移住は帰らなくてもいい終わりのない旅。人生そのものも旅。そして気づき始めたあの世への旅。旅と夢限定ブログ
2021年3月のクライストチ
ャーチ・ウエストコースト旅
行は2月のマーティンボロに
続いて、ペッパーズに投宿。
ペッパーズ・クリアーウォーター
・リゾート・クライストチャーチ
私たちは豪ホテルチェーン、
マントラ(現アコーホテルズ
傘下)のオーストラリアらし
いカジュアルラグジュアリー
なリゾートコンセプトが気に
入っていて、チャーチにはそ
のトップブランドのペッパー
ズがあるので、1泊ながら下
見を兼ねてやって来ました。
マーティンボロ以来2ヵ所目
ゴルフリゾートだけあって、
NZ中の名門コースの名前が
ゴルフ場の中がリゾートと
高級住宅地になっていて、
住人も宿泊客もグリーンで見
(まみ)えるコンセプトです。
数期の工事でここまで拡張し
たらしく、違うタイプの建物
が秩序をもって共存しており
宿泊したのは3部屋物件棟の
マスターベッドルームのみ
1物件の部屋を個別に貸し出
せるようにした設計と管理は
オーストラリアの十八番かも
部屋並みに広いウォークイン
クローゼットにバスローブ
バスルームも部屋並みの広さ
窓の外は池でプライベート感
ベランダも十分な広さです
お隣は住居にしているようで
ホテルにしている部屋と違い
私物いろいろでのデコり具合
この商住一体感が私たちにと
ってはとてもオーストラリア
ここも住宅らしく、靴や洗濯
機、使わないフレームなどを
ガレージにすっきり収納中。
商住一体で生活感が出るので
はなく、住む人の生活がリゾ
ート化することで宿泊客に抵
抗のない雰囲気が保たれる
その辺はオーストラリア資本
は手慣れていると思います。
外からだと家なのかホテルの
1室なのかよくわからない
まだ建設が続いていましたが
敷地が広く、圧迫感はありま
せんでした。ここは中層物件
特にここは奥の方が高級住宅
地で、ラグジュアリー度高め
NZにもこんな場所があった
とコロナ禍で海外に行けない
ときで大いに感動しました。
1泊2日の滞在で30回ぐらい
「オーストラリアみたい」
と繰り返していた私たち(笑)
という話は、
コチラでも。
人工的に造られた場所であっ
てもそのあざとさが感じられ
ないのは、しっかりしたコン
セプトと十分な資本を投下し
て造られたリゾートだからか
家を所有したら管理費がメチ
ャクチャ高そう
ですが
たまに泊まりに来るだけなら
とてもいい場所かもしれない
カートで帰宅するゴルファー
今の夫には羨ましいかも(笑)
(👆この旅行後にゴルフ再開)
紅葉も始まっていました
ぜひまた来たい場所でした。
2021年3月のクライストチ
ャーチ・ウエストコースト旅
行4日目。空路でクライスト
チャーチに戻って来ました
さっそくクルマで向かったら
イースターバニーがラーメン
食べてた
、
ラーメン都
名古屋ラーメンがある~🍜
名古屋発祥の台湾にはない台
湾ラーメンが台湾では
名古屋
ラーメンになったというのを
当時名古屋に住んでいた長男
に聞いたことがありました。
(※台湾に留学していた母驚き)
海外ではやはり名古屋ですね
日本=ラーメンだし
抹茶やほうじ茶のシャーベット
ほうじ茶に興味津々
スプラウトたっぷりのサラダ
餃子の羽がきめ細かくキレイ
最高の焼き具合
夫の白湯味噌ラーメン
常に味噌なミソ男
私は迷わず名古屋ラーメン
長男はもう名古屋におらず、
食べる機会もなさそうなので
チャーチで食べられるとは
ほうじ茶シャーベット
白玉付きです
充実のラーメンに都会に戻っ
て来たのを実感しました(笑)
ホテルが中心から離れている
ので、さらにクルマで街中へ
可愛いオブジェに迎えられ、
適当に街ブラ開始
新旧の対比がこの街らしい
足場を外していたのでこのま
ま使われる建物のようです。
美しい石作りのファサード
アパートメントになるのかな
コンテナの後ろにもレンガの
ファサードが隠れています。
これも改装されそうですね。
でも時間がかかりそう
近くにあった名前からして蘊
蓄のありそうなエスプレッソ
バーで美味しい午後の1杯
@
ピルグリム(巡礼者)
カウンターに可愛いサボテン
🌵や多肉がたくさんあって、
落ちたり持ち帰られたりしな
い
と心配になったら、接着
剤で貼り付けてありました
