諦めない教育原理

特別支援教育は教育の原点と聞いたことがあります。
その窓からどこまで見えるか…。

95 第4の教育課程#9 酸素の質・量

2020年08月22日 | 第4の教育課程
 教育書というと、吉岡たすくさんの家庭教育の本が平積みになっていたころ。
大学の先輩は、「唯物論」などを読んでいて、
「教育は社会科学の筋道で理解できるが、発達という概念がそこに入るだよなー」
という。経験や実感ではないアカデミックな教育観。
「だから、ビゴツキーをやらなきゃ」
と加えた。
 
その内容はそれなりに理解することができた。論理のパッケージである。
教育は太古から人の自然な営みではあるけれども、近代社会では学校教育を誕生さるなど、社会的目的性も強い。だから、社会科学だと。

そして、子どもは成長発達の途上にある。そこにはつねに発達論が寄り添う、ということ。
特別支援教育では一層、子ども側に重心がおかれる。
「自立活動」という領域があるのは、パッケージでいう「ビゴツキー(発達理論)」のことだ。

果たして、ラバリーのいう3つの社会的機能というのは、社会科学的な分析だ。
・有能は市民の育成
・生産性の高い労働者を育成
・社会的移動の手段
この大きな働きが、前提となり、各界の代表者が意見交換をして学習指導要領という各学校の教育課程のベースができる。
教科の内容と合理的な配列(狭い意味で教育課程)は発達論に依拠しているということになる。
この枠組みほぼ変わらず、10年に一度社会状況や子どもたちを取巻く諸環境の変化に応じて更新されてきた。
 
(話は戻ります)
 しかし同時に、先輩の話を聞きながら、少し躊躇もあった。
「社会科学とビゴツキー。でもこのパッケージってどうなのだろう」
(これまでの自分の子ども時代を振り返って、大きなことがその文脈から落ちちゃうんじゃないか?)

 小学生のころ、下校途中寄り道して広場で遊んでいた。
家に帰るとランドセルに差してあったリコーダーがない。もどって暗がりを探したがない。そもそも夢中に遊んでいてそこに落としたのかも定かでない。そんな子どもだった。
 数日後の放課後、誰もいなくなった教室で意を決して、担任の先生にそことを言った。
たぶん、しどろもどろだった説明を先生は黙って聞いていて、叱る必要がないと判断したのか分からない。
「そうか、わかったよ」
とだけ言った。夕日が差し込んだ教室だった。
 翌日、不安のまま登校すると、新しいリコーダーが机の上にあった。そして、布製のケース裏側には私の名前が書かれたいた。大人のしっかりした太い字。
 リコーダーは特別なものになった。


 こんなこと…。

こんなことはどんな意味があったのかうまく評価などできない。
わからないが、忘れてしまったことも含めてこんなことがたくさんあって、自分を上へと促してもらっていることは根拠はないけど事実である。
表しにくいが教育的な何かの作用によって「子どもらしさ」は育まれ、それぞれがそれぞれの生を実感していくのではないか。
「子どもらしさ」のよりどころは必ずしもロジックの下にない。

「教育のまわりから教育に迫っていくというやり方では、いつまでたっても教育の問題にゆきつかないか、あるいは、教育の問題にゆきついても問題を教育の営みをとおしてすこしでも解決するというふうにはならず、すべての経済や政治の問題に帰着させてしまう傾向が出てきたことである。」
と教育学者 勝田守一は1970年にすでに指摘している。

教育が社会科学の中にあって独特なのは、「目に見えない働きのようなもの」の存在があり、それを扱わざる得ないことなのだろう。
だから科学では割り切れないとも言えるし、論理整合性や一貫性で閉じてしまう法令や行政的な文章では手繰り寄せにくいものがある。またその手法では拡げにくい。

「文字には表せないことがあまりに多いからこんなにたくさんの小説がある」(つまり、“ものがたる”しか方法がない真実がたくさんあるという意味)
とある作家がいったが、それと似たことなのかもしれない。


「第4の教育課程」というシリーズは、亡くなったお子さんの言葉から「未来だけじゃない」教育を考えてきた。
それは、「不器用にそこにいる子」も感じながらでもあった。

教育には、そもそも存在が表しにくい多くのものが確固として存在して、働きとして子ども達を後押しする。
それはデータ化できないし、評価もしにくいし、技術化も多くの部分でむずかしい。
でも、それを敢て明文化できるロジックに伍して「第4の教育課程」と掲げてはどうだとろうと思う。

それが何か表現できないが、表現しようとする努力そのものが答えになるのかもしれない。
家庭や地域や学校という場で今行っていることをベースに話し合うと、現状の努力もきっともっと誇れるものに変わると思う。

いずれにしても、いかに立派な構築物でもその中の空気に酸素がないと「子どもらしさ」は間違いなく行き場を失うのである。

                              

結局第4の教育課程は日々の丁寧さということにあるのかもしれませんね。
来週まとめをしてみます。今回も有難うございます。





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