諦めない教育原理

特別支援教育は教育の原点と聞いたことがあります。
その窓からどこまで見えるか…。

239 保育の歩(ほ)#30 河合隼雄さんのコメント

2024年08月04日 | 保育の歩
🈟 のんびり八ケ岳(美濃戸口~行者小屋~阿弥陀岳)人気ルートなので静かになる晩秋を待って歩いてきました。写真は別ルートから登った赤岳から見えた阿弥陀岳。ここをを行者小屋側から目指します。

引き続き

『シリーズ授業10 障害児教育発達の壁を乗り越える』岩波書店1991年

から、津守さんの在籍していた当時の愛育養護学校の実践についての批評を取り上げたい。
著名な認知心理学者、佐伯胖さんに続いて、今回は河合隼雄さん(臨床心理学者)である。
前回同様、全文を紹介したいところだが、残念ながら特に印象的なパラグラフのみである。

ところで、愛育養護学校に来ているような子どもたちに対する教育はどうなるのだろうか。教頭の岩崎禎子先生によると、そのハンディキャップの程度は、「ことばの出ていない子がほとんどです。中程度の子が五、六人いて、あとは重度と考えていいのではないでしょうか」ということである。何かを「教える」ことが、この子たちにとってそれほど容易でないことは誰しも感じるところであろう。そして何かを教えることで「進歩」があるとしても、それは一般的な見方によれば、相当に遅々としたものであろう。こうしたときに、われわれはいったい何をどのように教えたらいいのだろうか。
障害の重い子に対する教育について考えはじめると、教育の本質について考えざるを得なくなってくる。こうした子どもたちに何かを教えても、「進歩」は望めないのではないかという声もあろうが、それでは「進歩」の早い子どもの場合はどうなのか。ある子どもの例をとると、彼は極端に「進歩」が早かった。勉強は何でもできて、中学も高校も「一流校」に進み、両親の自慢の種であった。そして、「一流大学」に楽々と入学した。ところが、大学に入学して下宿したとたん、彼は何もできなくなってしまった。誰もこれまでのように「勉強するべきこと」を指示してくれない。その上、彼は母親の作ってくれた料理以外のものが食べられなかった。まったく新しい環境のなかでなすすべもなく重症の拒食症となり、結局、心配した親が訪ねて行ったときにはもう救いようがなく、彼は死んでいった。
こんなとき、この青年を責めるのは酷であろう。両親や学校は、どのような「教育」をこの青年にしてきたのかを考えてみる必要がある。死ぬまでは、彼こそ教育の模範的成果と思われていたのではなかろうか。両親や学校の考える「教育」とは、大人たちがすでにもっている知識をできるだけ沢山記憶し、できるだけ効率よく再生可能にすることであろう。彼は「与えられた課題」には素早く反応するが、自ら課題を見つけ出したり、臨機応変に事態の変化に外処するすべなどは、何も学んでこなかったのである。
これはもちろん極端な例だが、しかし、現代日本の教育について考えさせるのには、ぴったりの例である。われわれは現代の教育が知識を教えこむことに性急にすぎて、人間を育てることを忘れているのではないかと、この例からも反省させられる。「教育」の「教」に重点がおかれすぎて、「育」がなおざりにされているのである。「教える」ことによって、子どもがどんどん「進歩」するとして、その行きつく先は何なのか。そう考えると、別に「進歩」とやらをしなくとも、自分の人生を真に自分のものとして生きる人間に「育つ」ことの意義の深さが感じられてくるのである。
障害児の場合も、もちろん「教」も「育」も共に大切であり、「進歩」ということも考えねばならない。しかし、小手先だけの「進歩」という考え方が通用しないことが明らかなだけに、「育」の意味がよく見えてくるのである。