つい震災の跡に目が行きます。
旅行者にはまだ不思議な光景
取り壊されたビルが多いので
剥き出しになった壁の壁画が
また、チャーチらしいです。
草むらを歩いているように見
えるゾウの一家がイイ感じ。
かつてミニの販売店だったの
か?地震でも落ちなかった
手前は教会?なんでもあり
夜は友人たちと落ち合って、
KINJIで乾杯🥂(お茶参加者も)
肉厚のいぶりがっこにフィラ
デルフィアクリームチーズ
チ―ズの白が引き立ちます。
ネギたっぷりの角煮
オークランドではなかなかお
目にかかれない厚さかも(素)
ため息ものの刺身盛り合わせ
絶品
だった金目のかま
4人で「おいしい」連発でした。
KINJI特製KFC
キンジ・フライド・チキン
ケンタッキーが霞みそう(笑)
友人からの思わぬ結婚記念日
のお祝いをいただきました。
素晴らしい30周年記念に
友人たちの粋な計らいに感謝
2021年3月のクライストチ
ャーチ・ウエストコースト旅
行4日目はホキティカ空港へ
建物を見ただけでは空港とは
わからない小さな地方空港
レンタカー各社が入居する建
物。ここでクルマ
を返して
空港施設に入り通り抜けると
目の前は滑走路です
プロペラ機に乗り込んで
空路でクライストチャーチへ
トランツアルパイン鉄道とは
また違う行程を楽しみたい
ウエストコーストらしい一直
線の海岸線。海はタスマン海
どこでも流木が拾えそう(笑)
ホキティカの町とホキティカ川
またいつか
幾度も繰り返した氷河期の後
南アルプスから溶け出した氷
河に削られ平野になった場所
水資源も豊富です。
高い山が広がりアルプス越え
冠雪の時期だったら夢のよう
な白さが広がるのでしょう。
(※でも寒くて来られない
)
トンガリロの
エメラルド湖の
ような山中の宝石のような湖
山間を流れる川のような雲
これは湖のよう。アルプスの
高さで空気が冷え、雲が生ま
れるのを実地見聞するよう。
アルプスの西側だけに雲が発
生して雨をもたらす様子は、
まさに
この図のとおりです
やがて見渡す限りの雲海に
西の空がほんのり紅いです。
飛行機が高度を下げ雲の中へ
雲の下に抜けたら今度は東海
岸が見えてきました。ホキテ
ィカからクライストチャーチ
は南島のウエスト並みの細さ
真っ平らなカンタベリー平野
あのゴルフ場に小さな家が並
んでいる場所はもしかして?
もしかしまして、そこに到着
ペッパーズ・クリアーウォーター
・リゾート・クライストチャーチ
2021年3月のウエストコー
ストはホキティカに2泊。初
日の夜こそ
タイ料理でしたが
熱心な教徒を生むほどの地元
の
ホワイトベイトを食べずし
ては帰れません
(冷凍でも)
こういうのが食べられる
2日目の朝は時計台カフェこと
クロックタワーカフェへ
時計台正面でまさに町の中心
YES!We're OPEN(営業中)
と知らせないと、コロナ禍で
営業中かどうか不明の店多数
コーヒーとキャビネットフー
ドで簡単に済ませ、ランチに
舞い戻りました。ここでホワ
イトベイトが食べられたから
思ったより薄くてホワイトべ
イトが少なく感じたけれど、
こんなものなのかな
私は「今日のスープ」でした。
缶詰っぽさがあるのは気のせ
いか、そうではなかったのか
あの日が仕事の初日だった彼
女が正直に一生懸命でした
2日目の夜は時計台を抜けて
ビーチへ。
初秋を感じるきれいな鱗雲
西の果てで見る絶好の夕陽
夕焼けフェチの夫が涙ぐむ
飛び回るカモメが幻想的
ビーチフロントホテル・ホキ
ティカにある、
オーシャンビ
ュー・レストラン&バー🥂
ビーチに面して夕陽見放題の
ここに泊まるという発想がな
かったプチ後悔先に立たず
サンセット・ハッピーアワー
そしてホワイトベイト
季節限定メニューでしたが、
3月末にはまだありました。
肉厚、ホワイトベイトもぎっ
しりで、バターも惜しまず
おいしかったです
夫のサーモンと
私の「今日のお魚」
サラダを添えて
メインはホワイトベイトだっ
たので満足な最後の食事に
陽が落ちたとたん辺りは茜色
いい所でした、ホキティカ
また来ましょう
2021年3月のクライストチャ
ーチ・ウエストコースト旅行
の3日目は、
ブルナー炭鉱跡
見学の後に、ふらっと海岸へ
ホキティカ同様流木だらけ。
山が迫り耕作地は少なそう。
