移住は帰らなくてもいい終わりのない旅。人生そのものも旅。そして気づき始めたあの世への旅。旅と夢限定ブログ
翌日はいよいよ帰国という、
2019年8月のパースも5日目
目抜き通りの歴史的建造物を
後に住宅街に入ってくると、
歴史保全指定を受けている建
物にはプレートがあります。
外観を変えられないなど、保
存のためにいろいろ規制があ
るそうです。その点、オース
トラリアは非常に厳しい印象
で
再建という話もあったり。
その点NZは緩くて残念です
19世紀末か20世紀初頭の家と
レンガ造りの店舗らしい建物
柱に貼ってある張り紙は
「ただちに歴史的建造物保護
を求む」とあり戸建ての家と
しての保全を求めています。
文言は違いますが、この家も
保全指定を求めているよう
指定を受けると建物だけでな
く、庭や庭木まで保全しなけ
ればならない場合もあり、現
状維持のために団体や州から
助成金
が受けられるとか。
生きた歴史を保全したい、し
かし古い家
は維持費がかか
るという点で、指定を受けた
いと考える家主も多いよう。
特に年金に頼る高齢者にとり
維持費は相当の負担のはず。
また高齢者こそ来し方に誇り
や愛着もあることでしょう。
19世紀のと思われるレンガが
保存されています。同じもの
はもうありませんからね
ひと際立派な家には張り紙が
なく、すでに指定されている
のか家主が負担できるのか。
見事な多肉鉢
やってみたいのですが、なか
なかこの大きさにならない
大きなレンガ造りの邸宅や、
相当な広さがある邸宅と庭園
でも心惹かれるのは小さい家
クラシカルでエレガントな垣根
街路樹とのバランスも絶妙
見たことのない古そうな石畳
珍しい2階建て。かつての宿
泊施設が民家になったのかも
19世紀のらしい個性的な家
屋根飾が珍しく、デッキのエ
ンタシスは後付けでしょう。
立地からしてここも古い家だ
ったのでしょうが、改装して
ガレージも増築されてモダン
な造りになっています。誰も
が歴史保全を望むとも限らず
街並みを維持するには、行政
が関与しないと難しいです。
それには費用もかかります
最後に元ギルフォード消防署
ギルフォードの消防団員だっ
たKCダンカンが設計し1934
年に完成したアールデコで、
西オーストラリア州の消防署
の雛形になったそう。半鐘や
団員の宿泊所などもあります
が、消防署は2014年に転居
2019年8月のパースも5日目
時間も限られているので刑務
所見学ではなく、街歩きへ
1829年にスワンリバー植民地
の要所として建設されたギル
フォードは1984年に町全体が
歴史文化保存団体ナショナル
トラスト西オーストラリアの
保存指定を受け、1989年に州
指定遺産に登録されました。
私のような古い建物好きには
もってこいの場所でした
1865年に完成した地域集会場
後に技術訓練校となり、無学
の人たちが工芸や建築技術を
習得する学校となりました。
刑期を終えた流刑囚の社会復
帰支援も兼ねたのでしょう。
入口部分が増築された現在
郵便は植民地化当初は物資と
ともに民間の水上交通でまか
なわれていましたが、1835年
に郵便局が開設され、1870年
に
木造の建物が建設された後
1897年に町のランドマークと
なるレンガ造りの郵便局が新
設され、1901年に時計と鐘
が追加され時を告げました。
(※1897年の郵便局)
現在の郵便局
時計台部分が造り変えられ胸
壁ができ、鐘はそのままなが
らもう鳴らされていません。
保存状態はあまりよくありま
せんが、今でも郵便局です。
壁にはエリザベス2世の治世
を示す銘板。保守の地です。
それが古い街並みに似合う
1918年完成のカウンシルチェ
ンバー(町議会堂)と1938年完
成のタウンホール(市議会堂)
後者は典型的なアールデコ
現在もほぼ原形のままです。
当時のコートオブアームズ
こんなに内陸の錨マークが河
港の象徴ですが、この頃から
"陸の孤島”と呼ばれたそう。
1853年完成の流刑囚労働者の
兵站部。100km先の道路建設
などもここから担いました。
1933年以降はギャリックシア
タークラブという演劇場に。
増築に増築を重ねてゴールド
ラッシュの最中に完成した、
円屋根のギルフォードホテル
現在も変わらぬ外観ですが
なんと2008年に火災に見舞わ
れ、修復後2016年に営業再開
その3年後だったため非常に
美しく保たれていました
ギルフォード刑務所
OPEN
と
あったのは、
コレのことでした
