絵地図 最近は、俯瞰的な絵地図より、実用的な地図が多い気がします。確かにこっちの方が頼りになりますが。
テキスト:佐伯 胖『「学び」の構造』東洋館出版
を 紹介しつつ、 今回は、佐伯さんの理解(「わかる」)のメカニズムについて読み解きます。
日常生活でも学習活動でも、記憶(「おぼえる」)していれば、すなわち、理解(「わかる」)していることとは言えない。
実際の子どもたちの指導場面でも、このことを考えさせられることは多い。
「おぼえる」の先、「わかる」の手前に何があるのか。
「わかる」とわれわれがいう場合、主に意味論的記憶にかかわりがあるようである。 ところで、「わかる」という場合、それは単に意味と結びつく「網目の結び目」との対応がつくのだけでなく、その「未知なる部分」(網目の「空白部分」)もわかるわけであり、その意味で、「わかる」とは「わからないところがわかる」ことである。」
数学の証明問題などで、「わかった!」と言ったあと答案を書く。その結果、「できた!」に至るのであるから、たぶん「わかる」とはすべてが塗りつぶされてしまった状態ではないのだろう。「空白部分」埋められる見通しがついた宣言が「わかった!」なのかもしれない。
ところで、このような「わからない部分」すなわち網目の『空白』にいきあたると、そこで人は「疑問がわく」わけで、それが網目のあちこちを統合するはたらきによって自然に埋まってくる場合もある。どうしても「空白が埋まらない」ときは、本部=中期記憶までもどり、そこの「資料室」にとどまり、次に短期記憶から入ってくる「新しい情報」をまって休んでいることもあろう。
そして、証明問題ができないとき、「いつかはできるはず」と思いながら、頭の中のいろいろなところに問いあわせたり(考えたり)、あたらしい短期記憶を気長に待ち伏せたり、もっとはっきり「わからない」と口に出して質問したりする。
そして、その「わかる」ための過程を俯瞰すると、
「わかる」とは、「絶えざる問いかけを行う」ことでもある。
「わかる」とは、問いかけの集積の上にあるのだろう。
さらにまた、公園内を自動車がいきつもどりつ探検しつつあちこち駆け巡るうちに「道」ができて、いわゆる「遠い概念」が「近く」なる。(東海道新幹線ができたことによって東京と大阪が「近く」なるのと同じ意味で。)これがいわゆる「一見無関係に思えていたことが関連づいてくること」に対応する。ここで、当然のことながら、エピソード的記憶に入っている過去の自分の「経験」との関連がつくことをふくめなければならない。 すなわち、「わかる」とは、「無関係であったもの同士が関連づいてくる」ことでもあろう。
バラバラだった概念が、「実はこんな関係を持つんだ!」ということが発見され、合点がいくこと。 それが「わかる」ということだろう。
ここまでのことを学校の研究紀要の結論のように書けば、
・「わかる」とは、疑問を発見すること
・疑問を課題意識として認識すること
・課題解決までに必要な情報収集のための手段を与えること
・課題解決までの間、待つこと
・そして「わかる」が成立するためには、多様は経験が複雑に関係していること
・「わかる」の先には、「次の問いかけ」が生じること
そして、佐伯さんは、そうしているあいだにも、道は拡張され、新ルートが発見され、不可逆的に「わかる」は進む、といい、こう結ぶ。
「わかる」とは、死にいたるまでにわかりつづけていくことなのであり、また、「ますます深く、ますます広く」わかりつづけていくことなのである。
えらく哲学的だが、本シリーズも不可逆的に進めます。
次は、道徳律(善し悪し)をどう学ぶか、です。