TDY、Temporary Duty。アメリカの軍隊用語で出張を意味する。世界の僻地の出張記録!TDYの次は日常の雑感

現役時代の出張記録。人との出会いと感動。TDY編を終え、写真を交えた日常の雑感を綴る。

TDY, Temporary Duty ビルマ編 マンダレー 1

2013年10月28日 | 旅行
 金曜日のマンダレー行きの便は朝の6時発で、マンダレーには一時間ほどで着く。この便に乗るには朝の4時に起き、5時までには空港に着いていなければならない。ミント・ウー社長が空港まで送ると云ってくれたが、辞退した。帰りは日曜日の午後3時の汽車に乗り、翌朝の6時にラングーン駅に到着する。そしてその日の午後4時40分発のTG306便でバンコクに帰る。かなり強行軍ではあるばかりか落ち着いて仕事が出来ない。そのため、あらゆる手段を講じてビザの延長を申請してみたが、再度の延長は不可能だった。森林局のサン・マウン副局長の好意を無にする事は決して出来ない。下調べの価値はあると判断して行くことにした。但し、片道の航空券しか手に入れられなかった。

 ホテルの用意してくれた車には既に相乗りの客が乗っていた。ラングーン(ヤンゴン)空港に向かった。街を走っているタクシーよりは新しかったが、一人分としてUSドルで十二ドルも請求された。悔しいが他に方法が無いので云われるままに払った。車はあっという間に空港に着いた。途中に信号がいくつもあったが、全て赤の点滅だけになっていたので空港までは殆どノンストップだった。空港は国際線も、国内線も入口は同じだった。国際線に人影は無く、大勢の人が頭に荷物を乗せたり、腕に抱えたりしながら国内線の待合室に向っていた。私はホテルにスーツケースを預け、身の廻りの物だけをボストンバッグに詰めてきたので身軽であった。国内線のゲートを通過するときにチケットの提示を求められた。そこを通過すると待合室があった。そこに入るときにチケットはもぎ取られ、何回も使用された、よれよれのボーディングパス(搭乗券)を渡された。その待合室の壁は四方が全て金網だった。鳥小屋の中に押し込められたようだった。搭乗時間がくるまで、その金網の中から外へ出られない。ペンキの剥げたベンチに夫々腰掛け、客達は黙って待っていた。辺りにはタバコの吸い殻が散らばっていた。何日も掃除をしていないようだった。

 我々を待っていたのはツインオッターのように、翼が胴体の上にある高翼のプロペラ機だった。ジェット機でないことで安堵した。エンジンが止まっても、ジェット機のようにきりもみ状態にはならず、グライダーのように滑空出来ると聞いている。
 10分遅れで、プロペラ機は7時10分に田舎の停車場のようなマンダレー空港に着いた。人々はラングーンより明るい表情をしていると感じた。空港には自動小銃を持った兵隊が大勢いたが、銃口を客に向けるような事はなく、持ちにくそうに腕に抱えていた。兵隊は友好的で私にも笑顔を向け「ミンガラバ」と云ってくれた。今まで我慢していたタバコに火をつけた。兵隊にも勧めてみた。彼等は遠慮がちに手を出し「サンキュー・サー」と云った。ラングーン空港のすれっからしの兵隊とは大変な違いだった。

 約束通りセイン・ウェイが迎えに来ていてくれていた。私を見つけると「ミンガラバ」(朝、昼、晩の挨拶は全てミンガラバ)と云って満面に笑みを湛えて迎えてくれた。私の荷物を取ると「ミンレイを待たせてあります。車がなくミンレイで申訳ありません」と云った。彼の後について行って理解出来た、ミンレイとは馬車の事だった。
 馬車はゆっくりと動き出した。馬が一生懸命に車を引く姿を見ていると、降りて一緒に引っ張ってやりたくなった。ビルマの昔の王城を囲む大きな池を過ぎると、広い敷地の中にマンダレー・ホテルはゆったりと建っていた。ラングーンよりは6百キロも北にあるのに、このマンダレーの方が南国的だった。ホテルは開放的で、入口の前には沢山の椅子とテーブルが置いてあった。丸いテーブルの中央にはパラソルが挿してあったが、既に夏の強い日差しがパラソルを通して白いテーブルを焦がそうとしていた。私が入口に近づくと、清楚な女の子が笑顔と共に冷たいお絞りを差し出した。私が名乗る前にレセプショニスト(フロントではなく、英国風にレセプショニストと呼んでいる)が鍵をくれた。宿泊カードには必要事項が既に書き入れられてあり、私はパスポート番号を書き入れ、サインするだけでよかった。住所の蘭には「ストランド・ホテル、ラングーン」と書き込まれていた。何と機転の利く事だろうか。同じビルマ人とは思えなかった。従業員の表情は明るく、活き活きとしていた。部屋もきれいで清潔だった。家具は安物ではあったが、明るい色が使われており、如何にも南国を思わせた。そして、朝食も美味しかった。久しぶりに人間らしい朝食にありついた。デザートの果物も豊富で新鮮だった。