「希望を失わずに、傍にいること」は、心理療法の根本ではないか、と筆者は考えている。多くの遊戯療法で、根本的にはこのような治療者の態度に支えられ、子どもたちは自らの力で立ち直ってゆくのである。
そのように言っても、子どもが危険なことをしようとするときにはどうなるのか。確かにそれに対しては充分に配慮しなくてはならない。「共にいる」ことのひとつの機能として、危険防止は大切である。しかし、「危険」ということにびくびくしすぎると、子どもの自発性を奪ってしまうことになる。共にいる大人自身の不安が高いときには、ちょっとした危険性に対してもすぐに反応してしまう。ところが、大人の許容度の高いときには、子どもの自主性が出て来やすいのである。本書の座談会にも出てくるが、たとえば「火を燃やす」などという行為に対してさえ、じっと見守っていると、子どもたちに面白い変化が見られるのである。
この際、いわゆる「腹をきめる」態度が大切である。「よし最後までつき合うぞ」と思っているのと、「危なくないかな、もうやめてくれないかな」と思っているのとでは、結果はまったく異なってくる。大人の方が不安定な気特でいると、それを感じとった子どもはますます不安定になって、そこでしていることしたとえば火を燃やすことーを本当に「体験」できないので、ますます行動がエスカレートしたり、パニックになったりして、ついには
大人が子どもを拘束せさるをえないようなことになり、逆効果になる。
「共にいる」とは、文字どおり子どもの傍にいるのだが、これも自分が本当に「共にいる」のかどうかを考えはじめるとむずかしくなってくる。子どもの傍にいながら、「三時になって子どもが帰ったら、あの本を読もう」などと他のことを考えていたら、それは「共にいる」ことにならないであろう。
死を迎えるホスピスにいる重症の患者さんが、体温やその日の様子を訊きに部屋にはいってくる看護婦には、「体だけがはいってくる人」と、「体も心もはいってくる人」とあるのがよくわかると言われた、という。体は部屋にはいってきても、心はどこかに行っている、あるいは死んでゆく人の傍に「共にいる」ことができない心がある、ということは、患者の立場からすると、すぐにピタリとわかるのである。これは、子どもたちの場合もまったく同様である。彼らは非常によく知っている。


これもまた含蓄のあるコメントである。
「進歩」ってなんだろう。
「育つ」ための条件としての「共にいる」こととは?


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238 保育の歩(ほ)#29 佐伯胖さんのコメント

2024年07月28日 | 保育の歩
北アルプスの花畑🈡 猛暑でショートカットして1日早く下山し、憧れの蓮華温泉ロッジの泊めてもらうことにしました。温泉は本当に最高!でした。

ここまで津守真さんの愛育養護学校で紡ぎ出された保育実践を読んできた。
12年間にもわたる記録はどこを読んでも大きな感銘を受ける。
テキスト(保育者の地平)は、このあと、津守さんご自身のまとめを残すのだが、その前に同時期の愛育養護学校の実践を「授業」として捉えてみた意欲的な本があるので、そちらを覗いてみたい。その

『シリーズ授業10 障害児教育発達の壁を乗り越える』岩波書店1991年

という本は、授業のあり方を考える岩波書店の10冊からなるシリーズで、主に小学校の各教科の授業研究を著名な編集委員が多様な観点で批評していくのであるが、最終巻である第10巻に「障害児教育 ‐発達の壁をこえる」として津守さんが活躍されている時期の愛育養護学校の実践を取り上げているのである。

多彩な編集委員の方が愛育養護学校の保育(教育)をどのように受け止め、批評されるのだろうか。もちろん論者達は従来の授業研究の枠を超えた批評を展開していく。特に印象的な部分だけだが取り上げていきたい。

さっそく、今回は編集委員のお一人、佐伯胖さんの批評を抜粋したい。
佐伯さんは、本ブログでも『「学び」の構造』をテキストとして学ばさしていただいた認知心理学者である。