ペンギンがいるそうです
会ってみたい
グレー川河口近くの橋。対岸
はグレイマウス市街地です。
それらしい建物が見えます。
サブウェイがこんなに大きい
というか他に目立つ店ナシ
手前の細長い赤い屋根が
トラ
ンツアルパイン鉄道の終点の
グレイマウス駅
古いレンガ造りの建物は手前
がNZを代表するダニーデン発
祥のビール、
スぺイツのバー
奥はロイヤルホテルというか
つてのホテル。今はパブ🍻
大きな建物は飲み屋ばかり
見事な地層。見る人が見れば
鉱物が出るとか出ないとか、
わかるものなんでしょうね
市街地を抜けてやって来た
1868年創業のビール醸造所🍻
モンティースブルワリー
金の発見から4年後の起業で
さぞや当てたんでしょうね
まだまだコロナ禍でハンドサ
ニタイザーと立ち寄り先のス
キャンが必須だった頃です。
水もタップから出る凝りよう
ビールを飲まない私に鮮度の
違いは判りようがありません
が、飲む人にはたまらない製
造元の鮮度なんでしょうね
ビールとワインで乾杯
ポテトフライも種類があって
迷わずシューストリング👞
NZでは珍しいと思います。
長いのは20cmぐらいあり
どんなジャガイモなんだ
店内の山積みの長靴は演出
それとも工場見学用実用品
毎日4時から工場見学ができ
ましたが、時すでに遅し
(👆常に行き当たりばったり)
またいつか機会があれば
工場からクルマで車道に上が
ると目の前に救世軍の施設が
救世軍といえば元はアルコー
ル中毒者の更生支援を主とし
ていた慈善団体で、モンティ
ースで飲んだくれる人たちを
19世紀から見守ってきたのか
目と鼻の先の距離がナイス
2021年3月のクライストチ
ャーチ・ウエストコースト旅
行3日目の
ブルナー炭鉱跡。
史跡はグレー川の両岸に広が
り、目立つ対岸の高い煙突。
近づくと緑に埋もれているよ
ようで高さが目立たないほど
ここはタインサイド炭鉱跡。
煙突がなければただの山肌。
坑道があったブルナー炭鉱と
違い、ここは地表から垂直に
設けた竪坑で坑内へ。1874
年に開坑。76年に鉄道開通。
かつては6基の煙突が稼働し
タインサイド炭鉱の活況を象
徴していました。生産のピー
クは1906~7年でブルナー鉱
山全体の12%を占めました。
これも耐火れんが製。見事に
緩やかな孤を描いています。
現存する唯一の煙突です。
1864年のブルナー炭鉱の開
坑以降、町の建設は川を挟ん
だ対岸で進み、限られた平地
に住宅、集会場兼学校、ホテ
ル、教会が建ち並びました。
(※橋の完成の7年前の1870年)
1884年の住宅
1877年に町と炭鉱が橋で結
ばれ、1887年には550世帯
2,000人以上が暮らす町に
1890年頃
1870年代はイギリスの炭鉱
労働者にNZ移住が奨励され
ました。イギリスでの閉山に
よる失職、NZ政府による無
償渡航保証、NZの炭鉱会社
の誘致などもあり、彼らはブ
ルナーにも移り住み『南のイ
ギリス人』と呼ばれました。
(※1880年代の移民)
1869~89年のブルナーの出
身国別人口比は88%がイギリ
スとアイルランド出身者で、
(※NZ生まれはわずか6%)
出身地も全国に跨りました。
坑内に入るのを待つシフト制
の炭鉱労働者。(※1887年)
ハチの巣コークス炉技術も彼
らがもたらしたものでした。
炭鉱の町は金鉱の町と異なり
男社会ではなく家族中心で、
炭鉱労働者に伴い、妻子、両
親、親類縁者が揃って移住し
てきたり、定住後に呼び寄せ
たりすることが普通でした。
(※1906年の結婚式の写真)
そこに歴史的惨事が起きます。
1896年3月26日はいつもと変
わらない木曜日でした。しか
し、その日に限り荷役馬が坑
内に入るのを嫌がり震えてい
ました。御者はとうとう馬の
頭にコートを被せて坑内へ。
その1時間20分後、NZ史上最
悪の炭鉱爆発事故が起き、65
人の尊い命が奪われました。
この日は『暗黒の木曜日』と
呼ばれ衝撃は現地だけでなく
全国に広がっていきました。
NZでは今に至ってもこれを
超える労働災害はなく、事故
を機に労働環境の安全性向上
や残された家族への支援が本
格化しましたが、家族の哀し
みと苦しみは決して癒えるこ
とはなかったことでしょう。
喪服で埋め尽くされた町
失われた命に合掌
馬も亡くなったはず(涙)
