはなんでもかんでも

マギーさん(笑)


人気の料理研究家だそうで

レシピ本や瓶詰など食品
が所狭しと並んでいて、
どこから現れたのかと
思うほど大勢の人たちが
わんさと買っていました。
(※ツアー客だったのかも)


伝統的なファームハウスを
リフォームした宿泊施設。



レストランにもなっています。



料理のデモもあるそうです。

オーブンが4つもある


なかなかの多角経営で

週末には混み合いそう。


こんな場所には多肉が似合う。



無造作な感じがまたイイ



多くが憧れても実現は難しい
田舎の半自給自足暮らし



しっかり地に足を付けながら
過去と現在を融和させつつ
軽やかにコンテンポラリーに
商業的にも成り立たせている
(多分)のがスゴい

マギーさんの運と実力と
つまるところはお人柄か。


結婚式とか催しも多そう。




夜はアデレード郊外の

メイキッチンへ。


昼に続いてのベトナム料理



旅行中の生野菜不足を
ちょっとでも補える



チキンフォー



夫はがっつりヘビー級



クルマがないと行けない
場所ですが再訪あるある



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アデレード行:忘れえぬ光景の中で

2020年04月08日 | オーストラリア:アデレード

バロッサを引き揚げるにも
素通りはできないほど
大きく壮麗な教会の塔

かつてのルター派の繁栄と
信仰の深さが偲ばれます。


偶然写り込んだご婦人



辺りの静寂と緑に犬と髪の
白さ、ウェアの空色が映え
忘れえぬひとコマに。




ラングメイル・ルーテル教会



見事な糸巻き杉が美しく
オーストラリアらしくない
ヨーロッパが偲ばれる光景。



教会の敷地には墓地が広がり

さまざまな時代と形の
墓石が並んでいました。


19世紀の古いものから



真新しいものまで。



最も大きな墓はこの地に
教徒を率いたオーガスト・
ケーベル牧師のもので、

オーストラリアのルター派
の第一人者だったそうです。
バロッサ博物館でも教徒の
移住に関する、彼の尽力が
記されていました


ちょうど傾いて来た陽が
糸巻き杉の間から差し込み



辺りが急に明るくなり

幻想的なひと時でした。


迫害を逃れて来た人たち。

しかし、ここが無主の地
だったはずがなく、迫害を
逃れて来た人による原住民
アボリジナルへの迫害が
繰り返されたのではないか。


しかし、バロッサ博物館にも
ハーンドルフ博物館にも
私が目にした限りでは、
アボリジナルの記述はなく

自分たちの苦難の歴史が
一面的に語られていた
だけなのは残念でした。


次世代に語り継ぐのであれば
迫害の被害者という視点を超え
客観的に多面的に伝えてほしい
忘れえぬ光景の中で思いました。


過ちから学べる最良の教訓は、
繰り返さないことだと信じます。


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アデレード行:バロッサ博物館

2020年04月07日 | オーストラリア:アデレード

散策する場所はなさそう
とクルマに戻ろうとした時
目に入った古色蒼然な建物

周囲に建物がなく、まるで
時代から取り残されたよう
にぽつんと建っていました。


名前はなくても「博物館」
という小さな看板があり、
電信局と書かれたドア
から入ってみました。


地元の歴史愛好家が1963年
に設立した歴史トラストが
運営するバロッサ博物館


案の定お客は私たちだけ。
ドイツ語訛りが強い英語
を話すスタッフがいて、
バロッサを開拓したドイツ
系移民の気概を語ってくれ
参観させてもらうことに。


いきなり見事なお城の模型
ヴァルトブルク城
立派な城壁を持つ世界遺産。

カール・ロウナーという
家具職人が1887年に作製
したものを曾孫が1992年
に寄贈したそうです。


マルティン・ルターはローマ
教皇に破門された後、1521年
にこの城に10ヵ月こもって
新約聖書のドイツ語訳を完成
させたそうで、ルター派には
重要な意味のある城でした。