たんぽぽ」を内側から見る
ここに一本の花(たとえば、たんぽぽ)があったとしよう。それを「内側から見る」ということは、その花にわが身を沈潜させて、いわば「たんぽぽになって」みることである。たとえばたんぽぽの美しい花びらがせいいっぱい開いている有り様にわが身を重ねて、地面に根を張ってしっかりとたたずむたんぽぽの息づかいを「自分ごと」としてとらえ、みずからもしっかりとその場にたたずんで外の空気を「はだで感じる」ことに時を忘れることを意味している。やがて、たんぽぽが一粒の種から成長し、地面から水をとり、太陽から光を受け、空気から二酸化炭素を吸って酸素を外に出し、同時に自らの養分を蓄えていくという成長のプロセスを、おのれ自身の成長として、自分が「生きようとしていく」こととして感じとるかもしれない。あるいは、そもそも地球の歴史の中で、過酷な環境のもとで生まれた植物が、「自らを生かそうとして」それがいかにみごとに世界となじんで、動物との「共生」をつくり出していったかについて思いをはせ、いまここに見る一本のたんぽぽが、そのような歴史を背負っていることをじっと「自分ごと」として感じる。そこに潜む「知恵」と「工夫」のみごとさから、自分自身がこの過酷な世界で「生きようとする」姿を重ね、自分が「変わる」実感をくみとるかもしれない。
このようにしてとらえられたたんぽぽは、まぎれもなく「わたしの」たんぽぽであり、たんほぼの中に「わたし」が生きるのであり、たんほぽが「わたし」である。もちろん、光合成だとか、植物と動物との生態系だとかの「知識」が入ってきたとしても、それらは、「わたし」の成長と発展にかかわりあう中で、さまざまに出会う困難や支え、それらと共にくりひろげる壮大なドラマの舞台装置であり、主人公たる「わたし」とかかわる「登場人物」なのだ。「たんぽぽを知る」ということは、「たんぽぽ」の存在にわが身をゆだねて、「もうひとりの自分」になって、「もう一つの人生」を生き直してみることである。←
私たちがものごとを「知る」ということの原型は、もともとが、こういうことだったのだ。くりかえしになるが、「知る」とは、対象の中にわが身を沈潜させて、「もうひとりの自分」になって、さまざまな可能性の開かれた「もうひとつの人生」を生きる、あるいは始めから生き直す、ということである。

愛育養護学校の教育の最大の特徴は、あらゆる意味で「外側からの目」を排除する、ということである。
まず教師自身、見知らぬ「よそ人」として子どもを見ない。また、子どもを「ああいう子どもたち」というとらえ方をしない。そして、教師はひとりひとりの子ども自身が知識というものを「内側から見る」ことを、そのことのみを、最大限に援助する、ということである。

含蓄のある批評と言わざる得ない。


《見出し写真の保育》
ウエストンが明治27年にこの蓮華温泉に宿泊して白馬岳に登頂した歴史もありオールドホテルの観。かなり奥地なのにりっぱなロッジです。写真は談話室です。
見出しの写真はHP から転載。


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236 保育の歩(ほ)#28 根源的時間の共有

2024年07月14日 | 保育の歩
北アルプスの花畑 雪倉岳山頂に到着。白い稜線が白馬岳まで続いています。

保育について、今度はその実際の現場から学ぶ。テキストは、

津守 真『保育者の地平』ミネルヴァ書房

すでに述べたように、著名な心理学者の津守真さんがいち保育者として愛育養護学校の現場に立った12年間の事々をまとめた本である。

保育の本質的な意味は教育に先立つといってもいいだろう。
実際、保育実践の中には、人とは何か、人が人と出会い、交わることとはどういうことかについての洞察があり、また子どもにとって保育者とは何か、子どもの認識や自我の形成と、保育者が子どもとかかわることについても絶えず問われることだろう。
そして、こうした知見は、つい先を急いでしまう今日の教育ありよう全体にとっても重要な一視点に違いない。
保育者の地平から津守さんは、どのように子ども捉え、解釈し、働きかけ、その変容を子どもの成長の中にどう位置づけて行ったのだろう。

なお、津守さんの文章そのものの中に保育者としての視点や微妙な感じ取り方が味わい深く物語られており、長い引用になる。

第7章  保育の知と身体の惰性 ―保育者の地平— から

《記憶された時間》
一月中旬のある日、昨年幼稚部を卒業して特殊学級にいったM子が、母親と父親と妹と一緒に訪ねてきた。室内で他の子と遊んでいた私の前に突然あらわれたM子が、以前よりも背丈が伸びたように思えて、一瞬、私は戸惑った。M子も私を見て、すぐには親しさを示さなかった。じきに母親が「つもりせんせい。おぼえているでしょう」とM子に声をかけたが、M子は私を覚えているかどうか分からないほど、何の反応も示さなかった。父親が私に笑いかけて挨拶した。

