TDY、Temporary Duty。アメリカの軍隊用語で出張を意味する。世界の僻地の出張記録!TDYの次は日常の雑感

現役時代の出張記録。人との出会いと感動。TDY編を終え、写真を交えた日常の雑感を綴る。

TDY, Temporary Duty ビルマ編 5

2013年09月30日 | 日記
 私が床柱用の銘木を輸入しようとしたのには以下のような理由がある。小型船舶用のビルジ・ポンプの輸出の傍ら、ヨーロッパからブランド物のハンドバッグやネクタイを輸入していた時期があった。而し、かなりの偽物が安い価格で日本の市場に出廻り、価格面では到底太刀打ち出来なかった。当時の市場に出廻っていたイタリー製のグッチなどは本物より偽物の方が圧倒的に多かった。他の用事で香港に出張した際に偶然セリーヌ、クリスチャン・ディオール、グッチ、ロンシャン等々のバッグを製造していた現場に出くわした。全て同じ業者が製造していた。偽物づくりの社長が「どうです、いい出来でしょう!」と自慢げに製品を見せてくれた。その殆どが日本向けに出荷される予定だと云っていた。今でこそ日本の法律が改正され、偽物が水際で防がれているからいいが、当時は偽物がどんどん入り、本物の方が少ないぐらいだった。
 
 そのような業界に嫌気がさし、絶対に偽物が作れないもの、日本が外国から買わざるを得ないものは何か、その辺のところを考えてみた。その結果が材木だった。材木業界は堅い木と柔かい木に分かれており、堅い木の中でも一般建築材と銘木の業界に分かれていた。夫々に異なった材木を扱う専門業者から教えを受け、なかでも入手が一番難しい床柱用の「銘木」を選ぶことにした。銘木の中で最も珍重されているのはご存じのように紫檀と黒檀である。中でも、日本では縞黒檀が最も人気があり、入手も非常に難しい。業界にはこの縞黒檀だけを専門に輸入している人たちがしっかりと手を結び、簡単には割込めないと判断した。それで、私は「紫檀」の方を専門とすることにした。いわゆる本紫檀は世界中でインドにしかなく、インド政府は紫檀の輸出を一切禁じている。従って、日本の市場に流通している物は全て紫檀の代用品である。図書館に通い、紫檀の代用品になるものはどんな木か、何処にあるのかを徹底的に調べた。その結果、堅い木は赤道を挟んで南緯、北緯とも15度あたり迄に分布している。世界地図を広げ、最も行きにくい国、最も取引し辛い国、そしていい木が豊富にある国。その基準で選んだのがビルマであった。この狙いは悪くはなかった。カリンは木目もよく、紫檀の代用になる。またタマランとかティットカヤなどの銘木がふんだんにある。後で知ったことだが、既にタイ人がビルマからカリンを輸入し、床柱用に加工して日本に輸出していた。後発の私でも、ビルマからカリンをフリッチ(丸太の白太を多少残して四角にしたもの、杣角(ソマカク)とも云う)の状態で輸入すれば充分に戦えると考えた。

