私が床柱用の銘木を輸入しようとしたのには以下のような理由がある。小型船舶用のビルジ・ポンプの輸出の傍ら、ヨーロッパからブランド物のハンドバッグやネクタイを輸入していた時期があった。而し、かなりの偽物が安い価格で日本の市場に出廻り、価格面では到底太刀打ち出来なかった。当時の市場に出廻っていたイタリー製のグッチなどは本物より偽物の方が圧倒的に多かった。他の用事で香港に出張した際に偶然セリーヌ、クリスチャン・ディオール、グッチ、ロンシャン等々のバッグを製造していた現場に出くわした。全て同じ業者が製造していた。偽物づくりの社長が「どうです、いい出来でしょう!」と自慢げに製品を見せてくれた。その殆どが日本向けに出荷される予定だと云っていた。今でこそ日本の法律が改正され、偽物が水際で防がれているからいいが、当時は偽物がどんどん入り、本物の方が少ないぐらいだった。
そのような業界に嫌気がさし、絶対に偽物が作れないもの、日本が外国から買わざるを得ないものは何か、その辺のところを考えてみた。その結果が材木だった。材木業界は堅い木と柔かい木に分かれており、堅い木の中でも一般建築材と銘木の業界に分かれていた。夫々に異なった材木を扱う専門業者から教えを受け、なかでも入手が一番難しい床柱用の「銘木」を選ぶことにした。銘木の中で最も珍重されているのはご存じのように紫檀と黒檀である。中でも、日本では縞黒檀が最も人気があり、入手も非常に難しい。業界にはこの縞黒檀だけを専門に輸入している人たちがしっかりと手を結び、簡単には割込めないと判断した。それで、私は「紫檀」の方を専門とすることにした。いわゆる本紫檀は世界中でインドにしかなく、インド政府は紫檀の輸出を一切禁じている。従って、日本の市場に流通している物は全て紫檀の代用品である。図書館に通い、紫檀の代用品になるものはどんな木か、何処にあるのかを徹底的に調べた。その結果、堅い木は赤道を挟んで南緯、北緯とも15度あたり迄に分布している。世界地図を広げ、最も行きにくい国、最も取引し辛い国、そしていい木が豊富にある国。その基準で選んだのがビルマであった。この狙いは悪くはなかった。カリンは木目もよく、紫檀の代用になる。またタマランとかティットカヤなどの銘木がふんだんにある。後で知ったことだが、既にタイ人がビルマからカリンを輸入し、床柱用に加工して日本に輸出していた。後発の私でも、ビルマからカリンをフリッチ(丸太の白太を多少残して四角にしたもの、杣角(ソマカク)とも云う)の状態で輸入すれば充分に戦えると考えた。
材木の話から離れて恐縮だが、是非とも2007年9月に至近距離から銃撃されて亡くなられたジャーナリスト長井健司さんのことに、ご冥福を祈りながら触れたい。「ビルマ編1」でも述べた通り、当時のビルマ(現ミャンマー)は何年もの間ジャーナリストの入国を拒み続けていた。それが世界の圧力に負け、渋々認可するようになった。それで長井さんは入国出来たのだが、軍政府のジャーナリストを忌み嫌う体質は変っていなかった。偶然に生前の、ビルマにおける長井さんのお姿をテレビで拝見した。ラングーン(現ヤンゴン)市内で激しく行われているデモの取材に行く前の様子だと思う。日本語を話す通訳が一緒だった。その通訳が「非常に危険です、充分に気を付けて下さい」と云った。前後のことがわからないので何とも云えないが、恐らく「ビルマに入国している外国人のジャーナリストは危険、特にデモの現場では」と云ったのではないだろうか。長井さんは「自分は戦場でもっと危険な目にあっている。心配ない」とおっしゃっているのを耳にした。その瞬間、私は何かおかしい。あの人はビルマの内情を良く知らないのではないかと感じた。我々貿易屋でもその国の事情を事前に調べてから入国する。戦場では弾は前方の敵からしか飛んでこない。而し、当時のビルマのような国では前方からとは限らない。弾は横からでも後ろからでも飛んでくる。私は危険を誰よりも早く察知し、それを避けようと努力している。不審そうな目で私を見ている軍人に気がつくと、にっこり笑って、片手をあげながら「ミンガラバ」(こんにちは)と云う。相手は仕方なしに「ミンガラバ」と応える。この段階で拘束もされないし、不審尋問もされない。
後で聞いた話だが、長井さんの周辺には常に監視者がいたとのことだ。その監視者が長井さんの情報を逐一上官に報告していた。ビルマの常識では考えられないことだが、長井さんはビデオカメラを構え、見物人の中から道路に飛び出た。その時を狙って上官が兵隊に「撃て」と命令したようだ。兵士は命令されればアメリカの大統領だって迷わずに撃つだろう。そのように訓練されている。命令に従わなければ部隊が全滅する事だってあり得る。