そのとき、突然、工事場で、ブーンという金属音がした。M子はケラケラ笑う。私も、何だかM子と笑うのがうれしくて、心から笑った。何度も一緒に笑った。また、ブーンと音がしたとき、M子は、「ブーンだって、おなら」と言ってまた笑う。もう笑うことしかない世界みたいだった。寒さも、シーソーに乗っている現実の感覚もこえて、ただこの子と笑いあう世界だけがあった。
底が抜けた笑いの世界には、未来の心配もなく、過去の痛みもない。現実のあらゆる枠がとり払われたところに、もう一つの別の世界がある。広く深い世界が一面にひろがったような感覚に浸って、その時が過ぎ去るのが残念に思えてくる。現在に存在すること自体に価値のある、共有された子どもの世界である。こうして笑っている最中に、M子は突然「ここきたことある」と言った。私と一緒に、ただひたすらに笑いあったとき、これは以前に体験したのと同じ世界だと再認した。

1年半前に、私はM子と一緒に、周囲を忘れてひたすらに遊んだ類似の体験が何度もあった。その最初は夏のことだったが、砂場で他の子どもに砂をかけられ、M子は私の後にかくれてキャーキャー声を立てて逃げまわり、おもしろく三十分くらいをともに過ごした。一週間後にまた砂場でM子に出会ったとき、私はおだんごですと言って砂を差し出した。M子は「うんこのおだんごです。おしっこです」と言う。M子はその当時家を引っ越してから、便所がこわくなり、排泄のことで親子ともに悩んでいた。そのうちにM子は皿に砂を盛って私に差し出し、私が受けとろうとすると、その砂を私にかけて笑った。私が皿を差し出すと、すぐにその皿の砂を私にかけてケラケラ笑う。私もやり返したりやられたり、それを繰り返して一緒に笑いあった。

子どもが生きる時間は、大人が予定に従って活動を進めてゆくときの、順序を追って一様に流れる直線的時間とは別の次元にある。それは過去や未来の東縛から解き放たれて、人が自分らしく生きることのできる根源的時間である。直線時間と対比するならば、瞬間の一点を深く掘り下げたところにあらわれる、無時間的時間ともいえる。その中で人は真に能動的になり創造的になる。
普段、直線時間の枠に縛られて生活している大人は、子どもをもその中にはめこもうとする。子どもはそれにある程度従うのだが、子どもの生活の本領は、直線時間ではなく、根源的時間の中にある。大人は、最初は努力を要するのだが、子どもの生活に参与することによって、子どもの時間を共有して体験することができる。ここに記したように、この過程は徐々に進行し、突然、双方が互いに相手に対して開かれる。そのとき、子どもは自分の世界を生きはじめ、大人も、自分自身の底に、子どもの世界があったことに気づく。
子どもの生きる根源的時間は、子どものいるところ、どこにもある。私共が心を開いて子どもの時間にふれて生きはじめるとき、保育者となるのではないかと思う。


《この頃の日記より》
子どもと心を通わせた記憶は、保育者には長い年月、心に留まっているが、子どもにも同様であることをいろいろの機会に私共は気づかされる。あんな場面をこの子は覚えていたのかと驚くこともある。保育者は、現実の場で子どもと忙しくやりとりする、その最中に、深いところで子どもと心を通わせ合っている。その記憶がいつまでも互いに生きる力となっている。


〇見出し写真の補足
気がつけば白い花崗岩の路になっており、稜線は次の世界に入ってきたようです。



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235 保育の歩(ほ)#27 保育の知と身体の惰性

2024年06月30日 | 保育の歩
北アルプスの花畑 朝日岳ー雪倉岳の間の稜線 秘境の自然に埋没してる感じ。

保育について、今度はその実際の現場から学ぶ。テキストは、

津守 真『保育者の地平』ミネルヴァ書房

すでに述べたように、著名な心理学者の津守真さんがいち保育者として愛育養護学校の現場に立った12年間の事々をまとめた本である。

保育の本質的な意味は教育に先立つといってもいいだろう。
実際、保育実践の中には、人とは何か、人が人と出会い、交わることとはどういうことかについての洞察があり、また子どもにとって保育者とは何か、子どもの認識や自我の形成と、保育者が子どもとかかわることについても絶えず問われることだろう。
そして、こうした知見は、つい先を急いでしまう今日の教育ありよう全体にとっても重要な一視点に違いない。
保育者の地平から津守さんは、どのように子ども捉え、解釈し、働きかけ、その変容を子どもの成長の中にどう位置づけて行ったのだろう。

