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ニュージーランド移住記録:みたび

移住は帰らなくてもいい終わりのない旅。人生そのものも旅。そして気づき始めたあの世への旅。旅と夢限定ブログ

シドニー行:5年後に

2019年01月16日 | オーストラリア:シドニー

シドニー最終日は土曜日でした。
ホテルをチェックアウトし、前日に続いてサリーヒルズへ。


テクテク坂道を登って



最後の最後まで街歩き

買い物もしないし、アトラクションも不要な
安上がりな2人


さすがに週末なのでカフェによっては激混み
パンケーキで有名なビルズにも人が並んでいました。


私たちのお目当ては土曜日開催のサリーヒルズマーケット。



古着や古道具中心のかなり蚤の市的なマーケットで



「何かおみやげでも
(※ベストに日本語の刺繍


と思ったあてが外れてしまい、

食べるところもほとんどなかったので、


すぐ近くの自然食品の店へ。



オリーブ好きの夫にはたまらない選択肢



チーズもいろいろ



バナナも気になるおサル夫婦

(※もう食べてきちゃったけど・・・・爆)


外のワンコがカワイすぎ



思いがけず理想の朝ご飯



夫はマーケットでなぜかゴミ箱のミニチュアをもらい

ゴキゲン


コーヒー飲み飲み



新聞読み読みのんびりタイム

トランプに持ち上げられて意気揚々だったターンブル首相も
この1年3ヵ月後には辞任に追い込まれ、


プライベートジェットで行く究極の南米

という企画のなんともなバブル感


2部屋物件が買えるお値段の

マクラーレンの新車の広告


けっきょく、最後の最後まで不動産を見ていた

20ヵ月前がなんとも遠くに感じられます。


到着した日から

「ここは5年に1回来ればいいかな?」
と漠然と感じていましたが、


2年近く経った今も

その気持ちは変わらず


たまに訪れて定点観測を楽しみましょう。



次回、この光景を見た時に

どう感じるか


帰り道も古い建物を堪能しながら



丘を下って



空港へ。



ここまで来たら帰ったも同然のNZ航空のラウンジ

たった4泊5日なのに早くも郷愁が募ります(笑)


次回は2022年かな



2017年5月のシドニー旅行記、計27本で終了しました。
丸1ヵ月、お付き合いありがとうございました

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シドニー行:鱒屋水産

2019年01月15日 | オーストラリア:シドニー

せっかくオサレなサリーヒルズにいるのだから、

このまま夜ご飯


でもよかったのですが、


コチラへ(笑)



海外の露骨なジャポネスクは遠慮したい方なのですが、

浮世絵とか侍とか、そのどっちもとか(笑)


ピット・ストリートのここを通るたびに

開店前のスタッフ・ミーティングが見えたり、
長々と行列ができていたり、
満席だったりするのを見て、


最終日の夜は「ココにしよう!」と予約していました



アジの南蛮漬けがこのサイズでまずビックリ

(※お箸とそうは変わらない大きさ)


揚げ出し豆腐もたっぷり。



ココはすべてがオージーサイズ



ビッグです

美味しいお豆腐でした


あまり和食は食べないのですが、

たまにはいいですね


ごちそうさまでした。



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シドニー行:サリーヒルズを眺めて

2019年01月14日 | オーストラリア:シドニー

ピアモントを歩き回った後にやってきたのは

サリーヒルズというエリア


ヒルズというとおり、小高い丘で山の手のようですが・・・・・

コーヒーの麻袋のようなマリファナ袋を張り巡らした店


ハワイ島カイルアコナ産のマリファナ

コナゴールドですってぇ


始まりはかなり下町的。



高台の下町という点では

オークランドでいえばKロードか?


Kロード同様に古い建物が多く



中心地に近い分、早くから開けていたよう。

メディア関係の会社が入居した元住宅


19世紀前半のものと思われる住宅もたくさんあり



古の労働者の住宅街だったよう。



カラフルに塗られていますが

この辺も19世紀の砂岩造りでは?