 機上から見ると、マンダレーの街並みは碁盤目のようだった。南国の例にもれず、朝の始動は早いとみえる。人や車の動きが忙しそうだった。


 朝日に輝く王城。中を見ることは出来なかったが、堀の中に浮かぶ城壁は息をのむような美しさがあった。現在(1989年)はビルマ陸軍の駐屯地になっている。


 マンダレー・ホテル、如何にも南国を思わせる開放的なホテルである。ストランド・ホテルのように、その背後に軍事政府を感じさせられるようなことは全くなかった。
 二階建てだから、当然のことエレベーターはない。ラングーンのストランド・ホテルでは旧式のエレベーターを操作するボーイが不器用で、きちんと所定の位置に停められない。高すぎるか低すぎる。彼は何度も修正を試みるが、私は待っていられなかった。それはまだいい方だ。用があっても彼がいないことがよくあった。そんな時は階段を使うが、英国が建てた古いホテルはやたらと天井が高く、その分階段も長かった。5階に泊った時には往生した。その点、このマンダレー・ホテルはエレベーターに頼ったり、長い階段に苦労することはなかった。


 ホテルに到着したときも、外出から疲れて戻ってきたときも、冷たいおしぼりを持って笑顔で出迎えてくれた。


 暑くなる前にと、ホテルの従業員が塀の外の手入れをしていた。塀の中だけではなく、外の道路に面している処にも手を加えて客の目を楽しませていた。



TDY, Temporary Duty ビルマ編 8

2013年10月21日 | 旅行
 ビルマの民族衣装のロンジーだが、ビルマのような暑い国では非常に快適な衣装なのではないだろうか。前にも述べたが、布を筒状にしたものである。男物も女物も作りは同じである。違うのは色、柄と寸法、それにロンジーの着用方法が違う。男は前で結ぶが、女は巻いて腰の右側に挟むだけである。だから緩みやすい。緩むと人前でも若いご婦人が平気でロンジーを巻きなおす。初めてその光景を見たとき、ミント・ウー社長の従弟のタン・アンが、「ラングーンではパンツを穿いていますが、地方に行くと何も穿いていません」と云ってニヤリとした。
 ボジョー・マーケットで一番に目につく売り場はシャンバッグとロンジーの売り場である。ロンジーの値段は生地に依りかなりの差があり、80チャットから200チャットぐらいだった。ほつれないように、生地の上下にミシン目をかけ、筒にする料金が1から2チャットだったのを記憶している。一般家庭でミシンは一般的ではなく、安い料金で仕上げてもらえるため、この商売は結構繁盛していた。
 気に入った柄のロンジーの生地があったので、私の長男と双子の娘に買っていくことにした。その店の奥にミシンが置いてあり、二、三人の職人が忙しそうにミシンを踏んでいた。腰下の寸法を聞かれたので、通りかかったお嬢さんを捕まえ、大体の背丈を伝えた。店の親父は測りもせず、生地を渡しながら寸法を奥に伝えた。多少のことはロンジーを着用するときに調整すればいいようである。
 車に戻ると、ロンジーが二つ置いてあった。嬉しいことにミント・ウー社長からのプレゼントだ。私のものは西陣織を思わせるような重厚な生地で、落ち着いた柄だったが、家内のは非常に華やかな色と柄だった。

 この国でしか見かけないのが英文タイプライターによる代書屋だ。客寄せのために、タイプライターを空打ちしていた。あれではプラテン(用紙を巻き取るゴムのローラー。非常に重要な部品で、此れがすり減ると綺麗に印字が出来ない)が痛んでしまうのではないかと、余計なことを心配した。当時、私が使っていたのはやっと手に入れた電動のタイプライターとワープロ専用機だった。出始めのパソコンは非常に高価で、私のような弱小企業では手が出なかった。