なお、津守さんの文章そのものの中に保育者としての視点や微妙な感じ取り方が味わい深く物語られており、長い引用になる。

第6章  保育の知と身体の惰性 ―保育者11 ・12年目— から

《原点》
毎日、大人の肩の上に乗っている子どもがいた。あるとき、私は、その子を肩に乗せて歩きながら、この子を本当にあるがままにお前は認めているのかと自問自答した。そして、君は口をきかなくとも、肩の上に乗っているだけでも、いまのままで立派に一人前なんだよと言った。そうするとその子は私の肩から下り、私の机の前の回転子に座って、椅子を一回り回転させるたびに私の顔を見て、にこっと笑った。私は子どもとの距離が縮まり、急に親しくなったような気がした。一緒にいる大人が心に思っていることは、それをことばに出すかどうかを問わず、直接に子どもに伝わっていることを私は実感した。

一日の大部分を大人に抱かれて階段を上り下りしたり、歩き回ることを欲する子どもがいた。その子は四歳なのにとても重たく感じられた。私はその子を抱きながら、こうして次第に体重が重くなったら、その子の足は体を支えられなくなり、ますます歩行が困難になるのではないかと心配した。そう考えると、できるだけ歩かせようと試みることになる。その子はそれをいやがって、抱かれて歩くことを強く要求した。あるとき、私は、この子は移動したいときにはいざったり、大人に助けを求めるのだから、一生歩けなくてもかまわないではないかと考えた。そのときから気持ちも軽くなり、抱いたときの重量感も減少した。私だけでなく、何人もの大人がその頃同じようなことを経験していた。ある日、その子は廊下をたった一人で歩いていた。その足は体重を立派に支えていた。

以来、 その子はほとんど自分の足で歩いて移動している。私は母親に私共の気持ちの変化を話すと、母親はすぐに同意して、極端なようだけど、一生歩けなくともいいと覚悟が決まると、何もかもが変化するようですと言った。この十年間に、たくさんの親たちが私に同様のことを語ってくれた。そしてたくさんの子どもたちが、あれこれの能力の増加だけでなく、人間的なふくらみをもって成長する姿を見せてくれている。

子どもに、少しでも上の段階のことができるようにと期待するのは、親の自然の情という人もある。けれども、一人ひとり違う子どものあるがままを認めて、日々を一緒にたのしんで過ごそうと考えはじめると、大人は自分の規準に固執することをやめ、自分自身を変化させることが可能になる。親になること、保育者になるということは、子どもをあるがままに認めるという、子どもとの関係の原点に日々立ちもどることである。原点は、日々新たに子どもにふれることによって、日々発見し直される。すなわち、保育者も子どもも日々成長する。


一日の保育を終えて、何と多くのことをしたかと思う。しかしふり返ってみると、何をしたのか、いちいち思い出せない。しばらく経つ間に、次第にここに記したようなことが思い出されてくる。保育の最中は、ひたすら、出会う子どもの側に身をおいて、そこで必要とされることに応えて動いている。この点で、保育者の生活は、極度に他者のことを考えて動く生活である。普通の生活でも、他人を配慮することは多いが、保育はその極にある行為といえよう。




☆見出し写真の補足
雪倉岳に近づくと雪渓見えてきます。これが花畑に水を供給しています。


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234 保育の歩(ほ)#26願いの表現 悩みからの遊び

2024年06月23日 | 保育の歩
北アルプスの花畑 朝日岳を下って登り返した先に朝日小屋が見えてきました。遠いところまできた実感。ここでテント泊します。

保育について、今度はその実際の現場から学ぶ。テキストは、

津守 真『保育者の地平』ミネルヴァ書房

すでに述べたように、著名な心理学者の津守真さんがいち保育者として愛育養護学校の現場に立った12年間の事々をまとめた本である。

保育の本質的な意味は教育に先立つといってもいいだろう。
実際、保育実践の中には、人とは何か、人が人と出会い、交わることとはどういうことかについての洞察があり、また子どもにとって保育者とは何か、子どもの認識や自我の形成と、保育者が子どもとかかわることについても絶えず問われることだろう。
そして、こうした知見は、つい先を急いでしまう今日の教育ありよう全体にとっても重要な一視点に違いない。
保育者の地平から津守さんは、どのように子ども捉え、解釈し、働きかけ、その変容を子どもの成長の中にどう位置づけて行ったのだろう。