 材木の話から離れて恐縮だが、是非とも2007年9月に至近距離から銃撃されて亡くなられたジャーナリスト長井健司さんのことに、ご冥福を祈りながら触れたい。「ビルマ編1」でも述べた通り、当時のビルマ(現ミャンマー)は何年もの間ジャーナリストの入国を拒み続けていた。それが世界の圧力に負け、渋々認可するようになった。それで長井さんは入国出来たのだが、軍政府のジャーナリストを忌み嫌う体質は変っていなかった。偶然に生前の、ビルマにおける長井さんのお姿をテレビで拝見した。ラングーン(現ヤンゴン)市内で激しく行われているデモの取材に行く前の様子だと思う。日本語を話す通訳が一緒だった。その通訳が「非常に危険です、充分に気を付けて下さい」と云った。前後のことがわからないので何とも云えないが、恐らく「ビルマに入国している外国人のジャーナリストは危険、特にデモの現場では」と云ったのではないだろうか。長井さんは「自分は戦場でもっと危険な目にあっている。心配ない」とおっしゃっているのを耳にした。その瞬間、私は何かおかしい。あの人はビルマの内情を良く知らないのではないかと感じた。我々貿易屋でもその国の事情を事前に調べてから入国する。戦場では弾は前方の敵からしか飛んでこない。而し、当時のビルマのような国では前方からとは限らない。弾は横からでも後ろからでも飛んでくる。私は危険を誰よりも早く察知し、それを避けようと努力している。不審そうな目で私を見ている軍人に気がつくと、にっこり笑って、片手をあげながら「ミンガラバ」(こんにちは)と云う。相手は仕方なしに「ミンガラバ」と応える。この段階で拘束もされないし、不審尋問もされない。
 後で聞いた話だが、長井さんの周辺には常に監視者がいたとのことだ。その監視者が長井さんの情報を逐一上官に報告していた。ビルマの常識では考えられないことだが、長井さんはビデオカメラを構え、見物人の中から道路に飛び出た。その時を狙って上官が兵隊に「撃て」と命令したようだ。兵士は命令されればアメリカの大統領だって迷わずに撃つだろう。そのように訓練されている。命令に従わなければ部隊が全滅する事だってあり得る。
 長井さんのことを確かめようと、ミント・ウー社長に手紙を書いた。全く返事がなかった。返事がないことが返事なのであろうと考えた。即ち、私が書いたことは全て事実であると彼は云っていたに違いない。2007年の段階では郵便物の検閲はまだ行われていた。


 インヤ・レイク・ホテル。インヤ湖のほとりにある、迎賓館も兼ねるビルマの最高級ホテルと称されている。私も一度泊まったが、シングルは文字通りのシングル・ルームでバスルームを除けば8畳よりちょっと広い程度。料金はストランドホテルより安く、USドルで40ドルだった。いまさらストランド・ホテルに替えるわけにはいかないので我慢した。だが、夜になるとヤモリが慰めに来てくれた。空港には近いが、街中に出るには車がなければ到底行けない。ちなみに私の定宿にしているストランド・ホテルの部屋は此処の3倍か4倍の広さがある。


 インヤ湖の一部。私の一番好きな場所である。来るたびに今度こそは釣竿を持ってこようと思うのだが、一度も実現出来なかった。


 トゥングーの村落。私の目に突然日本の田舎の風景が飛び込んできた。このような場所に来ると、カリンが集まらないのも忘れて心が安らぐ。子供の頃の疎開を懐かしく想い出した。


 ペグーにある製材工場から仕事を終えてのんびりと帰宅する人たち。扇風機一つない劣悪な労働条件の中で、彼等は一生懸命働いている。


 ラングーン川を行き来する水上タクシー。中には乗合船もある。夕闇が迫るころに活発に動く。川の中央に出るまでは手で櫓をこいでいるが、そのあとは足でこぐ。足で櫓をこいでいる姿をお見せ出来ないのは残念である。


 材木商ココ・ジィーの子供たち。この写真を見る限り、ビルマが世界の最貧国の一つであることを全く連想させない。この一家が一番ではないが、ラングーンでは裕福な方であろう。軍事政権下で思うような経済活動は出来ない筈だが、このお宅にお邪魔する度にどのようにして財を得たのか考えさせられる。先祖から引継いだものではない。








 上の写真は全てラングーン近郊の川沿いにある製材工場。夫々に敷地はやたらと広いが、工場内は家内工業の域を出ていない。


 仏教が熱心に信じられている国なのに、このような教会を時たま見かける。共産主義国家の中では宗教を禁じている国さえある中、このビルマの軍事政権がキリスト教を容認しているのは奇妙なことであると感じた。


 何のビルか知らないが、東京駅を想像させた。マレーシア、タイ、ビルマと廻ってくると日本の風景が無性に恋しくなる。

TDY, Temporary Duty ビルマ編 4

2013年09月23日 | 日記
 ビルマは宝石の宝庫である。中でもルビーはその量と品質で他の追随を許さない。ルビーは「鳩の血の色」が最も珍重される。ビルマのルビーはまさにこの「鳩の血の色」である。サファイアや翡翠も豊富である。又地下資源として、石油、石炭、鈴、亜鉛、タングステン、鉛、鉄鉱石が多く埋蔵されている。その上豊かな林産資源がある。畑では胡麻、落花生、トマト、綿、タバコ、数え上げればきりがないほどの作物がなんの苦労もなく育つ。世界有数の米の生産国でもある。それが、どうして世界最貧国の一つになってしまったのであろうか。軍が支配している社会主義の一番悪い面だけが出てきたのであろうと私は想像する。

