諦めない教育原理

特別支援教育は教育の原点と聞いたことがあります。
その窓からどこまで見えるか…。

94 第4の教育課程#8 救いの島の開発

2020年08月15日 | 第4の教育課程
小径のようなブログも進んでいくと、時にすごい大通りに出てしまい戸惑います。今回はそんな感じです。

 どうして、子どもたちを児童と言ってここに集めて何やってるだろう。
小学校の教員のころ、日常のある瞬間にふとそう思うことがあった。

 マルクスが資本論を書いたころ、子どもを守るべく近代学校が発足したことは以前書いた。
児童福祉的で、子どもを保護する意味で、就学の義務は保護者側にある。

 しかし、学校はそんな福祉的な役割だけではもちろんない。
「子ども達の成長・発達に応じた学びの場を提供する…」
もっと大きな力が社会的役割としてはたらいている。

その点で、教育学者の広田照幸さんが紹介するアメリカの教育史家、ラバリーの整理は、分かりやすい。

「学校教育の社会的目的が複数競合しており、それは、社会の根幹の原理であるリベラル民主主義の核心にある緊張だ」
といい、目的は3つあるという。

「第1の目標は民主的平等である。これは有能な市民をつくり出すための装置として教育をみなしている。」……①

「第2は社会的効率であり、生産性の高い労働者を育成するための装置として教育をみている。」……②

「第3の目標である社会的移動は教育を、各個人がその社会的地位を強化保全あるいは向上させる手段とみなしている。」……③

そして、結果として、
「これら3つの社会的目標の追求はバラバラに行われるので、自己矛盾をきたす制度になっている。」とラバリーはいう。

この分析は、ほぼ日本の学校にも当てはまる。広田さんの説明を参考に補足すると、

学校を民主的社会のモデルのようにして民主的社会を担う市民を育成する目的
 →学級集団づくりとか、生活指導とか究極はこの目的上にあると言えるし、地域との交流や、コミュニティスクールを目指すこと、またシチズンシップ教育という概念はまさにこの目的と一致する。一方で戦後民主教育の不十分さをここに帰する指摘や、道徳教育の強化を主張するべきだとしたりする議論もこの中で行われている。

現代社会が必要とする職業スキルの育成の目的
 →小中学校までの基礎学力は、職業的スキルということでも共通の基礎になりうるが、高等教育(高校や大学等)には経済界などの要請で、議論が起きる。高校の専門制高校や、大学での文科系学部の改変とか、職業大学の新設などの他、学びの質についても以前から「詰め込み型の学び」を「主体的・対話的深い学び」へという主張は財界からの要請でもあったようだ。

未来の非雇用者となるための「学歴証明書」を得るための目的
 →良い大学に入るために、入試に強い学力が必要で、それを得られる高校に行くために、中学校でも入試に強い学力づくりに終始する。また、進学塾が学力を偏差値などで明示するため、平面的な知識偏重の学力観が求めらる。学びの質を移動の手続きである入学試験が規定している面がある。しかし、日本の学歴の単線構造は「機会の均等」という意味からは平等性が高いともいえるらしい。社会的移動という意味では、西欧諸国より機会の自由度がたかい。

 「→」以下の説明に自信はないが、確かに、①と③は生き方のありようとして対立する面があり、②と③も学びの質のありようとして矛盾はさけられないだろう。


 ところで、産業革命の労働者として過酷な日々を過ごしてたい子ども達にとって、学校は漂流中に見つけた救いの島のような存在だっただろう。水もあり、食糧もある、同じボートで漂着した友達もいる。島を提供できたのは大人たちの一つの達成だった。
しかし、その後、島はしだいに開発がすすんできてまったようだ。

 別の本で広田さんはこんな表現をしている。(長文ですが、省略しないでいきます)

貧しい暮らし、貧しい時代には、教育は輝いて見える。私は2本の映画を思い出す。一つは『マルチニックの少年』(フランス)である。1930年代のフランス領マルチニック島でサトウキビ労働者の祖父と二人暮でくらす貧しい少年が、奨学金をもらいながら町の学校にかようことなるという物語である。もう一つは『少年時代』(トルコ)で、やはり貧しい家庭環境の中で、家計を助けて働くけなげな少年が、ある日たまたま雨宿りで寄った図書館で本を読むことに興味を覚え、学問の世界に近づいていく、という物語である。学校に行くことや<知>の世界に触れることが、多くの貧しい国々の子供たちにとって、どんなにあこがれるものであったことか。日本でもつい数十年前の、働きながら学ぶ青少年の作文には、学校へ行くこと、学ぶことへの思いが熱くつづられている。
 しかしながら、高度経済成長の到来は教育をすっかり色あせたものにしてしまった。教育が社会のさまざまな問題を解決していく、というのではなく教育それ自体が解決されるべき「問題」になってしまった。

 
 私の見てきた「不器用にそこにいる子」や、映画の「けなげな少年たち」は、ラバリーの指摘する3つの目的を課された学校が結果として醸し出す場をどう感じるのだろう。
もはやこの島が孤島ではなく、3つの目的の整理も難しいのであるならば、19世紀の大人の視点から第4の目標を意図的に掲げるべきように思う。



 本文長くなりました。いつもありがとうございます。
 参考にした図書は次のものです。
  広田照幸『教育』、『教育改革のやめ方』(共に岩波書店)
  志水宏吉『学校にできること』(角川学芸出版)
 


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