🆕北アルプスの花畑 もう日本海に近い北アルプスの最北端 写真の蓮華温泉から朝日岳、雪倉岳、白馬岳の三座を目指します。短い夏にたくさんの花が咲くと聞いています。
前テキスト『世界の保育の質評価‐制度に学び、対話を開く‐』では、保育を各国の制度から考えてきた。
今回からは趣きことにする。現場のリアリティから保育を見ていく。
テキストは、
津守 真『保育者の地平』ミネルヴァ書房
である。「はじめに」に経緯と本の意図がある。
私は子どもの研究者として壮年期の大半を過ごした。その最初から、私は、20世紀前半に全盛期にあった米国の進歩主義教育の流れを汲むお茶の水女子大学附属幼稚園で、幼児の遊びに魅せられた。決まったカリキュラムにははめずに、子どもの内から発し、生命的に創る遊びに、私は人間教育の原型を見た。同時に、それを作り上げていく「保育者の苦心」を見た。私は心理学者として、客観的実証科学の方法論によって、その関係を明らかにしたいと考え、長年を費やしてきたが、その試みは放棄せざるを得なかった。保育は人と人とが直接関わる仕事であり、知性も想像力も含めた人間の全てがかかっているから、いま考えれば当然である。
一方、1960年代、70年代の私どもの社会は、高度成長期にあたり、早期知的教育のプログラムが流行した。それによれば、保育者の仕事は、科学的に効果を証明された方法を応用することである。「保育者の苦心」も、子どもの遊びも危機にあった。私は学問の方法論を根本的に考え直す必要を感じた。
そして、1983年つまり50台半ばにしてこの著名な心理学者は私立愛育養護学校の保育者になるのである。「客観的実証科学の方法論」を放棄して、「保育は人と人とが直接関わる仕事」の「地平」へと舞い降りたのである。
また、この挑戦からの知見は、アカデミズムや制度政策のフィルターも通さず、直接、人と人とが関わりが、子どもたちの成長・発達にどう関わっているのかに直接アクセスしてみることである。
ところで、前回のテキストで、編者を代表して古賀松香さんが述べている、
近年、乳幼児期が注目されるようになってから、(各国の)その制度的発展はスピード感を持ってなされ、グローバルに広がりを見せている。
ひるがえって、果たして日本はどうだろうか。諸外国における制度設計や改革のスピード感に圧倒されたのは私だけだろうか。乳幼児期の重要性に対する認識が、国内外ではまだ不十分と感じたのは私だけだろうか。
得てして、保育(教育)の「改革のスピード感」というと現場で置き去りになるのは子どもたちであることはよく懸念されることである。
テキストは、津守さんの12年間の実践を時の経過に沿って2年ごとに章を立ててありそれぞれにテーマが設定されてある。
第1章 保育の中に身をおいて
第2章 普通の日々
第3章 「いま」を充実させる
第4章 保育の中で発達を考える
第5章 願いや悩みを表現する遊び
第6章 保育の知と身体の惰性
そして、まとめとして、
第7章 保育の地平
第8章 出会う・交わるー表現と理解・「現在」を形成する・省察する
なお、ブックレポートの性として、原書を読んでいただく以上の事はできるわけがないのだが、他者の関わりの中で、あるいは他者の微妙な意図的な働きかけが、どのように子どもたちの成長・発達し、それを促し得るのか、と言うポイントを外さずに読み進めたい。
以下、裏表紙に記載された津守さんの言葉である。予告編?である。
・一日、保育の現場にでることは、一冊の本を読むようなものだ。
理解しながら読むこともできるしわけの分からぬまま読みとばすこともある。
・子どもと心を通わせた記憶は、保育者には長い年月、心に留まっているが、子どもにも同様である。
・保育の現場も矛盾に満ちている。私はその中にあって、生きつつ学ぶ。
・自分のまわりに、自由と静けさと親しみの空間を作りたい。
・思いがけないときに子どもの世界との出会いがはじまる。
一見奇異に見える子どもの行動に、人間のもっとも奥深い心の痛みがあらわれる。
私はこの十二年間に何と多くこのことにふれてきたことか。
・あるとき、私は子どもの行動を表現として見ることを発見した。
行動は子どもの願望や悩みの表現であるが、それはだれかに向けての表現である。
それは、答える人があって意味をもつ。
・子どもが心の中を表現する遊びを生みだすことは、保育実践の最大の課題であることを、私はいまや憚ることなくいえる。
その遊びの中で子どもは癒され、教育される。具体的な場面は限りない。
・保育の現場で子どもも私も自由である。
私は子どもの存在に束縛されながら、子どもが自由である故に自由である。
この体験を省察する仕方も自由でありたい。
・子ども学は子どもとは別のところでつくられた理論の応用ではない。
子どもとふれるところにつくられる知恵である。
前テキスト『世界の保育の質評価‐制度に学び、対話を開く‐』では、保育を各国の制度から考えてきた。
今回からは趣きことにする。現場のリアリティから保育を見ていく。
テキストは、
津守 真『保育者の地平』ミネルヴァ書房