私でも脱走できる
と思ってしまうほど小さい(笑)
植民地化で宿泊所ができて、
外部から人が流入して来たこ
とで地元民とのトラブルが増
え、1841年に留置所として建
設されたものが、1851年にL
字型の建物となり、その後も
増減築を繰り返しつつ1969
年まで(私が小学校2年生
)
使用され、現在は博物館に。
紫色の流刑囚施設とは別の緑
色部分の地元民用刑務所施設
隣同士だし、ややこしい💦
フリーマントル同様に
フリーマントル刑務所
当初は流刑囚用
ラウンドハウス
地元民用
に分けて収容していたため、
人口の割に刑務所が多く、流
刑植民地ゆえにその重要性も
高かったのだと思われます。
犯罪者がいれば裁判も必要で
1866年に建設されたギルフォ
ード裁判所は後の警察署で、
現在は観光案内所(笑)
時代とともに町にとって最も
重要と思われるものが入居
1866年となるとレンガが違う
大小濃淡の組み合わせです。
ここは1870年頃郵便局として
建設され、1898~1913年は
警察官宿舎となり、それ以降
は洗濯場となった建物です。
1913年当時の典型的な洗濯場
室内には郵便局風の展示が
心惹かれた小さなコテージ
ここはテイラー家コテージと
呼ばれ1860年代の典型的な
労働者階級の家。他所にあっ
たものを町の中心の一等地に
建て替えて展示しています。
長い軒下がベランダ代わり。
しかし、家は1LDKの一間
ここが一家15人の家でした。
元流刑囚エドワード・テイラ
ーは1874年の37歳の時に17
歳のエマを娶り、2人は13人
の子を設け、エドワードは青
果商として一家を養ったとか
同時に15人が暮らした訳では
ないにしても、電気も水道も
ない時代に両親はさぞや働き
づめだったことでしょう。
トイレは外
金だらいと洗濯板
広い軒下は気温が高いパース
で通年重宝したのでしょう。
元流刑囚に嫁ぎ13人を生み
育てたミセス・テイラー
天晴です
NZやオーストラリアでこの手
の木造の小さな家を見るたび
懐かしさと既視感が募り、過
去世のどこかでこういう家で
貧しくも楽しく暮らしていた
ことがあったに違いない私
この時もそう感じました
2019年8月のパース5日目は
パース近郊のギルフォードで
再び流刑囚の
刑務所見学
フリーマントル刑務所
(※1851年に囚人により建設
開始、1855年より収監開始)
ラウンドハウス(右下)
(※1831年完成の初の刑務所)
と、フリーマントルでも流刑
囚用と地元民用の刑務所を見
学してきたばかりでした💦
ギルフォードでは1852年に木
造の50人分の流刑囚収容所が
完成し、1856年にはレンガ造
りの200人分に再建され、囚人
専門病院、刑務官宿舎、事務
所、店舗も建設され、"流刑囚
需要”の高さがうかがえます。
(※1871年の収容所等の施設)
しかし、1850年から制度が廃
止される1868年までの18年間
に1万人近い流刑囚がスワンリ
バー植民地に送り込まれたこ
とを考えると、ギルフォード
の200人規模は町の経済規模
の反映といえ、タダ同然の労
働力をもってしても発展の余
地は限られていたようです。
収容所は1878年に閉鎖され、
単線だった鉄道の複線化で、
1897年に取り壊されました。
線路は今でもこのとおり。
役目を終えた収容所は姿を消
し、刑期を終えた流刑囚の多
くは労働者として雇われたり
事業を起こしたりして、町の
発展に貢献していったそう。
という訳で、流刑囚の刑務所
見学は幻に終わりました。濃
紫部分が主な流刑囚施設跡。
しかし、ギルフォード刑務所
OPEN
とあり、まだ刑務所がある
入場料は大人$5、子ども$3
こんな刑務官も立ってるし💦
キャプテン・スターリングが
1827年に到達し、「見たこと
もない美しさ」と評して情熱
とロマンを掻き立てられた
ギ
ルフォードは新しい植民地の
内陸の河港として期待され、
さらに内陸のヨークまで道路
建設が進められることに・・
しかし、それ以外はスワンリ
バーの水上交通に頼る陸の孤
島で、ギルフォードは植民地
総督となったスターリングの
思惑とは裏腹に、厳しい茨の
道を歩むことになりました。
(※入植者の自給自足生活が
しのばれる当時の生活用具)
入植はしたものの、植民地建
設に必要な資金も労働力もな
かったギルフォードは、土地
を得た地主といえども生き残
りを賭けて必死でした。カン
ガルーを撃って食用にし、領
土とそこからの食糧を奪われ
たアボリジナルから家畜を守
