秋 夜叉神峠から南御室小屋に着いて ようやく紅葉発見。
テキスト:佐伯 胖『「学び」の構造』東洋館出版
を 紹介しつつ、
最終章のタイトルは、「学び続けける存在としての人間」といいます。
その文中から象徴的な部分を引用してきました。
今回はこの引用をふまえつつ、感想的にこの章をまとめます。
学び続ける人間と教育についてです。
何のために学ぶのか。それはわたしたち自身が「より人間的に」なるためである。
あるいは、人々を「より人間的に」していくという人間の日々の営みや文化の創造に自分も「参加」できるようになるためだろう。
何のために教えるのか。そうれはわたしたちが、子どもたちを「より人間的に」したいからであり、その世の中を「より人間的に」していく人々の営みや文化の創造に、彼らも参加していけるようにしたいからであろう。
そうである。人間はそのままの人間、natureとしての人間では、生きていいくのが難しい。そのことは、外からの教化のない「いやいやえん」(架空の幼稚園)に行ったしげるくんも、「これではダメだ」と感じとって、「もう行かない」という。
「不平等」、「えこひいき」、「ルール違反」……子どもはずいぶん幼いときから、これらに対して敏感に反応し、たりかに「怒る」。
そして、こうした出発点から、学ばねばならない者、あるいは「このままではダメだ」思う者として、子ども達は生き始める。
そのことは、子ども自身も、大人もわかっているが、こうした無垢な切実さにつながっているとはあまり感じていないのではないか。
「学ぶ」とは、「教える」に対して「学ぶ」ものだけでは、そもそもない。
そして、成長にともない、認知力が発達する。周囲の見え方が変化し、自然に学ばねばならないことが、次々に出現する。そして家庭や地域に置かれている立場や環境も変化し、社会が広がるとその関係性の中で翻弄されつつ、学びを再設定して自分を更新していく作業が必要になる。
そんなことが続く中で、「より人間的に」なっていこう(つまり、善く生きよう)と思う中にこそ、「学びづるける存在としての人間」が顕著になるのかもしれない。
ところが、「教える」は、単に「学びを再設定して自分を更新していく作業」に解を与えることだけはない。
教育においては、「人間どうなるべきか」という問いに、一方では仮に答えようとしつつも、他方では、この「どうなるか」自体を、もっともっと大きな可能性はむかってひろげていく営みでもあるわけだからである。
子どもの将来は、大人が思っているより可能性を秘めている、と仮定する、こうした大人の謙虚さと可能性に賭ける想いこそが教育にはある。
こここそが実証主義の科学と異なる点であると佐伯さんはいう。
日本には「出藍の誉れ」という故事があり、明治維新の立役者を多数育てた松下村塾の研究は盛んだし、長岡藩が米俵百票を教育に投資したことは美談である。みな可能性に賭けたのである。
もちろん、可能性を秘めているところに賭けるのであるからリスクである。当時としては特に破格な活動なり、投資だっただろう。
例が誇大になって恐縮だが、今でもこういう美意識は私かたちの中にもあり、そこかしこの教育現場で「可能性に賭ける想い」が今も発揚され、静かだけど確かな「より人間的に」なりたいと思う子どもたちへの期待に応えているにちがいない。
実証主義の科学ではデータ化できない部分とも言える。
テキスト:佐伯 胖『「学び」の構造』東洋館出版
を 紹介しつつ、
最終章のタイトルは、「学び続けける存在としての人間」といいます。
その文中から象徴的な部分を引用してきました。
今回はこの引用をふまえつつ、感想的にこの章をまとめます。
学び続ける人間と教育についてです。
何のために学ぶのか。それはわたしたち自身が「より人間的に」なるためである。
あるいは、人々を「より人間的に」していくという人間の日々の営みや文化の創造に自分も「参加」できるようになるためだろう。
何のために教えるのか。そうれはわたしたちが、子どもたちを「より人間的に」したいからであり、その世の中を「より人間的に」していく人々の営みや文化の創造に、彼らも参加していけるようにしたいからであろう。
そうである。人間はそのままの人間、natureとしての人間では、生きていいくのが難しい。そのことは、外からの教化のない「いやいやえん」(架空の幼稚園)に行ったしげるくんも、「これではダメだ」と感じとって、「もう行かない」という。
「不平等」、「えこひいき」、「ルール違反」……子どもはずいぶん幼いときから、これらに対して敏感に反応し、たりかに「怒る」。
そして、こうした出発点から、学ばねばならない者、あるいは「このままではダメだ」思う者として、子ども達は生き始める。
そのことは、子ども自身も、大人もわかっているが、こうした無垢な切実さにつながっているとはあまり感じていないのではないか。
「学ぶ」とは、「教える」に対して「学ぶ」ものだけでは、そもそもない。
そして、成長にともない、認知力が発達する。周囲の見え方が変化し、自然に学ばねばならないことが、次々に出現する。そして家庭や地域に置かれている立場や環境も変化し、社会が広がるとその関係性の中で翻弄されつつ、学びを再設定して自分を更新していく作業が必要になる。
そんなことが続く中で、「より人間的に」なっていこう(つまり、善く生きよう)と思う中にこそ、「学びづるける存在としての人間」が顕著になるのかもしれない。
ところが、「教える」は、単に「学びを再設定して自分を更新していく作業」に解を与えることだけはない。
教育においては、「人間どうなるべきか」という問いに、一方では仮に答えようとしつつも、他方では、この「どうなるか」自体を、もっともっと大きな可能性はむかってひろげていく営みでもあるわけだからである。
子どもの将来は、大人が思っているより可能性を秘めている、と仮定する、こうした大人の謙虚さと可能性に賭ける想いこそが教育にはある。
こここそが実証主義の科学と異なる点であると佐伯さんはいう。
日本には「出藍の誉れ」という故事があり、明治維新の立役者を多数育てた松下村塾の研究は盛んだし、長岡藩が米俵百票を教育に投資したことは美談である。みな可能性に賭けたのである。
もちろん、可能性を秘めているところに賭けるのであるからリスクである。当時としては特に破格な活動なり、投資だっただろう。
例が誇大になって恐縮だが、今でもこういう美意識は私かたちの中にもあり、そこかしこの教育現場で「可能性に賭ける想い」が今も発揚され、静かだけど確かな「より人間的に」なりたいと思う子どもたちへの期待に応えているにちがいない。
実証主義の科学ではデータ化できない部分とも言える。