TDY、Temporary Duty。アメリカの軍隊用語で出張を意味する。世界の僻地の出張記録!TDYの次は日常の雑感

現役時代の出張記録。人との出会いと感動。TDY編を終え、写真を交えた日常の雑感を綴る。

TDY, Temporary Duty マダガスカル編 13

2014年02月24日 | 旅行
 マダガスカルに通うようになる前、私はフランス料理をあまり好きになれなかった。生意気を云うようで申し訳ないが、素材の味を殺してしまう感じがするソースが嫌なのである。コルベール・ホテルのビジネス・レストランで出されるステーキにもソースがかけてある。私はそれをナイフできれいにそぎ落とし、塩と胡椒だけで食べていた。いつの間にか、ソースをかけないステーキがメニューに載ってしまった。きっと、徐々に増えてきたアメリカ人の観光客からもそのような要望があったのであろう。
 だが、少し強調させてほしい。高級な方のレストランである「ラ・タベルナ」のメニューにフォアグラがある。軽くソテーされたフォアグラの上にかけられるソースは絶品である。そしてもう一つ、ビジネス・レストランで出されるカモのローストにかけられるソースである。この二つの、素材の味を引き立てるソースを味わったことで、フランス料理に対する私の認識が変わった。
 「ラ・タベルナ」のフォアグラをメイン・ディッシュにしたディナーは、デザートを入れても800円もしなかった。カモのローストのディナーは、この半値ぐらいであったことを記憶している。また、ワインは南アフリカのドイツ人が作っている最高級の物でも一本1,500円はしなかった。一人で食事をするときはワインを頼めない。グラスワインを注文しても、大振りなワイングラスに持ってくるので、半分も飲めない。それで、誰かを誘うようにしているのだが、マダガスカル人に呑兵衛は殆どいない。私がお酒に強い体質であったら、浴びるほど飲めたのにと、非常に残念である。

 以前にもご紹介したが、1991年の10月に10,000円を最初に銀行で両替したときは22万か23万マダガスカル・フラン(FMg)だったが、次に両替したときは30万FMgになっていた。1996年には60万FMgを超えていた。ホテルの中で使えば、10,000円は10,000円だが、物価は非常に安かった。だが、ホテルの外で使えば、10万FMgは日本で10万円を使うようなものだった。例外的な高給取りは別として、通常のマダガスカル人の給与は1,500円から2,000円ぐらいだった。従って、いくら親しくなっても彼等をホテルのレストランに招待出来なかった。恐らく、自分たちの一週間分か二週間分の給料を、日本人は一食で食っちまうと考えるに違いない。だから、取引先の社長か、かなり裕福なマダガスカル人しか招待しなかった。


 アリス・ラジャオベリナさんが私を訪ねてくると云う電話をアンセルメ・ジャオリズィキー課長から受け取った。モロンダバから帰ったばかりで、ホテルの自分の部屋でゴロゴロしているときだった。慌てて着替えて外に花を買いに行った。ドライブに連れて行ってくれたお礼を何もしていなかった。日本からお礼の品を買ってくるのを忘れてしまったのだ。次回にマダガスカルに来るときに必ず買ってくるにしても、取敢えずのお礼はしたかった。
 中央広場の方に向かう途中で花売りに出会った。花束を指差して「オォトリヌナ?」(幾ら?)と聞いたが、不思議そうな顔をされただけだった。違う言葉を使ってしまったか、発音が悪かったのだろう。ポケットから紙幣を出し、マダガスカル人がよくするように、親指と他の四本の指をすり合わせた。すると、相手は指を二本立てた。2,000マダガスカル・フラン(約50円)と思い、1,000マダガスカル・フラン札を二枚渡した。花売りの少女は目を輝かせて「ミソートラ」(ありがとう)を何回も繰り返した。ホテルに帰ってからハウスメイドにきれいに包むよう頼んだ。すると「これにお幾ら払いましたか?」と聞かれた。買った値段を云うと、呆れた顔になり、「だから、買い物をするときは私に云って下さいと云っているでしょ」と叱られた。相場は100か150マダガスカル・フラン(2円か3円)なのだそうだ。少女は私に200マダガスカル・フランを請求したのだ。その10倍払ったのだから、彼女が喜んだわけだ。