 ミント・ウー社長のお嬢さんから「オトーサン」と呼びかけられてびっくりした。最初、それが日本語だとは思わなかった。だが再び呼ばれると、それは「お父さん」だった。ビルマでは目上の人を名前ではなく、親しみを込めてお父さん、お母さん、お兄さん、お姉さんと呼ぶ習慣があるらしい。尊称は別にある。男の子には名前の前に「マウン」、成人男子には「コ」である。そして中年以上の人、僧侶や教師、地位の高い人には「ウー」を、またご婦人には「マ」(マウンとコに相当する)、またウーに相当する尊称は「ドゥー」(日本では一般に「ドー」と表記されているが、私には「ドゥー」であるとしか聞き取れない)である。
 ミント・ウー社長は「U Myint Oo」である。材木商のココ・ジィーの奥さんは、彼のことを「ウー・ミンニュー」と呼んでいた。フランス語のようにリエゾンするらしい。
 ビルマ語は英語とは違い、日本語と同じ文の配列である。英語のように「私行きます学校へ」ではなく「私は学校へ行きます」である。従って単語さえ覚えれば簡単にビルマ語を話せるようになる筈であるが、一つ一つの単語が長く、字は渦巻のような字なので耳からしか覚えられなかった。今でも覚えているのは、ミンガラバ(こんにちは)とティーズティマレー(ありがとう)だけである。このありがとうは「チェーズーティンバーデー」が正しいそうであるが、彼らの云っているのがティーズティマレーと聞こえるし、此れで通じていたのでティーズティマレーで通してきた。 
 貿易屋の最低限の礼儀として、また自分の身を守るために、次のような現地の言葉を必ず覚えることにしていた。即ち、「こんにちは」、「ありがとう」、「さよなら」、それにタクシーに乗ってから「空港(或いはホテル、日本大使館)に行って下さい」。ビルマ語でも一生懸命覚えたつもりでも、今になっては二つの単語しか覚えていない。


 ここらあたりの幹線道路は穴ぼこが少なく、非常に走りやすい。而し、ガードレールがないため、運転手が少し油断すると、この写真のように舗装部分からタイヤを落としてしまう。
 ビルマは英国の統治下にあったにもかかわらず、車は右側通行である。だが、日本から輸入した中古車は例外なく右ハンドルのまま使われている。因みにビルマの周辺国であるタイ、ラオス、マレーシア、インドネシア、シンガポール等々では車は左側通行で右ハンドルである。


 ラングーン市内でも、ちょっとしたお宅にはこのように大きなヤシの木がある。必要に応じて、家人が或いは使用人が木に登って実を落とす。ココナッツジュースは冷やしていなくとも、ひんやりとしている。殻が厚く外の熱を通さないからだろう。
 中の実(ココナッツ)を食べるなら青い(若い)実を、ジュースを飲むなら黄色くなったもの、実を食べて同時にジュースを飲むならその中間の色を。これはパプアニューギニアで教わったことだが、ビルマでは黄色になった実しか落とさない。だから、口の中でとろけるような柔らかいココナッツは食べさせて貰えなかった。


 ご覧のような風景を今まで見たことがなかった。あんな大きな水牛の子が母親に甘えている姿を見ると、今後子牛の料理など食べられないのではないかと感じた。そして母牛の優しそうな目。行って撫でてやりたかったが、写真を撮るだけで我慢した。


 ビルマの農産物の豊かさを象徴するような景色に出会った。走る車の中から撮ったので、少しピンが甘いが、地平線の彼方まで続く畑はご覧になって頂けると思う。


 これもトゥングーからの帰りに走る車から撮ったもの。ビルマ人はこの村で車を止めるのをとても嫌がった。インド人の村だからだそうだ。
 ビルマ人の国であった「ビルマ」を征服した英国は多くのイスラム系のインド人と華僑をビルマに移住させ、金融と商業を牛耳らせた。そして山岳民族であったカチン、カレン、モン族等々を平地に住まわせてキリスト教を押しつけた。その結果、今までは仏教だけを信じていた単一民族国家が、多民族、多宗教の国になってしまった。
 以上の歴史的背景からか、ビルマ人は今でもインド人を嫌っているらしい。私が写真を撮っている間も、村から顔をそむけていた。この「インド人の村」は全体に活気がなく、暗い感じだった。いや、黒い感じだった。そして異様な感じを受けた。いつか、商売を離れて一人できて、ゆっくり写真を撮りたいと願っているが、未だに果たせていない。