長井さんのことを確かめようと、ミント・ウー社長に手紙を書いた。全く返事がなかった。返事がないことが返事なのであろうと考えた。即ち、私が書いたことは全て事実であると彼は云っていたに違いない。2007年の段階では郵便物の検閲はまだ行われていた。
インヤ・レイク・ホテル。インヤ湖のほとりにある、迎賓館も兼ねるビルマの最高級ホテルと称されている。私も一度泊まったが、シングルは文字通りのシングル・ルームでバスルームを除けば8畳よりちょっと広い程度。料金はストランドホテルより安く、USドルで40ドルだった。いまさらストランド・ホテルに替えるわけにはいかないので我慢した。だが、夜になるとヤモリが慰めに来てくれた。空港には近いが、街中に出るには車がなければ到底行けない。ちなみに私の定宿にしているストランド・ホテルの部屋は此処の3倍か4倍の広さがある。
インヤ湖の一部。私の一番好きな場所である。来るたびに今度こそは釣竿を持ってこようと思うのだが、一度も実現出来なかった。
トゥングーの村落。私の目に突然日本の田舎の風景が飛び込んできた。このような場所に来ると、カリンが集まらないのも忘れて心が安らぐ。子供の頃の疎開を懐かしく想い出した。
ペグーにある製材工場から仕事を終えてのんびりと帰宅する人たち。扇風機一つない劣悪な労働条件の中で、彼等は一生懸命働いている。
ラングーン川を行き来する水上タクシー。中には乗合船もある。夕闇が迫るころに活発に動く。川の中央に出るまでは手で櫓をこいでいるが、そのあとは足でこぐ。足で櫓をこいでいる姿をお見せ出来ないのは残念である。
材木商ココ・ジィーの子供たち。この写真を見る限り、ビルマが世界の最貧国の一つであることを全く連想させない。この一家が一番ではないが、ラングーンでは裕福な方であろう。軍事政権下で思うような経済活動は出来ない筈だが、このお宅にお邪魔する度にどのようにして財を得たのか考えさせられる。先祖から引継いだものではない。
上の写真は全てラングーン近郊の川沿いにある製材工場。夫々に敷地はやたらと広いが、工場内は家内工業の域を出ていない。
仏教が熱心に信じられている国なのに、このような教会を時たま見かける。共産主義国家の中では宗教を禁じている国さえある中、このビルマの軍事政権がキリスト教を容認しているのは奇妙なことであると感じた。
何のビルか知らないが、東京駅を想像させた。マレーシア、タイ、ビルマと廻ってくると日本の風景が無性に恋しくなる。
そのような業界に嫌気がさし、絶対に偽物が作れないもの、日本が外国から買わざるを得ないものは何か、その辺のところを考えてみた。その結果が材木だった。材木業界は堅い木と柔かい木に分かれており、堅い木の中でも一般建築材と銘木の業界に分かれていた。夫々に異なった材木を扱う専門業者から教えを受け、なかでも入手が一番難しい床柱用の「銘木」を選ぶことにした。銘木の中で最も珍重されているのはご存じのように紫檀と黒檀である。中でも、日本では縞黒檀が最も人気があり、入手も非常に難しい。業界にはこの縞黒檀だけを専門に輸入している人たちがしっかりと手を結び、簡単には割込めないと判断した。それで、私は「紫檀」の方を専門とすることにした。いわゆる本紫檀は世界中でインドにしかなく、インド政府は紫檀の輸出を一切禁じている。従って、日本の市場に流通している物は全て紫檀の代用品である。図書館に通い、紫檀の代用品になるものはどんな木か、何処にあるのかを徹底的に調べた。その結果、堅い木は赤道を挟んで南緯、北緯とも15度あたり迄に分布している。世界地図を広げ、最も行きにくい国、最も取引し辛い国、そしていい木が豊富にある国。その基準で選んだのがビルマであった。この狙いは悪くはなかった。カリンは木目もよく、紫檀の代用になる。またタマランとかティットカヤなどの銘木がふんだんにある。後で知ったことだが、既にタイ人がビルマからカリンを輸入し、床柱用に加工して日本に輸出していた。後発の私でも、ビルマからカリンをフリッチ(丸太の白太を多少残して四角にしたもの、杣角(ソマカク)とも云う)の状態で輸入すれば充分に戦えると考えた。
