(01)
例へば、
① コンニャクは太らない。
① ボクはウナギだ。
といふ「日本語」は、「非論理的」であるため、「日本語」自体が「非論理的な言語」である。
といふ「議論」がある(あった)。
と、「ゆる言語学ラジオ#10(ユーチューブ)」は、言ってゐる。
加へて、
(02)
①「コンニャクは」は、
①「太らない」の「主語」ではあり得ない。
が故に、
① コンニャクは太らない。
といふ「日本語」には、「主題」は有っても、「主語」は無い。
といふ風に、言ふ人(三上章、金谷武弘)もゐる(た)。
然るに、
(03)
① コンニャクは太らない。
といふのは、もちろん、
① コンニャク(を食べる人)は太らない。
といふ「意味」である。
従って、
(04)
① コンニャクは太らない。
といふ「日本語」には、
① コンニャク(を食べる人)
といふ「立派な、主語」がある。
従って、
(01)~(04)により、
(05)
① コンニャクは太らない。
といふ「日本語」が、「非論理的」である。
といふのであれば、
① コンニャクは太らない。
といふ「日本語」ではなく、
① コンニャク(を食べる人)は太らない。
といふ「日本語」が、「非論理的」でなければ、ならない。
然るに、
(06)
日常言語の文から述語計算の文の翻訳のためには、一般にあたまが柔軟であることが必要である。なんら確定的な規則があるわけでなく、量記号に十分に馴れるまでには、練習を積むことが必要である。そこに含まれている仕事は翻訳の仕事に違いないけれども、しかしそこへ翻訳が行われる形式言語は、自然言語のシンタックスとは幾らか違ったシンタックスをもっており、また限られた述語 ― 論理的結合記号、変数、固有名、述語文字、および2つの量記号 ― しかもたない。その言語のおもな長所は、記法上の制限にもかかわらず、非常に広範な表現能力をもっていることである(E.J.レモン 著、武生治一郎・浅野楢英 訳、論理学初歩、1973年、130頁)。
従って、
(06)により、
(07)
「述語論理(Predicate logic)」といふ「人工言語」ほど、「論理的な言語」は無い。
従って、
(05)(06)(07)により、
(08)
① コンニャク(を食べる人)は太らない。
といふ「日本語」が、「非論理的な言語」であって、尚且つ、
① コンニャク(を食べる人)は太らない。
といふ「日本語(非論理的な言語)」が、「述語論理(論理的な言語)」に「翻訳可能」である。
といふことは、「矛盾」であると、言はざるを得ない。
然るに、
(09)
① コンニャクは太らない。
といふ「日本語」は、
① コンニャクは太らない。⇔
① コンニャク(を食べる人)は太らない。⇔
① ∀x{蒟蒻x→∃y(人y&食yx&~太y)}⇔
① すべてのxについて{xが蒟蒻であるならば、あるyは(人であって、yはxを食べ、yは太らない)}。
といふ風に、書くことが出来る。
然るに、
(10)
① コンニャク(を食べる人)は太らない。
③ あるコンニャクは、それを食べると太る。
に於いて、
①と③ は、「矛盾」する。
従って、
(11)
① コンニャク(を食べる人)は太らない。
② コンニャク(を食べる人)が太らない。といふことはない。
③ あるコンニャクは、(人が)それを食べると(人は)太る。
に於いて、
①≠② であって、
②=③ である。
cf.