るため紛争が頻発しました。
土地を追われ、水や食べ物を
得る場所がなくなったアボリ
ジナルも、生き残りを賭けて
必死でした。「私有地」に入
って、そこにいる「家畜」を
狩ればそれは「略奪」となり
処刑という厳罰が待っている
という悲劇はオーストラリア
全土で繰り広げられました。
1829年の植民地化から5年後
の1834年にはアボリジナルと
の内戦状態に陥り、多大な犠
牲を出しました。1837年には
小麦の自給に成功したものの
余剰分を現金化する市場がな
く、食料不足が続きました。
1839年にスターリングの後任
にハット総督が着任し、入植
者とアボリジナルの子どもの
学校建設、蒸気製粉機導入、
白檀輸出などに力を入れたも
のの景気低迷が続きました。
川沿いの細長い耕作地は牧場
に適さず、ギルフォードを後
にする入植者が続き、労働力
としての流刑囚受け入れへの
要望が高まっていきました。
スワンリバー植民地の労働力
不足は、フリーマントルでも
見たように、局地的な問題で
はなく、植民地化開始から20
年の紆余曲折を経て西オース
トラリアはとうとう
1849年に
流刑植民地化を決定、翌年よ
り受け入れを開始しました。
囚人受け入れとなると必要と
なるのが、受け入れ施設で、
またまた刑務所
旅行中にこんなに
刑務所見学
をするのは初めてでした
引っ越しとその後の家の修繕
でちょっとバタバタしていま
した。しばらく不定期になる
かもしれませんが、できるだ
け更新しようと思います
=============
2019年8月のパースも5日目
せっかくレンターカーを借り
たので再び遠出
と思ったら
目的地ギルフォードは激近💦
パースからたったの13kmで
バスや電車もあり、
フリーマ
ントルの20kmより近い
まずはメインストリートの
G
MB(ギルフォードミルクバー)
ミルクバーという名前が古色
蒼然。NZやオーストラリア
では小さな町の雑貨屋やカフ
ェ、今のデイリー(NZ版コン
ビニ)的な存在だったものら
しく、地方によくあります。
そういう場所なのでお年寄り
が集い、高齢者割引もあり
ここで簡単な朝ごはんに
レトロなコークのスタンド
店の雰囲気に合いました。
地方にありがちなアジア料理
ここはベトナム料理でした。
NZやオーストラリアの小さな
町ではたいがいバーやパブな
ど飲む店しかなく、移民のア
ジア人が飲食店を出すとかな
りの確率で成功し地元に定着
します。でも人口が限られる
ので事業規模も限られます。
ギルフォードの近代史はパー
スと同じく1829年に始まり、
200年近い歴史があります。
西オーストラリアの拠点とな
るスワンリバー植民地建設の
命を帯びたキャプテン・ジェ
ームス・スターリングは1827
年に総勢18人の調査団と小舟
でスワンリバーを遡上して、
ギルフォードに到着します。
スターリングは「見たことも
ない美しさ」と評し一目で気
に入り、入植地として情熱と
ロマンを掻き立てられます。
一帯はよく開けた平地で「1
エーカー(64m四方)に樹木が
10本」という入植に理想的
な状態が報告されました。
肥沃な土地にスワンリバー。
大河は周辺の水系と交通の動
脈という植民地建設に欠かせ
ないライフラインを保証する
ものとして期待されました
しかし、調査団はこの時点で
4万年前からこの地で暮らす
アボリジナルが何世紀にもわ
たって焼き畑で一帯の管理を
行ってきたこと、肥沃な土地
は川の氾濫原にほぼ限定され
ることを知りませんでした。
スターリングの報告を基に、
1829年よりスワンリバー植民
地建設が始まり、最初の公式
拠点は港町フリーマントル、
内陸の河畔パースとギルフォ
ード、ケルムスコットの4ヵ所
で、ギルフォードは農業地帯
の河港として期待されました。
昨日の
離婚の夢。設定は衝撃
的ながら核心は別の所にあり
目覚めた瞬間にそれが判るよ
うになったのは長年の夢日記
の効用
だと思っています。
離婚された「私」も8歳の里
子も自分だったと気づいたの
は、前日に引っ越し荷物を片
づけながら、シートン動物記
を手にしていたからでした。
折に触れて語っていますが、
私の子ども時代は母から訳な
く疎まれる(その後理由判明)
という非常に辛く、寂しいも
ので、2~4歳ぐらいまでは
トイレや押し入れへの閉じ込
め、それ以降は縁側に出され
家に入れないという躾という
名の虐待に遭ってきました。
それでも母の怒りが収まらな
ければ「出て行け出て行け」