 急な階段にも拘らず、相変わらずズマ・マーケットへの石段に人の絶えることはない。恐ろしく小さい両側の店も客の途切れることはなかった。


 深緑のアヌシィ湖


 女王宮のあるアンボジマンガに行く途中のマーケット。規模は小さいがそこそこ繁盛しているように見えた。


 マダガスカルの固有種である「旅人の木」。枝を切ると、溜った水が豊富に出て旅人の渇きを癒すのだそうだ。また一説には、枝が必ず東西に広がるので、旅人は方向を失わないのだそうだ。どちらの説が正しいのか私は知らぬが、私が最初に聞いたのはのどの渇きを癒す方の話だった。冬が過ぎたばかりなので葉に勢いがない。春から夏にかけて鮮やかな緑になる。


 以前にもこれと同じような風景をお目にかけたことがあるが、延々と広がる田圃である。マダガスカル人のコメの消費量は日本の比ではない。二十歳前後の若い男どもと食事をすると、大きなお皿に山盛りにしたご飯がみるみる間になくなってしまう。私の三倍以上のご飯を食べる。
 マダガスカルで栽培しているのはインディカ米である。そのため、炊き方は日本と違う。炊き上がる前に余分な水分を全て捨ててしまうのである。これをすることによってご飯の日持ちがよくなる。この方法はタイやビルマでも同じである。そのようにして炊くと、インディカ米はおいしく食べられる。


 最近、この田んぼの畦道から大きなエメラルドが見つかったらしい。だからと云って近所の人たちが宝石を掘り出そうと群がっている様子はなかった。目の色を変えて宝石を掘り出そうと考えないのがマダガスカル流と云うのだろうか。歩いていて、たまたま見つければいいぐらいにしか考えていない。


 この沼では魚がよく釣れると云うので、休みの日に行ってみたが駄目だった。


 シトロネーレ。レモン(フランス語でシトロン)の香りのするところから、フランス人がこのように名づけたらしい。東南アジアにあるレモングラスとは同種のものであると云われているが、用法と効用が違う。葉を乾燥させ、お茶のようにして飲む。気分が落ち着き、トランキライザーの代りになる。乾燥させたものは保存がきくが、根を取っただけの生のシトロネーレを日本に持って帰り、自宅で天日干しにしてみたが、完全に乾燥する前に腐ってしまった。乾いた空気と強烈な太陽のもとでなければ無理のようだった。

ご報告:
 前回、ブログに掲載した私の写真を他に使用した方々に削除をお願いしましたが、殆どの方が削除に応じて下さいました。感謝致します。
 写真をご使用になさりたい方がおられましたら、ご趣旨を添えてお申し出下さい。「サイン」の入らない写真を提供することもやぶさかではありません。

TDY, Temporary Duty マダガスカル編 12

2014年02月17日 | 旅行
 マダガスカル唯一の貿易港のあるトマシナに滞在していた時のことをお話したい。東海岸の特産品に白いコルソール・ジュースと云うのがある。非常に旨い。カルピスが初恋の味なら、コルソール・ジュースは慣れ親しんだ恋人の味である。街のレストランで初めて飲んだ時、疲れていたせいもあって、その甘さが私を癒してくれた。あまりの美味しさにジュースのお替りをした。すると、ウェイターは笑いを押し殺したようにして二杯目を持ってきてくれた。そして周囲のテーブルにいた男どもは私を見てニヤニヤしだした。ご当地特産のジュースを飲んでくれた私に好意を持ってくれたのかと思ったが、あのニヤニヤ笑いはそうではないようだった。
 
