絵地図(ではない) こんなバスの路線図ですが、山に行かれないとこれもよく感じます。上高地バスターミナルで。
テキスト:佐伯 胖『「学び」の構造』東洋館出版
を 紹介しつつ、
今回も、佐伯さんの、「道徳」の学び方、そして、その先です。
子ども達の心には、生きてい行くにはどうやら、自分を律する何らかの規範が必要であることを相当早くから感じていることを挙げている。そして、その素朴とも言える欲求に対してきちんと応えていくのが大人の役割であると。
そして、その規範みたいなことは、場面場面のふるまい方のhow-toではなく、自分の在り方の「一貫性」を自ら作り上げていくべきで、そこを後押しすることが、「道徳」=「人はいかに生きるべきか」の教育なのだろうと読み取った。つまり、
生きることと呼応して、「道徳」(=「人はいかに生きるべきか」)は存在する
のである。
ところが、それは、生きていることが絶えず変化しているのと同様に、「道徳」も成長を促されるのだと続ける。
いつも「まわりの人」をみて、「誰がボスか」を敏感に感知し、そこにうまく調子をあわせておのが身の安全をはかる。これはほかならぬわたしやあなたが、きのうもきょうもやって来ていることではなかったか。この「手」は実にうまくいく。一切のコンフリクト(衝突)はその場で解消してしまう。
しかし、なにごともあまりにもうまくいくとき、われわれは気をつけた方がよい。それは「閉じた世界」での、一種の「狂気」ではないだろうか、と。
われわれが人間の道徳(よさ)を学ぼうとするとき、この「閉じた世界」での解決だけは断じて拒否しなければなるまい。一貫性を「ひろげて」いくこと、また、そのために「より高い視点」を求め続けていくこと、そして、どこまでも一貫性(整合性)を失わないこと、これ以外の道はあるまい。
佐伯さんは、どうしようもなく生じる「コンフリクト」のより良き解消のためにも、「一貫性」は横に「ひろげ」ていき、常に「高い視点」を求めつづるけるものだとういう。
「道徳」と言ったとき下手をすると思考停止になる。ことを警戒しつつ、絶えず「一貫性」は向上的に広がっていく、動的なものだと言っている。
「道徳教育」というと、多くの人たちがなんとなく違和感を覚えるのは、そもそも教育内容として定量的に表せるものではないということだろう。道徳的判断は、その人の立場や気持ち、環境、地域や、時代的な背景によって、「一貫性」をもっていても、デリケートにその振る舞い方は変化する。大切なことは、道徳的価値とその表現は、自問自答していく過程抜きにはあり得ないということだ。
ところで後年、佐伯さんは、
ある研究者のコメントを引用する形で、こんなことを言っている。
学びは、たんに知識や技能を身につけることではなく、むしろ、「一人前」として認められること、いわば、その人の「アイデンティティ」が形成されることだということです。
したがって、知識や技能は「穴だらけ」でも、その人の判断がなんらかの局面で「頼りにされ」たり、「任せられる」とされれば、学んだ甲斐があるというわけです。人々はそういう「学び甲斐」を求めており、それは一人間としてアイデンティティの確立を求めているということなのである。
(『学ぶ力』岩波書店(2004))
たぶん、子ども達が、無意識に「一貫性」を自分で作り上げていくことを早くから感じていると佐伯さんは指摘しているが、子ども達はたぶんこうした共同体のでの自分を予感しているのではないか。
そして、そこに「学び甲斐」を求めるのならば、「一貫性」を持とうとすることは、すなわち「学び」の場づくりをしようとしていることともいえよう。
それにしても「知識や技能は「穴だらけ」でも、その人の判断がなんらかの局面で「頼りにされ」たり、「任せられる」とされれば、学んだ甲斐があるというわけです。」という一文は、肝に銘ずるべきことである。
テキスト:佐伯 胖『「学び」の構造』東洋館出版
を 紹介しつつ、
今回も、佐伯さんの、「道徳」の学び方、そして、その先です。
子ども達の心には、生きてい行くにはどうやら、自分を律する何らかの規範が必要であることを相当早くから感じていることを挙げている。そして、その素朴とも言える欲求に対してきちんと応えていくのが大人の役割であると。
そして、その規範みたいなことは、場面場面のふるまい方のhow-toではなく、自分の在り方の「一貫性」を自ら作り上げていくべきで、そこを後押しすることが、「道徳」=「人はいかに生きるべきか」の教育なのだろうと読み取った。つまり、
生きることと呼応して、「道徳」(=「人はいかに生きるべきか」)は存在する
のである。
ところが、それは、生きていることが絶えず変化しているのと同様に、「道徳」も成長を促されるのだと続ける。
いつも「まわりの人」をみて、「誰がボスか」を敏感に感知し、そこにうまく調子をあわせておのが身の安全をはかる。これはほかならぬわたしやあなたが、きのうもきょうもやって来ていることではなかったか。この「手」は実にうまくいく。一切のコンフリクト(衝突)はその場で解消してしまう。
しかし、なにごともあまりにもうまくいくとき、われわれは気をつけた方がよい。それは「閉じた世界」での、一種の「狂気」ではないだろうか、と。
われわれが人間の道徳(よさ)を学ぼうとするとき、この「閉じた世界」での解決だけは断じて拒否しなければなるまい。一貫性を「ひろげて」いくこと、また、そのために「より高い視点」を求め続けていくこと、そして、どこまでも一貫性(整合性)を失わないこと、これ以外の道はあるまい。
佐伯さんは、どうしようもなく生じる「コンフリクト」のより良き解消のためにも、「一貫性」は横に「ひろげ」ていき、常に「高い視点」を求めつづるけるものだとういう。
「道徳」と言ったとき下手をすると思考停止になる。ことを警戒しつつ、絶えず「一貫性」は向上的に広がっていく、動的なものだと言っている。
「道徳教育」というと、多くの人たちがなんとなく違和感を覚えるのは、そもそも教育内容として定量的に表せるものではないということだろう。道徳的判断は、その人の立場や気持ち、環境、地域や、時代的な背景によって、「一貫性」をもっていても、デリケートにその振る舞い方は変化する。大切なことは、道徳的価値とその表現は、自問自答していく過程抜きにはあり得ないということだ。
ところで後年、佐伯さんは、
ある研究者のコメントを引用する形で、こんなことを言っている。
学びは、たんに知識や技能を身につけることではなく、むしろ、「一人前」として認められること、いわば、その人の「アイデンティティ」が形成されることだということです。
したがって、知識や技能は「穴だらけ」でも、その人の判断がなんらかの局面で「頼りにされ」たり、「任せられる」とされれば、学んだ甲斐があるというわけです。人々はそういう「学び甲斐」を求めており、それは一人間としてアイデンティティの確立を求めているということなのである。
(『学ぶ力』岩波書店(2004))
たぶん、子ども達が、無意識に「一貫性」を自分で作り上げていくことを早くから感じていると佐伯さんは指摘しているが、子ども達はたぶんこうした共同体のでの自分を予感しているのではないか。
そして、そこに「学び甲斐」を求めるのならば、「一貫性」を持とうとすることは、すなわち「学び」の場づくりをしようとしていることともいえよう。
それにしても「知識や技能は「穴だらけ」でも、その人の判断がなんらかの局面で「頼りにされ」たり、「任せられる」とされれば、学んだ甲斐があるというわけです。」という一文は、肝に銘ずるべきことである。