諦めない教育原理

特別支援教育は教育の原点と聞いたことがあります。
その窓からどこまで見えるか…。

149 「学び」と私たち#4 道徳への道

2021年08月15日 | 「学び」と私たち
絵地図 三つ峠山 富士急行 三つ峠駅から登山口までの途中の絵地図。すごい急傾斜ですが、さすがにこれほどでもありません。


テキスト:佐伯 胖『「学び」の構造』東洋館出版
を 紹介しつつ、

今回は、佐伯さんの、「道徳」の学び方、その筋道についてです。

ご存じの通り新しい学習指導要領では「道徳」が教科として位置付けられ、学校でもその実施の仕方で議論があるところと思います。

「道徳」を教えるというと、経験の中から学び取るという考え(経験主義)と、それでは曖昧になるからはっきり大事なことを掲げるべきだとする考え(徳目主義)があって、社会の構成員としての当然のルール押さえるべきだとするシチズンシップからの考えなどがあるかと思います。

「道徳」は1958年に「修身の復活」と揶揄されるむきもありつつ設定された経緯があります。そして、その経緯を踏まえた1975年、「道徳」について認知心理学者はどう考えたのでしょう。現在の「教科道徳」にも参考になるはずです。

われわらの学ぶべきことは多いが、そのなかで「人はいかに生きるべきか」を学ぶことは大きな位置を占めている。つまり、「道徳」を学ぶわけである。

「道徳」=「人はいかに生きるべきか」を子どもがどう学んでいくか、興味深いテーマです。
前段が長くなりました。以下、本文。

佐伯さんは、学校での「道徳教育」の問題点をこう指摘する。

「道徳教育」の実践報告をみても、「名作」を読ませて「感動」させてたり。「反省」させたり、「感想」を書かせたりが中心で、読ませる名作も、たとえば「走れメロス」のような「純粋で情感あふれる」ものがえらばれる。
人々に「感動」を与えたり、「情感あふれる体験」をさせたりすることは、それほどむずかしいことではなく、まして、教育界がよってたかって「研究会」をしたり「研修会」をしたりするほどのことではない。

いくら「心情」にうったえても「情感あふれる体験」はそれ自体、「理性的」あるいは「合理的」な思考にもとづく判断力とは結びつかないと言っている。
つまり、心情論だけでは、「人はいかに生きるべきか」に行き着かないというのである。

それを踏まて、その解を次の絵本の引用に求める。

わがままでらんぼうなしげるくんは、「いやいやえん」という保育園にいかされ、そこでは一切のわがままな主張が全部、徹底してまもられる。
「赤いもの大きらい」といえば、クレヨンの中から赤色はのぞかれ、おやつのときにも他の子どもはまっかなりんごをもらうとき自分だけクッキーをたべさせられる。「おべんとうなんかいらいない」と一言いえば、おひるのべんとうはない。らんぼうしほうだい、けんかもしほうだい、人形の首をとってもそのまま……などである。
最後のしげるくんは帰りぎわ、「いやいやえんはんか大きらい、もうこないよッ」といいはなつ。「そうかい。ざんねんなこと」とおばさんがいい、「さようなら」といってわかれる。ただそれだけのことであり、そこには何もお説教めいた説明もない。


(中川 李枝子『いやいやえん』福音館書店)


佐伯さんは、このエピソードの中に、子ども自身がもつ「道徳」=「人はいかに生きるべきか」への志向を見ている。
みんながどうしてるとか(「先例主義」「判例主義」)、こうしなければならない(「制定法的」)といった、外からの基準ではなく、もっと内面が求める基準に沿うべきだと言っているようだ。
この心がもとめるものを指して、佐伯さんは、「一貫性」という。
ちなみに、この後、しげるくんは、「明日になったら、ちゅーりっぷ保育園に行くんだ。やっぱりおもしろいよ」というらしい。「いやいやえん」*では「一貫性」が得られない。
*https://www.jac-youjikyouiku.com/chiiku/recommend/17416/より引用。

「不平等」、「えこひいき」、「ルール違反」……子どもはずいぶん幼いときから、これらに対して敏感に反応し、たりかに「怒る」。もちろん、子どもがときとしてわがままであり、身勝手であることは否定できない。そのようなとき叱られればたしかに「泣く」。しかし、いくら泣いても、それは真から怒っているのではないから、なきやめがばあとは実にサッパリとした顔付きで生き生きと遊び出す。
しかし、大人たちがこれらの「正義にもとる」行為をし、子どもに強いていると、子どもの心は深く傷つき、萎縮し、子どもの一貫性を求める「心の叫び」はいつか悲しみの上に消え去り、代りに、恣意的な大人たちの行う「判例」を記憶し、顔色をうかがい、雰囲気、けはい、などを察知して「調子をあわせる」練習にはげむにいたる。

子ども達の心には、こうした「一貫性」を求める性質のようなものがもともとあって、この素朴な人間性に応えていくことが、「道徳」=「人はいかに生きるべきか」の解につながると、認知心理学者はいっているのである。

「第3章 道徳(よさ)はいかに学ばれるか」は大変読み応えがあり次回もここから考えます。 



福音館書店HPから



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