今はただ緑の中で、静かに眠
るようだったブルナー炭鉱跡
ダニーデンの
タイエリ鉄道で
見た一時は人口5,000人が住
んでいたという、山間の鉱山
ヒンドンを思い出しました。
20世紀初頭にピークを迎えた
NZの鉱山はどこも似たような
道を歩み歴史の1ページに
2021年3月のクライストチ
ャーチ・ウエストコースト旅
行3日目の
ブルナー炭鉱跡。
最盛期にはグレー川沿いに7
ヵ所の炭鉱があり、ブルナー
はその1つ。ウエストコース
トで金が発見された1864年
に開坑し、1942年に閉山。
ブルナー炭鉱では1869年か
ら耐火れんがの製造が始まり
オーストラリアからの輸入品
に取って代わっていきます。
1874年にブルナー石炭層の
下に良質の耐火粘土層がある
のが発見され、れんが製造は
鉱山に付随した一大産業に。
1886年のれんがのストック
1897年頃のれんが製造工場
原材料の粘土を砕いたり、レ
ンガを形成したりという一連
の作業が行われていました。
一時は同時に3,000個のれん
がを製造するまでになり、ブ
ルナーれんがはその品質と耐
火性から人気を博し、国内は
もとよりオーストラリアに輸
出された時期もありました。
(※1913年頃)
工場そのものも耐火れんが製
周囲には今もたくさんのれん
が残っていますが、歴史遺産
の一部として持ち去り厳禁
赤い屋根の下の巨大ピザ窯
ここでれんがや耐火粘土製品
(暖炉用品など)を平均4日かけ
て焼いていたんだそうです。
これらはハチの巣コークス炉
と呼ばれ、北イングランドの
ダラム炭鉱で確立されていた
もので、移民によってもたら
されこの地に定着したそう。
れんが製造は1890年には鉱
山収益の8%を占めるまでに
なり、20基以上のコークス
炉はフル稼働状態でした
(※1885~86年頃。コークス
を袋詰めにする労働者たち)
1902年のハチの巣コークス
炉(右)とコークス作業場(左)
工業製品には決して真似るこ
とができないこのぬくもり
1世紀を経ても整然と美しい
良質の耐火れんがの大量生産
は人口増による建設ラッシュ
で1922年まで続いたものの、
粘土供給が底をついたためハ
チの巣コークス炉は廃炉に。
今は世界的に希少な歴史遺産
1903年
左が炭鉱入口、右がれんが工場
2021年
れんがにその名を留めるのみ
2021年3月のクライストチ
ャーチ・ウエストコースト旅
行3日目の午後はブルナーへ
ホキティカから北上してグレ
イマウス、そして少し内陸に
入ってクルマで小1時間ほど
橋でつながるグレー川両岸で
かつて活況を呈した
炭鉱跡。
歴史散策コースになっていて
史跡には豊富な写真や解説も
青く見えますが、この川もホ
キティカ川同様、名前の通り
灰色の川
ここを初めて訪れたイギリス
人は1848年にマオリの案内役
とやってきた測量士兼探検家
トーマス・ブルナーでした。
その後20年もしない1864年
(ウエストコーストで金が発
見されたのと同年)に採炭を
開始。ブルナーの名を冠した
炭鉱の歴史が幕を開けます。
(※1866年のブルナー。交通の
足はグレー川を行く船のみ)
ブルナーは19世紀のNZで最
も生産性の高い炭鉱となり、
地下の坑道には日々男たちと
荷役馬が入っていきました。
(※1900年頃。石炭を運ぶ馬)
生産性の向上に一段と弾みを
つけたのが輸送手段でした。
採炭開始12年後の1876年に
はブルナーからグレイマウス
まで、鉄道が開通しました。
(※この先はグレイマウス)
今は
トランツアルパイン鉄道
私たち乗って来たのとは逆方
向のクライストチャーチ行き
が走っていくところでした
それまでは石炭をグレイマウ
スまで、船で運搬していたの
で効率の向上は歴然でした。
(※1866年のグレイマウス港)
両岸を結ぶ吊り橋ブルナー橋
も同年に完成の予定でした。
しかし、設計ミスから完成目
前に橋が落下してしまい💦8
ヵ月後の1877年に正式開通。
石炭を積んだトロッコは、こ
こから荷役馬に引かれ対岸へ
橋は再建時に幅が広げられ、
1877年の開通後にはこの活況
輸送を待つ貨物の量が驚異的
これを人力で掘り、馬がここ
まで運んでいたのですから
引き込み線のトロッコの模型
橋はトロッコが頻繁に行き交
ったため、1885年に橋の上に
