秋の山で 近くの低山で
「VUCA」(Volatility・Uncertainty・Complexity・Ambiguity)(不安定,不確実,複雑,曖昧)という未来像での学校教育はどうあるべきか、各国の有識者はどう考えるのか「OECD(経済協力開発機構) Education 2030 プロジェクト」から見て行きたい。
テキストは、
白井 俊『OECD Education2030プロジェクトが描く教育の未来:エージェンシー、資質・能力とカリキュラム』ミネルヴァ書房 (2020/12/22)
参考のHP
OECDにおける Agencyに関する議論について - 文部科学省
第7章 国際的なカリキュラム課題への対応
前回までカリキュラムのオーバーロード問題の対応へのアプローチとして2つの見解をまとめてきた。今回は、そのアプローチの続きと、カリキュラムの運用への提言をまとめていく。近未来への教育は、どうカリキュラムというかたちに落とし込めるのか。
1 カリキュラム・オーバーロード(続き)
カリキュラムのオーバーロードについて、
第三のアプローチとして、学習テーマを実社会・実生活上の様々な課題に結びつけることとしている。
より少ないコンテンツであっても、様々なことを学ぶことができるようにする取り組みがある。例えば、北アイルランドでは、統計に関する学習に際して、単に統計を学ぶだけでなく、社会的・経済的な課題と関連付けようとしており、軍事への支出と債務の返済のどちらを優先するべきか、とか、リサイクルに要するコストと便益をどう分析するか、といった様々な課題を扱うように工夫している。
続く第四のアプローチは、現場関係者への啓発である。
より生徒に近い立場にいる学校や教師に、カリキュラムという課題に対して、その実態を最もよく把握する立場にいる教師自身が裁量を発揮することで、柔軟かつ、迅速な対応が期待される。また、このことは、カリキュラムの実施に関して、教師がエイジェンシーを発揮していくと言う事でもある。
さらに、第五のアプローチは、参加意識の形成である。
カリキュラムの段階から、教師や各教科の専門家を巻き込み、その意見踏まえたカリキュラムを作ることである。各分野の専門家は、どうしても自らが関わる教科や分野を手厚くするように求められがちであるが、カリキュラム全体の構造や、オーバーロードの状況を十分に理解してもらうことで、より現実的で妥当な解決策を作り出していくことが期待される。
最後、第六のアプローチである。
カリキュラム・オーバーロード問題への対応を、教育関係者だけでなく、より広い利害関係者を巻き込んでいくことである。カリキュラム・オーバーロードの問題の一般的な構図としては、全体としてのオーバーロードを抑制し、各国教育省と、それぞれの個別的なニーズを主張する利害関係者との間での対立や利害調整といった構造が生じがちである。しかしながら、カリキュラムの開発段階から利害関係者との議論を深めることで、オーバーロードを含めたカリキュラム全体の設計制度設計についての関係者の理解が深まり、効果的な解決につながることも考えられる。
以上6点が、OECDで出されたカリキュラム・オーバーロードへの対応の方向性であるという。
ここで少し驚くのは、これらの提言は、日本国内でのカリキュラムに関する議論や、カリキュラムを取りまとめていく手続きのあり方、そしてそこで生じる諸問題をそのまま擦るように、各国共通の課題であったと言うことである。
何処も実にリアルにこれらの問題を感じていたのである。
そしてこのことに言及しつつ、白井さんは日本のこれまでのオーバーロードへの取り組みをコラムの中で紹介している。
文部省(当時)が、1998年・ 1999年に改定を公表した学習指導要領は、その後、メディア等においては「ゆとり教育」と呼ばれ、社会的な批判の対象になった。ここでは、その批判の当否については、論じないが、現在、「カリキュラム・オーバーロード」が国際的な共通課題となっており、各国が増大する一方のコンテンツをいかに抑制・削減しようかと苦慮している中で、日本における当時の学習指導要領は、逆に注目を集めている。(中略) 20世紀末の時点で、日本が大幅なコンテンツ削減を実施したことについて、今ではむしろ、OECDや諸外国からも注目される先駆的な取り組みの例となっているからである。
このように「ゆとり教育」は、今日的課題の先取りとして当の日本でも貴重な経験として再認識するべきなのであろう。
そしてまとめとして、白井さんは次のように述べている。
今後、各国がカリキュラム・オーバーロードの問題を考えていく中では、カリキュラムを減らす際の、「減らし方の原理」であるとか、「減らすための方法論」についての原理・原則を確立していくことが求められるだろう。