なお、津守さんの文章そのものの中に保育者としての視点や微妙な感じ取り方が味わい深く物語られており、長い引用になる。

第5章 願いや悩みを表現する遊び ―保育者9・10年目— から

《この頃の日記から》
子どもが心の中を表現する遊びを生み出すことは、保育実践の最大の課題であることを、私はいまや憚ることなくいえる。その遊びの中で子どもは癒され、教育される。具体的な場面は限りない。

《歩き回る》
歩きはじめた幼い子どもが、都会のマンションの一室だけの生活を強いられるとき、自分が思うところに歩いてゆくという人間の基本的欲求すら満たされない。現代の子どもが、幼稚園や保育所にゆくようになったとき、まず関の中を歩き回ることから始めるのは自然なことである。
三歳のR子は、一階から階段を上がって二階へ、ベランダから外階段を下りて庭へと、海暗い廊下や広い通路を通り、いくつもの部屋に立ち寄って、学校の中の空間をめぐって歩いた。もとの保育室にもどると、また階段へと何度も循環する。都市の真ん中に住んで、自分の思うところに自分で歩いてゆくことが許されないこの子どもにとって、自分の足で歩くこと、また、いろいろの空間や通路を、次から次へと開拓してゆくことに、生きているよろこびを感じるのだろう。R子と一緒に、何回も同じ所を歩きながら、私には同じことの繰り返しなのだが、この子にはそのことがうれしいのが分かる。そう思うと一緒に歩くこと自体がたのしくなる。R子はときどき私を見上げて笑う。
歩くことは、新たな空間を眼前に展開させる。自分が歩くことによって次の空間が広がることは、未来が開ける感覚をつくり出す。自由に歩き回ることが許されない都会の環境の中で、この子どもには未来も閉ざされたように感じられたであろう。この子はたえずきげんが悪く泣きわめいていたのだが、それは十分に発動できなかった生命性の歪曲だったのだと思う。
五月末の天気のよい一日、登園してすぐに庭でしゃがんだR子と出会った私は、一緒に地面に腰を下ろして砂をさわっていた。何をしなければと思うのではなく、いまこの時を静まって一緒に過ごすことを快く感じていた。快く吹く風と太陽と土と、自然の物質に恵まれたとき、大人と子どもとの間に快さが通いあう。他の子どものことが気がかりなのだが、その類いのためにこの静かな時をこわしたら、すべてがだめになってしまう。
実際、このあと、何人かの子どもたちと、久しぶりに庭にたらいをいくつも出して、一緒に水遊びをすることができた。あのひとときの静けさがなかったら、一緒に集まったその場は、もっと葛藤を生む場になったのではないかと思う。
それから一週間後、R子はピアノの音と共に、ホールの空間をぐるぐる歩き回り、バレエの踊り子のように回転し、四十分程も踊り回って過ごした。ことばを話さないこの子どもが、大声を出して笑った。こういう子どもの生命的躍動に誘われて、まわりの子どもも大人も、それぞれに手足を動かして踊った。


《この頃の日記から》
あるとき、私は子どもの行動を表現として見ることを発見した。
行動は子どもの願望や悩みの表現であるが、それはだれかに向けての表現である。それは、答える人があって意味をもつ。私か、あるいはだれかに。解釈は応答の一部である。解釈がずれているときには、子どもはさらに別の表現を向けてくる。
このことを私はこの八年間の実践の生活の中で確かめた。表現として見ることは、子どもと私との保育的関係を作り上げるのに欠くことはできない。
私は実にいろいろの子どもたちからそれを学んだ。またいろいろの保育者たちからそれを学んだ。子どもは保育者によって向ける表現が異なる。その話を聞くことにより、私はその子の別の側面を知る。
表現は子どもの心の根底にある永続的課題の表現でもある。それを発見するのには時間を要する。
 


☆見出し写真のほそく
テント場もこの通り広大で、後立山もここまでくると優しく牧歌的な感じがしました。
ちなみにこの山小屋のご飯は評判が高いらしです。テントの私はいつものレトルトカレーですが。


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