 偶然知合った裕福そうなご婦人がネックレスを外して私に見せてくれた。鎖の先には犬の牙のような形の金の塊がついていた。長さは2センチほどだったが、厚さも幅も1センチはあった。手のひらに乗せるとずしりとする重さを感じた。「これは私のお守りにしていますが、子供の頃に河原で水遊びをしているときに見つけたのです。熱心に探せばもっとあったでしょう。砂と土が混じった所を掘れば、今でもルビーやサファイアが出てきます。昔は、それが全部自分のものになりました。今は政府がみんな持っていってしまいます。それで誰も探さなくなりました」。そう云うと寂しそうな表情をして、そのネックレスを首に戻した。私が「黙って自分のものにしてしまえばいいでしょう」と云うと、「何処にでも居るでしょ、他人の事をじっと見ていて、それを得意げに密告する人が」。そして、辺りを伺うようにしてから私に近づいて小声で云った。「ビルマには、英語を話す人が大勢います。それと日本語を話す人もいます。特に軍事政府には日本語の得意な人が大勢雇われています。普段は日本語を一切使いません」。

 豊かだったころのビルマを想像させられたと同時に、その逆の希望の見えないビルマを見せつけられた思いだった。このことを取引先のミント・ウー社長に確かめてみると「確かにそうです」と云い、そのあとで「知らない人と親しくしない方がいいです」と云われた。隣で従弟のタン・アンが大きく頷いていた。理由は教えてもらえなかったが、何か私には云いにくいことがあるようだった。

 カリンの取引は一向に進まなかった。集積地に行ってみると、ほんの少ししかなかったり、軍が管理していて他には出荷出来ないと云われたりした。利益の上がりそうな商取引は軍が直接乗り出すか、息のかかった業者にやらせるのだそうだ。バンコクのホテルで大手の商社マンからこのような話を聞いてはいたが、実際にそうだとは信じられなかった。


 たったこれだけの量では商売にはならない。5万円にも満たない金額だろうが、彼等にとってはかなりな金額である。この金銭感覚の差が、商売感覚のずれを生んでいる。


 モー・ルィンさん。カリンを集めることで非常にお世話になった林産省の高官。ルインとは「輝く」と云う意味だそうだが、「最近の私はちっとも輝いていません」と淋しそうに云った。いくら良い政策を出しても軍につぶされてしまうそうだ。モー・ルィンさんは1992年に急な病で亡くなられた。非常に残念である。心からご冥福を祈る。


 ラングーン(ヤンゴン)の中心街から少し行くと、もうこのようなのんびりとした風景に行きあたる。ラングーンから北西に向かっている道路に面したドライブインからの眺め。


 夕暮れ時、ラングーンに帰る途中で実に心のなごむ風景に出会った。この辺りに住み、釣りをしながら暮らせたらどんなにいいだろう。


 ラングーンにあるパゴダの一つ。中に入れてもらえないのか、自分たちの意志で中に入らないのかは知る由もないが、外で熱心に祈る人たちがいた。
 ビルマでは肌の色が白くて太っていることがステータス・シンボルだと聞いている。色の黒い人たちは蔑まれている。同じビルマ族でも黒人のように黒い人もいれば白人のように白い人もいる。その所為だろうか、ご婦人方は頬に白い粉(タナカ)を塗っている。日焼け止め効果だけではなく、此れを塗るとひんやりして涼しいのだそうだ。