歩行者専用の歩道橋を増設。
1892年には5分おきにトロッ
コが行き交う交通量でした。
(※山の手線か
)
馬は1回10トンのトロッコを
引かされていたという過酷さ
空になったトロッコを引いて
橋を渡って行く馬に胸が熱く
なります(1890年頃)。人間
の飽くなき欲望に、息絶える
まで働かされたのでしょう。
2021年3月のクライストチ
ャーチ・ウエストコースト旅
行3日目は、見事な晴天に
南アルプスと手前の平原を見
ながら向かった先は、友人に
勧められたホキティカ渓谷。
1周2km、1時間の周遊コース
NZらしいレインフォレスト
レインフォレストといえばN
Zの場合はまずシダが筆頭。
鬱蒼といた日陰でも瑞々しく
放射状の常緑がなんとも綺麗
コースには2ヵ所の吊り橋が
ありホキティカ川を渡って渓
谷を両側から堪能できます
この吊り橋は2020年に完成
コーヒーを流したような茶色
しかし、後はひたすらグレー
この砂が流れ込んでいくから
観光案内では盛んに碧緑の水
とされていましたが、行った
ときは大雨の後だったのか、
グレーにしか見えませんでした。
まさに周辺の岩の色で、白く
混濁して、まるでにごり湯
清涼なせせらぎと鮮やかな苔
遠目でも橋の新しさが判る
美しい上に、北島では見ない
ような種類が多い気がして、
シダばかり撮っていました
遊歩道はよく整備されていて
とても歩きやすかったです
辺り一面、グリーンと
グレーと(笑)
水辺まで降りられる場所があ
り岩➡石➡砂と砕けていくの
がよくわかりました。これが
川を流れ河口に堆積していき
難破の名所に一躍買ったのか
2つ目の古い吊り橋
この辺りは絶景ポイントです
古い橋は狭いので1度に6人
1000kgまでの表示があり、
それって1人166kg換算
安全第一ですが
ザ・ホキティカ渓谷な眺め
砂場つきです(笑)
ウエストコーストはNZで最
も降水量の多い地方で、特に
南アルプスから10kmのクロ
ップ川という地点では、年間
降水量が1万2,000mmとい
う、桁違いの多さだそう
これは気団が南アルプスに当
たって急速に冷えることで雨
になるという地形的なもの。
沿海部の年間降水量も2,500
~3,000mmと鹿児島県並み
レインフォレストは安泰か
ぜひいつかターコイズブルー
の水の色を見てみたいです
2021年3月のクライストチ
ャーチ・ウエストコースト旅
行2日目も夕方になりました
が、まだまだ陽の長い時期。
クルマでやって来たのはマヒ
ナプア湖。湖の名はマオリ語
で『夜明けか夕暮れの仄かな
灯りに咲く花』という女性の
名前なのだそうで、マオリの
言い伝えが色濃く残る場所。
17世紀までのウエストコース
トは主にカティワイラキ部族
が支配していましたが、希少
なジェイドを求めて東海岸か
らカイタフ部族が攻め入り、
戦闘が繰り広げられました。
この湖ではカイタフのいかだ
が沈められ、多数の犠牲者が
出たそうです。最終的にカイ
タフはカティワイラキを破り
この地とジェイドを手中に収
めましたが、戦闘が続いた湖
は神聖な場所となりました。
大きな桟橋が目を引きます。
1864年の金鉱発見以降20世
紀初頭まで、ここは水上ハイ
ウェイの一部でした。ホキテ
ィカから金鉱のあるロスへと
一攫千金を夢見る男たちが世
界中から押し寄せたのです。
蒸気船まで運行していました。
ロスは今やクルマで20分です
が、当時は海岸線の道がなく
湖まで行き、船で南下するの
が手っ取り早かったのです
活気というより殺気漲るよう
な光景に見えます(笑)1867年
にホキティカで建造された2
艘の蒸気船は、かなりの部品
を難破船から回収したそう。
難破の名所の地産地消
桟橋周辺はシャンハイベイと
呼ばれ、大勢のゴールドディ
ガーたちがどこから来ていた
のかが判るような地名です
(※ハワイに
ヨコハマベイがあ
るのと同じ発想なのでは
)
湖を南北に縦断する手段だっ
た船は旅客だけでなく、周辺
の木材の運び出しにも使われ
観光の目玉にもなりました。
当時使われていた船の模型
1905年に鉄道が延長されたこ
とで湖の渡し船は役目を終え
今や解禁時にハンティングが
できるほど人のいない場所に
(※キャンプはできます)
17世紀にマオリが定めた神聖
な場所に戻ったような静かさ