通り沿いは商業物件になっているものが多く、

ここはウーバー運転手(?)の申請受付をしていました(笑)


1902年に開校した学校

その当時からそれなりの人口があったんでしょうね。


高台に出ると高級感が出てきて、山の手の雰囲気。

屋根裏部屋も含めれば3階建て。


通りにはお店がズラリ



サリーヒルズのアイコン、クロック

シドニーに多いかつてのホテルがパブとして営業している店


ここもパブのホース。



めちゃくちゃ目立つ

屋上の白銀馬


この辺は半地下で3階建てに。

ロンドンにあるような建物。



初シドニーはある意味、不動産を見に来たようなものでしたが、

こんな経緯で、サリーヒルズに来たときは


ただただ家を眺めるだけ(笑)



いい目の保養になりました。



中心はオークランドのポンソンビーのようでもあり



ステキな家々にただただ目がハート



特にこの長屋には目が釘付け

ため息が出る美しさでした。


アラベスクなタイルに



こんな窓



そしてこの階段

気分はアルハンブラ宮殿(笑)

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シドニー行:2017年5月のシドニー

2019年01月13日 | オーストラリア:シドニー

ダーリングハーバーに戻ってくると



そこは何もかもが新しいか、改装されている21世紀


19世紀前半から数キロの距離です(笑)



新しいインターナショナル・コンベンションセンター(ICC)は

全面ほぼ鏡張り。


そこに映り込んでいた市街地の摩天楼に思わず

ドキリ


まるでこのまま崩壊していくような危うさに見え

思わず写真を撮ってしまいました。
晴天の日中の華やかな明るさの中で、
ナゼそんな暗いことを思いついたのか。
閃きとしか言いようがありません。


目の前はオーストラリア建国200周年に寄贈された

中国庭園


水と緑に満ちた都会のオアシス的な存在



しかし、その間からも高いクレーンが見え

開発が続くシドニー


庭園が贈られた1988年の中国はまだまだ黎明期

当時の私は出張で飛び回っていました。


スーツを着た人より人民服を着た人の方が多く、
地方に行けば行くほどその比率が上がりました。


道を埋め尽くす通勤時間の何千台という自転車を見ながら、
「この国はいずれとんでもないことになる。
日本どころかアメリカをも凌いでいくだろう。」

と思いつつ、多勢に無勢で動けないタクシーの中にいました。


翌1989年に天安門事件が起き、中国は世界中から批判を浴び、
一方のオーストラリアは1990年に景気後退に陥り、
1年後の1991年にやっとプラス成長に転じました


あれ以降、両国とも多少の波はあっても成長街道を驀進し、
発展を謳歌し、オリンピックを成功させ、
オーストラリアは27年以上景気後退知らず
リーマンショックの時でさえプラス成長を維持した
唯一の経済先進国



成長神話はこれからも続くのか?
それとも曲がり角を迎えているのか?


2016年8~9月のサンシャインコースト・ブリスベン旅行
全く予期せずにヌーサを非常に気に入った私たち。

(※出会いは1枚の写真の勘違いから始まったにもかかわらず)


「ヌーサに不動産を買おう
というところまで盛り上がり、初滞在で下見もしてきました。


しかし、ヌーサの話を進める前に、
「シドニーとメルボルンは見ておきたい」
という気持ちがあり、

初シドニーでも不動産ばかり見ていました(笑)


さすが大都会、売買が盛んで流動性の高さは魅力ですが



旅行者の目にはバブル感が濃厚に感じられ

(※4部屋物件にバス・トイレが4.5ヵ所の物件


NZ同様に成長の多くを中国に頼ってきている危うさも

強く意識されました。


外国人は新築の住宅しか購入できないので

中国人をあてこんだ高層マンションの建設が
急ピッチで進む反面、中古住宅は国民しか購入できず、
(※永住者とNZ人も購入できますが数は知れています)
中古市場が消化不良を起こしているようにみえました。


この需給バランスの悪化が続けば、
値崩れするのは時間の問題では?


「昔も今後も多大な可能性を持った場所だろうけれど、



今のシドニーじゃない

という結論に達しました。


百聞は一見に如かず、



2017年5月のシドニーを見ておいてよかった。



シドニーの住宅相場のその2ヵ月後の7月に

目先の最高値をつけ、以後下げに転じています。

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シドニー行:過呼吸気味なピアモント

2019年01月12日 | オーストラリア:シドニー

ダーリングハーバーの西側はピアモント呼ばれる、
かつては造船、採石、羊毛、輸出事業で栄えた工業地帯で、
当時の繁栄を今に伝える「シドニーの明治村」のような場所。


古い建物好きにはたまらない一帯
今回の滞在で一番気に入ったエリアでした。


ランドマーク的なピアモントブリッジ・ホテル

1870年に建てられたホテルで1960~70年はパブとして名を馳せ
今もパブとして営業中


ダーリングハーバー・ホテル

ターコイズブルーのタイルの美しさに目が釘付け


こんなに美しい建物を手造りしていた時代の名残り。

ため息が出る美しさ


これも歴史的建造物指定では?

アーチ形の窓が特徴的


大通り沿いはどれも古くて大きい建物ばかりで

上を向いてきょときょとしながら歩いていました


フィッシュマーケット近くのかつての労働者の家と思われる長屋

見たことがなかった屋根の区切り方で、19世紀前半の建物か?