 ピーナマからの帰りにトイレ休憩をした。物語に出てくるような村に出会った。心が和む風景に出会った。此処でもっと休みたいと申し出たが、申し訳ないが先が永いからこの次にしてほしいと云われた。途中で食事をし、私をストランド・ホテルに送り届けた後でミント・ウー社長を自宅に送り、その後で運転手は車を返してから夜の10時までには自宅に帰らなければならない。戒厳令の敷かれている国では致し方ないことだと諦めた。

 結局、ミント・ウー社長の努力にもかかわらず、ラングーンの周辺からは日本に出荷出来るほどのカリンが集まらなかった。ビザの滞在日数(入国から8日目には出国しなければならない)を延長してまで努力したが、その願いはかなえられなかった。インフラの遅れている国との商取引がここまで難しいとは想像もつかなかった。ヤンゴン(ラングーン)は「勝利の丘」の意味だそうだが、私にとっては「敗北の丘」だった。

 日本とビルマとの通信手段は、テレックスが主体であり、ファックスなど政府系の大企業にしか設置されていない。街中で公衆電話など目にしたことがなかった。当時の国際電話は、日本からかける場合は3分で3,800円だったように記憶している。私がビルマに行かなくなってからは、少し値段が下がって同じ3分で2,880円になった。

 交通網が発達していない。ラングーンに市内を走る電車、地下鉄、市電の類は一切ない。運転手つきで貸し出されるバスを除いて、あるのは日本から輸入された中型トラックや小型トラックの荷台に木の椅子と幌をつけただけの乗り合いバス。定員オーバーも甚だしく、幌にぶら下がって乗っている人もいた。割と豊かな人はタクシーかハイヤー、或いは運転手つきで契約した乗用車を利用する。それ以上に裕福な人は自分の車を持っていた。
 道路網が整備されていない。現在は知らないが、当時の道路は幹線道路でも穴だらけで、重い荷物を満載したトラックは右に左にハンドルを切り、穴ぼこに落ちないように走っていた。トラックだけではない、全ての車がそうだ。ビルマの南北を貫く鉄道の貨物列車は軍が優先的に使っているので民間業者が材木の輸送に使える機会は限られていた。

 電力事情もよくはない。パゴダ内だけではなく、マーケットの中も薄暗い。明るいのはホテルの中だけだ。而し、日本の基準から見れば暗い。100ワットの電球を使わずに40ワットか60ワットの昔ながらの電球である。蛍光灯を利用しているのはホテルのロビーぐらいだった。

 ガソリンが不足している。ガソリンの公定価格は1リッター4チャット(約8円)だが、週に20リッターしか買えない。闇のガソリンはリッター当り20チャット(約40円)である。闇でも日本の価格に比べたら格段に安いが、彼等の平均給与を考えればとんでもない金額である。ミント・ウー社長が空港に迎えに来てくれた時の車についていたのはエア・コンではなく、ダッシュボードの下に付けるタイプのクーラーであった。而し、止っていた。最初は故障しているのかと思ったが、ガソリンを多く消費するので止めてあるのだそうだ。下り坂になると、運転手は必ずエンジンを切る。エンジン・ブレーキが利かず、咄嗟に止ることは難しいだろう。
 それ以外にも危険だったのは、闇のガソリンを買った時だった。助手席に置いたポリのタンクに、闇屋が持ってきたポリ缶から直に移し替える。その間、運転手は運転席で平気で煙草を吸っていた。気温の高いビルまでは気化も早いだろうと、発火に備えてドアーのノブに手をかけていた記憶が何度もある。

 スー・チー女史の屋敷の塀に沿って複数の歩哨小屋があり、その中にいる兵士は小銃の筒先を道路に向けていた。それは屋敷の中の人を逃がさぬ為ではなく、外の人間が中に入るのを警戒しているのだと感じた。「軍事政権が終らない限り、ドゥー・スー・チーはあのままです」と、退職した公務員が淋しそうに云っていた。

 このような事情が仮に一つでも分かっていたら、この国からカリンを集めようなどとは考えなかったであろう。而し、どのようにしたらこの国の詳しい事情を調べられただろうか。日本の外務省では個々の事例については把握しきれていなかったであろうし、ビルマ大使館では自国の不利になる情報は提供してくれなかった。