と詰め寄られ、里子に出され
る自分というものを漠然と心
に描きながら、動物たちが主
人公の物語にのめり込んでい
ったのがちょうど小学校3年
生、8歳の時だったのです。
今思えば人間不信の反動だっ
たのでしょう。今でも私は人
付き合いより動物好きです。
(※猫飼い歴はかれこれ30年)
両親の関係は子どもの目から
も冷え切っていて、離婚しな
かったのはひとえに母の世間
体と父の沈黙の結果でした。
夢の中の「私」は離婚に直面
しても、それが正しい選択だ
と思えばとっとと受け入れ、
里子に出された8歳の自分の
分身の手を引いて新しい生活
に挑んでいこうとします。
夢の中で両親ができなかった
離婚を実現し、自分にはなか
った親への信頼や追い出され
る不安のない子ども時代を保
証することで、養母と里子と
いう血縁ではない親子の可能
性に賭けようとしています。
半世紀も前の自分の子ども時
代を夢の中で懸命に生き直そ
うとしているのを感じます。
それが自身への癒しであり、
過去への許し、未来への希望
となって、いつか人生を終え
るまでに、心の中に溜まった
積年の澱を掻き出し決着をつ
けようとしているようです。
コロナの直前に片づけをし、
「もう2度と来なくていい」
と思ったら、力が抜けるよう
な安堵と達成感を感じた実家
に、夢とはいえ行こうとし、
そこが空き家であったことに
深い意味を感じ、決着が進ん
できていることを感じます。
父は昨年他界し、母は特養に
おり実家は売却されました。
パースの長い旅行記の途中で
切れ目がないので、見たとこ
勝負
で夢日記を挟みます。
=============
例によって衝撃的な部分しか
覚えていないので、話はクラ
イマックスから始まります
「私」は8歳ぐらいの男の子
と一緒に、白い洋館風の家の
中にいる若い知り合いの日本
人と窓越しに話しています。
そこは「私」の家で、「夫」
と住んでいましたが、留守中
に彼女が「夫」と住み始め、
自分が離縁されたという寝耳
に水の話を知らされました。
その「事実」だけでも衝撃な
のに、行きつけのレストラン
のウエイトレスだった彼女は
悪びれるどころか、明るく、
「みことさんが丹精していた
家を、私も一所懸命大事にし
ようと思っているんですよ」
と、前向きに言っています。
リアルな私は正直な彼女が好
きだったし、事の重大さが桁
違いで、不思議と彼女への怒
りは起きず、驚嘆と心の底か
らの失望と、今後の生活への
不安と段取りで頭がいっぱい
になり、彼女の新しい生活へ
の意気込みなど、まったく耳
に入ってきませんでした
最後の最後に、「私」は勝手
知ったる家の中にズカズカと
入って行き、本棚に囲まれた
古風な書斎風の薄暗い部屋に
いた「夫」の前に立ちます。
「夫」は学生時代のリアルな
ボーイフレンドでした。釈明
を求める「私」に、彼はごに
ょごにょと言い淀み、痺れを
切らした「私」は、強制終了
ボタンを押し家を出ました。
「離婚したの。」
家を出て当て所もないまま歩
きつつ男の子に言いました。
「リコン」
男の子が聞き返してきます。
「あなたのママとパパもそう
だったの。2人とも別れてどこ
かに行っちゃったでしょ?」
男の子の表情がハっとし、状
況を呑み込んだようでした。
男の子は里子のようでした。
「私」は男の子の手をギュッ
とつなぎ、「この子を守らな
いと。2度と辛い思いをさせ
てはいけない」と思いながら
「どこか泊まるところは?」
と思ったときに、実家が空き
家になっているのを思い出し
行ってみることにしました。
「仕事も増やさないとなー」
と、頭の中は2人で生きてい
くことでいっぱいで、突然終
わってしまった結婚生活や
「夫」に微塵の未練も残って
いないことに自分でも驚き、
頭を切り替え、人生の新たな
舵を切るとこんなに綺麗さっ
ぱり忘れられるものなんだな
と思いつつ、前向きなチカラ
をくれる男の子を心から愛お
しく思い、駅に向かいます。
=============
非常にリアルな私らしい諦め
のいい話で、慰謝料とか財産
分与とかなくていいのか(笑)
目が覚めても夢の中の衝撃が
かすかに残っていましたが、
何のことはない「私」も8歳
の男の子も自分だと気づき、
離婚も登場人物もただの夢の
設定で核心は別にあります。
(※空き家だった実家は売却済)
長くなるので解説は改めて
2019年8月のパース4日目も
夕暮れが迫り、
ピナクルズを
出てパースに向かって南下
行きがけに見た陸側の
砂丘?