 ネプチューン・ホテルに戻り、そのことをフロントに聞いた。彼はたまらず笑いだした。「そりゃ皆で笑いますよ、ミスター。マダガスカルでは、女を買う前にコルソール・ジュース、その後の疲労回復にココナッツ・ジュースと相場が決まっているんです。それを二杯もお替りして飲めば、誰だって笑いますよ」と云うと、彼はまた笑い出した。「このこと、他の奴に云うなよ!」と云ったとき「云いませんよ、絶対に」と即座に返事が返ってきた。その瞬間、ホテル中が知ることになるなと覚悟した。そして、次からはどんなに旨かろうと、コルソール・ジュースのお替りはしないことを心に決めた。
 
 トマシナの露店が並ぶ一角で、古いゴザの上に大きなコンニャクイモのようなものが売られていた。小さめのサッカーボールぐらいで、形はいびつだった。「あれからコルソール・ジュースを作るのです」と同行のマダガスカル人が教えてくれた。絞ったジュースは苦くてとても飲めるものではないので、それに大量の砂糖を加えるのだそうだ。

 日本に帰ってから、東大の助教授(当時)に電話をした。先生はマダガスカルの動植物を永年研究なさっているのでコルソール・ジュースのことを聞いてみた。もしかしたら、商売になるかもしれないと考えたのだ。先生は「確かに効くかもしれません。ですが、そんな物よりもっといい物がありますよ」と天然の(栽培したものではなく、野生の)バニラ・ビーンズと或る木の樹脂を混ぜた一種の薬のことを話してくれた。「フォー・アワーズ」(4時間)と云う薬だ。飲んでからの効き目が4時間後に現れることからそのように云うのだそうだ。先生は自分で試すのが嫌だったので、及び腰の助手に因果を含めて飲ませ、報告を求めた。助手は「服用後、きっちり4時間で、確かに体の一部に顕著な変化が現れました」と報告してきたと先生はおっしゃった。
 これを商売になさりたい方がおられても 非常に残念だが私にはお手伝い出来ない。樹脂を採取する木の名前を完全に忘れてしまったのである。それと、もう一つ大きな障壁がある。マダガスカルでは天然のバニラ・ビーンズの輸出を禁じている。多く輸出されている物は全て栽培されたものであり、「フォー・アワーズ」の原料にはならない。
 余計なことかもしれぬが、この「フォー・アワーズ」は「顕著な変化」を求めるのが目的の薬品ではなく、病気を直すための、マダガスカル独特の薬品であることにご留意願いたい。

 やっとアンタナナリブに帰れる目途がついてきた。モロミエーレ・マディボド氏をはじめ、モロンダバの誰一人として日本の床の間を見たこともないし、ましてや床柱など知る由もない。ラフィックの力を借り、何とか、ぼんやりではあるが床柱の概要をつかませた。日本間の写真を見せれば一番早いのだが、彼等の住居に比べ、床の間のある日本の部屋は如何にも高級感にあふれているため、写真を見せてしまったのでは、彼等、特に樵たちに反感を持たれるのではないかと危惧した。そればかりではなく、パリサンダーの取引価格を釣り上げられる心配もあった。ラフィックにはアンタナナリブで写真を見せてある。私が示した仕様を、何故必要とするかは何とか理解して貰えた。あとはそれに該当する木を探して切り倒し、フリッチに加工するだけである。
 床柱は節のある個所を避けるため、根元から最初の枝(第一枝)の下までに最低でも4メートルは必要である。太い木なら、第一枝まで5メートルも6メートルもあるが、一本の木で二本の床柱用フリッチを取るのは難しい。
 パリサンダーは非常に堅い木であるため、腕のいい樵でも一日に一本、或いは二本切り倒せればいい方である。彼等は全て斧だけで切り倒すのである。私が日本からチェーンソーを持っていけば、もっと仕事が捗るのは承知している。だが、それでは森が無くなってしまう。深い森の中で、大きく育った一本の木を切り倒すことに依って、今まで陽が当たらずに成長が止まっていた数多くの小さな木が、充分に太陽の恵みを受けて育つのである。
 取引先から何度かチェーンソーの話は出たが、その度に私は断った。床柱に出来るぐらいの木は樹齢が100年近いのではないだろうか。太い木なら優に200年、300年は超えているだろう。もし断らなければ、私の会社は非常な金儲けが出来たかもしれない。そして何百年、何千年と続いたマダガスカルの緑を大量に失わせてしまったに違いない。
 