たぶんこれは差し迫った問題に違いない。かつて学問領域が細分化し、それぞれに専門分野が広がる中で、評論家の立花隆さんは、“学問工学“のようなものが必要だと述べた。教えるコンテンツは急速に増えているのである。その中で従来から言われている教育内容の精選と言うことを、どこまで合理性と説得力を持った形で実現していけるのかと言うことが問われてきているのであろう。
2 カリキュラムの効果的な実施
この項は、カリキュラムの実施を阻害している他の要因を挙げながら円滑にそれを実施できる方策を考えている。
会議では「一般に、カリキュラム改革がうまくいかないことの主要な原因」として、次の3点をあげている。
・カリキュラム改革の内容が革新的・野心的なものにかかわらず、実施までのスケジュールが現実的でなく、教師を始めとしてカリキュラムの実施を担う人材に対する十分な投資が行われていない。
・カリキュラム改革の内容が、教師の養成や研修、学習状況の評価や試験の内容など、他の教育システムと十分に整合していない。
・様々な利害関係者が、カリキュラム改革の当事者として、適切なタイミングで関わっていない。
やや抽象的だが、どれも重要なことがわかる。もう少し具体的な表があげられているので、ページ末に引用しておく。
ところで、子どもたちと教師とが対峙しながら進めていく教育活動は常にライブ的である。
一方、教育行政が教育に加わるためには、教育活動への理念を策定し、各専門家チームによってコンテンツが設定させ、それに対する教授方法が検討され、これらの妥当性を評価するなどに時間を要する。
しかし、この過程を経て表れたものが、必ずしもそれが全国の個々の教室でライブの中でいきいきと表されるかは、現場の意識にもよる。
そして、このジレンマへの方策として、いくつかのアイディアが示されている。
カリキュラムに関する分権化を進めると、居住する地域や通学先の学校によって、生徒間での公平が担保されなかったり、学力に差がつくといったことが生じかねない。また、地域や学校の権限を広く認める場合には、政府による国レベルでの政策の実施が円滑に進まないことにもなりかねない。結局のところ、トップダウンとボトムアップ、あるいは国等のレベルでのカリキュラム統一性と地域や学校レベルでの柔軟性といった軸の間で、適切なバランスを考えていくことが必要である。また、カリキュラムの効果的な実施を考えていく上では、カリキュラム作成に着手した早い段階から、教師を始めとした関係者を巻き込んで、その理解を得ながら実施していくことも重要である。
としている。いずれにしても、当事者意識というのがキーワードになる。この具体的な取り組みとして、ニュージーランドで行われた教師や保護者、行政機関や地域団体、企業等を巻き込んだ、国民的な議論の例や、教師のネットワークを構築して、そこから草の根的にコミニケーションを進めていくことといったカナダやブラジルの例、カリキュラム改訂のスケジューリングを明確に示していくエストニア、中国、日本の例などが示されている。
いずれにしても、教育のあり方改革は、それぞれの立場が議論を尽くし、その必然性を内面化させていくと言うプロセスが必要なことも原理的な必然といるのだろう。
そして、カリキュラム運用上の課題として、最後に「タイムラグ」の問題を取り上げている。
3 カリキュラムにおけるタイムラグ
カリキュラムが策定されたとしても、それが各学校や教室において実施されるようになるまでは、教師による研修や教科書、教材の準備など、通常数年の時間を要するのであり、それまでの間に状況が変わってしまう場合もある。こうした問題を総称して、「タイムラグ(time lag ; 時代遅れ)」と呼んでいる。
そして、変化の激しい時代において「後追い」が指摘されると言う。
例えば、近年、AIが注目されるようになってから、数学やプログラミング等の重要性が指摘されるようになってきたが、そうした指摘は、AIの発達に伴った、いわば、「後追い」の指摘に過ぎない。
そして、これらの問題に対する処方箋として、カリキュラムの分権化によって、現場の判断が優先されることで、迅速なカリキュラム作りが可能だとしたり、カリキュラム策定に至る手続きやサイクルを明確化することで「あらかじめ次の手続きが何かを予見することができていれば、必要な準備や心構えをしていくことが容易になると考えられる」と言う原則などが挙げられている。いずれにしても、
最後は、各学校は、どのようにカリキュラム改革を受け止めて、それを実施していくかと言うことになる。タイムラグを埋めるっていくために、いかに学校や教師一人一人が迅速、的確に対応できるかは、各学校のリーダーシップと支援による雲が大きいのは当然である。
と言うのは、至極当然と思わざるを得ない。
以上、ここで実質的なOECDの教育の未来への提言は終わりである。
次回は、著者の白井 俊さんのまとめを読む。
※上手にスキャンできず失礼!