 だが、最後まで諦めず、ミント・ウー社長のつてを頼って森林局のサン・マウン副局長を訪ねた。そして「マンダレーに行けばカリンが集るかもしれない」との情報を頂いた。そればかりかマンダレー支所のセイン・ウェイ君を紹介してくれ、彼に私の補佐をするよう命じてくれた。

 ラングーン(ヤンゴン)はこれで終り、来週(月曜日)からはマンダレーに移りたい。ラングーンから北に600キロのほどのところにあり、ラングーンを東京とするなら、マンダレーは京都のような存在である。新しい首都のネピドーは丁度この中間地点にある。当時はラングーンが首都であり、商業の中心であった。ネピドーに首都を移すなど、想像すら出来なかった。




TDY, Temporary Duty ビルマ編 7

2013年10月14日 | 旅行
 1948年にビルマは60年以上続いた英国支配から独立を勝ち取ったが、そのきっかけを作ったのは日本であると云っても過言ではない。第二次世界大戦において、日本軍から教練を受けた軍人を中心としたビルマ軍は日本軍と一緒に英国軍と戦った。而し、日本が劣勢になると、スー・チー女史の父君であるアウン・サン将軍は日本軍を裏切って英国側についてしまった。(アウンサンスーチーが正式なお名前だそうだが、監禁されていた彼女の屋敷の前を車で通った時、運転手も一緒に乗っていたビルマ人も「ドゥー・スー・チー」と呼んでいた。ドゥーはご婦人に対する尊称である)。
 ビルマでの負け戦のことを多くの方々が、小説、手記、回想録、ブログ等々に書いていらっしゃる。その中で、敗走して行く日本軍の先々に英国軍が待ち受けていたとの記述が数多くある。この時点で、既にアウン・サン将軍は日本軍を裏切り、情報を英国軍に渡していたのではないだろうか。
 ビルマ独立後にアウン・サン将軍は政敵から暗殺されてしまった。だが、日本軍を裏切ってまでビルマを独立させるとの強い信念がなければ、ビルマは未だに英国の統治下にあったに違いない。香港のように経済的に発展していれば、今の状況と比べてどうなのだとの問題はあるが、それは別のことである。少なくとも民族の誇りは保たれている。ビルマ人たちはアウン・サン将軍を敬愛し、その功績を讃えるべく通りに彼の名前を付け、一時はボジョー・マーケットもアウン・サン・マーケットだったと聞いた。英語表記だと「アウン(Aung)」だが、ビルマの人たちは「オン」と云っている。即ち、オン・サン通りである。

 カリンを集める最後の手段としてピーナマ(地図にはピンマナと書いてあるが、ビルマ人はピーナマと云っている。従って、私もピーナマとする)に行くことにした。ピーナマはラングーンから新しい首都のネピドー(当時は影も形もなかった)までは約310キロ、そこから更に東に10キロ弱のところにある。当時の道路事情ではとても日帰りは出来なかった。この地にはホテルなどはなく、政府の施設に泊めて頂くことになった。此処にはシャワーがなく、打ちっぱなしのコンクリートで出来た共同浴場のようなところで水を浴びた。大きなカメに水が溜めてあり、それを体にかけて濡らし、石鹸で洗い、また水で流す。日が暮れて寒かったが仕方がなかった。
 初めてビルマに行ったとき、ホテルに用意されていた石鹸は泡が出ず、ちっとも汚れが落ちなかった。それで、次からは日本から何個か石鹸を持っていくことにしていた。ミント・ウー社長にその石鹸をお貸ししたとき、彼はすぐに臭いを嗅いだ。そして満足そうにした。ストランド・ホテルの石鹸には全く香りがなかった。
 ベッドは折り畳み式の軍隊用のベッドだった。腰が深く沈んでしまい安定感を心配したが、キャンバス地は厚く、非常に寝心地がよかった。ただ、蚊には参った。用意していった蚊除けのスプレーをかけたが、かけ損った僅かな隙間を蚊が狙ってきた。
翌朝、朝食もそこそこにカリンがあると云う集積場に行ったが、あったのはオトギリソウ科のポニエット。マメ科のカリンとは似ても似つかぬものである。このポニエットは一般建築材で床板や天井板に使われるものである。文句を云う気も失せた。ビルマ人はポニエットをポニャットと発音する、カリンはビルマ語でパダックである。音質の悪い電話でポニャットとパダックとを双方で聞き間違えたのである。この時点でカリンの入手は不可能であると感じた。