 パリサンダーの伐採はフランスが統治する以前から行われていたが、植林はほとんど進んでいない。植林用の苗木を育てている畑を何か所かを見たことがあったが、それはごく小規模だった。その上、それがパリサンダーの苗木であったとの確信はない。


 モロンダバの森からの帰り道、牛がのんびりと道の真ん中を歩いていた。彼等も心得たもので、車が近づくと仲間のいる草むらに避難した。ビルマでも鶏や豚の放し飼いは目にしていたが、牛までも放し飼いとは驚きだった。陽が暮れる前には飼い主の所に自主的に帰っていくそうだ。


 途中一軒の民家に寄り、ラフィックが森の民から頼まれた「品物」をこの家の住人に渡した。中身を聞いたが、ラフィックは何も云わなかった。モロミエーレ・マディボドも彼の使用人である運転手も私から顔をそむけていた。聞かれるのを嫌がっていたのは、何か違法な「品物」だったのだろうか。


 少女が水の入ったバケツを下げ、頭にも乗せて歩いていた。見渡す限り、彼女の前にも後ろにも人家は見えなかった。何処で水を汲み、何処まで運ぶのだろうか。ただ、黙々と歩いていた。


 到着時より辺りの緑が増えた我が家の裏庭。その奥にラフィックの邸宅がある。お別れするのがつらくなるほど滞在した。




 上の二枚は我が家から眺めた夕陽。日々、時間により様々な情景を見せてくれていた。


 閑散としていているモロンダバの平日の空港待合室。国際線ではないため出発ロビーも到着ロビーも同じ場所にあった。
 ラフィックが後に残り、これから切り出すことになるパリサンダーをどのようにしてアンタナナリブに輸送するか、またその時期の打合せをすることになった。此の打合せに出ても、私は全く役に立たない。一足先に、私だけがアンタナナリブに帰ることになった。


 マダガスカル語、続いてフランス語のアナウンスがあった。内容は理解出来なかったが、搭乗を促しているように思えたので、搭乗券を見せて出口から外に出た。「エクスキューズ ミー、ムッシュー」と英語とフランス語の混じった言葉で呼び止められた。よく理解出来なかったが、停まっている飛行機はアンタナナリブ行ではないようだった。


 出発予定時間から30分も過ぎてからやっと搭乗の案内があった。今回は搭乗券をよく見せて確認を取ってから外に出た。


               / / / / / / / / / / / / / / / / / /

 つたない私のブログを、良識を持ってご購読を続けて下さっている方々にはお耳触りで誠に申訳ないと思いますが、敢えて不心得な方たちに申し述べたい事がございます。今までに掲載した写真を無断で使用している人が多くいます。お使いになるなら一応断って使うのが礼儀であると思います。これは明らかに著作権の侵害です。私はプロの写真家ではありませんので、写真の代金を請求する気は毛頭ございません。而し、写真には莫大な出張費用が掛かっていることをお考えになって頂きたいと思います。
 
 無断でお使いになっている写真の中には、マダガスカルの元森林大臣ご夫妻の写真も含まれています。また、これから掲載する写真の中にはラチラカ大統領時代に20年に亘って法務大臣を務められたベド氏とそのご家族の写真も含まれます。
 不法にご使用なさった全ての写真を即時削除するようお願い致します。お聞き入れ頂けない場合には、不本意ではありますが、マダガスカルの外務省及び法務省と協力して法的手段に訴えざるを得ません。以上、お願いとご忠告を申し上げます。