1905年創業マヒナプアホテル
この日は日曜日。日本と違い
日曜日は休業する飲食店が多
いので、小さな街では選択肢
はないに等しくタイ料理に🥢
コラス・タイ料理
同様の夕食難民が押しかけて
店内には注文する人の行列が
テーブルがあっただけでも
ラッキーだったのかも
ウエストコースト初日の夜は
まさかのアジア飯(笑)
2021年3月のクライストチ
ャーチ・ウエストコースト旅
行2日目のホキティカにて。
ホワイトベイターの小径があ
る広々したホキティカ川沿い
一帯はピアソン・エスプラネ
ードと呼ばれる遊歩道です。
ピアソンって
肘掛椅子アート
が捧げられていた、あの人
興味を持ち調べてみました。
ヘンリー・ピアソン
(1916-2003)
アメリカ人移民の祖父を持ち
生後18か月で両親をインフル
エンザで亡くし、7人の子ど
もがいる大家族の伯母の家で
愛情を注がれて幸せに育つ。
高校を中退して港湾局、道路
工事、製材所など建設関係の
仕事を転々としつつ大工とし
て経験を積む。1941年には仲
間とともに船を出してエジプ
トのカイロに赴き、軍事訓練
を受けて第二次大戦に参加。
1944年に帰国。48年に結婚。
50年代にはスポーツの怪我で
片目を摘出。自宅を建てた後
今は乳業工場
になっている
町の中心でキャンプ場を経営
ウエストランド乳業は2019年
より中国乳業最大手伊利傘下
これだけでもパイオニア精神
溢れる移民らしい華麗な経歴
ですが、ピアソンは人生後半
で政治の道を歩み始めます。
40歳でホキティカの市議とな
り、66~73歳は市長を歴任。
こうした功績から遊歩道に名
を冠され、海岸にアートが捧
げられ、さぞや地元で信望あ
る名士だったのでしょうね。
街のシンボルは大きな時計台
建設の目的は戦争記念碑で完
成は1903年。つまり第一次大
戦前で、第2次ボーア戦争(18
99‐1902年)での地元出身の犠
牲者4人と出兵した130人に捧
げられたもので時計は二の次
ボーア戦争記念碑というのに
まず驚かされましたが、4人
の犠牲者に募金を募ったとは
いえ、それだけの資金が集ま
り、これだけのものが建設で
きた(設計・製作はすべてオー
クランド。運搬後にここで組
み立てられたもの。4面の時
計はイギリス製)、当時のウ
エストコーストの権勢に驚愕
時計台完成後わずか12年で始
まった第一次大戦(1914~19
18年)は、犠牲者数としては圧
倒的な数にのぼったにもかか
わらず(出兵によるNZ戦没者
は全国で1万6,000人)、時計
台を超える記念碑が造られな
かったことに、この街の急激
な栄枯盛衰がうかがえます。
19世紀のゴールドラッシュで
街は一気にピークに達し、今
や信じがたいことながらホキ
ティカは一時、国内最大の人
口を抱え、金の枯渇で20世紀
の到来とともに過去の街に。
そんな時代の生き証人が意外
にも外資で建設されたカーネ
ギー無料公共図書館でした。
現
ホキティカ博物館
(※現在は改装で臨時休業中)
カーネギーホールで知られる
アメリカの鉄鋼王にして篤志
家アンドリュー・カーネギー
により建てられ1908年完成。
カーネギーは貧富の差にかか
わらず万人が書物を通じて教
育を得られるよう1879~19
17年にかけて5,600万米ドル
を投じアメリカ国内だけでな
く支援申請があった諸外国に
も無料図書館を建設し、その
数2,509ヵ所に上ったそう。
NZにも18ヵ所も建設されて
いたとは知りませんでした。
現在も12ヵ所の建物が現存
するそうでこれは興味深い
アメリカ系移民市長といい、
カーネギー図書館といい、NZ
の片隅で見つけた小さなアメ
リカ。捕鯨やゴールドラッシ
ュという19世紀独特のグロー
バリゼーションの片鱗のよう
今のホキティカは地方観光地
(※ジェイド、ボーン、シェル
カービングの店。マオリはジ
ェイドや貝殻だけなく牛骨、
鹿角、鯨歯などの天然素材を
独特の形に繰り抜き、アクセ
サリーというよりお守りにす
る伝統があり、ここは自分だ
けのオリジナルが作れる店)
消防署を改装したらしい消防
署という名のホテルに消防車
来てみて気づいたのが、街は
国内観光客より、かなり外国
人観光客に頼っていたようで
(※キウイとウナギ園)
世界を縦横無尽に行き来する
