(01)
(ⅰ)
1 (1) P→ Q A
2 (2) P A
3(3) ~Q A
12 (4) Q 12MPP
123(5) ~Q&Q 34&I
1 3(6) ~P 25RAA
1 (7) ~Q→~P 36CP
(ⅱ)
1 (1) ~Q→~P A
2 (2) ~Q A
3(3) P A
12 (4) ~P 12MPP
123(5) P&~P 34&I
1 3(6)~~Q 25RAA
1 3(7) Q 2DN
1 (8) P→ Q 37CP
従って、
(01)により、
(02)
② P→ Q
③ ~Q→~P
に於いて、
②=③ である。
従って、
(02)により、
(03)
② PならばQである。
③ QでないならばPでない。
に於いて、
②=③ である。
従って、
(03)により、
(04)
② PはQである。
③ Q以外はPでない。
に於いて、
②=③ である。
従って、
(04)により、
(05)
② PはQである。
③ Q以外はPでない。
に対して、
P=大野
Q=私
といふ「代入(replacement)」を行ふと、
② 大野は私である。
③ 私以外は大野でない。
に於いて、
②=③ である。
然るに、
(06)
② P→ Q
③ ~Q→~P
は、「対偶(contraposition)」であり、それ故、要するに、「同じこと」である。
従って、
(01)~(06)により、
(07)
② 大野は私です。
③ 私以外は大野ではない。
に於いて、「両者(対偶)」は、「必然的に、等しい」。
従って、
(07)により、
(08)
① 私が大野です。
② 大野は私です。
③ 私以外は大野ではない。
に於いて、
①=② であるならば、
①=②=③ である。
然るに、
(09)
(3) 未知と既知
この組み合わせは次のような場合に現われる。
私が大野です。
これは、「大野さんはどちらですか」というような問いに対する答えとして使われる。つまり文脈において、「大野」なる人物はすでに登場していて既知である。ところが、それが実際にどの人物なのか、その帰属する先が未知である。その未知の対象を「私」と表現して、それをガで承けた。それゆえこの形は、
大野は私です。
に置きかえてもほぼ同じ意味を表わすといえる(大野晋、日本語の文法を考える、1978年、34頁)。
従って、
(08)(09)により、
(10)
① 私が大野です。
② 大野は私です。
③ 私以外は大野ではない。
に於いて、
①=②=③ である。
然るに、
(11)
④ ∃x{私x&大野x&∀y(大野y→x=y)}⇔
⑤ あるxは私であり、大野であり、すべてのyについて、yが大野であるならば、xはyと「同一人物」である。
従って、
(10)(11)により、
(12)
① 私が大野です。
② 大野は私です。
③ 私以外は大野ではない。
④ ∃x{私x&大野x&∀y(大野y→x=y)}⇔
⑤ あるxは私であり、大野であり、すべてのyについて、yが大野であるならば、xはyと「同一人物」である。
に於いて、
①=②=③=④=⑤ である。
然るに、
(13)
① 私が大野です。
② 大野は私です。
③ 私以外は大野ではない。
④ ∃x{私x&大野x&∀y(大野y→x=y)}⇔
⑤ あるxは私であり、大野であり、すべてのyについて、yが大野であるならば、xはyと「同一人物」である。
は、「一意性(uniqueness)」を示してゐる。
然るに、
(14)
さて定冠詞(the)は、それが厳密に用いられるときには、一意性を内含している。確かに、しかじかのひと(So-and-so)がいく人かの息子もっている場合でさえ、「the so of So-and-so」という表現を使用するが、本当はその場合には、「a so of So-and-so」という方がより正しいといえよう。
(勁草書房、現代哲学基本論文集Ⅰ、バートランド・ラッセル、1986年、53頁)
従って、
(13)(14)により、
(15)
① 私が大野です= I am a 大野.
ではなく、
① 私が大野です= I am the 大野.
であって、この場合の「定冠詞(the)」は、「一意性(uniquness)」を表してゐる。
cf.
確定記述(Definite description)
(16)
① Aの2倍が、10の倍数であるならば、Aは5の倍数である。
② Aが5の倍数でないならば、Aの2倍は10の倍数ではない。
に於いて、① と ② は「対偶」である。
然るに、
(17)
① A×2=5×2 は、10の倍数であり、A=5 は、5の倍数である。
② A=6 であるとき、A×2=6×2=12 は、10の倍数ではない。
従って、
(16)(17)により、
(18)
① Aの2倍が、10の倍数であるならば、Aは5の倍数である。
② Aが5の倍数でないならば、Aの2倍は10の倍数ではない。
に於いて、① と ② は「対偶」であり、尚且つ、
① は「本当(真)」であって、
② も「本当(真)」である。
然るに、
(19)
② 大野は私です。
③ 私以外は大野ではない。
に於いて、② と ③ は「対偶」である。
然るに、
(09)により、
(20)
② 大野(既知)は私(未知)です。
である。
従って、
(18)(19)(20)により、
(21)
② 大野(既知)は 私(未知)です。
③ 私以外(既知)は大野(既知)ではない。
従って、
(21)により、
(22)
② 大野(既知)は 私(未知)です。
③ 大野以外(既知)は大野(既知)ではない。
従って、
(22)
(23)
③ 大野+大野以外=その場にゐる全ての人間 は、
③「既知」である。
然るに、
(24)
(3) 未知と既知
この組み合わせは次のような場合に現われる。
私が大野です。
これは、「大野さんはどちらですか」というような問いに対する答えとして使われる。つまり文脈において、「大野」なる人物はすでに登場していて既知である。
として、その場合に、
③「その場にゐる全ての人間」は「既知」である。
といふことが、「よく、分からない。」
(25)
③「その場にゐる全ての人間」が、「誰にとって、既知」である。
といふことが、「よく、分からない。」
(26)
それゆえこの形は、
大野は私です。
に置きかえてもほぼ同じ意味を表わすといえる(大野晋、日本語の文法を考える、1978年、34頁)。
といふのであれば、
② 大野は私です。
だけでなく、その「対偶」である、
③ 私以外は大野ではない。
に対しても、「未知(~が)と既知(~は)」説が、成り立たなければならないものの、さのやうなことは、大野晋先生の「説明」からは、有りさうもない。