               / / / / / / / / / / / / / / / / / /

TDY, Temporary Duty マダガスカル編 11

2014年02月10日 | 旅行
 先に述べたように、18部族を構成する民族はポリネシア系、アフリカ系、アラビア系、それにインド系であるが、アフリカ系は11部族あり、最も多い。次がアラビア系の6部族である。他にポリネシア系が2部族とインド系が1部族である。それらを合計すると20部族となり、部族の数が合わなくなるが、地域によっては既に民族の混合が行われているため、現在では正確な区分けが非常に難しくなっている。東海岸のフィラナンツィオでは、アフリカ系とポリネシア系が混合して一部族となり、また、南部の中央地帯のベローハとビキリーではアフリカ系とアラビア系が混合してアンタンドルイ族となっている。

 従ってマダガスカル語の基礎になっているのは、ポリネシア系のマレー語、アフリカの東海岸を主体とする言語、アラビア語、インドのヒンズー語である。ご存じのようにマレー語はテンス(時制)がない。即ち、動詞の現在、過去、未来がないのである。マレー語からきた「到着する」は、tonga, tonga, tongaで何の変りもないが、他の言語からきた「洗う」は misasa(現在),  nisasa(過去),  hisasa(未来)と変化する。最初はややこしいが、覚えてしまえばこのテンスの問題はそれほど気にすることではなかった。而し、最初はまごついた。「トンガ」と云われても、どの時点のトンガなのか見当がつかなかった。それを確かめるほどマダガスカル語が堪能ではない。多くの民族の言葉を寄せ集め、それで足りないところはフランス語で補っているから余計ややこしくなっている。だが、マダガスカル語は割と単純な言語なので単語さえ覚えてしまえば何とかなる。

 顔を見ただけで、何族か判断出来るのはメリナ族だけである。マダガスカルの中で、その名の通り縮れていない真っ直ぐな髪の毛をしているのはメリナ族だけである。前にも述べたと思うが、「メリナ」とはストレートへアー 、即ち真っ直ぐな髪の毛の意味である。だから簡単に判別出来るが、アフリカ系の種族はベツミサラカなのか、サカラバか、或いはアンタンヌシなのか全く見当がつかない。だが、アンタンヌシは真っ黒ではなく、少し色が薄いようにも思えるが、それは個人差なのかどうかはわからない。マダガスカル人にはレース(部族)が即座に判断出来るらしい。だが、それは部族によって差別をするためではない。ビルマのように部族間でのいがみ合っているのを見たことはなかった。だが一度だけ、それらしきことを聞いたことがあった。トマシナで港湾のストライキの最中にベツミサラカの一人が「メリナはすぐにあんなことをする。あいつらは勝手だ」と云った。そう云われたメリナ族は港湾事務所の責任者だった。だが、それはメリナ族に対する不満ではなく、港湾事務所長に対する不満だったのかもしれない。
 アフリカ系のベツミサラカ(一致団結の意)であるラチラカ大統領が20年近くも大統領をしていたので、政府の閣僚や重要ポストにはベツミサラカが多いのは仕方ないとして、次に多いのがメリナである。彼等は実力でその地位を築いてきた。政府の仕事だけではなく、民間企業でもメリナの進出は目覚ましい。

 このところ、出来る限り早く起きてモロンダバの森に通っている。坦々とした道を北東に進み、簡易舗装の切れた辺りを左に曲がると、バオバブの群生地に入る。バオバブは何度見ても見飽きない楽しい木であるが、此の悪路には参る。モロミエーレ・マディボド氏の使用人の運転手君は、穴ぼこがあろうと容赦しない。スピードを緩めると云う発想がないのだろう。それにしても日産の四輪駆動車の頑丈さを改めて認識させられた。日産に限らず、マダガスカルの悪路を故障もなしに走っているのはトヨタ、三菱、ホンダ、マツダの日本車勢だ。勿論のことフランス製の車をはじめとする欧州車も多く使われているが、悪路を長距離走る場合は必ずと云っていいほど日本製の四輪駆動車が使われている。だが、大型のトラックに関してはベンツをよく見かける。