21世紀のグローバリゼーショ
ンから恩恵を受けていたホキ
ティカはコロナで想像以上の
直撃を受けていたようです。
(※こじゃれたB&B)
2021年3月のウエストコー
ストはホキティカの1日目。
ホキティカ川沿いの遊歩道に
いろいろな展示があります。
これだけでは何をしているの
かわからない北島の私たち
ホワイトベイターの小径
ウエストコーストでホワイト
ベイトを捕まえるのは趣味で
も競技でも、ましてや商売で
もない。それは宗教なのだ。
ケリ・ヒューム(NZの小説家)
「ウエストコーストのホワイ
トベイトは有名」ぐらいの知
識しかなかったので『宗教』
と断言されてビックリ仰天
しかし、展示された写真を見
ているうちに判ってきたかも
老弱男女が精を出し
冷たい水
に入ったり
(※漁の解禁は9~10月の春先
で南島はまだまだ寒い時期)
お手製の仕掛けを作ったり
ホワイトベイト教徒なのか
そもそもホワイトベイトとは
なんでしょう。シラスと和訳
される透明な稚魚の総称で、
NZでは
5種類のガラクシアス
属とワカサギによく似たスメ
ルトの6種類の回遊魚です。
(※シラスでもイワシは含まず)
長さはどれも5cm前後
ロトルアで知った滝登り
が
できる
コアロもその1つとは
中でもマオリ語でイナンガと
呼ばれる寿命1年の年魚が主
流で、イナンガの一生とは、
成魚が秋に河口の水草に産卵
2週後孵化し稚魚は海で越冬
(👆コレすご~い
)
生き延びれたら春にはホワイ
トベイトとなり川を遡上して
成魚は淡水で春夏を過ごし、
秋には川を下って産卵し一生
を終える降河回遊魚
の生涯
(※基本は川魚で海に降りて産
卵し稚魚が川をさかのぼる魚)
まるで昆虫のように短命
マオリは伝統的にホワイトベ
イトやイナンガ漁をしており
NZフラックス(ニューサイラ
ン)の繊維で編む魚籠も活用
これに入植者たちもハマって
いつしか宗教にまで発展
セスナ機まで使って漁を行い
その日のうちに列車でクライ
ストチャーチまで輸送してい
た時期もあったそうで、まさ
に
トランツアルパイン鉄道が
ホワイトベイト鉄道だった
乱獲防止だけでなく釣り人た
ちの揉め事予防も兼ねて国が
細かい規定を定めています。
20mに定置網なら2人まで。
網なら4人まで
網ならこんな感じと距離感
定置網なら網まで長さ3m
長くすれば乱獲になるのか、
網の人の漁を邪魔するのか?
昔の写真ですが今なら
解禁時期にはウエストコース
トのあちこちでホワイトベイ
トフェスがあるらしいです。
(※これもそのひとつ)
肝心な食べ方はフリッタータ
にして食パンに挟むのが王道
溶き玉子2個にホワイトベイ
ト250g、レモンジュース大さ
じ1、塩コショウを混ぜ、フ
ライパンにバターを溶かし入
れ、黄金色になるまで両面を
こんがり焼いて、パンに挟む
新鮮なものが手に入る今が旬
(※それ以外の季節は冷凍もの)
我が家は毎年オークランドの
レストラン
KAZUYAで
ホワイ
トベイトパスタで旬を満喫
今年のは特に大きく7、8cm
はあったかも。ウエストコー
ストの南端カスケード川産
ラグビーが勝って、ビールが
冷えていて、ホワイトベイト
の季節になれば、心は黄金色
ゴールドラッシュで近代史が
始まった西の果ての町が新た
に見出した透明の生きた黄金
がホワイトベイトなのかも
2021年3月の結婚30周年記
念旅行2日目は、
鉄道で西海
岸に抜け、
ホキティカに投宿
寒いわ、強風だわ、雨だわで
初っ端からワイルドウエスト
の洗礼
を受ける私たち。
突端は海と川に挟まれた鳥の
嘴のような砂嘴になっていて
右には座礁した船のレプリカ
中にはベンチがありました。
左はホキティカ川の河口です。
辺りは難破船記念公園という
観光スポット
になっており
こんな天気の中でも☔歩き回
っているのは観光客
のみ。
海から吹き付けて来る風、波
そして潮の強さが半端ない💦
ホキティカ海岸が流木海岸と
俗称されるのもむべなるかな
1864年にウエストコーストの
グリーンストーンで金が発見
されるとゴールドラッシュが
起き一攫千金を夢見て荒くれ
男たちが世界中から押し寄せ
👇
👇
👇
ホキティカは難破の名所に
河口に堆積した砂で座礁する
船が後を絶ちませんでした。
遠路はるばるやって来て、こ