キレイに改装してあったり



そうでもなかったり(笑)





窓に装飾のない19世紀半ばの2階建てか?


この辺になるとアイアンワークスの装飾が施され華やか



19世紀後半の建物ではないでしょうか。

エアビーをやっていそうな家も見かけ、
ぜひいつか泊まってみたい


大きなラグビーボールが付いたパブ

これは1920~30年代か?


この辺はグッと古くて19世紀前半では?



見た中では一番小さかった家は一間なのでは?

砂岩そのままの外壁。3匹のこぶたなら三男の家
ピアモントは良質な砂岩が採石されたそうです。


この辺も砂岩で黄色い黄色い(笑)



1851年頃と「頃」がついていながら1851年と年指定の(笑)

ユニオンテラス


簡単なアイアンワークスがついていて

当時の高級住宅だったのか、後付けなのか?


ユニオン・ストリートは通り自体が博物館のよう

店内に砂石が露出しています。


この辺りをうろちょろうろちょろ。



過呼吸気味で歩き回っていました(笑)



こんなのアリですかぁ



改装前後のお手本のような2軒

やはりオーストラリアらしい長屋が気になります。


再び大きな建物が増えてきました。



1888年の建物



ピアモント・ストリートは大きな建物が多く街路樹も鬱蒼としていて

薄暗く感じるほどでした。


ホテル兼アパートメントのオークスゴールズブローは

1843年の建物
ロックスのスザンナプレイスと1年違い
庶民の家とのなんたる違い。


ここは一大改装中でした。

ホテルかアパートメントか、両方か?


さんざん歩き回り、ダーリングハーバーに戻ってきました。



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シドニー行:バンケリーの行方

2019年01月11日 | オーストラリア:シドニー

フィッシュマーケットを出て再び街歩き


しばらく歩いてふと目に留まったのがココ。

日本語表記だとバンケリーか?


天空へ続くような美しい壁画に、おびただしいスイーツ

スイーツラバーの天国


角という立地と名前からして古の銀行だったのは明らかな店

ちゃんと金庫もありました(笑)


20世紀初頭前後に建てられた銀行は重厚で趣があり、



その割にはビックリするような小ささ(笑)

奥には個室もあり、ここは支店長室だったのでしょう。


100年後の今なら飲食にもってこいな場所。



NZのテアロハでも100年前の銀行が



カフェになったりバーになったり。



これはカフェだった頃の写真



ちゃんと金庫もありました(笑)



ここはハワイ島ヒロのレストラン

カウンターも立派なら


当時の金庫も立派

同じ時代でもNZの地方とは比べられない
預かっていた現金の量の違いが一目瞭然(笑)


特にスイーツ好きではない私でもつい選んでしまう品揃え



大のスイーツ好きな夫は甘さMAX



思いがけず甘いコーヒーブレイク



「いい場所でインテリアも良かったな~

と、何気なくググってみたら、


この店、以下のような状況で売りに出ていました
売上:13,500ドル
賃貸料:1,569ドル+消費税
人件費:3,843ドル+年金負担
営業日:6日
(※全て週間)


商品のパンやスイーツはどこからか買っているようで、
小さな店なのにおびただしい品揃えだったのはそのせい
その分、コストが高く、買い取りですからロス率も高そう。


この内容で売却希望価格19万5,000ドルは高いっ
と思ってしまいました。この金額で売れたらスゴいことでは?
内装工事費など投資を回収して利益も狙っているもよう。


ここを訪れたのは何度も言ってますが、早20ヵ月前
その間に不動産価格の下落や銀行スキャンダルで
厳しさを増していくシドニー経済
店は、シドニーはどうなっていくんだろう


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シドニー行:見て食べてフィッシュマーケット

2019年01月10日 | オーストラリア:シドニー

20ヵ月前のシドニー旅行記もとうとう21本目。
今現在で右のカテゴリーの
サンシャインコースト(17本)
ブリスベン(16本)
を抜いて、オーストラリア1位


でもオーストラリア・デビューだった
2016年8~9月のサンシャインコースト・ブリスベン旅行記は計27本
今回もそれぐらいになるのか?
(↑出たとこ勝負



=============



4泊5日だった旅はとうとう4日目を迎えました。

またまたココで朝のコーヒー


私たちは毎朝バナナがないと始まらないおサル夫婦
(※キウイにはありがちで、こういうところはしっかりキウイ)