「VUCA」(Volatility・Uncertainty・Complexity・Ambiguity)(不安定,不確実,複雑,曖昧)という未来像での学校教育はどうあるべきか、各国の有識者はどう考えるのか「OECD(経済協力開発機構) Education 2030 プロジェクト」から見て行きたい。
テキストは、
白井 俊『OECD Education2030プロジェクトが描く教育の未来:エージェンシー、資質・能力とカリキュラム』ミネルヴァ書房 (2020/12/22)
参考のHP
OECDにおける Agencyに関する議論について - 文部科学省
第7章 国際的なカリキュラム課題への対応
前回までカリキュラムのオーバーロード問題の対応へのアプローチとして2つの見解をまとめてきた。今回は、そのアプローチの続きと、カリキュラムの運用への提言をまとめていく。近未来への教育は、どうカリキュラムというかたちに落とし込めるのか。
1 カリキュラム・オーバーロード(続き)
カリキュラムのオーバーロードについて、
第三のアプローチとして、学習テーマを実社会・実生活上の様々な課題に結びつけることとしている。
より少ないコンテンツであっても、様々なことを学ぶことができるようにする取り組みがある。例えば、北アイルランドでは、統計に関する学習に際して、単に統計を学ぶだけでなく、社会的・経済的な課題と関連付けようとしており、軍事への支出と債務の返済のどちらを優先するべきか、とか、リサイクルに要するコストと便益をどう分析するか、といった様々な課題を扱うように工夫している。
続く第四のアプローチは、現場関係者への啓発である。
より生徒に近い立場にいる学校や教師に、カリキュラムという課題に対して、その実態を最もよく把握する立場にいる教師自身が裁量を発揮することで、柔軟かつ、迅速な対応が期待される。また、このことは、カリキュラムの実施に関して、教師がエイジェンシーを発揮していくと言う事でもある。
さらに、第五のアプローチは、参加意識の形成である。
カリキュラムの段階から、教師や各教科の専門家を巻き込み、その意見踏まえたカリキュラムを作ることである。各分野の専門家は、どうしても自らが関わる教科や分野を手厚くするように求められがちであるが、カリキュラム全体の構造や、オーバーロードの状況を十分に理解してもらうことで、より現実的で妥当な解決策を作り出していくことが期待される。
最後、第六のアプローチである。
カリキュラム・オーバーロード問題への対応を、教育関係者だけでなく、より広い利害関係者を巻き込んでいくことである。カリキュラム・オーバーロードの問題の一般的な構図としては、全体としてのオーバーロードを抑制し、各国教育省と、それぞれの個別的なニーズを主張する利害関係者との間での対立や利害調整といった構造が生じがちである。しかしながら、カリキュラムの開発段階から利害関係者との議論を深めることで、オーバーロードを含めたカリキュラム全体の設計制度設計についての関係者の理解が深まり、効果的な解決につながることも考えられる。
以上6点が、OECDで出されたカリキュラム・オーバーロードへの対応の方向性であるという。
ここで少し驚くのは、これらの提言は、日本国内でのカリキュラムに関する議論や、カリキュラムを取りまとめていく手続きのあり方、そしてそこで生じる諸問題をそのまま擦るように、各国共通の課題であったと言うことである。
何処も実にリアルにこれらの問題を感じていたのである。
そしてこのことに言及しつつ、白井さんは日本のこれまでのオーバーロードへの取り組みをコラムの中で紹介している。
文部省(当時)が、1998年・ 1999年に改定を公表した学習指導要領は、その後、メディア等においては「ゆとり教育」と呼ばれ、社会的な批判の対象になった。ここでは、その批判の当否については、論じないが、現在、「カリキュラム・オーバーロード」が国際的な共通課題となっており、各国が増大する一方のコンテンツをいかに抑制・削減しようかと苦慮している中で、日本における当時の学習指導要領は、逆に注目を集めている。(中略) 20世紀末の時点で、日本が大幅なコンテンツ削減を実施したことについて、今ではむしろ、OECDや諸外国からも注目される先駆的な取り組みの例となっているからである。
このように「ゆとり教育」は、今日的課題の先取りとして当の日本でも貴重な経験として再認識するべきなのであろう。
そしてまとめとして、白井さんは次のように述べている。
今後、各国がカリキュラム・オーバーロードの問題を考えていく中では、カリキュラムを減らす際の、「減らし方の原理」であるとか、「減らすための方法論」についての原理・原則を確立していくことが求められるだろう。