んな光景に迎えられたら青ざ
めるってもんですが金に目の
眩んだ男たちには関係ない
問題はむしろ船会社の方かも
強風や悪天候で舵が取れずに
砂に乗上げ動けなくなっても
壊れない船が多数あったとか
その場合、ジャッキで持ち上
げ、巻き上げ機で吊り上げて
ホキティカ川に降ろすという
"丘越え"手段が採られたそう。
強風で雲が吹き飛ばされたの
か、あっという間に晴れ間が
このは船は1866年に嵐で難破
したタンボ。ホキティカで難
破した42艘の船を追悼してレ
プリカが造られたそうです。
乗ってみるとわかる小ささ
沖合の漁船のような大きさで
嵐の中、見るからに岩の多い
浅瀬に向かって来るのは150
年前では命がけだったのかも
かつての往来を偲ばせる唯一
の建物がこのホキティカ税関
家より小さい歴史的建造物
ここは守衛の詰め所だった
すべてが19世紀の夢の跡
2021年3月の結婚30周年記
念旅行2日目。
トランツアル
パインの終点グレイマウスに
到着。しかし、大雨の中で、
レンタカーを借りたりしてい
たせいか駅舎の写真がない
グレイマウス最初の写真は人
影のない雨の中の街の中心部
ぜひ来てみたかった店
セブンペニー
思わず見入ってしまう圧倒さ
れるグリーン
のインテリア
造花であっても瑞々しく、ラ
イティングや色味を抑えた木
目の家具とのセンスは抜群
アタリの鐘が鳴り響く店
コーヒーからして大アタリ
そしてとんでもないケーキ
ハズレる訳がない余裕の作り
作り込みすぎない熟練の逸品
旅先の感動を約束するよう。
店の正面の生垣がナイス
コロナ規制が緩和されたとは
いえ、まだまだ観光客の姿は
なさそうで、雨の中時折りク
ルマが通りすぎる程度です。
外国人どころか国内観光客も
疎らで大変そうなみやげ屋
ロトもある多角経営でファイ
西海岸は天気が荒れることで
有名ですが滞在中はどうかな
宿泊はグレイマウスではなく
クルマで30分ほど南下した
別の街ホキティカ
便利そうな立地のモーテル
ベラビスタ泊
全国規模のモーテルチェーン
ウェルカムドリンクはミルク
モーテルといえば、コレ
「ここだったのか」
写真でよく見る流木オブジェ
流木が流れつくのもわかる
タスマン海からの強風荒波
ワイルドウエストを実感
波しぶきで周囲が霞むほど
この辺も流木。自然にできた
のか、何かが壊れた後なのか
海岸にぽつんと肘掛け椅子
ピアソン家がヘンリーとパッ
ト・ピアソンに捧げたアート
座って海を眺められます。
思えば遠くに来たもんだ
2021年3月の結婚30周年記
念旅行2日目はホテルを出て
いよいよ旅のハイライトへ
トランツアルパイン鉄道
東海岸のクライストチャーチ
から西海岸のグレイマウスへ
の5時間のNZ南島横断鉄道。
コロナがなければ結婚30周年
記念は、オーストラリア大陸
横断鉄道
インディアンパシフ
ィックに乗るつもりでした。
コロナで断念し、それならば
「NZで鉄道旅行ができる所」
と、トランツアルパインでウ
エストコーストへと計画変更
全行程5時間とはいえ南アルプ
ス超えを含むNZらしい起伏に
飛む景色に期待しましょう
クライストチャーチ駅集合で
チェックイン後は指定の席へ
NZ国鉄キウイレールが運行
窓が大きくいかにも観光列車
通過しながらGPSの自動制御
でピンポイントの観光案内を
ヘッドホンで聞けました🎧
途中の駅から乗り込む人も。
真っ平らなカンタベリー平野
入植したてのイギリス人たち
が南島にこだわったのが判る
放牧にも農作にも適した地。
徐々に人の気配のない場所へ
山も見えてきました
アイスブルーのワイマカリリ川
岸の白さもあり際立つ美しさ
山に入るや天気が悪化して、
虹
が見えるオマケつき
到着したのはアーサーズパス
周囲を南アルプスに囲まれて
いて、ここの標高は737m👆
道路も鉄道もクライストチャ
ーチから西海岸に通じる唯一
のルート。交通の要所で、一
帯は国立公園でもあります。
キウイでもそうそうは来ない
せいか写真
を撮る人多数。
この間に車両は整備中でした。
小さなミロミロ(ニュージーラ
ンドヒタキ)が駅舎で雨宿り
3月でも寒いねぇ
ここから旅の後半で終点まで
2時間半。島の西に入ります。
食事も頼めましたが、到着後
のカフェを楽しみに食堂車で
買ったトルティーヤで簡単に
これがなかなか美味しい👍