 ビルマの紙幣を紹介したい。一番上が90チャット、次が45チャット。そして15チャット。一番下に大きさ比較するために、アメリカのドル紙幣を置いた。世界の殆どの国が1,10,50,100と云う具合に紙幣を作っているのに、ビルマでの紙幣の単位には驚かされた。
 90チャットの肖像はサヤ・サン(1876~1931年)。1930年に僧侶と農民を巻き込んで宗主国であった英国に反旗を翻した。而し、1932年に英国軍に処刑されてしまった。
 二番目の肖像はタチン・ポラ・ジィー。英国に抵抗して労働運動を展開した。名前の最初の「タチン」(Thakin、発音はタチンが正しいように思うが、外務省でも他の資料でもタキンと表記している)は「主人」の意で、一種の尊称ではないだろうか。因みに、この時代にラングーン大学の卒業生で結成された政治結社が「タチン党」である。そして、党員同士は名前の前にこのタチンをつけて呼び合っていたようである。而し、ポラ・ジィーがタチン党の一員であったかどうかは不明である。この件につき、ミャンマー大使館に問い合わせたが、電話に出た若いミャンマー人の娘さんは「そんなことは知らない」「知っている人はいない」「今は忙しい」。何を聞いてもこんな返事だった。調べてくれようともしなかった。それではどこで聞けばいいのかと聞くと、返事もなしに電話は切られてしまった。此のミャンマー大使館の、ミャンマー人の対応は軍事政権時代の対応と全く同じだった。大部分のミャンマー人はおせっかいなぐらいに親切であるのに、非常に残念だ。
 三番目の軍人がアウン・サン将軍(1915~1947年)。英国からの真の独立を見る前に、政敵から暗殺されてしまった。32歳だった。そのときに使用された武器を提供したのが英国だとの説がある。
 他に何種類もの紙幣があるが、よく使われている1チャットや5チャットの紙幣は触るのも嫌なぐらいに手垢で汚れており、今にも破れそうなものばかりだった。


 ラングーンの中央駅に近いところ。元気よく大股で歩いているお兄さんが肩から下げているのがシャンバッグである。多種多様で地味な物から色の鮮やかな物まである。構造はいたって簡単で袋に肩から提げる帯が付いているだけのものである。厚手の手織りの生地に刺繍がしてあり、房が付いていたり、外側にジッパーが付いているバッグもあった。滑らかに動かないが、ジッパーにはYKKとあった。とても日本製のYKKとは思えない。
 このバッグは「シャンバッグ」の名前でビルマ全域で使われている。因みに、シャン族の住むシャン州はビルマの北東部に位置し、中国、ラオス、タイと国境を接しているビルマ最大の地域である。
 奥の娘さんの頬が目立って白いのはタナカ(私にはタナーカと聞こえる)を多めに塗っているからだろうか。水をたらした石の上で木の枝(木の名前は聞き損じた。柑橘系の木であるらしいが定かではない)を刃物を研ぐようにこすると、白くドロドロになる。これがタナカである。これを塗るとひんやりするそうで、中には腕にまで塗る人もいる。


 ラングーンの官庁街を通るとき、いつも不気味に感じるビルである。建物はがっちりとして立派だが、夕暮れ時になっても窓から明かりが見えない。最初にこのビルの前を通った時にミント・ウー社長に聞いたのだが、ビルマの英語に慣れる前だったので、何のビルかわからなかった。私は彼を観光ガイドに雇ったわけではないので、その後同じ事を聞くのを控えた。


 ミント・ウー社長の自宅兼事務所のあるアパート。外見は悪くないが、内部はあちこち痛んでおり、階段は怖いぐらいに急だった。外に面している部屋以外は薄暗かった。電力事情を考えれば無理のないことだろう。


 モー・ルィンさんのお宅の玄関先。ミント・ウー社長の友人が手に入れたトヨタ・カローラのスプリンターである。2年落ちだが価格は40万チャットだと聞いた。公務員の平均給与の約40年分にあたる。当時のビルマの最低賃金は月に450チャット、民間の平均給与は800~1,000チャットであった。「ビルマ編2」でも述べたようにミント・ウー社長の奥さんが公立高校の英語の教師をやっているが、彼女の給料は一般公務員より低く750チャット(約1,500円)であり、ストランド・ホテルのレストランのウェイターの給料は最低賃金より安く400チャット(約800円)だと聞いている。客からのチップを期待しての事らしい。