たぶんこれは差し迫った問題に違いない。かつて学問領域が細分化し、それぞれに専門分野が広がる中で、評論家の立花隆さんは、“学問工学“のようなものが必要だと述べた。教えるコンテンツは急速に増えているのである。その中で従来から言われている教育内容の精選と言うことを、どこまで合理性と説得力を持った形で実現していけるのかと言うことが問われてきているのであろう。
2 カリキュラムの効果的な実施
この項は、カリキュラムの実施を阻害している他の要因を挙げながら円滑にそれを実施できる方策を考えている。
会議では「一般に、カリキュラム改革がうまくいかないことの主要な原因」として、次の3点をあげている。
・カリキュラム改革の内容が革新的・野心的なものにかかわらず、実施までのスケジュールが現実的でなく、教師を始めとしてカリキュラムの実施を担う人材に対する十分な投資が行われていない。
・カリキュラム改革の内容が、教師の養成や研修、学習状況の評価や試験の内容など、他の教育システムと十分に整合していない。
・様々な利害関係者が、カリキュラム改革の当事者として、適切なタイミングで関わっていない。
やや抽象的だが、どれも重要なことがわかる。もう少し具体的な表があげられているので、ページ末に引用しておく。
ところで、子どもたちと教師とが対峙しながら進めていく教育活動は常にライブ的である。
一方、教育行政が教育に加わるためには、教育活動への理念を策定し、各専門家チームによってコンテンツが設定させ、それに対する教授方法が検討され、これらの妥当性を評価するなどに時間を要する。
しかし、この過程を経て表れたものが、必ずしもそれが全国の個々の教室でライブの中でいきいきと表されるかは、現場の意識にもよる。
このジレンマは、公教育の原理的な課題と言えるだろうが、近未来への変化はますます早いレスポンスを求めてくるのだろう。今回のこの会議で、そのことが改めて表面化してきている。
そして、このジレンマへの方策として、いくつかのアイディアが示されている。
カリキュラムに関する分権化を進めると、居住する地域や通学先の学校によって、生徒間での公平が担保されなかったり、学力に差がつくといったことが生じかねない。また、地域や学校の権限を広く認める場合には、政府による国レベルでの政策の実施が円滑に進まないことにもなりかねない。結局のところ、トップダウンとボトムアップ、あるいは国等のレベルでのカリキュラム統一性と地域や学校レベルでの柔軟性といった軸の間で、適切なバランスを考えていくことが必要である。また、カリキュラムの効果的な実施を考えていく上では、カリキュラム作成に着手した早い段階から、教師を始めとした関係者を巻き込んで、その理解を得ながら実施していくことも重要である。
としている。いずれにしても、当事者意識というのがキーワードになる。この具体的な取り組みとして、ニュージーランドで行われた教師や保護者、行政機関や地域団体、企業等を巻き込んだ、国民的な議論の例や、教師のネットワークを構築して、そこから草の根的にコミニケーションを進めていくことといったカナダやブラジルの例、カリキュラム改訂のスケジューリングを明確に示していくエストニア、中国、日本の例などが示されている。
いずれにしても、教育のあり方改革は、それぞれの立場が議論を尽くし、その必然性を内面化させていくと言うプロセスが必要なことも原理的な必然といるのだろう。
そして、カリキュラム運用上の課題として、最後に「タイムラグ」の問題を取り上げている。
3 カリキュラムにおけるタイムラグ
カリキュラムが策定されたとしても、それが各学校や教室において実施されるようになるまでは、教師による研修や教科書、教材の準備など、通常数年の時間を要するのであり、それまでの間に状況が変わってしまう場合もある。こうした問題を総称して、「タイムラグ(time lag ; 時代遅れ)」と呼んでいる。
そして、変化の激しい時代において「後追い」が指摘されると言う。
例えば、近年、AIが注目されるようになってから、数学やプログラミング等の重要性が指摘されるようになってきたが、そうした指摘は、AIの発達に伴った、いわば、「後追い」の指摘に過ぎない。
そして、これらの問題に対する処方箋として、カリキュラムの分権化によって、現場の判断が優先されることで、迅速なカリキュラム作りが可能だとしたり、カリキュラム策定に至る手続きやサイクルを明確化することで「あらかじめ次の手続きが何かを予見することができていれば、必要な準備や心構えをしていくことが容易になると考えられる」と言う原則などが挙げられている。いずれにしても、
最後は、各学校は、どのようにカリキュラム改革を受け止めて、それを実施していくかと言うことになる。タイムラグを埋めるっていくために、いかに学校や教師一人一人が迅速、的確に対応できるかは、各学校のリーダーシップと支援による雲が大きいのは当然である。
と言うのは、至極当然と思わざるを得ない。
以上、ここで実質的なOECDの教育の未来への提言は終わりである。
次回は、著者の白井 俊さんのまとめを読む。
※上手にスキャンできず失礼!