 材木商ココ・ジィー (大きい長兄の意)の奥さんのセン・セン(実際の発音はセとテの中間音。百万・百万の意)が、昼食に川エビを塩焼きにして出してくれた。ビルマに来て初めて味あう美味だった。大きさは小ぶりの伊勢エビほどもあり、味も似ていた。ボジョー・マーケットで1ビス(Viss 約1.6Kg)で闇のチャットで買えば60円ぐらいだったと覚えている。これを日本で売ったら大儲けできると考え、サンプルを持って水産仲売り業者に当たったが誰も相手にしてくれなかった。
 現在は天然ものだけでは間に合わず、養殖されて大々的に近隣諸国に輸出されている。それも結構な値段で。私の商売は機が熟すよりずっと早く走り出すから大儲け出来ないのだと、家内や友人たちから云われている。これもそのいい例だった。


 ひっかしがったビルにつっかえ棒をしているように見えるが、近くで見るとそのようなディザインなのだと納得した。ラングーンには風変わりなビルがある


 ラングーンの交通の激しい場所で、突然に全ての通行が強制的に止められた。誰か偉い人が通るのだろう。人々は文句も云わずに従っていた。


 交通規制の後で、ビルマではめったにお目にかかれない高級車がやってきた。ピカピカに磨かれた新車だった。
 ビルマを走っている車はほとんどが日本から輸入された中古車だ。それも、トラックやバンは以前の持ち主書いた社名が入ったままだ。日本語で書かれていれば、「自分は日本の車に乗っている」と自慢出来るからだそうだ。


 ある日の外貨の交換レート。ホテルの会計のお兄さんが毎日掲げるが、中身が変っていることは殆どなかった。赤線で囲ってあるところが日本円だが、今日は10,000円を換えると449チャットになる。闇なら5,000チャットだ。


 ストランドホテルのレストラン。朝食は6時ごろから11時近くまでだらだらと続けられている。お蔭で混むこともなくゆっくりと朝食が楽しめる。USドルで払うと、8ドルから10ドルぐらいだが、闇のチャットで払えば140円からせいぜい180円だ。軍の悪政を逆手にとって何が悪い?
 どこの国でもホテルでの食事は非常に高い傾向があるが、ここビルマでは特に高い。衛生面を気にせずに外で朝食を取れば、この値段の5分の1から10分の1だ。而し、現在はもっと物価が上っているそうだ。


 ラングーン(ヤンゴン)国際空港の全容。ビルマの国旗が掲揚されているところは写真撮影が禁止されている。破ればフィルムだけではなくカメラも没収され、身柄も拘束されるそうだ。
 私が乗っているタイ航空の飛行機は滑走路へのタキシングの途中なので大丈夫だとは思うが、ビルマの領空を出るまでは安心出来ない。それで、周囲を気にしながら撮った。



TDY, Temporary Duty ビルマ編 3

2013年09月16日 | 旅行
 ビルマはかつて英国の統治下にあったからなのか、比較的英語が通じる。而し、ビルマの英語に慣れるまでは苦労した。
 空港で顔を合わせたアメリカ人と、ホテルのバーでまた会った。お互いに名乗った後で「取引先の社長の云っていることの半分も理解出来ない」と私がぼやくと、彼は笑いだした。「初めてビルマに来た時、ビルマ語って英語に似ているな」と感じたそうだ。相手が一生懸命に英語で話しているのに、それが英語に聞こえなかったらしい。彼が丁寧に説明してくれた。「ビルマの通貨のチャットですが、Kyatと綴るのを知っていますか?彼らの発音はトウキョウではなくトウチョウ、キョウトではなくチョウトなのです。それと、イエスとノーが日本人と同じで、我々と違います」。説明を聞いて全てが分かった。「明日は材木置き場に行きますか?」と聞くと「はい、行きません」と答える。英語の返事では「いいえ、行きません」の筈だ。この辺のところを注意深く聞くようにすると、ビルマの難しい英語も何とか理解出来るようになった。

 ついでなので、ビルマの通貨について話したい。空港の税関を通るとき、日本円、或いはUSドルを幾ら持って入ったかを申告書と照らし合わせながらチェックを受ける。これをビルマの通貨のチャットに換えるには政府から許可された銀行か政府の経営するホテル以外の処では出来ない。もし15万円持って入り、5万円分をチャットと交換すると、私が持って入った申告書にそのことを証明し、残額を10万円とする。そして、出国する際に、申告書と私の持参金と照合させられる。合わなければ大変なことになるらしい。即ち、正規のチャットではなく、闇のチャットを買ったとみなされる。