砂山?が気になっていたら、
ココだったのか
1年前に訪れたクイーンズラ
ンド州の
世界最大の砂の島フ
レーザー島を彷彿とさせます
が、ここは木が枯れている
雪のように真っ白な美しい砂
でも覆われたら最後の死の砂
砂が薄い部分では植物の必死
の生き残りが続いています。
ここはモバイルデューン、動
く砂丘といい、インド洋から
吹きつける波と強風が砂丘の
破壊と形成を繰り返すことに
より、年間12ⅿの速度で南下
を続けている、生きた砂丘
遠目には雪山のようです。
ロブスターのセルバンテスか
らランセリンという場所まで
一帯に広がり、内陸の古いも
のから海岸に近い比較的新し
いものまで3つの部分からな
るそうで遠くまで続きます。
インド洋に沈む西日を受けて
ほんのり赤く染まる死の砂丘
覆われると植物は死に絶え、
砂丘が過ぎると緑が蘇る
この辺もかつては覆われてい
たのか海からの強風で育たな
いのか高い木がありません。
夕方だと一段と幻想的です。
ランセリンには海岸沿いに四
駆で走れる砂丘もあるそう。
パースに戻ってホテルのバー
ハッピーなハッピーアワー
夫のビールはコレでした。
ロブスターシャックを出た後
パース方面の南へ向かうと、
ナンバン国立公園に出ます。
クルマのまま入っていくと、
驚くべき光景が広がります。
ピナクルズ砂漠と呼ばれる
ライムストーン(石灰岩) の
石柱が無数に立ち並ぶ場所
一目見た時から墓石のようだ
と感じましたが、多くの人が
そう感じているようで、英語
でもトゥームストーン(墓石)
という感想をよく見ました。
こんな光景などナントカ霊園
という感じで端整で明るい
永代供養かもしれない(笑)
ここはロブスターシャックか
らほんの20分ほどの場所。パ
ースからは200km、2時間強
不思議な石柱は2万5,000年
~3万年前に海岸線が後退し
インド洋との海陸風に長い年
月晒され続けた結果、脆い部
分から失われ、石柱だけが残
った状態と言われています。
しかし、その状態は一様では
なく、短いものから長いもの
では3.5ⅿにもなるそうです。
頭が丸いキノコのようなもの
円錐のようなもの
そのすべてが強風に晒され、
目に見えない速度で日々朽ち
ていくのかと思いながら、し
げしげと石柱を見ているうち
なんだか石にも意思があるよ
うに見えてきたから不思議。
こんな光景は石同士が身を寄
せ合い互いを守っているよう
周りの砂の海はいつかの我が身
崩れ去る前に砂に埋まったり
ニョキっと頭だけを出したり
大きさがあれば木を育てたり
大きな石の周りには窪みがで
きている場合が多く、そこに
水分があり、種が付着すれば
芽を出す幸運に恵まれるかも
木が大きく育てば日陰ができ
根には保水力もでき、石の風
化を遅らせられるのでは
もっと育てばブッシュとなり
防風防砂林として、石はさら
に守られるように見えます
芽吹く木があれば、
枯れてしまう木も。
厳しい自然の中で共に生き残
ろうとする姿がなんとも切な
く、そして何よりも墓石への
お供えのように見えました。
砂漠化を食い止める唯一の方
法が緑化なのだと気づかされ
それが人手を借りずに自然界
で懸命に起きていることに、
深い感動を覚えました。
砂になるまい、
させまいとする姿
せいぜい100年しか生きられ
ないヒトの出る幕ではない。
このまま自然のチカラに委ね
自然の時間を刻ませるべき
ひと言で自然美と括れない
この旅行で一番の思い出に
2019年8月のパース4日目は
ヤンチェップ国立公園を出た
後もひたすら北上しました。
左には真っ白な砂丘?砂山?
左は真っ青なインド洋
パースからなら2時間強、
ヤ
ンチェップからは約1時間半の
漁業の町セルバンテス到着
本当に道が一直線(笑)
やって来たのは
ロブスターシ
ャックというロブスター卸売
業者経営のレストラン🦞
一大観光名所でもあります。
レストランはむしろオマケで
ここは水揚げしたロブスター
ウエスタンロックロブスター
を大きさに分けて仕分けする
一大作業場で、作業の様子を
ビデオで見、見学できます。
ここに来て初めて知ったのが
ロブスターが天然だったこと
てっきり養殖🦞だとばかり。
インド洋を
泳ぎ回る歩き回る
ロブスターの売上高は年間500
億円近く、国内漁業の20%に
何艘もの自社船を駆使し年間
漁獲高制限までの漁を行い、
水揚げ後はすべてここに運び
込まれ、計量と登録が行われ
サイズごとに分けられます。
大きいものは2キロ半だとか
独特の木製のカゴ
生きたロブスターは汲み上げ
られた海水が流れ続ける水槽
で輸出のタイミングを待ち、
期間中はエサなしでも海水か
ら十分な栄養が摂れるそう。
なので1秒間に200リットル
の量で流れる海水はロブスタ
ーとビジネスの生命線です。
見学者通路が設けられ作業が
見え衛生も保たれています。
主要輸出先がわかる国旗
ロブスターは30時間の輸送
に耐えられるそうです
アジアの航空会社多数(笑)
キャセイ航空もあったし
現地のイメージ写真もアジア
アジアが上得意なんですね
創業者デイビッド(ドガ)トン
プソン。1960年代に息子3人
とロブスター漁を始め、今で
は三代目にも受け継がれ、フ
ァミリービジネスは拡大中
見学の後はさっそくランチ
目の前が白砂のビーチという
絶好のロケーション
あの桟橋から出漁するのか?