併設のスーパーでバナナを買うのも旅行中の日課でした。


その後向かったのは



ダーリングハーバー

でも目的はここではなく、さらに歩いて


シドニー観光の目玉のひとつ

フィッシュマーケット


誰かがわざと挟んであげたらしい魚のあらをつつくカラス

NZにはいないので、物珍しく感じます。


店内はこれでもか、これでもかのシーフード



イカ・タコが豊富なのは羨ましい~



マッスルはNZ産でした。



スパナクラブ(アサヒガニ)

エビとカニの中間のような縦長のカニ(笑)



マッドクラブ(ノコギリガザミ)

シンガポールだとチリクラブやペッパークラブになるアレ


こちらのはデッド・マッドクラブ

すでにご臨終(笑)


あえて「デッド」と断りたくなるほど生きているものが多い



押し合いへし合い元気はつらつ



エビ好きにはたまらない光景



やっぱりオイスターは外せない



目の前が海で、漁船がたくさん停泊していました。

大都会の真ん中なのが信じがたい光景。


さっそくオイスター



最大手の店は店舗の大きさも従業員の数も圧倒的な規模



圧倒されて思わずエビをゲット(笑)



ホタテは日本産



キングクラブ
写真では伝わらない重量感

キロ当たり1万3,000円なり~
1匹3~5万円しそうに見えました。


マーケットとはいえ観光地も兼ねている分、

調理してありそのまま食べられるものも。


食材を買ってその場で調理してもらえる店もありましたが

量が多いので2人ではムリでした


ホタテの煮汁を春雨に吸わせるのはいいアイデア

「家でもマネしよう
と思ったのをこの写真で20ヵ月ぶりに思い出しました(笑)


美味しそうなものがテンコ盛りで、朝食も抜いて臨んだのに

意気込みほど食べられずに残念
50代となるとこんなもの(涙)


夫が感動していたミニタバスコ

見てよし食べてよしの楽しい場所でした

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シドニー行:夜のチャイナタウン

2019年01月08日 | オーストラリア:シドニー

ダーリングハーバーから路面電車でやってきたのは



チャイナタウン

ちょっと意外な古いレンガのランドマーク
チャイナタウンになる前からの建物のよう。


パディーズマーケットという名前の市場が入居していました。

パディーだなんて「アイルランドの太郎さん」みたいな名前。
しかもアイルランドのグリーン


特にド中華という訳ではなくむしろ東南アジアな感じ。

夜6時まで開いているというのはビックリ


しかし、その周りは見まごうことなきチャイナタウン

漢字の看板だらけ


こんなのもありました(笑)

ネオン輝く中国銀行


路面電車の工事中で辺りはこんな状態。

オークランドのドミニオン・ロードもこうなるのか?


これって香港の自動車教習所

懐かしい~
シドニー支店なのか?


この辺は観光客向けというよりも中華系住人向けで

NZ移住まで20年暮らした香港やアジアが彷彿とされます。


旅行会社、美容、翻訳、会計士など生活感溢れる場所。

階段の一段一段に宣伝するのは、香港の古い雑居ビルで
あるある(笑)


さらに、もれなくあるのが

不動産屋


行列ができていた皇帝餅なるミニパフ



こんなパン屋は香港の下町のまんま



こちらは台湾系



アワビ専門店



肉骨茶だから

シンガポールかマレーシアか?


ナインドラゴンズだなんて、

まんま九龍(爆)
香港すぎてウケました


迷いに迷って夜ご飯はここに。

湖南料理はオークランドでは見ないなぁ。


シェフからウエイトレスから、何もかも募集していました。
(※ガラスドアの張り紙)

二階席もあり席数が多いところに期待。


というのも平日だというのに、かなりの店が順番待ち。

名前を書いて番号札をちぎって待つシステム
香港の飲茶と同じ。


凝ったインテリアといい、こうした演出といい



プラ食器にまで店名が入っているところをみると

中国のチェーン店のよう


2人でもいろいろ頼める少量なところがありがたい。

一人っ子&少子化だと今どきはみんなこんななのか?


干煸四季豆



正統派回鍋肉

脂身たっぷりな庶民の味


サクッと食べるにはいい場所でした。



隣の席のアジア人女性2人が盛んにマルチ商法の話をしていて、
1人がもう1人を熱心にリクルートしているところでした。
「あなたの下に誰かつけば、あなたはこんなに儲かる
みたいな話をしていて、


「で、この人をリクルートしたらあなたはいくら儲かるの
と聞いてみたいほどでした(笑)


帰りに立ち寄ったドラッグストアはまるで香港のワトソンズ
買い物している人もアジア人ばかり(含:私たち)

手前のスーツ姿の男性は不動産屋で新築の分譲中
この時点で夜8時半
こんな時間に不動産買うのがアジア人(爆)