 ホテルで、取敢えず10,000円を交換した。約430チャットと小銭が汚い紙幣と角のすり減った硬貨で手渡された。取引先との約束に多少時間があったので、ホテルの近くのマーケットに行き、アメリカ製のタバコのウィンストンを買った。代金は40チャットだった。日本円に直すと約920円だ。とんでもない金額だ。確か当時のセブンスターは200円ちょっとぐらいだったと思う。交換レートがバカ高いのに恐怖さえ覚えた。
 取引先が時間になってもまだ来ていない。ホテルの玄関から一歩外に出ると、ビルマ人のおじさんが来てそっとささやいた。「チャットは如何ですか、ホテルでは10,000円で400から450チャットでしょ。私なら1,500チャット上げます」。3倍なら悪くないと考え、そっと頷いた。そうすると待たせてあった車に乗せられた。ホテルの近くを一周する間に取引を終えた。戻ってくると、取引先の社長のミント・ウーが従弟のタン・アンを通訳として連れてきた。ビルマ人ではないようなきれいな英語と、片言の日本語を話せた。彼らは私がポンコツ車から降りてきたのを見ていたらしく、ものすごく怒った。私の身を案じてくれてのことだった。私がいい取引をしたのだと説明すると、タン・アンは「あなたは騙されました。相場は10,000円で5,000チャットです。今度チャットが必要なときはミント・ウーさんに云って下さい」と云われた。ホテルで換えたら1チャットが約23円、ミント・ウー社長に頼めば1チャットが2円。公定レートと闇レートの差がこれほどある国に来たのは初めてだった。

 帰国の日がやってきた。入国の際に申請した金額から公式に差し引かれた金額、つまり正式にビルマ通貨との交換に要した金額の残りが現在の所持金と合わなければ出国出来ない。私は申告額の中から10、000円で闇のチャットを買っている。10、000円の不足である。財布を調べられている順番を待つ間「同じ札を二度数えればいいさ」と腹を括っていたが、順番が近づき、前の方を見て「こりゃ、ヤバイ」と心臓が高鳴った。旅行客に数えさせずに、係官が数えている。何とかしなければならないが、方策は全くなかった。とぼけるか、どうでもしろと居直るしか手はない。こんな事で銃殺されることもないだろうと考えた。三、四人で順番が廻ってくる。このTG306便で出国出来ない事を考えた。私は常に最悪の事を考えて対処することにしている。そして次の打つ手を何種類か用意すればいい。而し、今回は打つ手がなかった。
 私の前の、前の旅行客にかなり時間が取られた。16時40分の出発の時間が迫ってきた。一人の係官が滑走路の方から走ってきた。そして何か云った。手間取っていた男を「もう、いい」と云って通した。次の客には自分で紙幣を数えさせた。滑走路から走ってきた係官が私に「数えろ」と云った。私は財布から紙幣を出し、最後の一枚を二枚に折り曲げて同じ札を二度数えた。頭の中で考えてきたシュミレーション通りにやった。無事通過した。
 帰りの飛行機で、タイ人から聞いた。「申告しない現金をポケットの中に忍ばせておけばいいのです。ポケットの中までは調べません」。次回はこのようにすることにした。



 政府のチーク材置場。ご存知のように、チークは船の内装やビルの壁材の貴重な材料となる。世界でビルマのチーク材が群を抜いて良質である。この材木を輸入するには、政府に法外な証拠金を預け、応札の権利を受けてから入札する。決して安い値段ではセリ落とせない。そのような政策を取っていたので、世界中から相手にされず、日本ではチーク材を使わなくてもいいように設計そのものを変更してしまったそうだ。そのせいか、古いチークの廃材置き場のようになっている。
 上の写真は右がミント・ウー社長。左がその従弟のタン・アン。彼が私にそっと云った「ミント・ウーとは大きい男の意味です」。そしてクスリと笑った。



 カリンの丸太を求めてラングーン(現ヤンゴン)から北へ30キロのほどの処にあるトゥングーンに行った。距離はわずかだが、道が悪いので2時間ほどかかった。
 途中で見かけた子供だけの店。サトウキビを絞り、それを冷やして売っていた。旨そうだったが手を突っ込んでかき廻していたので遠慮した。