バロッサもまた本国での迫害
を逃れて来たルター派教徒に
より開拓された場所でした。


ただし、時期は1830年代の
ハーンドルフ
より一足遅く
1842年に始まり、1860年代
まで断続的に続きました。


移住者のほとんどは農家か
自営業者で自給自足の生活
が中心だったそうです。

簡素で端整な暮らしぶり
手前はベビーベッド


伝統的なドイツの荷馬車



鍛冶屋といういにしえの
職業の重要さが伝わって
くるような鉄製品の数々



大小さまざまな品を手で
打って造っていたのかと
思うと、英語だとスミス、
ドイツ語だとシュミット
(鍛冶屋の意)という名字が
多いのが納得できます



木工も重要な職業でした。



木と鉄だけでできた車椅子

実用品であっても美しい


ここでも黒衣の多さに
イギリスとの違いを感じます。



ココ・シャネルが「発見」
する前からドイツ人は黒の
美しさを見出していた

モノトーンなのに華やか。


当初の主要商品作物は
小麦と果実だったそう。



ここは1843年に建設された
製粉所で10年間使用され、
1870年の洪水で壊れて以降
人気のピクニックエリアに。



移民の中には本国でのワイン
生産の経験者もいたものの、
この地がワインの産地として
名を馳せるには紆余曲折と
長い年月がかかりました。



2回の大戦中の敵性外国人
扱いやドイツ語教育や地名の
禁止などはハーンドルフと
同じで、戦後のドイツ語の
地名復活には歴史トラストの
働きかけもあったそうです。


手動洗濯機

やっぱり「技術のドイツ」(笑)


華やかさはなくても
木目が落ち着きます。

こんな暮らしが好き


木材の種類は違っても

我が家の家具に似てる


我が家のは机代わり。

どちらも用途は配膳台。


ため息が出るような
見事なベッドカバー



保存状態も素晴らしい。

どれぐらいかけて
編み上げたのか。


移住を通じて生活を一から
築き上げるのは、いつの
時代であっても同じこと。



やってきた国、時代、理由
は違っても共感を覚える事
も多く見入ってしまいます。



この建物も歴史的建造物で
バロッサの生き証人でした。

1866年に電信郵便局として
建設され、今は町の歴史を
伝える大事な場所でした。


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アデレード行:誤字から始まったバロッサ

2020年04月06日 | オーストラリア:アデレード

旅行前から友人たちに
ハーンドルフはいい」
と同じぐらい聞いたのが
「バロッサもいいよ
という話でした。


「バロッサ?イタリア語か
スペイン語?ドイツ以外の
ヨーロッパ村もあるの?
でも開拓したのはドイツ系
とどこかで読んだけど?」


と何の知識もないままに
ハーンドルフから約1時間
でやってきたワインの郷、
バロッサバレー

アデレードの北東に位置し
市内からも1時間の距離。


確かに行けども行けども



ワイン畑が続きます。



南オーストラリアの植民地化
を率いたウィリアム・ライト
大佐が、1839年に辺り一帯を
バロッサと命名しました。


大佐は1811年にスペインでの
バロッサの戦いに従軍しており

「地形が似ている」
という理由で命名しました。


ところがスペイン語のBarrosa
Barossaという誤字のまま
登記されてしまいました💦


英語的にはssで清音にしたい
というところだったのか(笑)


大佐はマレーシアはケダ州
生まれのイギリス人とマレー系
のハーフだったそうです

(※ウィキペディアより)
200年前としては画期的な
大抜擢だったのでは


あちこちでワインの試飲が
できますが、飲まない私
夫は運転があるし~

一帯のワイナリー巡りは
1日ツアーに参加するか
バロッサに宿泊しながら
楽しむもののようでした。


町の中心らしい観光センター。



ちょっとした隙間にも
ブドウの木があります。



こんな催しがありました。
日程が合わなかったけど。

バロッサ歴史祭り


本屋に



カフェ



みやげ屋に



ホテル兼バー

ワイナリー巡り以外は
ハーンドルフのような
散策する場所はなさそう。


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アデレード行:ベトナム料理ファーメントアジアン

2020年04月05日 | オーストラリア:アデレード

ゾンビのように3ヵ月ぶりに
蘇った2年前のオーストラリア
はアデレードの旅行記です


ハーンドルフアカデミー博物館
で思いがけず時間をかけたので
ちょっと遅めのランチへ


オーストラリアといえども
地方になると都会とは勝手
が違うので、食事はザっと
下調べをしておきます。


やってきたのはバロッサ。
南オーストラリアきっての
ワインの産地で有名な場所。


でもワイナリーではなく、
まさかのアジア料理へ

ファーメントアジアン
直訳なら「発酵アジア食」


酵素ブームの今であっても
この直接表現には抵抗が
ある人が多いのでは?💦
私は引き寄せられました


日本での生活経験のある和食
好きの友人と話していたとき
「日本食はなんでも好きだし
美味しいけれど納豆だけは💦
ファーメンティッドでしょ
という言い方と表情はまさに
「腐ってるんでしょう
と言わんばかりで大笑い