 古くなったチークが多く積まれていた。チーク材は切り倒してから6ヶ月以内のものが「フレッシュ・ゴールデン・チーク」と云われ、文字通り黄金を思わせるように輝いている。こんな古くなったのでは誰も買わない。軍政府はこうやって国民の資産を無駄にしていく、と此の場所に案内してくれた人が云っていた。


 UB(ビルマ航空)の何便だったか記憶が定かではないが、ラングーンからやっとタイのバンコクに着いた。
 ビルマの空港内ではもちろんのこと、ビルマの旗のあるところの写真撮影は絶対に禁止されていると前にも書いたが、バンコクの空港でビルマの飛行機を撮影するのは自由である。パイロットは顔をしかめていたが、顔見知りのスチュワーデスは笑顔で手を振ってくれた。
 当時のビルマには国際間を飛ぶジェット旅客機はこの写真の一機しかなかったと聞いた。1984年にビルマの山中で墜落するまでは二機あったが、今は一機しかないのでラングーンとバンコク間、ラングーンとマンダレー(ビルマの第二の都、ラングーンから北へ約600キロのところにある)との間をこの一機で賄っている。だから乗務員も同じなのでスチュアーデスとはすぐに顔見知りになってしまう。
 余談だが、山中に墜落した機体はまだ見つかっていないと聞いている。ラングーンとバンコクの間はUB(ビルマ航空)とTG(タイ航空)の共同運航なので、運悪くUBに当たってしまったら無事に着くことを祈るしかない。



TDY, Temporary Duty ビルマ編 6

2013年10月07日 | 旅行
 遅すぎるかもしれないが、私が気に入り、定宿にした当時のストランド・ホテルを是非紹介したい。

 ホテルまで送ってきてくれた取引先の社長と別れ、ボーイと一緒に部屋に向かった。ビルマ人は客室には決して入れないそうだ。旧式のエレベーターを降りて部屋に着いてから、現地の貨幣価値も分らぬまま、ポケットにあった3枚の1ドル紙幣をチップとしてページ・ボーイに渡した(後で知ったが、チップとしてはとんでもなく高額だったらしい)。彼は私に抱きつかんばかりに感謝の気持ちを表した。スーツケースを所定の場所に置くと、彼はもう一度感謝の言葉を残して去った。部屋は薄暗かったが、リビングルームがあり、その奥に古い家具と一緒にベッドが二つあった。バスルームも広かった。旧型の、大きなホーローのバスタブにお湯をためるべく、蛇口をひねってびっくりした。茶色の生ぬるいお湯が出てきた。最初だけの事と思い直し、栓を抜いて暫く待ったが、お湯は一向に透明にもならなかったし、熱くもならなかった。水を出してみた。水は透明だった。諦め、栓をしてお湯をためた。
 バスタブに体を横たえたが、濁っていて自分の足が見えなかった。体を、泡の出ない石鹸で洗い、茶色のお湯で流した。頭と顔は冷たいのを我慢して水で洗った。
 部屋のウィンドー・タイプのエアコンにスイッチを入れてみた。大きな音がするだけで、冷気が出てこなかった。代りに埃が部屋に撒き散らされた。それでも、暫く動かしていると少しずつ埃がおさまり、冷気が出てきた。
 西に面しているベランダに出てみた。道路を隔てた向うに川があった。川と道路の間には草が生い茂っていた。川にはフェリーの発着所があり、桟橋には人が溢れていた。仕事を終え、家路につく人達が川の方に急ぎ足で歩いている。6時を過ぎていたが、外はまだ明るかった。
 川はラングーン川であり、3キロほど下流の河口付近でぺグー川と合流し、アンダマン海に豊かな水を注いでいる。ストランド・ホテルはラングーンの南端にある。英国人はこの辺りに港とホテルを建設し、それに付随して主要な施設を作っていったのであろう。現在(1989年)は国営海運会社のファイブ・スター、日本の交通公社とも云うべきツーリスト・バーマ(現在はツーリスト・ミャンマー)、銀行、タイ航空、ビルマ国営航空、軍警察本部等々のビルが近くにある。丸の内と霞ヶ関、それに横浜を一緒にしたような地域である。