 トゥングーンのタクシー配車センター。客の方で此処まで歩いてくるのが普通だが、特別の料金を払えば此処から客の処に急走する。



 帰りに寄ったドライブイン。家族総出で歓待してくれた。南国のフルーツと冷えたココナッツ・ジュースがおいしかった。だが、パパイヤは何故かタイのものより味が落ちた。



 中華料理店のパンダで材木商のココ・ジィー(中央、大きな長兄の意)に夕食をごちそうになった。右が長女のモー・モー。ラングーン大学の学生であるが、1988年の暴動以来学校は閉鎖されたままであった。日本に連れて行ってくれと云われているが、それほど簡単なことではない。申請すれば、誰でもパスポートは取得出来るが、それを政府が全て預かることにしている。政府の気にいる出国理由がなければ返して貰えない。



 パゴダの中でじっと瞑想にふけっているお嬢さん。ビルマの国民は一生のうち、必ず一度は頭をそり、僧の修業をする。中には複数回の修業をする人もいる。一般の人々は非常に信心深く穏やかである。ミント・ウー社長も、パゴダの前を通り過ぎるときには車の中から必ず手を合わせる。

TDY, Temporary Duty ビルマ編 2

2013年09月09日 | 旅行
 タイのバンコクからやっとの思いでラングーン(現ヤンゴン)の空港に着いた。機体に階段が着けられると、「YANGON」の看板だけが新しい空港ビルまで炎天下を歩かされた。

 古めかしい木造の建物の中はタイ航空のエアバスA300から降りた人達とミャンマーの軍人、民間人で到着ロビーはごった返していた。軍人以外は男女とも腰に巻く布、ロンジーを巻き、ゴム草履を履いていた。このロンジーはビルマの代表的な民族衣装で、筒状の長い巻きスカートのようなものである。男物と女物では柄と結び方が違うだけで、それ以外は全て同じである。外出着にも普段着にもなっている。
 ロンジーを纏った民間人が旅行客を捕まえては、入国手続きの手伝いをすると云い寄ってきた。私は無視した。冷房はなかった。天井にぶら下げられている時代物の扇風機が一台、ゆっくりと、淀んだ空気を掻き廻していた。パスポートとビザを確認し、ミャンマー大使館からの報告書と照らし合わせた。そして、軍服を着た係官は私を犯罪者を見るようにして入国のスタンプを押した。別の係官に次のコーナーへ行くよう指示された。そこでは各人が財布の中身を点検されていた。あらかじめ用意させられた所持金の申告書と実際の所持金とを照合している。これが済むとアタッシュケースを開けさせられた。このとき、中に入っていた安物のボールペンを要求された。私はそのうちの一本を渡した。すると隣にいた係官までが手を出した。仕方なく渡すと素早くズボンのポケットにしまった。その後はアタッシュケースの中身を見ようともせず、黙って通した。隣では、持込み禁止になっているビデオカメラを取り上げられたヨーロッパからの観光客が「帰るときに、ちゃんと返すか?」と念を押していたが、係官は黙っていた。嫌な気分でその場を立ち去ろうとすると「今度は使い捨てのライターを持ってきてくれ」と先ほどボールペンを手に入れた係官が図々しく云った。私は返事もせず立ち去った。
 バッゲイジ・クリアランスのエリアも人で溢れていた。旅行客が荷物を受取ると数人のポーターが群がってきた。此処は保税地区の筈であるのに、他の国では考えられぬ事だった。私のスーツケースはまだ到着していなかった。大八車に囲いをつけたような大型の手押し車で、荷物は到着機から少しづつ運ばれていた。着くと部屋の隅に放り投げられ、別の労務者がそれを並べた。彼等は皆ロンジーを腰に巻き、よれよれのシャツを着ており、裸足だった。並べられた荷物は軍服を着た連中がタグの番号と旅行客の提示した控えのタグとを照合してから渡していた。そんな作業をしていたら、今日中にこの蒸し風呂の中から出られるのかと疑った。次の便が来たらどうするのかと心配したが、「外国からの到着便は一日一便あればいい方だ」と何回もこの国を訪れているアメリカ人がうんざりした表情で私に云った。
 戒厳令下の軍事政権では、外国人に空路での入国しか認めていない。陸路は全部が閉鎖されている。このヤンゴン(ラングーン)が唯一の国際空港である。従って外国人は全員が此処に集中させられる。公用は別として、条件付きの観光客、政府の認めた商用、特に貿易業者だけは入国を許されている。ジャーナリストは一切入国禁止である。鎖国に近い政策をとっている。