② の「が」は、「の」と同じく、「連体助詞」である。
然るに、
(12)
(ⅱ)
1 (1)~∀x{蒟蒻x→∃y(人y&食yx&~太y)} A
1 (2)∃x~{蒟蒻x→∃y(人y&食yx&~太y)} 1量化子の関係
3 (3) ~{蒟蒻a→∃y(人y&食ya&~太y)} A
3 (4) ~{~蒟蒻a∨∃y(人y&食ya&~太y)} 3含意の定義
3 (5) 蒟蒻a&~∃y(人y&食ya&~太y) 4ド・モルガンの法則
3 (6) 蒟蒻a 5&E
3 (7) ~∃y(人y&食ya&~太y) 5&E
3 (8) ∀y~(人y&食ya&~太y) 7量化子の関係
3 (9) ~(人b&食ba&~太b) 8UE
3 (ア) ~人b∨~食ba∨太b 9ド・モルガンの法則
3 (イ) (~人b∨~食ba)∨太b ア結合法則
ウ (ウ) (~人b∨~食ba) A
ウ (エ) ~(人b&食ba) ウ、ド・モルガンの法則
ウ (オ) ~(人b&食ba)∨太b オ∨I
カ(カ) 太b A
カ(キ) ~(人b&食ba)∨太b カ∨I
3 (ク) ~(人b&食ba)∨太b 3ウオカキ∨E
3 (ケ) (人b&食ba)→太b ク含意の定義
3 (コ) ∀y(人y&食ba →太y) ケUI
3 (サ) 蒟蒻a& ∀y(人y&食ba →太y) 6コ&I
3 (シ)∃x{蒟蒻x& ∀y(人y&食yx →太y) サEI
1 (ス)∃x{蒟蒻x& ∀y(人y&食yx →太y)} 13シEE
(ⅲ)
1 (1)∃x{蒟蒻x& ∀y(人y&食yx →太y)} A
2 (2) 蒟蒻a& ∀y(人y&食ba →太y) A
2 (3) 蒟蒻a 2&E
2 (4) ∀y(人y&食ya →太y) 2&E
2 (5) (人b&食ba)→太b 4UE
2 (6) ~(人b&食ba)∨太b 5含意の定義
7 (7) ~(人b&食ba) A
7 (8) (~人b∨~食ba) 7ド・モルガンの法則
7 (9) (~人b∨~食ba)∨太b 8∨I
ア(ア) 太b A
ア(イ) (~人b∨~食ba)∨太b ア∨I
2 (ウ) (~人b∨~食ba)∨太b 679アイ∨E
2 (エ) (~人b∨~食ba∨太b) イ結合法則
2 (オ) ~(人b&食ba&~太b) ウ、ド・モルガンの法則
2 (カ) ∀y~(人y&食ya&~太y) オUI
2 (キ) ~∃y(人y&食ya&~太y) カ量化子の関係
2 (ク) 蒟蒻a&~∃y(人y&食ya&~太y) 3キ&I
2 (ケ) ~{~蒟蒻a∨∃y(人y&食ya&~太y)} ク、ド・モルガンの法則
2 (コ) ~{蒟蒻a→∃y(人y&食ya&~太y)} ケ含意の定義
2 (サ)∃x~{蒟蒻x→∃y(人y&食yx&~太y)} コEI
1 (シ)∃x~{蒟蒻x→∃y(人y&食yx&~太y)} 12サEE
1 (ス)~∀x{蒟蒻x→∃y(人y&食yx&~太y)} シ含意の定義
従って、
(12)により、
(13)
② ~∀x{蒟蒻x→∃y(人y&食yx&~太y)}
③ ∃x{蒟蒻x&∀y(人y&食yx →太y)}
に於いて、すなはち、
② すべてのxについて{xが蒟蒻であるならば、あるyは(人であって、yはxを食べて、太る)}といふわけではない。
③ {xは蒟蒻であって、すべてのyについて(yが人であって、yがxを食べるならば、yは太る)}といふ、そのやうなxが存在する。
に於いて、
②=③ である。
然るに、
(14)
② すべてのxについて{xが蒟蒻であるならば、あるyは(人であって、yはxを食べて、太る)}といふわけではない。
③ {xは蒟蒻であって、すべてのyについて(yが人であって、yがxを食べるならば、yは太る)}といふ、そのやうなxが存在する。
といふことは、
② コンニャク(を食べる人)が太らない。といふことはない。
③ あるコンニャクは、(人が)それを食べると(人は)太る。
といふことに、他ならない。
従って、
(09)~(14)により、
(15)
① コンニャクは太らない。
といふ「日本語」は、
① コンニャクは太らない。⇔
① コンニャク(を食べる人)は太らない。⇔
① ∀x{蒟蒻x→∃y(人y&食yx&~太y)}⇔
① すべてのxについて{xが蒟蒻であるならば、あるyは(人であって、yはxを食べ、yは太らない)}。
といふ風に、書くことが出来る。
といふことは、「正しい」。
従って、
(15)により、
(16)
① コンニャク(を食べる人)は太らない≡∀x{蒟蒻x→∃y(人y&食yx&~太y)}。
といふ「等式」が、成立し、尚且つ、
① ∀x{蒟蒻x→∃y(人y&食yx&~太y)}。
といふ「右辺(述語論理式)」は、言ふまでもなく、「論理的」である。
従って、
(16)により、
(17)
① コンニャク(を食べる人)は太らない≡∀x{蒟蒻x→∃y(人y&食yx&~太y)}。
といふ「等式」の、
① コンニャク(を食べる人)は太らない。
といふ「左辺(日本語)」も、必然的に、「論理的」である。
従って、