赤と青のシェードが強い日差
しによく似合うし、光を遮り
実用的です。白じゃ負ける
微妙~な隙間がカモメの防止
にもなっているようです。
お互い間から見つめ合うだけ
ジャ、ジャ、ジャ
ジャーン
アレっけっこう小さい(笑)
工場見学で大きなのばかり見
てきたせいか小さく見える
(👆要は輸出向き以外のサイズ)
ランチだけの営業なので観光が
てらに立ち寄るにはいい場所
さらにこの先にも見どころが
2019年8月のパースも4日目
クルマを借りて日帰りで郊外
に足を延ばしてみました
パースから北へ真っすぐ50km
ヤンチェップ国立公園に到着
ヤンチェップは先住民アボリ
ジナルのヌンガー族の言葉で
『葦』のことだそうです。
ここは野生動物の宝庫で、す
ぐにアイビス(トキ)と呼ばれ
るオーストラリアクロトキ
いや違う。背中が黒い
日本語はクロトキでも英語は
Australian White Ibisでシロ
トキ。街中や公園などどこに
でもいて、スズメやカラスの
ように残飯を漁るのでも有名
(※ブリスベンの街中にて)
背中が黒いのはムギワラトキ
(Straw-necked Ibis)といい、
成長すると首の周りに麦わら
のような薄茶の飾羽が生える
のが名前の由来。幼鳥はそれ
がなく、羽の色も単調な黒で
会ったのは幼鳥だったよう。
成鳥の羽は黒地に七色に輝く
構造色になるらしいです
クッカバラと呼ばれるワライ
カワセミ。人の笑い声のよう
な声で鳴くんだそうですが、
鳴いてくれず
ヘアスタイルも決まってる
オーストラリアのマスコット
的な鳥でニューサウスウェー
ルズ州の州鳥でもあるそう。
カワセミ好きなのでこの近さ
での遭遇は嬉しかったです。
コアラ
カンガルー島以来
もちろん、こんな高さです
本当に高い所が好きらしい。
このコアラは二股の枝に顔を
引っかけて熟睡しています。
安定してそうだけど、苦しく
なの?枝もよく揺れてるし💦
私たちが木の上で寝てみよう
と思わないように、コアラも
地面や草の上でゴロンなんて
考えた事もないんでしょう。
いいポジションをげっと
公園内には大きな湖があり、
えも言われぬ静かさと美しさ
この水が生態系を育む、ヌン
ガー族の大切な場所でした。
ヤンチェップの名前どおり葦
で水質が守られているよう。
NZのタカヘやプケコの先祖
になるらしいネッタイバン
色がそっくりです。
コダイマキエインコ
アカビタイムジオウム
モモイロインコ
この辺はオーストラリアなら
普通の公園でも見られます。
ここにはラカリというオース
トラリア固有の水ネズミがい
るのですが、さすがに会えず
クロカンガルー(ウエスタン・
グレーカンガルー)にも会えま
せんでした。カンガルー島の
カンガルー・アイランド・カ
ンガルーは亜種なんだそう。
公園内の歴史的建造物指定の
宿泊施設
ヤンチェップイン
パースからの週末旅行に最適
な距離とロケーションです。
チャウンミア・ヤンチェップ
レイクビュー・ティールーム
2001年の創業でチャウンミア
はヌンガー語で『食堂』だとか
中国語だけど使い方が違う
これだと「食え
」かな(笑)
言われなくても食べますよ
トースティー
ティールームでもコーヒー
門はカンガルー保護のため
ヤンチェップについてググっ
ている時に偶然見つけた事が
興味深く書き残しましょう。’
1970年にイギリスからの移民
アラン・ボンドという実業家
が一帯の牧場を買い上げ、ヤ
ンチェップサンシティーとい
う、パースのサテライトシテ
ィー兼国際的な一大リゾート
開発に乗り出し、高級マリー
ナやゴルフ場建設に着手。19