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シドニー行:開発民主主義

2019年01月07日 | オーストラリア:シドニー

ダーリングハーバーには

ありとあらゆる種類の船が


古いもの



新しいもの



速いもの



遅いもの



旅客輸送から



ハーバークルーズまで

おびただしい数


インターナショナルタワーが遠目だと

直立する毛虫のように見えたのは(素)


冷房効率を高めるためと思われる

無数のパネルが着いているからでした
これが毛羽立って見えるんですわ。


周囲はグルっと飲み系の店

朝から飲めそうな雰囲気(笑)


インターナショナルタワーができるまでの

アイコンだったと思われる3棟


ピアモント橋

普通の橋に見えますが、なんとこれ旋回橋
下を航行する船のために橋が開く構造になっており、
今でもスケジュールに合わせて開閉されているそう


橋の上にある古色蒼然としたキオスクのような建物が

旋回制御室なんだそうな


制御室の屋根のカモメ



1988~2013年の25年間、橋の上には高架モノレールがあり、

今は撤去されて歩行者と自転車専用道路に。
そんなものができるのもスゴいけど、
なくなるのもスゴい(笑)


1905年にできたピアモント橋と

2016年にできたインターナショナルタワー。


ダーリングハーバーは1988年に建国200周年を記念して

大規模な再開発が行われました。
以前は倉庫や工場が立ち並ぶ場所だったそう。


ウォルシュベイのような場所だったのか?



レクリエーション施設やテーマパーク、博物館



ホテル、店舗、レストランが多数でき、



コンベンション&エキシビションセンターも建設されました。



2013年には一帯の新たな再開発でセンターは取り壊され、

2016年にインターナショナル・コンベンションセンター(ICC)
としてぐっと近代化して生まれ変わりました
2017年5月はまだまだピッカピカでした。


中国庭園も建国200周年を記念して中国・広東省が寄贈。

なかなか本格的な門構え


コンベンションセンターも橋の上のモノレールも1988年にでき



25年間の寿命を全うして、生まれ変わったり、なくなったり。

発展途上国並みの目まぐるしい変化


かつてのマレーシアには「開発独裁」という言葉がありましたが、
それでいけば「開発民主主義」なのか(笑)
資源国ならではの止まらない、止められない開発なのか。

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シドニー行:ダーリングハーバーまで

2019年01月06日 | オーストラリア:シドニー

シドニー博物館で200年以上を歩き回ってクタクタに



見聞したばかりの地理や建物を見に行きたくとも



街歩きをする元気がなく



足はサーキュラーキーへ

この日はクルーズ船が入港していました。


まさに水上のホテル



フェリーに乗ったら

オペラハウスがほぼ正面。


シドニーの摩天楼



対岸ノースショアの高級アパートメント



その間のハーバーブリッジ

歴史という来し方を知ると一段と親しみが湧きます。


下から見上げると本当に驚く幅です。

全長1,149m、幅49m、高さ134mなんだそうで、
2012年にバンクーバーに抜かれるまで世界で最も幅広い橋として
ギネス世界記録に認定されていたそうです。



車道8車線と線路があり、歩行者、自転車が同時に通過できる

実際に目にしてこそ感動する規模でした。


すべてが大きいオーストラリアの象徴に思えてなりません。



ウォルシュベイを通過。



その上を電車が通過していきます。

いつかオークランドのハーバーブリッジもこうなったら
(※海底トンネル案が有力ですが)


東側のオペラハウスから見るよりも

西日を受けて橋が明るく見えます


超高層ビル群が見えてきて



先には巨大な吊り橋アンザック橋

正確には吊り橋でも斜張橋というんだそうで、
アンザックはオーストラリアNZ連合軍のこと。


橋を支える2つの塔の上にはオーストラリア旗と
NZ旗が掲揚されているそうです。
こんな場所にNZ旗とは嬉しいじゃないですか
でもそっくりだから遠目にはどちらかわからない


ここにもクルーズ船が入港していました。

この規模の桟橋がいくつもあるんですねぇ


ウォルシュベイ並みかそれ以上の倉庫群ながら

どれもほぼ100年前のもの


いろいろな船が停泊していたり



航行していたり。



めちゃくちゃ目立つ最新の超高層ビル

HSBCが入居しているぐらいだから金融の新たな中心
インターナショナルタワーというんだそうで、2016年完成。


こんな場所に住宅もあってビックリ



やってきたのは

ダーリングハーバー

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シドニー行:200年を以上を歩き回って

2019年01月05日 | オーストラリア:シドニー

「父上」「息子」と呼び合ったフィリップ総督とベネロング
 


その話だけならば、植民政策の理想のような展開ながら、
そんな植民地が世界中のどこにもなかったことは史実であり、
親密な2人にも様々な思惑があったことは想像に難くありません。


