「子どもらしさ」って、あるけど、表しにくい。それが問題のようです。本文つづけます。
ある研究会の分科会も終盤で、ずっと議論を聴いていた中学校の校長先生が、
「結局、学校はスペック不足なんじゃないかな?」
とぽつんと言われた。
ユーザーから要請される指示に対して、機械などの基本性能が不足していため、適切な動作が行われない。
そんなイメージの「スペック不足」。
学校には、子ども達以外にも、保護者、地域、国、地方行政からたくさんの要請と指示がある。
それを受けて適切に動作するのは難しく感じることもある。
背景には、社会情勢の変化、学校を取巻く環境など相対的なことも関係する。
例えば、
各教科を受験学力に仕上げる技術は大手学習塾の方が優れていることもあるだろう。
ピアノで「ブルグミュラー」まで進んでいる子や、ネイティブの英会話に通っている子に、小学校免許の担任の合奏の指導や英語の発音は物足りない。
家庭環境がむずかしく困難な子に対する個別指導も十分な時間がとれないこともあるだろう。
校舎の老朽化やメンテナンスが行き届いていない部分もあるかもしれない。
これに対して、CPUやメモリをバージョンアップするように簡単に学校のスペックは上げられない。
もちろん先生方の努力を超えた問題が多い。制度や予算の壁もある。
都市部の校長先生のつぶやきはこんなニュアンスだったのかもしれない。
学校は社会や時代要請によって変化するのは当然である。
だから高いスペックを求め続けなければならない。それは民間企業も一緒だ。
しかし、どんどんOSのバージョンがあがて、それに追われるように高スペックPCを購入して、振り返るとこれまで愛用していたPCは「旧バージョン」として価値が下がったように見えたりする。
際限のないバージョンアップの構造に学校も巻き込まれていないのか。スペック不足という表現もこの中にあると感じる。
実感としても、高スペックを求めたり、維持していくのは先生方にとっても、少なくない子ども達にとっても辛いことでもあるだろう。
ヒューマンサービスとして、何か不自然になる危うさ。それを気配として感じさせない気ぜわしさももたらす。
スペックという言葉は、一般的に工学的な用語である。
だから、明晰だし、数値化もできる。客観的、テータ的だ。
しかし、学校におけるスペックというともっと含みが大きいはずだ。学校におけるスペックを教育学的に翻訳するとどうなるのか、少し場違いなこの言葉を通じてこそ議論するとよいのではないか。
結局、子どもらしさの発見は、感性の磨き合いの中にあるのでしょうか。その中だから明晰にはなりえない?
ある研究会の分科会も終盤で、ずっと議論を聴いていた中学校の校長先生が、
「結局、学校はスペック不足なんじゃないかな?」
とぽつんと言われた。
ユーザーから要請される指示に対して、機械などの基本性能が不足していため、適切な動作が行われない。
そんなイメージの「スペック不足」。
学校には、子ども達以外にも、保護者、地域、国、地方行政からたくさんの要請と指示がある。
それを受けて適切に動作するのは難しく感じることもある。
背景には、社会情勢の変化、学校を取巻く環境など相対的なことも関係する。
例えば、
各教科を受験学力に仕上げる技術は大手学習塾の方が優れていることもあるだろう。
ピアノで「ブルグミュラー」まで進んでいる子や、ネイティブの英会話に通っている子に、小学校免許の担任の合奏の指導や英語の発音は物足りない。
家庭環境がむずかしく困難な子に対する個別指導も十分な時間がとれないこともあるだろう。
校舎の老朽化やメンテナンスが行き届いていない部分もあるかもしれない。
これに対して、CPUやメモリをバージョンアップするように簡単に学校のスペックは上げられない。
もちろん先生方の努力を超えた問題が多い。制度や予算の壁もある。
都市部の校長先生のつぶやきはこんなニュアンスだったのかもしれない。
学校は社会や時代要請によって変化するのは当然である。
だから高いスペックを求め続けなければならない。それは民間企業も一緒だ。
しかし、どんどんOSのバージョンがあがて、それに追われるように高スペックPCを購入して、振り返るとこれまで愛用していたPCは「旧バージョン」として価値が下がったように見えたりする。
際限のないバージョンアップの構造に学校も巻き込まれていないのか。スペック不足という表現もこの中にあると感じる。
実感としても、高スペックを求めたり、維持していくのは先生方にとっても、少なくない子ども達にとっても辛いことでもあるだろう。
ヒューマンサービスとして、何か不自然になる危うさ。それを気配として感じさせない気ぜわしさももたらす。
スペックという言葉は、一般的に工学的な用語である。
だから、明晰だし、数値化もできる。客観的、テータ的だ。
しかし、学校におけるスペックというともっと含みが大きいはずだ。学校におけるスペックを教育学的に翻訳するとどうなるのか、少し場違いなこの言葉を通じてこそ議論するとよいのではないか。
結局、子どもらしさの発見は、感性の磨き合いの中にあるのでしょうか。その中だから明晰にはなりえない?