材木の話から離れて恐縮だが、是非とも2007年9月に至近距離から銃撃されて亡くなられたジャーナリスト長井健司さんのことに、ご冥福を祈りながら触れたい。「ビルマ編1」でも述べた通り、当時のビルマ(現ミャンマー)は何年もの間ジャーナリストの入国を拒み続けていた。それが世界の圧力に負け、渋々認可するようになった。それで長井さんは入国出来たのだが、軍政府のジャーナリストを忌み嫌う体質は変っていなかった。偶然に生前の、ビルマにおける長井さんのお姿をテレビで拝見した。ラングーン(現ヤンゴン)市内で激しく行われているデモの取材に行く前の様子だと思う。日本語を話す通訳が一緒だった。その通訳が「非常に危険です、充分に気を付けて下さい」と云った。前後のことがわからないので何とも云えないが、恐らく「ビルマに入国している外国人のジャーナリストは危険、特にデモの現場では」と云ったのではないだろうか。長井さんは「自分は戦場でもっと危険な目にあっている。心配ない」とおっしゃっているのを耳にした。その瞬間、私は何かおかしい。あの人はビルマの内情を良く知らないのではないかと感じた。我々貿易屋でもその国の事情を事前に調べてから入国する。戦場では弾は前方の敵からしか飛んでこない。而し、当時のビルマのような国では前方からとは限らない。弾は横からでも後ろからでも飛んでくる。私は危険を誰よりも早く察知し、それを避けようと努力している。不審そうな目で私を見ている軍人に気がつくと、にっこり笑って、片手をあげながら「ミンガラバ」(こんにちは)と云う。相手は仕方なしに「ミンガラバ」と応える。この段階で拘束もされないし、不審尋問もされない。
後で聞いた話だが、長井さんの周辺には常に監視者がいたとのことだ。その監視者が長井さんの情報を逐一上官に報告していた。ビルマの常識では考えられないことだが、長井さんはビデオカメラを構え、見物人の中から道路に飛び出た。その時を狙って上官が兵隊に「撃て」と命令したようだ。兵士は命令されればアメリカの大統領だって迷わずに撃つだろう。そのように訓練されている。命令に従わなければ部隊が全滅する事だってあり得る。
長井さんのことを確かめようと、ミント・ウー社長に手紙を書いた。全く返事がなかった。返事がないことが返事なのであろうと考えた。即ち、私が書いたことは全て事実であると彼は云っていたに違いない。2007年の段階では郵便物の検閲はまだ行われていた。
インヤ・レイク・ホテル。インヤ湖のほとりにある、迎賓館も兼ねるビルマの最高級ホテルと称されている。私も一度泊まったが、シングルは文字通りのシングル・ルームでバスルームを除けば8畳よりちょっと広い程度。料金はストランドホテルより安く、USドルで40ドルだった。いまさらストランド・ホテルに替えるわけにはいかないので我慢した。だが、夜になるとヤモリが慰めに来てくれた。空港には近いが、街中に出るには車がなければ到底行けない。ちなみに私の定宿にしているストランド・ホテルの部屋は此処の3倍か4倍の広さがある。
インヤ湖の一部。私の一番好きな場所である。来るたびに今度こそは釣竿を持ってこようと思うのだが、一度も実現出来なかった。
トゥングーの村落。私の目に突然日本の田舎の風景が飛び込んできた。このような場所に来ると、カリンが集まらないのも忘れて心が安らぐ。子供の頃の疎開を懐かしく想い出した。
ペグーにある製材工場から仕事を終えてのんびりと帰宅する人たち。扇風機一つない劣悪な労働条件の中で、彼等は一生懸命働いている。
ラングーン川を行き来する水上タクシー。中には乗合船もある。夕闇が迫るころに活発に動く。川の中央に出るまでは手で櫓をこいでいるが、そのあとは足でこぐ。足で櫓をこいでいる姿をお見せ出来ないのは残念である。
材木商ココ・ジィーの子供たち。この写真を見る限り、ビルマが世界の最貧国の一つであることを全く連想させない。この一家が一番ではないが、ラングーンでは裕福な方であろう。軍事政権下で思うような経済活動は出来ない筈だが、このお宅にお邪魔する度にどのようにして財を得たのか考えさせられる。先祖から引継いだものではない。
上の写真は全てラングーン近郊の川沿いにある製材工場。夫々に敷地はやたらと広いが、工場内は家内工業の域を出ていない。
仏教が熱心に信じられている国なのに、このような教会を時たま見かける。共産主義国家の中では宗教を禁じている国さえある中、このビルマの軍事政権がキリスト教を容認しているのは奇妙なことであると感じた。
何のビルか知らないが、東京駅を想像させた。マレーシア、タイ、ビルマと廻ってくると日本の風景が無性に恋しくなる。