先住民族たちは、「仕返し」やその他自分たちの掟をもって
入植者たちと渡り合おうとしたものの、相手には通じず、
関係はすぐに行き詰まってしまいました。


入植者たちは侵略者であり、略奪者でした。
アボリジニの掟を次々に破って土地や女子どもを奪い、
生活の場である森を焼き払う恐ろしい人々でした。


入植者と先住民の小競り合いが絶え間なく続き、
銃で武装した入植者への抵抗は命がけでした。
そして流血の惨事が繰り返されていきました。


ぺムルウェイという類まれなリーダーは各部族の戦士を率い、

(※ぺムルウェイ)


植民政府に抵抗し、ベネロングと正反対の道を選びました。

(※ボディペインティングを施したアボリジニの戦士たち)


1797年のパラマタの戦いでは自らも被弾して重体となり、
病院で手当てを受けましたが、その後病院を抜け出し、
不死身説が出たり、首に賞金がかけられたりしました。
1802年に射殺されるとその首はロンドンまで送られました。


1810年には5代目にして最後の総督ラクラン・マッコーリーが着任。
シドニーの道路網や数々の公共建築の建設に着手するだけでなく、
元流刑囚に入植者としての機会を与え、街の発展を急ぎました。


マッコーリーの下、ニューサウスウェールズ州は流刑地から
貿易都市へと変遷を遂げ、オーストラリアという国家としての
概念が芽生え、彼を「建国の父」と称するのもそれゆえです。
1822年に帰任し、1828年には入植者だけで人口1万人以上に。


マッコーリーが帰任した1822年のパラマタ



マッコーリーが建設したハイドパークバラックス

当時は男性流刑囚宿泊施設、現在は博物館


1830年の服役中のギャングたち

みんな足枷をしており、いかにも悪そう(笑)


1844年にスザンナプレイスができています。

ロックスがスラム街と呼ばれていた頃。


鉄道が次々と敷かれ



20世紀を迎えても



街やインフラの拡大が続き



1940年代でこのモータリゼーション

なんと豊かな暮らしぶり


私が生まれた1960年代にはこんな生活もあったんですねぇ



キャンプもしてるし(笑)



とまぁ、200年以上の歴史を猛烈に見て、読んで、歩き回って
くったくた(笑)
また再訪しましょう。


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シドニー行:総督官邸跡地に建つシドニー博物館

2019年01月04日 | オーストラリア:シドニー

2017年5月のシドニー旅行記も16本目となりました。
リアルでは20ヵ月遅れの話も、いよいよ3日目です。



=============



3日目の朝はココからスタート

バヒスタ・カフェ231
エリザベス・ストリートの231番地


目の前は緑豊かなハイドパークという立地



実はココ、到着した当日にも立ち寄っていて

コーヒーも


種類が豊富だった食事も



どちらも美味しかったので



再訪しました

で、全く同じものを頼んでいる私(笑)
朝からシーザーでスタートできるのが嬉しいポイント


なんとも可愛い

ディオールの店


女子力上がりそう

でも、今の私に必要なのは
生・命・力


ぶらぶら街歩きをしながらやってきたのは

シドニー博物館
初代サウスウェールズ州総督官邸跡地に建っています。


1788年に流刑囚700人以上を乗せた移民船が到着し、
着任したフィリップ初代総督が官邸としてこの地を選択。



官邸は増改築を繰り返しながら57年間使用されたそうです。



当時の間取りと



今でもそれが示された前庭



総督はシドニーの先住民族ガディガルと友好関係を築き、
紛争を回避し、食糧を確保しようとするものの上手くいかず、



あろうことか密使を送り込み、ガディガルの民を誘拐してきました。

こういうところが武官なんだろうか?


1789年に最初に誘拐されたアラバノオは天然痘で亡くなり、
2回目に誘拐してきたのはベネロングとコルビーの2人でした。


戦士だったコルビーは鉄の足輪をつけたまま数週間で脱出し、
ベネロングはその後5ヵ月間、囚われの身としてでありながら、
相互の理解と友好を深めるために、大切にされたといいます。

(※ベネロング)


ベネロングは総督と親しくなり、流暢な英語を身に着け、
総督と夕食のテーブルにつくこともあったそうですが、
誘拐から5ヵ月後には、コルビーを追って脱出しました。


誘拐から1年もしない1790年に総督はベネロングとコルビーから
招待を受けて出かけていきます。


クジラが供され、贈り物を交換し、友好的な会話の最中に、
総督は突然、長老に槍で肩を突かれてしまいます。
民を誘拐し、土地を搾取し、木を切り倒した侵略者への
仕返しだったとみられています。