(01)(15)(17)により、
(18)
① コンニャクは太らない。⇔
① コンニャク(を食べる人)は太らない。⇔
① ∀x{蒟蒻x→∃y(人y&食yx&~太y)}⇔
① すべてのxについて{xが蒟蒻であるならば、あるyは(人であって、yはxを食べ、yは太らない)}。
といふ「等式」が、成立する以上、
① コンニャクは太らない。
といふ「日本語」は、「非論理的」であるため、「日本語」自体が「非論理的な言語」である。
といふ「議論」がある(あった)。
と、「ゆる言語学ラジオ#10(ユーチューブ)」は、言ってゐる。
としても、そのことを以て、「日本語は、非論理的な言語である。」といふことには、ならない。
然るに、
(19)
① コンニャクは太らない。
といふのは、
①「コンニャクについて、話しますよう」、「それについて話しますけど、太らないです。」
と言っているだけだから、
①「コンニャクは」は、「主語」ではなく、「主題」である。
といふ風に、「ゆる言語学ラジオ#10(ユーチューブ)」は、言ってゐる。
然るに、
(20)
① コンニャクは、
① ∀x{蒟蒻x→
① すべてのxについて{xが蒟蒻であるならば、
といふのであれば、確かに、
①「コンニャク(といふx)について、話しますよう」
といふ、ことになる。
従って、
(18)(19)(20)により、
(21)
① コンニャクは太らない。⇔
① コンニャク(を食べる人)は太らない。⇔
① ∀x{蒟蒻x→∃y(人y&食yx&~太y)}⇔
① すべてのxについて{xが蒟蒻であるならば、あるyは(人であって、yはxを食べ、yは太らない)}。
といふ「等式」に於ける、
① コンニャクは
といふ「日本語」は、
①「コンニャクについて、話しますよう」
といふ、ことになる。
然るに、
(22)
実際、文法学者が「主語」という「語」を使わなければならないことは、不幸なことだ。この語は、普通のことばでは、とりわけ「話題」(主題)という意味でも使われているからである(イェスペルセン著、安藤貞雄 訳、文法の原理(中)、2006年、45頁)。
といふことは、
①「主題」であることと、
②「主語」であることは、「矛盾」しない。
といふことに、他ならない。
従って、
(23)
例へば、
①「 男性 」であることと、
②「日本人」であることが、「矛盾」しないのと、「同じ」やうに、
①「 主題 」であることと、
②「 主語 」であることは、「矛盾」しない。
が故に、
①「 主題 」であるから、
②「 主語 」ではない。
といふことには、ならない。
従って、
(19)~(23)により、
(24)
「ゆる言語学ラジオ#10(ユーチューブ)」を視聴する限り、
「三上章の、主語抹殺・論」は、
①「~は」が、「主題は」であるならば、そのときに限って、
②「~は」は、「主語は」ではない。
と言ってゐるのであって、私自身は、「主語・主題」は、「両立」し得ると、思ってゐる。
(25)
「三上 章(みかみ あきら、1903年1月26日 - 1971年9月16日)は、日本の言語学者。」の時代には、
「日本語(自然言語)を、コンピューターの言語で、書き表す(シュミレートする)。」といふ「発想」は、無かったものと思はれる。
然るに、
(26)
「日本語を、コンピューターの言語で、書き表す(シュミレートする)。」といふのであれば、
「プログラマー自身が、日本語を、述語論理式に、翻訳」出来なければ、「始まらない」。
従って、
(27)
これからの日本人の中の、あるもの(プログラマー)には、例へば、
① 象の鼻が長い≡∀x∃y{(象x&鼻yx→長y)&(~象x&鼻yx→~長y)}。
② 鼻は象が長い≡∀x∃y{(鼻xy&象y→長x)&(~象y&長x→~鼻xy)}。
③ 象は鼻が長い≡∀x{象x→∃y(鼻yx&長y)&∀z(~鼻zx→~長z)}。
といふ「等式」を、自分自身で書けるやうになることが、要求される。
然るに、
(28)
① 象の鼻が長い≡∀x∃y{(象x&鼻yx→長y)&(~象x&鼻yx→~長y)}。
② 鼻は象が長い≡∀x∃y{(鼻xy&象y→長x)&(~象y&長x→~鼻xy)}。
③ 象は鼻が長い≡∀x{象x→∃y(鼻yx&長y)&∀z(~鼻zx→~長z)}。
といふ「等式」は、少なくとも、「1960年代」であれば、それが書けたことは、「確実」である。
然るに、
(29)
『三上章、日本語の論理、くろしお出版』を、1963年に、上梓した、三上章先生は、
① 象の鼻が長い。
② 鼻は象が長い。
③ 象は鼻が長い。
といふ「日本語」に対する『述語論理式』を、自分自身で、書こうとは、してゐない。
(30)
「 日本語 」には「英語」のやうな「主語」は無いが、
「ラテン語」にも「英語」のやうな「主語」は無い。
然るに、
(31)
だからと言って、
「ラテン語」には「主語」は無い。とは、思へない。
(32)
ROSA PULCHRA EST.
バラは 美しく ある。
に於いて、
ROSA(単数・主格) は、「主語」であるに、違ひない。