 初めて泊った翌朝、ストランド・ホテルのレストランで取引先のミント・ウー社長と8時に朝食を取る約束をしていたが8時30分になっても現れなかった。連絡もない。昨夜はろくなものも食べられなかったので、死にそうなくらいに空腹だった。先に食事をすることにした。注文を終えた後で、「卵の焼き方は両面焼き」だと念を押した。だが、持ってきたのは片面焼きだった。ベーコンも、トーストも焼き過ぎで、コーヒーはドロドロで味がない。ジャムは誰が使ったかわからい使いかけのビンを持ってきた。食欲が失せてしまった。もう9時を過ぎたのにミント・ウー社長は未だ来ない。
 朝食を全て下げさせ、改めて果物と紅茶を注文した。南国の果物は全て美味しく、紅茶は英国の影響を受けているのだろう、素晴らしい香りと味だった。このレストランは料理に得手と不得手があるらしい。
 食べ終えたころにミント・ウー社長が通訳の従弟のタン・アンを伴い、すまなそうな顔でやってきた。怒鳴りつけたいのをやっと我慢した。雇った車が途中で故障し、修理を諦めて他の車を探し廻っていたそうだ。連絡しようにもどうしようもなかったのだろう。携帯電話など持っているわけがなく、ラングーン市街にある公衆電話の数は非常に少ない。日本とは全く事情が違う。この国との商売の難しさを改めて認識した。

 ストランド・ホテルの設備はお世辞にもいいとは云えないが、マネージャーを筆頭に従業員は感じがよく、実によく働いている。泊る度に、その良さを感じる。特にマネージャーのドゥー・ウネ(ドゥーは年配のご婦人に対する尊称)は私に色々と便宜を図ってくれた。その便宜に報いられず、カリンの取引にまで至らなかったことは今でも残念に思っている。客室にビルマ人を入れてはいけない規則を破ってまで、ミント・ウー社長だけに私の部屋に入る許可を与えてくれた。彼女に感謝することは山ほどある。

 私は酒に弱いが、必ずホテルのバーに行くことにしている。情報が溢れているからだ。ほんの少しの酒でも顔がすぐに赤くなる。足もふらつく。だが、頭まではふらついていない。相手は私が相当に酔っていると勘違いし、秘密にしておきたい事まで話してくれる。ストランド・ホテルのバーでも同じだった。残念なことに、カリンの情報は一切聞けなかった。我々外国人に交って軍政府の情報員がいるらしいが、私は聞いているだけなので関係ない。驚いたことに、ゴキブリを手でバーの外に追い出している人がいた。我々なら靴で踏んづけるか蹴っ飛ばして追い出す。手で追い出した人はビルマ人で、情報員であるに違いないと確信した。大事な任務中でも、つい仏教の教えが表に出てしまったのだろう。
 このバーでの価格はビールが27チャット(公定のチャットでは約600円、闇のチャットでは55円程)、ソフトドリンク(アルコールの入っていない飲み物)が7チャット(夫々155円と15円)である。ビールは日本で云う中ビンぐらいの大きさのビルマ製のビールと、小ビンや缶の外国製ビールであった。ビルマのビールはどろっとして甘すぎ、麦のジュースにとろみをつけて、砂糖を大量に入れたような味である。私にはどうも馴染めないが、ビルマ人はこのビールをこよなく愛している。コーヒーや紅茶に大量に砂糖を入れて飲む習慣のせいであろう。このビルマに限らず、暑い国は砂糖の消費量がすごい。簡単にエネルギーを補給出来るからだ。他に、ブランディー、スコッチウィスキィー、ワインと多くのアルコール類があるが、私は飲んだことがないので値段は知らない。価格票は出ていなかった。申し訳ないが、他のアルコール類の価格はビールの値段から類推して頂きたい。


 トゥングーへ行く途中、お昼を食べようと脇道に入った。のんびりとした感じで空腹も忘れるところだった。


 ペグーに行く道。ラングーンから東へ5.6キロ行った所にのんびりとしたペグーの村がある。


 ラングーンの街中にいくつもあるパゴダの一つ。精一杯のおしゃれをしてお参りに来る。人々は仏様を身近に感じ、親しみをもって接している。


 スーレー・パゴダの内部。祈願のためか、或いは成就のお礼だろうか、紙幣だけではなく色々な物が奉納されている。中にはかなり金目のものがあった。


 同じパゴダの内部だが、此処にはあまり人が集っていなかった。お祈りする場ではなく、仏教のいわれを説いている処らしい。


 外観はあまり立派ではないが、このパゴダには熱心な信者が多く集る。昼間だと云うのに、電灯がないために薄暗かった。