「チーズだって同じじゃない。
どっちも菌がいるんだから。」
とニヤニヤしながら言うと、
「チーズは糸引かないからね~」
と、ソコだったか


2010年に開店したベトナム料理
今よりもっと菌活が一般化して
いなかった頃の先見の明



空き家だった家を改装して
シェフも経営の経験もない
若いベトナム系女性が



挑んで創り上げた美しい店。



故郷からご両親を呼び寄せ
自家菜園で生産している
野菜を使っているそう。



この春巻きも野菜が主役

配置もセンターだし(笑)


お客は1人でワインを1本
開けていた地元の御仁と
私たちだけでした。



雨も上がってなんとも
静かで落ち着いた時間。



名前は忘れましたが地元の
ワインも食も素晴らしく。



ここのシグニチャーの一皿

白いのはイカです。


ここでは飲むならコーヒー
よりワインなのかな(笑)



ワインの郷の小さなアジア



またいつか機会があれば




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アデレード行:ハーンドルフアカデミー博物館

2020年04月04日 | オーストラリア:アデレード

ご無沙汰しておりました。
3ヵ月以上放置してしまい
申し訳ありませんでした💦
その間もご訪問くださった
皆さまにお礼申し上げます。


このブログでは何度かあった
ブランクですが息を吹き返し
またまた再開します。


2018年5月の初アデレード
かれこれ2年前の話ですが
なんとか終えましょう(笑)


=============


3日目は大雨の中、市内から
クルマで30分ほどのドイツ村
ハーンドルフへ。


雨で動き回れなかったので
ハーンドルフアカデミーへ。

1857年創立の黄色い壁が目立つ
観光スポット内の博物館へ。


なぜオーストラリアの片田舎に
ドイツ語名のドイツ村ができた
のかは、1839年に遡ります。


キリスト教プロテスタントと
して迫害を受けたルター派、
ルーテル教会の教徒は19世紀に
アメリカへ大挙して移住し、
南オーストラリアへも牧師に
率いられた教徒が1838~1839年
にかけ4隻の船で移住しました。


1900年までに実に1万8,000人
が移住してきたそうです。


4隻のうちの1隻、ゼブラ号の
キャプテン・ハーンは危険で
困難に満ちた17週間の航海を
仕切り、到着後も移民たちの
土地の取得に向けて奔走し、

(※キャプテン・ハーン)


その功績を称えてこの地は
ハーンドルフ(ハーン村)
と命名されたそうです。


移住当初の茅葺の家



作業場のスケッチ

1910年


小さな博物館の中には

さまざまな物が所狭しと
展示されていました。


重厚なオルガン



家の建て方が確かに
イギリス人と違います。



現代なら自動車修理工場

「技術のドイツ」
だったらしいです


1854年に創業した製粉所

オールドミル


1970年以降はレストランに。

現在はホテルでもあります。


1885年には村を挙げての
計画で子どもたちが300本
の街路樹を植えたそう。

違いを楽しめるように
あえて様々な樹なんだそう。


移民たちはドイツ語を話し
ドイツ語教育にも力を入れて
いましたが、第一次大戦の
勃発でドイツ系移民は敵性
外国人とみなされ、300人の
男たちがトレンス島に強制
収容されました。

厳しい環境だったそう。


1916年にはドイツ語の
地名の使用が禁じられ
村はアンブルサイド
に改名、ドイツ語姓も
シュミット→スミス
(※どちらも鍛冶屋の意)
シュナイダー→テイラー
(※どちらも仕立屋の意)
などに改められました。


1917年にはドイツ語学校
閉鎖、文化的催しも禁止。

ルーテルスクールの生徒。
手描きのオーストラリアの
コートオブアームズを掲げ
愛国心を示していたのか。


現在のコートオブアームズ



1935年に村はハーンドルフに
再度改名されたものの今度は

第二次大戦が待ち受けていた
という苦難の歴史の連続


ここで一番感動したのが
手書きの土地の登記書



氏名・職業・出身地が丁寧に
几帳面な字で書かれています。

未亡人
靴職人
石工
庭師
小作農
日雇い
羊飼い
粉挽き
・・・
・・・
・・・


昔々の話として童話の中に
出てくるような多数の職業。
村ごと引っ越してきたのが
急に実感できました。


さまざまな人々の横顔が
古色漂うその職業から、
200年近い歳月を越えて
急にリアルなものとして
目の前に迫るようでした。


黒衣も異文化を醸しだし
小さいながら見応えある

雨宿りには上出来すぎる
博物館でした。


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