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秋の山で🈡 八ケ岳 大河原峠で 秋と冬の間。
「VUCA」(Volatility・Uncertainty・Complexity・Ambiguity)(不安定,不確実,複雑,曖昧)という未来像での学校教育はどうあるべきか、各国の有識者はどう考えるのか「OECD(経済協力開発機構) Education 2030 プロジェクト」から見て行きたい。
テキストは、
白井 俊『OECD Education2030プロジェクトが描く教育の未来:エージェンシー、資質・能力とカリキュラム』ミネルヴァ書房 (2020/12/22)
参考のHP
OECDにおける Agencyに関する議論について - 文部科学省
終 章 これからの日本の教育を考える
この章は、これまでEducation 2030 プロジェクトの知見をもとに、白井さんが日本の教育に対してどのような示唆が得られるかについて最後に考察するところである。ところで、この部分わずか8ページなのだが、単に紙幅の都合だけではないようである。
こうした国際的なプロジェクトに参加する事は、日本の教育を考える上でも重要な様々な示唆を与えてくれる。とりわけ、現在の日本が直面している様々な教育上の課題は、日本に固有のものではなく、諸外国においても認識されている共通の課題であるという視点も重要だろう。こと教育に関しては、どの国も内政事項として扱いがちであるが、そうした先入観にとらわれず、国際的な比較の視点を持ちながら、教育と言う営為そのものに内在している課題を特定し、それらに対して科学的にアプローチしていくことが重要である。
意外なほど、各国の課題は、日本と共通しており、むしろグローバルな視点であっても、教育そのものに内在している課題に帰結することが多くこれまでの記述がすなわち日本の課題かなりの部分と重なるということらしい。
しかし、その中でも、白井さんは、この章で再度日本の教育のどこに問題意識を感じるかを述べなおしている。どんなことなのだろう。
1 エージェンシーの視点からの教育全体の見直し
まずはエージェンシーである。
エージェンシーは、「変化を起こすために、自分で目標設定し、振り返り、責任を持って行動する能力」と定義されているが、生徒のそうした能力が、生徒のそうした能力が、今の日本の学校教育において、十分に育まれているかは、疑問な人はできないだろう。
とした上で「ブラック校則」を例に挙げながら、次のように述べている。
学校教育の段階から、単に「ルールを守る」ことだけでなく、そもそも「このルールは本当に正しいのだろうか」、「このルールは変えるべきではないか」、「ルールを変えるためには、どのような手段を踏んでいくべきなのか」、「ルールがないのであれば、どのようなルールを整備する必要があるのか」、といったことを考えていくことが不可欠になってくるのである。
また、新しいルールを作っていく上で重要になるのが、倫理や道徳である。倫理や道徳の基礎がなければ、どのようなルールを作るべきか、作ろうとしているルールが妥当なものかどうかを判断することができない。
多くの他者と共同することも重要だろう。学校教育を通じて、多様な他者の考えを聞いたり、共同したり、議論したりする中で、生徒一人一人が、それぞれの倫理的基礎を築いていくことができる。
こうした変革へのエージェンシーの育成が、日本には特に必要だと指摘している。学校は「一つの共同体生活の形式」と言ったのはデューイだったが、その学校社会の中で変革のエージェンシーが育成できうるとしているようである。
また授業に関してである。
日本の中学生が学習の楽しさや実社会との関連に関して、肯定的な回答をする割合が低いことを指摘して次のように述べている。(「数学・理科の学習に対する生徒の意識」 (ページ末参照))
数学や理科の学習には取り組んでいるとしても、試験等の外在的な動機付けに依拠している部分が多いことが推察されるのである。その場合には、生徒の学びの目的が、通知表や入学試験といった、他者が設定したゴールをクリアするための学習になってしまっていると考えられる。もちろん、他者が設定したゴールをクリアすること自体が否定されるものではない。しかしながら、よりVUCAが進行する世界においては、他者が設定したゴールに向かうだけでなく、「そもそも、設定されている頃自体が適切なものなのか」、「設定されているゴール自体を見直す必要は無いのか」、といった事まで考えていくことも求められてくるだろう。
高得点や高い評価を得ることにどのような意義があるのか、といった事まで考えていくことも必要になってくるだろう。
従来からの学力の質の問題だが、白井さんも改めてここで問題提起している。
2 コンピテンシーの視点に基づいたカリキュラム・デザイン
ここでは、カリキュラム・デザインという概念の意図をまとめ直している。