 旧ビルマ、現在のミャンマーはインドシナ半島の西端に位置し、東はタイ、ラオス、北は中国雲南省の昆明、西はバングラデシュ、インドと国境を接している。国土はおよそ日本の1.8倍、人口は3分の1である。日本人には想像もつかぬ多くの国々に囲まれ、昔から紛争が絶えなかった。唯一他の国と接していないのは南で、アンダマン海に面し、少し西へ行くと、其処はもうベンガル湾である。



 私が定宿にしたストランド・ホテル(岸辺のホテルの意)はラングーン川に面しており、すぐ近くにこのようなフェリーの船着き場がある。この近辺は浅く、またその設備もないので貨物船は接岸出来ない。
 朝には対岸から働きに来る人たちを満載したフェリーが到着し、夕方にはその人たちを満載して対岸に帰っていく。



 私の取引先の貿易商が契約している材木商の屋敷。敷地は半エーカーと云っていたので、恐らく600坪はあるのだろう。この写真の奥に二階建ての、古いがしっかりした邸宅がある。昔英国人が建てたものである。これを、最近(1989年5月か6月ごろ)100万円で購入したそうである。引っ越してきたばかりなので、あらゆるところに手を加えている。
 私の取引先の奥さんは公立の高校で英語の教師をやっているが、当時の給料は1,500円だと聞いている。100万円など、夢のまた夢である。



 幸せそうな家族。材木商である父親の名前はココ・ジィー(大きいとか長兄の意味だそうだ)であるが、長女の名前はムー・ムー(雨、雨とか空、空の意)。ビルマでは、人の名前には夫々意味があり、その名前を聞けば何月に生まれ、何処で生まれたかわかるそうだ。ある一定のルールで名前を付けるらしく、似通ったり同じだったりする名前が非常に多い。
 ビルマの庶民の服装は殆どがロンジーである。この家族がスカートをはいたりズボンをはいているのは非常に珍しい。また、ゴムぞうりではなくスニーカーとは驚きだ。貧富の差は凄まじい。



 カンダジー湖に浮かぶ金きら金のレストラン。見た目はいいが、出された食事はまずかった。食事のまずさはこのレストランに限らず。どこに行ってもそれほどおいしくない。ただ一軒だけ「パンダ」という名の中華レストランだけは旨かった。だが、カモの姿煮には参った。何か細長いものがあるので、それをフォークで持ち上げてみるとカモの嘴だった。それが胴体、水かきがついたままの足へと全部繋がっていた。




 パゴダの中に入るには、靴は勿論のことソックスまで脱がされた。床のコンクリートがビルマの人たちの足の油でぬめっていて気持が悪かった。別のパゴダに行ったときは「外国人は靴だけ脱げばいい」と云われ、ほっとした記憶がある。パゴダの中にエアコンはないが、外気とは完全に遮断されているせいか非常に涼しい。床はひんやりとしている。パゴダによって独特な飾りつけがあり、どれにも金が多く使われていた。


 「ご近所のパゴダ」という感じで、近くの人たちが仏様に挨拶に来るのか、願い事をしに来るのかは知らないが、親しみのこもった表情で仏様に対していた。

 次回には別のビルマについて話してみたい。

TDY, Temporary Duty ビルマ編 1

2013年09月06日 | 旅行
 Temporary Duty(TDY) とはアメリカの軍隊用語で「出張」を意味する。世界の僻地とも云えるビルマ、パプアニューギニアの離島、マダガスカル、ラオスなどの出張記録を綴りたい。