 漁民の朝は早い。もう既に地平線の間近に行ってしまっている。朝早くと夜の海岸は半袖シャツ一枚では寒い。セーターを欲しくなる時もある。


 海岸の。波が押し寄せるところの砂と、我が家の前の砂とは色が違う。此の白い砂の上を日中に裸足で歩こうものなら火傷するぐらいに熱くなる。冬でもこれほど暑いのだから、夏の暑さが思いやられる。だが、陽が落ちてから朝までは気温がかなり下がるので、むしろ湿度の高い東京の夏より過ごしやすいのかもしれない。


 散歩の途中、漁民の村に入ってみた。気が付くと私の周りは子供だらけになった。そして親しげに「ジャポネ」(日本人)と声をかけてくれた。


 彼女の邸宅とはおよそ不似合いな新品の卓上のミシンを使っていた。だが近所のオバさんたちとのおしゃべりを優先しているようで、仕事はちっとも捗っていなかった。その会話に加わりたくなるほど楽しそうにしていた。出来るものなら、このような村で暮らしたい。


 日曜日の朝、散歩の途中で寄った店はまだ開店前のようだった。声をかけてみたが、誰も出てこなかった。商売気がないのか、どうせ客が来ないとふて寝していたのかは知らない。


 何処の国でも、ヤシの実は木に登って取るものと思っていたが、棒を使って落としていた。彼が無精でそうしているのか、この地方のやり方なのかは不明である。一般にここら辺りのヤシの木は背が低いので、木に登らなくてもいいのかもしれない。


 モロミエーレ・マディボド氏に共同でアンタナナリブに事務所を持たないかと相談を持ち込まれた。そして、写真のお嬢さんを私の秘書として帰りに連れていってくれとも云われた。而し、彼女は英語が全く駄目だった。私はフランス語もマダガスカル語も駄目である。それに彼女をアンタナナリブに連れて行っても住む場所も仕事もない。事務所を持ってから考えさせてくれと辞退した。


 周囲に壁のないバンガロー・ホテルのレストラン。電気の傘に麦わら帽子を使っているのは洒落ているが、客の希望を全く聞いてくれない。自分の都合で商売をやっているとしか思えない。夕方、私は腹ペコだったが、キッチンの扉は締められていた。ドアーを叩いても全く返事がない。フランスの植民地だった影響であるのか、マダガスカル人の夕食の時間は遅い。そして朝食は殆ど食べない。クロワッサン一個とカフェオレ程度で済ませてしまう。あるマダガスカル人に「貴方の朝の食欲を見ていると、気持ちが悪くなります」と云われたことがあった。
 コルベール・ホテルでも、朝から旺盛な食欲を発揮するのは私以外にはアメリカからの観光客ぐらいである。他に比較する日本人がいなかったので、「日本人は朝から大量に食べる民族」とのレッテルを貼られてしまったことを皆様にお詫びしたい。

TDY, Temporary Duty マダガスカル編 10

2014年02月03日 | 旅行
 低地なのに、モロンダバがこれほど快適に暮らせるところだとは思わなかった。いくらアフリカだとは云え、夜は半袖のシャツ一枚では心細いときもあった。バンガローは砂浜近くに建っているせいもあり、海を伝わってくる風は心地よかった。
 バンガロー・ホテルのレストランは周囲には全く壁がなく、屋根と柱があるだけである。此処で出される食事は豪華ではないが、結構旨かった。ただ、気に入らなかったのはコーヒーだった。私は浅煎りのアメリカ式のコーヒーが好きだが、此処で出されるのはヨーロッパ式の深煎りのコーヒーだった。
 朝食のテーブルの客は我々の他にドイツからやって来た若者のグループで、此処には二泊したから、今日はこれからもっと南に行くのだと云っていた。足元にはテーブルに届きそうな大きなリュックサックが置いてあった。


 モロンダバ最大の伐採業者であるモロミエーレ・マディボド氏一家。ご自宅の庭には一本のバオバブが辺りを見下ろすように立っており、遠くからでもそれが目印となり、お宅に伺うのに迷うことはなかった。