87年のアメリカズカップ開催
を目指しました。しかし、開
催地は空港やホテルなど既存
のインフラが整備された
フリ
ーマントルに決定しました。
その後、ボンドは資金繰りに
行き詰まり、1977年にサンシ
ティー開発計画を日本の東急
に一括して売却し、東急は45
年を経た現在も地元企業との
合弁で息の長い開発を続けて
います。詳しくは
コチラでも
👆で2020年となっている鉄道
駅開業予定は2023年に延期さ
れていますが、意外にも計画
が日本企業により延々と継続
されている事に小さく感動
AFL観戦が終わって球場の外
に出ると、マタガルップ橋が
勝ったイーグルスのチームカ
ラーにライトアップされてい
て、しかも色が変わります
ブルー
ゴールド
これはサポーターもアガるだ
ろうなぁ。多くの人が動画を
撮っていたのも判る美しさ
暮れなずんでいくスワンリバ
ー。まさにオーストラリア色
河面に映るマタガルップ橋も
架け替えたデザインの意義を
知ると一層美しく感じます。
ガラス箱のようなスタジアム
前日は
オールブラックスのま
さかの結果で、同じ光景でも
楽しむどころかとっとと立ち
去っていたのか写真がない💦
ウェリントンストリートとい
う大通りを行くと、「ん
」
セントジョンのロゴのビル
王立パース病院の正面の立地
オセアニアでセントジョンと
言えば救急車
の代名詞で、
NZでもウェリントン以外は、
救急車を呼ぶとセントジョン
が来るはずで、見慣れたロゴ
調べてみたら、ここは1940年
代に完成したセントジョンの
パース総本山で、アールデコ
様式。2001年に歴史的建造物
指定を受け、一大再改築を経
て2006年よりユースホステル
写真の部分をファサードに奥
に長い建物で、敷地2,000平米
の商業地区の貴重な一等地。
しかし、コロナ禍の影響か20
20年10月に売りに出ました。
道なりに行くとパース駅に出
て駅の構内がよく見えます。
中央駅だけあって広いです。
乗客なのか工事関係者なのか
が数人いるだけで人がいない
外に出ても人影は疎らでさす
が週末のオフィス街なのか?
やって来たのはヤガンスクエア
広告塔の表示が刻々と変わり
木目調の巨大な建物ですが
暗くてよくわかりません💦
こういうものだそうです。
(※
公式ホームページより)
パース駅に直結した交通の要
所でここはバスターミナル
ここに来た目的はココのため
フィッシュボス
(※執筆時にはヤガンスクエア
店はすでに閉店していました)
夫のバーガー。私はヘルシーボス
焼き魚+サラダの組み合わせ
これだけで頼めるところが神
ご飯やポテトも追加できます
が、要らない私には助かる
この店は西オーストラリアで
とれる魚にこだわり、あまり
使われない魚も使う魚専門店
使い捨て食器で食べるのが惜
しい充実度で、ファストフー
ドではなく、待たされます
それがまた本物の証明なのか
他にもモダン居酒屋や
カレー専門店
ポケ専門店がありましたが、
ここも既に閉店しています。
ヤガンスクエアのすぐ脇を通
るウィリアムストリートと
その古色蒼然とした手すり
パース駅のウェリントンスト
リートからの出入り口。
駅は1881年の開業。今も西
オーストラリア鉄道網の要
1921年の様子
(※
ウィキペディアより)
いつかここから東に向かう大
陸横断鉄道
インディアンパシ
フィックに乗るのが夢です。
シドニーまで4,000km超
緑の巨大なパブリックアート
『自分のを育てよう』(Grow
Your Own)というサボテン🌵
ジェームス・アンガス作
ホテルへの帰り道で見かけた
ファサードのあるバーかな?