 ビルマがミャンマーに国名を変える前の年(1988年)にラングーン大学の学生を主体とする暴動があり、ビルマへの出張が余儀なく一年間延期された。

 当時は商用のビザであっても7日間しか発行されず、観光ビザはよほどのことがない限り許可されなかった。ジャーナリストの入国は例外なく拒否されていた。
 ビルマの取引先が外務省から事前に許可を得てから私に招待状を送ってくる。それを持って品川の御殿山にあるビルマ大使館にビザの申請をし、一週間ほど待たされてやっとビザが手に入る。

 初めてビルマに行ったのは1989年の6月だった。その時は国名がビルマからミャンマーに、首都のラングーンがヤンゴンに変ったばかりだった。何もかも古臭い建物の中で、空港の「Yangon」の表示だけが新しかったことを今でも記憶している。その年だけで4回もミャンマーに通ったが、目当ての銘木のカリンはただの一本も手に入らなかった。悔しかったが、元を取らなければと考え、次の年も数回通ったがやはり駄目だった。
 「カリンが手に入りました。どうぞお出で下さい」とのテレックス―当時のミャンマーではファックスは一般的ではなく、全て公共のテレックスを使っていた。従って秘密は保たれない―を受け取り、今度こそはと行ってみると、ほんの数本しかない。そしてだらだらと云い訳を聞かされる。

 以下の写真はその当時のミャンマー(私にとっては今でもビルマ)の姿の一部である。当時、一眼レフを持って入国すれば、ジャーナリストとみなされ、入国を拒否される恐れがあった。従って、フィルムのバカチョンカメラでの撮影しか出来なかった。その写真の複写なので鮮明さに欠けるのはご容赦願いたい。



 ラングーン(現ヤンゴン)から、国道を北へ車で3、40分も行き、少し幹線道路からそれると、このような農村地帯に出会う。この先に新首都のポンピドー、更に北の古都マンダレーへと続く。



 ラングーンの旧官庁街から少し離れているので、昼間は割と人出がある。1989年当時は軍政の締め付けが強く、つい最近までは戒厳令が敷かれており、夜の10時から翌朝の4時までは一切外出禁止であった。我々外国人であっても、ホテルから一歩でも出たら兵士に撃たれてしまうと取引先の社長から厳重に注意を受けた。
 また、市民の集会は全て禁じられており、人が5人以上集まると理由の如何に拘らず集会とみなされる。従って人の多く集まる映画館は閉鎖されたままである。而し、レストランは閉鎖されていなかった。軍人も利用するので閉鎖するわけにはいかないのだそうだ。



 旧官庁街。この場所に来るのは軍人か、輸入のための外貨割り当てを貰おうと日参する人たち。輸出をすると、その売り上げの60%は無条件で外貨の割り当てを受けられる。従って、貿易商は輸出と輸入の両方をやろうとしている。而し、何をするにも軍の許可が必要なので希望通りにはいかない。



 ラングーン最大の市場であるボジョー・マーケット。生活に必要な海産物、野菜、衣類、雑貨等々。生きている馬や牛、それに自動車以外はどんなものでもある。閉鎖されたままの映画館の道路を隔てた向かい側にある。この道路の先に「アウン・サン通り」がある。スー・チー女史の父君であるアウン・サン将軍にちなんでつけた名前である。アウンサン・スーチーと新聞や雑誌で書かれているが、これは間違いではなかろうか。アウン・サン将軍の娘のスー・チーが正しいように思う。
 ビルマには苗字がない。私の取引先の社長はミント・ウーと云うが、彼の娘はサンダー・ルーと云う。飛行機に初めて乗った時にアライヴァル・ノーティス(到着時の申告書)に「ファミリーネーム(苗字)」を書くように云われて困ったと云っていた。仕方なく、上と下の名前を分けて書いたそうだ。



 ラングーン市内にある一般的な庶民のアパート。道路に面している部屋は明るいが、それ以外は暗くじめじめしていた。日中は40度近くになり、湿度が非常に高い。而し、エア・コンなどは望むべくもない。

 貧富の差は非常に大きく、私の取引先の材木商、政府の高官(軍人ではない)などは500坪を超える敷地に素晴らしい邸宅を構えている。而し、ここにもエアコンはない。樹木が多いためか、窓を開けると涼しい風が入ってくる。