 森林監視官のチーフ。いくらマダガスカルの法律が緩やかだとしても、森を勝手に伐採することは許されない。モロミエーレ・マディボド氏と一緒に監視官の事務所に挨拶に行った。チーフとの交渉は全てマディボド氏とラフィックに任せた。私はその後ろで首を縦に振ってればよかった。そして、一日も早くマダガスカル語を習得しなければと、再度の決心をした。






 森に通じる道はバオバブの最も多い地域である。話には聞いていたが、このような可笑しな形の木が世の中にあるとは、何とも不思議な世界である。写真では揺れていないが、助手席に座った私はダッシュボードの取っ手につかまっていないと、天井に頭をぶつけそうになるほどの悪路を四駆のパジェロが驀進していた。時々止ってもらい、写真を撮ったのだが、この時も一眼レフを持ってくればよかったと後悔した。
 途中倒れたバオバブを何本も見た。人間が切り倒したのではなく、何らかの影響で弱り、頭の重さに耐えかねて倒れてしまったのだそうだ。表皮は堅かったが、中身はコルクのようなしまりのない樹だった。
 マダガスカルではバオバブの伐採を固く禁じられている。バオバブの実を食用とすることも出来るが、それに宗教的な意味合いを持たせ、神に供える。また薬用に用いられるとのことだ。


 パリサンダーの皮と白太を切り落とし、心材の色を見せてくれた。この程度を削っても木は決して死なない。傷口は日がたつに従い、白太と皮で再び覆われる。皮をぐるっと剥いで、木の上下を遮断してしまわなければ木は枯れない。皮を通して水分を吸い上げるのだそうだ。




 森の中を歩き疲れたころだった、突然後ろの方で樵の一人が「ラジャコ!、ラジャコ!」と叫ぶ声が聞こえた。「猿だ!、猿だ!」と云っていたのだ。叫んだ男の指さす方を見ると、7、8匹の猿が木から木へ飛翔していた。咄嗟のことで、例え一眼レフでも飛翔の瞬間は撮れなかっただろう。のろまな一匹が木につかまったままでいるのが見えた。赤い矢印の先にいるのをご覧になって頂けたであろうか。


 森の樵たちの休憩所。此処で待機していた村長夫人が水の入ったコップを捧げ持つようにして森の奥から帰ってきた私に持ってきてくれた。見ると、緑色の水で、細かい藻が漂っていた。近くを流れる川の水を汲んできたのだろう。「ツィア・ファ、ミソートラ」(いぇ、いりません。ありがとう)と覚えたてのマダガスカル語で云った。だが、この時はのどがカラカラで舌が頬にくっつきそうな状態だった。
 「ありがとう」は、マダガスカル語の表記では「misaotra」である。従って「ミサォトラ」、或いは「ミスートラ」と発音するのが正しいように思えるのだが、何度聞いても私には「ミソートラ」としか聞こえない。それで私も「ミソートラ」で通していた。


 今日は待ちに待った給料日。モロミエーレ・マディボド氏のマネージャーが談笑しながら給料を配っていた。袋に入っているのではなく、現金をむき出しのまま配っていた。


 彼女が私を救ってくれた。生暖かく、茶色の液体だった。そばに鍋があり、彼女はそれを指差した。インディカ米のため、炊き上がる前にこぼれる水分を捨てるのだ。それを汲んで覚ましておいたものが私に手渡してくれたものだった。少々焦臭かったが、川の水を飲むよりずっと安全だった。あのとき、緑色の川の水を飲んでいたらどうなっていただろう。或いはなんともなかったかもしれない。現地の、非衛生なものを何度も口にしたことはあるが、あの川の水だけは飲む勇気がなかった。




 帰りの道でのバオバブ。この道で四駆のピックアップトラックと何台もすれ違った。木のベンチがついた、その荷台には陽気な若者が何人も乗っていた。これから森に入り、原始猿の観察に行くのだそうだ。此処にいる猿は夜行性であるため、私が昼間に飛翔する猿を見たのは非常な幸運だったのだそうだ。森の民でも観ることは殆どないそうだ。だからあれ程興奮して「ラジャコ!」と叫んだのが理解出来た。