肩を突かれた後の総督とベネロングの再会の場面
前のカヌーがベネロング、後ろが奥さん。

先住民の掟では仕返し後、許しと和解が成立するそうです。


その後、エオラ・ネーションのガディガル人との交流が始まり、
ベネロングと総督は一段と親密になり、ベネロングは総督に頼んで
シドニー湾の小島にレンガの小さな家を建ててもらいました。


その跡地に建つのが今のオペラハウスなんだそうな

小島は埋め立てで岬となり、ベネロング・ポイントと称され、
その名を永遠に残すことになりました。
(※オペラハウスのレストランの名前でもあるし


1792年には帰任する総督とともにベネロングも渡英し、
イギリスに2年滞在して帰国しました。こうして
ベネロングはヨーロッパから戻った最初の先住民となりました。 


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シドニー行:初めてのディンタイフォン

2019年01月02日 | オーストラリア:シドニー

ロックスに始まりロックスで終わった1日。

さすがに疲れて帰りは電車に乗ってみました。


夕暮れの中央駅

初めての場所は便利なホテルに限ります。


さっそくブーンカフェ



朝ごはんから8時間後に再訪(笑)

気に入るとひつこいというか、
満足度が高くて他に行けない
(※がっかりするのが残念なので)


隣のスーパーでは仕事帰りらしいアジア系女性が
小さな子どもとお買い物中でした。

子育てしながら働く姿はかつての自分と重なります。


そのまま夜ご飯でもOKな勢いだったのですが、

せっかくなので他に行くことに


やってきたのはディンタイフォン

小籠包が有名な台湾のレストラン
「なんで台湾小籠包は上海でしょ
という疑問が拭えなかった店へ初訪問


台湾人オーナーが上海で食べた小籠包に感激して
起業したとテレビ番組で知って、納得しました



噂通り、平日の雨の日だというのに30分以上待ちました



やっとテーブルに通され、店内もちろん満席

蒸籠のインテリアがインパクト大


初めてなので基本のキ

小籠包2、3種類


食べかけ失礼

皮が破れない技術革新に驚嘆
化繊のような布が敷いてあります。
タピオカかなにか入っていそうな弾力性
その分、食感もゴムのような感覚が残り
小麦粉だけのとは別物に感じました。


サンラータン

驚くほど具沢山ながら味は淡泊


上海びいきならと期待した担担麺は、
「おっ
と身を乗り出すものが来ました。

これも研究の跡がうかがえるけれど、味は普通でした(素)


さすが有名チェーン店だけあって、食事、サービス、スピードと
あらゆる面で目配り気配りがある、オールラウンダー。
卒がなく、スキもなく、でも感動もなかった(笑)


私たちにとっては
「並んでまで食べるものだろうか?」
という疑問が残り、再訪はなさそうです。


ただし、この時点で私たちはシドニーでは他の店でも
平日に並ぶ
ということを全く知らずにいました


帰りはぶらぶらとタイタウン散策

夜遅くまでたくさんの場所でスイーツを売っているなんて、


オークランドにはないレベルのアジア化です。

ここまで数があるなら、滞在中はアジア食を堪能しよう
ということに。

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シドニー行:カラハーズレーンとビッグディグ

2019年01月01日 | オーストラリア:シドニー

新年明けましておめでとうございます。
初夢は連続でいろいろと見たのですが、
見すぎて何も覚えていません


なので、2017年5月のシドニー旅行記の続きを
続いたり止まったりの気まぐれブログですが、
今年もどうぞよろしくお願いいたします。
年内に2017年脱出が夢です(笑)



=============



スザンナプレイスを出ると目の前は不思議な空間

薄いネットのようなフェンスが立ち、奥には大きなYHA


フェンス右のホエーラーズアームスというのは、
かつてここに実在したホテルの名前で、
左側の民家も取り壊される前の原寸大です。


ここはグロスター・ストリートといい、



一本奥のカンバーランド・ストリートとの間は、

1788年に流刑囚700人以上を乗せた移民船が到着して以降、
彼らが多数暮らした、ロックスひいてはシドニー発祥の地


18~19世紀の暮らしぶりがうかがえる貴重な場所。

リアルな壁画


ということも、この時点ではよくわからずに

ブラブラ歩いていました(笑)


レンガの色、素材、不揃いさに時代の古さが感じられます。



やってきたのはカラハーズレーンという小さな小径

この小さなコテージは古そうだけど20世紀の家のよう。
試しにググってみたら普通に売買されていました(笑)