カリキュラム上に書き込むだけでは、それは「意図されたカリキュラム」での対応に過ぎない。授業時間は当然有限であるし、教師の指導力や準備に要する時間、学校のICT環境の整備等を含めた「実施されたカリキュラム」、生徒がどこまで身に付けたか、また、それを評価できるという「達成されたカリキュラム」までを視野に入れて考える必要がある。
これは当然カリキュラム・オーヴァーロードも念頭に置いた指摘だ。そして、
従来のようなコンテンツ中心の発想から、コンピテンシーの意味を理解していくことが求められる。そのためのエビデンスをカッコするためにも、コンテンツとコンピテンシーの関係性を明らかにしていくCCMのような手法を洗練させていくことが重要だろう。
※ CCMとは、カリキュラム・コンテンツ・マッピングのこと
コンテンツからコンピテンシーへというのはこの会議のキーワードとも思える。
3 カリキュラムの意義の再認識。
この節が本書の最後のページになる。白井さんは再確認として、カリキュラムの3つの役割を(たぶん)あえてとりあげている。
第一は、カリキュラムの学習基盤機構機能である。
カリキュラムを通して学習の基盤となる基礎的な学力をつける事は、社会的な公平の観点からも重要である。基礎的な学力がなければ、より高度な学問を身に付けることも難しくなるし、社会に出てから活躍する事は、もちろん、成熟した市民として、権利を行使したり、義務を果たしていく上で支障が生じかねない。カリキュラムは、生徒一人一人がエージェンシーを発揮する上での基盤を作るものである。
第二が、カリキュラムの民主主義維持機能である。
カリキュラムを通じて、国民一人一人が適切な判断力を身に付ける事は、個々人が自らの権利を守りながら、その社会的な責任を果たし、社会のウェルビーイングを維持していくと言う観点でも極めて重要である。
第三が、カリキュラムの国民統合機能である。
国民統合の原則原理としてのカリキュラムの役割に対する認識は希薄だった部分があるかもしれない。しかしながら、より多様化が進んだ社会においては、そもそも日本国民がどのような存在なのかを規定するとともに、多様なバックグラウンドを持つ人々を、日本国民として受け入れていく上で、学校教育の役割はよりいっそう大きくなってくるだろう。
そして、最後に加える。
国の将来を担う子供たちに対する国民の様々な願いや希望、夢や期待、そして、伝統や文化を凝縮したものがカリキュラムなのである。そのことを、大人はもちろん、子供たちも含めたすべての国民が、もう一度認識することが必要だろう。
以上で本書の本編は終わる。
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「VUCA」(Volatility・Uncertainty・Complexity・Ambiguity)(不安定,不確実,複雑,曖昧)という未来像での学校教育はどうあるべきか、各国の有識者はどう考えるのか「OECD(経済協力開発機構) Education 2030 プロジェクト」から見て行きたい。
テキストは、
白井 俊『OECD Education2030プロジェクトが描く教育の未来:エージェンシー、資質・能力とカリキュラム』ミネルヴァ書房 (2020/12/22)
参考のHP
OECDにおける Agencyに関する議論について - 文部科学省
終 章 これからの日本の教育を考える
この章は、これまでEducation 2030 プロジェクトの知見をもとに、白井さんが日本の教育に対してどのような示唆が得られるかについて最後に考察するところである。ところで、この部分わずか8ページなのだが、単に紙幅の都合だけではないようである。
こうした国際的なプロジェクトに参加する事は、日本の教育を考える上でも重要な様々な示唆を与えてくれる。とりわけ、現在の日本が直面している様々な教育上の課題は、日本に固有のものではなく、諸外国においても認識されている共通の課題であるという視点も重要だろう。こと教育に関しては、どの国も内政事項として扱いがちであるが、そうした先入観にとらわれず、国際的な比較の視点を持ちながら、教育と言う営為そのものに内在している課題を特定し、それらに対して科学的にアプローチしていくことが重要である。
意外なほど、各国の課題は、日本と共通しており、むしろグローバルな視点であっても、教育そのものに内在している課題に帰結することが多くこれまでの記述がすなわち日本の課題かなりの部分と重なるということらしい。
しかし、その中でも、白井さんは、この章で再度日本の教育のどこに問題意識を感じるかを述べなおしている。どんなことなのだろう。
1 エージェンシーの視点からの教育全体の見直し
まずはエージェンシーである。
エージェンシーは、「変化を起こすために、自分で目標設定し、振り返り、責任を持って行動する能力」と定義されているが、生徒のそうした能力が、生徒のそうした能力が、今の日本の学校教育において、十分に育まれているかは、疑問な人はできないだろう。
とした上で「ブラック校則」を例に挙げながら、次のように述べている。