これって古いの❓レプリカ❓
デザインは20世紀初頭風でも
夜目にも非常にキレイで経年
感がなく、1階部分がのっぺり
ツルツル。写真を見てもバル
コニーの鉄製の部分がなんか
こう不自然に細い気がする
フリーマントルで
この時代の
建物をさんざん見てきた直後
のせいか、ナゼか違和感が
と思って調べてみたら、ビッ
クリな結果が出てきました
ここは元レイルウェイホテル
で、パース駅の開業を2年後
に見据えた1879年開業。鉄
道ホテルは成功し、1906年
に建て替えられ、フェデレー
ションフリークラシカル様式
となり、ファサードも完成。
1992年にホテルの再開発が
決定し、再開発業者は違法に
歴史的建造物指定を受けたフ
ァサードを壊してしまいまし
た。業者は再建による復旧を
命じられ、現在のファサード
ができあがったそうです
1990年代にオリジナルに忠
実にフェデレーションフリー
クラシカル様式を再現したこ
とは非常に重要で、匠の技が
継承されていた証拠だそう。
2019年8月の初パース3日目
は初のオーストラリアンフッ
トボール・リーグ(AFL)観戦
(※NZにはない規模の球場。
収容人数6万人。NZ最大の
イーデンパークは5万人
)
通常フッティーと呼ばれる楕
円のボールと円形球場を使う
競技はオーストラリアンフッ
トボールやオージールールズ
と呼ばれ、ラグビーとはまっ
たく違うスポーツ。手が使え
るサッカーにも似て、最も危
険
な球技でもあります。
その過酷さからかオーストラ
リア以外には普及せず、NZ
にさえありません。しかし、
国内人気は絶大
なもので、
クリケットと並ぶ国技です。
前日のラグビーの国対抗試合
どころではない国内リーグの
盛り上がりに圧倒されます💦
オージーの150回目の飛行
と電光掲示板に映し出され、
えっ
ホントに🦅が飛んでる
丸い球場を力強く飛び、球場
は割れんばかりの大歓声に
オージーは150回も飛んでい
るので慣れっこのようで鷹匠
(鷲匠?)の元へスーッと降り
ご褒美をもらってました
鷹匠が女性なのがオーストラ
リアらしい。鳥好きとしては
うっとりしてしまう光景
オージーは小型カメラを背負
っていてスクリーンに映し出
された球場は、まさに鳥観図
のしのし歩けそうな立派な脚
そしてなによりも可愛い
脚をロープでつないでる
羽が開くとやっぱり大きい
大歓声に応えながら退場です。
オージー、いつまでも元気で
まずは敵地に乗り込んできた
アデレードクロウズの入場
持参の横断幕の下を潜り抜け
カラス軍団がんばって
アデレードつながりで応援
でも周りは地元ウエストコー
ストイーグルスのサポーター
で声援も送れない雰囲気
イーグルスは息巻くイーグル
から登場してまたまた大歓声
さぁ、ガチンコ勝負の開始
とっとと潰されるイーグル(笑)
AFLは選手もながらお人形の
ようなレフリーも見もの
いろいろな仕事があります。
それなりに鍛えてないとムリ
人数も大勢で仕事もいろいろ
円形球場ゆえの大所帯
得点はサッカーと同じゴール
(※ラグビーはトライです)
前半は互角
後半戦に向かうレフリーたち
体型もラグビーよりサッカー
両チームともゴール裏がスゴい
ワシ
カラス
しかし、後半にイーグルスが
底力を発揮しカラス軍団敗北
試合終了と同時に両チームの
選手が仲良く語り合い始める
のはラグビーと一緒でした。
初のAFL観戦は思った以上の
楽しさでシーズン中にオース
トラリアに来る時はできるだ
け球場に足を運ぼう
と思い
ましたがチケット取るのも楽
ではなく、がんばるぞー
(※その前にコロナを生き延び
て、元気に過ごさないと
)
2019年8月のパース3日目は
エリザベスキーなど周辺を一
周していったんホテルに戻り
斜め向かいの小さな商店街へ
@カールトンセンター
ここでも
入居者募集中💦
ニューロズ・ケバブス
というケバブショップ
もちろんハラルです
夫は巻いてもらい
私は
サラダどっさりで
NZやオーストラリアは旅行中
でも生野菜が欠かせずとれる
のでありがたいし助かる~
ランチ後はふたたび歩き出し
この関係と思われるクルマ
を見ながらズンズン行くと
前日に続き昼間から飲む連中
またまたここを通過して
再び見えたマタガルップ橋
しかも、また渡ってる
行き先は当然同じスタジアム
橋上にあった新旧の橋の違い
2018年に完成した新しい橋は
設計者デントン・コーカー・
マーシャルの意向で有機的で
ほっそりしたエレガントな形
が追及されたそう。橋のアー
チはリボン、白鳥や黒鳥、ア
ボリジナルの神話に登場する
蛇ワギルを表し、多様な文化
の結集を象徴しているそう。
確かに有機的な曲線が華麗
「鉄ならいっくらでもある」
と資源国の自負にも見える(笑)
ここでのガン飲みもまた一緒
前日
前日は全般、黒と黄色
この日は青と黄色
オーストラリアですから
黄色ではなくゴールドか
とにかくスゴい人数で老若男
女が一斉に集っている感じ。
どんなスポーツでもサポータ
ーの裾野が広ければ広いほど
競技に未来を感じます
2日連続で同じ球場に来ても
前日はラグビー、この日はフ
ッティー(オーストラリアン
フットボール、オージールー
ルズ、AFL)で、丸いグランド
をそのまま丸く使います
ポールの数もこの多さ
ラグビーを見慣れた目には何
もかもが新鮮なAFL初観戦
地元の強豪
ウエストコースト
イーグルスのホームゲーム
選手の入場ゲートもイーグル
対戦相手は試合前からの大歓
声の中でちょっと寂しげな❓
アデレードクロウズ
そう、
感動の瞬間を見逃した
アデレードのカラス軍団
(※クロウはカラスのこと)
しずしずと運んでいる物の中
には驚くべきものが入ってい
たのですが、続きは次回に