いきなりビックリな光景

この上はYHAや考古学教育センターになっていて、


まさに薄い不思議なフェンスの内側



剥き出しの岩にロックスというネーミングが実感できます。

あまりにも岩しかなく、先住民も住み着かなかった場所に、
流刑囚たちが住みつき、家によってはいつ誰が建て、
住んでいたかもわかっており、夫婦とも流刑囚とか(笑)


1809~1820年代にはジョージ・クリッブという有名な流刑囚が
ここで場を併設した肉屋を営んでいたそうです
クリッブは14年の刑に服しながらも、商業的に成功をおさめ、
借家も建てて入植者や元流刑囚に貸し出していたそうな。


クリッブは1810年頃に大きな井戸を掘り、水を確保しましたが、
からの汚水で汚染されてしまい、使えなくなりました。
井戸はゴミ捨て場となり、おびただしいゴミが堆積していきました。


そこから掘り出されたものの一部。

クリッブは酒の密造を疑われたものの証拠不十分で無罪に。
しかし、井戸からはアルコールの蒸留器が見つかり、
彼の有罪が証明されました


しかし、180年後に

1994年にビッグディグと呼ばれる考古学者とボランティアによる
一帯の発掘調査が始まり、さまざまな物が掘り出されたのです。
古くは1795年に建てられた30軒以上の家や
100万点以上の埋蔵品が発掘されたそうです。
蒸留器もその中のひとつ


YHAの中まで採掘現場そのままになっています。

生きた教育の場としては最高
修学旅行なら一石二鳥


カラハーズレーンは長い間スラムと称される場所でした。



1902年にここの住人だった15歳の少年がペストで死亡し、
州政府により周辺の家の取り壊しが始まりました。

ロックスではペストにより3人の死者が出たそうです。
(※ネズミの山~


取り壊し前のカラハーズレーン



今のカラハーズレーン

一部の石畳がそのまま残されていました。
次回はぜひビッグディグ考古学教育センターを訪ねてみよう


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シドニー行:住まわれ愛されスザンナプレイス

2018年12月31日 | オーストラリア:シドニー

2017年5月のシドニー旅行記も年内はここまで。
2019年早々に再開して先に進む所存です。
いつ2018年に突入できるのかと遠い目ながら(笑)


今年も超マイペースブログにお付き合いいただき、
ありがとうございました
どうぞ皆さま、良いお年をお迎え下さい。
来年もどうぞよろしくお願いいたします。


西蘭みこと



=============


午前中に散策したロックスに再び戻ったのは、ココのため。



スザンナプレイス



1844年にアイルランド移民だったライリー夫妻が建てた

労働者のための4軒長屋


この辺りは一帯でも一番勾配が大きく
ロックスという地名の由来になった場所で

正面は2階建てでも、背面は3階建てになっています。


ほとんど手を加えず170年以上前の姿をとどめているため、

レンガからして周囲との違いは明らか


現在はスザンナプレイス博物館になっており

午後のみツアーで参観できます。
参加した回の参加者は私たちだけでした。


なので本当は撮影不可なのですが、



特別に許可が出ました

キッチン


給水塔は博物館員用(笑)



氷で冷やす冷蔵庫

ちゃんとツードアになっている(笑)


洗濯場

確かシャワーも兼ねていたのではなかったか?


水洗トイレ

20世紀初頭にペストが流行し、ロックスでは多くの建物が
取り壊されたものの、ここには上下水道が完備していたため
取り壊しを免れたそうです。


ライリー氏の死後も、大家としてここに住んでいた

ライリー夫人が上下水道を完備したんだそうです。


夫妻やその後の住人は長屋の一角で雑貨屋も営み

店舗がそのまま博物館の入口になっています。


夫人の死後、建物はその名前にもなっている



姪スザンナの娘に遺産として残されました。



なんと1990年代まで借家として使われ、
150年にわたり100家族以上が暮らしていたんだそうです。
(※全員の名前がわかるところがスゴい!)

日本でいえばくぐり戸


質素な室内に不釣り合いな立派なピアノ



館内ではここで暮らしていた人たちの回顧談をまとめた
ビデオも観られます。かつての住人たちの中には
転居していった後もここを訪ねる人がいたそうです。

何年経ってもほとんど変わらぬ風景に


ここで過ごした過去が胸に迫ったのではないでしょうか。

2014年にはかつての住人や隣人、現在のロックスの住人や
一般客ら800人が集って170周年を祝ったそうです。


150年にわたって多くの人に住まわれ愛され続けたからこそ
170年以上経った今も博物館として生き続けるのでしょう


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