学校教育の段階から、単に「ルールを守る」ことだけでなく、そもそも「このルールは本当に正しいのだろうか」、「このルールは変えるべきではないか」、「ルールを変えるためには、どのような手段を踏んでいくべきなのか」、「ルールがないのであれば、どのようなルールを整備する必要があるのか」、といったことを考えていくことが不可欠になってくるのである。
また、新しいルールを作っていく上で重要になるのが、倫理や道徳である。倫理や道徳の基礎がなければ、どのようなルールを作るべきか、作ろうとしているルールが妥当なものかどうかを判断することができない。
多くの他者と共同することも重要だろう。学校教育を通じて、多様な他者の考えを聞いたり、共同したり、議論したりする中で、生徒一人一人が、それぞれの倫理的基礎を築いていくことができる。
こうした変革へのエージェンシーの育成が、日本には特に必要だと指摘している。学校は「一つの共同体生活の形式」と言ったのはデューイだったが、その学校社会の中で変革のエージェンシーが育成できうるとしているようである。
また授業に関してである。
日本の中学生が学習の楽しさや実社会との関連に関して、肯定的な回答をする割合が低いことを指摘して次のように述べている。(「数学・理科の学習に対する生徒の意識」 (ページ末参照))
数学や理科の学習には取り組んでいるとしても、試験等の外在的な動機付けに依拠している部分が多いことが推察されるのである。その場合には、生徒の学びの目的が、通知表や入学試験といった、他者が設定したゴールをクリアするための学習になってしまっていると考えられる。もちろん、他者が設定したゴールをクリアすること自体が否定されるものではない。しかしながら、よりVUCAが進行する世界においては、他者が設定したゴールに向かうだけでなく、「そもそも、設定されている頃自体が適切なものなのか」、「設定されているゴール自体を見直す必要は無いのか」、といった事まで考えていくことも求められてくるだろう。
高得点や高い評価を得ることにどのような意義があるのか、といった事まで考えていくことも必要になってくるだろう。
従来からの学力の質の問題だが、白井さんも改めてここで問題提起している。
2 コンピテンシーの視点に基づいたカリキュラム・デザイン
ここでは、カリキュラム・デザインという概念の意図をまとめ直している。
カリキュラム上に書き込むだけでは、それは「意図されたカリキュラム」での対応に過ぎない。授業時間は当然有限であるし、教師の指導力や準備に要する時間、学校のICT環境の整備等を含めた「実施されたカリキュラム」、生徒がどこまで身に付けたか、また、それを評価できるという「達成されたカリキュラム」までを視野に入れて考える必要がある。
これは当然カリキュラム・オーヴァーロードも念頭に置いた指摘だ。そして、
従来のようなコンテンツ中心の発想から、コンピテンシーの意味を理解していくことが求められる。そのためのエビデンスをカッコするためにも、コンテンツとコンピテンシーの関係性を明らかにしていくCCMのような手法を洗練させていくことが重要だろう。
※ CCMとは、カリキュラム・コンテンツ・マッピングのこと
コンテンツからコンピテンシーへというのはこの会議のキーワードとも思える。
3 カリキュラムの意義の再認識。
この節が本書の最後のページになる。白井さんは再確認として、カリキュラムの3つの役割を(たぶん)あえてとりあげている。
第一は、カリキュラムの学習基盤機構機能である。
カリキュラムを通して学習の基盤となる基礎的な学力をつける事は、社会的な公平の観点からも重要である。基礎的な学力がなければ、より高度な学問を身に付けることも難しくなるし、社会に出てから活躍する事は、もちろん、成熟した市民として、権利を行使したり、義務を果たしていく上で支障が生じかねない。カリキュラムは、生徒一人一人がエージェンシーを発揮する上での基盤を作るものである。
第二が、カリキュラムの民主主義維持機能である。
カリキュラムを通じて、国民一人一人が適切な判断力を身に付ける事は、個々人が自らの権利を守りながら、その社会的な責任を果たし、社会のウェルビーイングを維持していくと言う観点でも極めて重要である。
第三が、カリキュラムの国民統合機能である。
国民統合の原則原理としてのカリキュラムの役割に対する認識は希薄だった部分があるかもしれない。しかしながら、より多様化が進んだ社会においては、そもそも日本国民がどのような存在なのかを規定するとともに、多様なバックグラウンドを持つ人々を、日本国民として受け入れていく上で、学校教育の役割はよりいっそう大きくなってくるだろう。
そして、最後に加える。
国の将来を担う子供たちに対する国民の様々な願いや希望、夢や期待、そして、伝統や文化を凝縮したものがカリキュラムなのである。そのことを、大人はもちろん、子供たちも含めたすべての国民が、もう一度認識することが必要だろう。
以上で本書の本編は終わる。