である。「はじめに」に経緯と本の意図がある。
私は子どもの研究者として壮年期の大半を過ごした。その最初から、私は、20世紀前半に全盛期にあった米国の進歩主義教育の流れを汲むお茶の水女子大学附属幼稚園で、幼児の遊びに魅せられた。決まったカリキュラムにははめずに、子どもの内から発し、生命的に創る遊びに、私は人間教育の原型を見た。同時に、それを作り上げていく「保育者の苦心」を見た。私は心理学者として、客観的実証科学の方法論によって、その関係を明らかにしたいと考え、長年を費やしてきたが、その試みは放棄せざるを得なかった。保育は人と人とが直接関わる仕事であり、知性も想像力も含めた人間の全てがかかっているから、いま考えれば当然である。
一方、1960年代、70年代の私どもの社会は、高度成長期にあたり、早期知的教育のプログラムが流行した。それによれば、保育者の仕事は、科学的に効果を証明された方法を応用することである。「保育者の苦心」も、子どもの遊びも危機にあった。私は学問の方法論を根本的に考え直す必要を感じた。
そして、1983年つまり50台半ばにしてこの著名な心理学者は私立愛育養護学校の保育者になるのである。「客観的実証科学の方法論」を放棄して、「保育は人と人とが直接関わる仕事」の「地平」へと舞い降りたのである。
また、この挑戦からの知見は、アカデミズムや制度政策のフィルターも通さず、直接、人と人とが関わりが、子どもたちの成長・発達にどう関わっているのかに直接アクセスしてみることである。
ところで、前回のテキストで、編者を代表して古賀松香さんが述べている、
近年、乳幼児期が注目されるようになってから、(各国の)その制度的発展はスピード感を持ってなされ、グローバルに広がりを見せている。
ひるがえって、果たして日本はどうだろうか。諸外国における制度設計や改革のスピード感に圧倒されたのは私だけだろうか。乳幼児期の重要性に対する認識が、国内外ではまだ不十分と感じたのは私だけだろうか。
得てして、保育(教育)の「改革のスピード感」というと現場で置き去りになるのは子どもたちであることはよく懸念されることである。
「予測困難で不確実、複雑で曖昧」の未来観にあって現在こそ「保育者の心」も、子どもの遊びも危機」なのかもしれない。
年度替わりの学校業務の諸事のスピードに圧倒されていたが、ここで落ち着ていて津守さんの地平からの実況を聞いてみたい。
年度替わりの学校業務の諸事のスピードに圧倒されていたが、ここで落ち着ていて津守さんの地平からの実況を聞いてみたい。
テキストは、津守さんの12年間の実践を時の経過に沿って2年ごとに章を立ててありそれぞれにテーマが設定されてある。
第1章 保育の中に身をおいて
第2章 普通の日々
第3章 「いま」を充実させる
第4章 保育の中で発達を考える
第5章 願いや悩みを表現する遊び
第6章 保育の知と身体の惰性
そして、まとめとして、
第7章 保育の地平
第8章 出会う・交わるー表現と理解・「現在」を形成する・省察する
なお、ブックレポートの性として、原書を読んでいただく以上の事はできるわけがないのだが、他者の関わりの中で、あるいは他者の微妙な意図的な働きかけが、どのように子どもたちの成長・発達し、それを促し得るのか、と言うポイントを外さずに読み進めたい。
ただし、学術でも、制度でもない「関わり」と言うものは物語るしか方法がない。
したがって、長い物語を多分に引用をせざる得ないと思われる。
保育は感じ取ることが大事だと言うが、物語れることから感じ取るセンスはこちらに求められる。
以下、裏表紙に記載された津守さんの言葉である。予告編?である。
・一日、保育の現場にでることは、一冊の本を読むようなものだ。
理解しながら読むこともできるしわけの分からぬまま読みとばすこともある。
・子どもと心を通わせた記憶は、保育者には長い年月、心に留まっているが、子どもにも同様である。
・保育の現場も矛盾に満ちている。私はその中にあって、生きつつ学ぶ。
・自分のまわりに、自由と静けさと親しみの空間を作りたい。
・思いがけないときに子どもの世界との出会いがはじまる。
一見奇異に見える子どもの行動に、人間のもっとも奥深い心の痛みがあらわれる。
私はこの十二年間に何と多くこのことにふれてきたことか。
・あるとき、私は子どもの行動を表現として見ることを発見した。
行動は子どもの願望や悩みの表現であるが、それはだれかに向けての表現である。
それは、答える人があって意味をもつ。
・子どもが心の中を表現する遊びを生みだすことは、保育実践の最大の課題であることを、私はいまや憚ることなくいえる。
その遊びの中で子どもは癒され、教育される。具体的な場面は限りない。
・保育の現場で子どもも私も自由である。
私は子どもの存在に束縛されながら、子どもが自由である故に自由である。
この体験を省察する仕方も自由でありたい。
・子ども学は子どもとは別のところでつくられた理論の応用ではない。
子どもとふれるところにつくられる知恵である。