金曜日のマンダレー行きの便は朝の6時発で、マンダレーには一時間ほどで着く。この便に乗るには朝の4時に起き、5時までには空港に着いていなければならない。ミント・ウー社長が空港まで送ると云ってくれたが、辞退した。帰りは日曜日の午後3時の汽車に乗り、翌朝の6時にラングーン駅に到着する。そしてその日の午後4時40分発のTG306便でバンコクに帰る。かなり強行軍ではあるばかりか落ち着いて仕事が出来ない。そのため、あらゆる手段を講じてビザの延長を申請してみたが、再度の延長は不可能だった。森林局のサン・マウン副局長の好意を無にする事は決して出来ない。下調べの価値はあると判断して行くことにした。但し、片道の航空券しか手に入れられなかった。
ホテルの用意してくれた車には既に相乗りの客が乗っていた。ラングーン(ヤンゴン)空港に向かった。街を走っているタクシーよりは新しかったが、一人分としてUSドルで十二ドルも請求された。悔しいが他に方法が無いので云われるままに払った。車はあっという間に空港に着いた。途中に信号がいくつもあったが、全て赤の点滅だけになっていたので空港までは殆どノンストップだった。空港は国際線も、国内線も入口は同じだった。国際線に人影は無く、大勢の人が頭に荷物を乗せたり、腕に抱えたりしながら国内線の待合室に向っていた。私はホテルにスーツケースを預け、身の廻りの物だけをボストンバッグに詰めてきたので身軽であった。国内線のゲートを通過するときにチケットの提示を求められた。そこを通過すると待合室があった。そこに入るときにチケットはもぎ取られ、何回も使用された、よれよれのボーディングパス(搭乗券)を渡された。その待合室の壁は四方が全て金網だった。鳥小屋の中に押し込められたようだった。搭乗時間がくるまで、その金網の中から外へ出られない。ペンキの剥げたベンチに夫々腰掛け、客達は黙って待っていた。辺りにはタバコの吸い殻が散らばっていた。何日も掃除をしていないようだった。
我々を待っていたのはツインオッターのように、翼が胴体の上にある高翼のプロペラ機だった。ジェット機でないことで安堵した。エンジンが止まっても、ジェット機のようにきりもみ状態にはならず、グライダーのように滑空出来ると聞いている。
10分遅れで、プロペラ機は7時10分に田舎の停車場のようなマンダレー空港に着いた。人々はラングーンより明るい表情をしていると感じた。空港には自動小銃を持った兵隊が大勢いたが、銃口を客に向けるような事はなく、持ちにくそうに腕に抱えていた。兵隊は友好的で私にも笑顔を向け「ミンガラバ」と云ってくれた。今まで我慢していたタバコに火をつけた。兵隊にも勧めてみた。彼等は遠慮がちに手を出し「サンキュー・サー」と云った。ラングーン空港のすれっからしの兵隊とは大変な違いだった。
約束通りセイン・ウェイが迎えに来ていてくれていた。私を見つけると「ミンガラバ」(朝、昼、晩の挨拶は全てミンガラバ)と云って満面に笑みを湛えて迎えてくれた。私の荷物を取ると「ミンレイを待たせてあります。車がなくミンレイで申訳ありません」と云った。彼の後について行って理解出来た、ミンレイとは馬車の事だった。
馬車はゆっくりと動き出した。馬が一生懸命に車を引く姿を見ていると、降りて一緒に引っ張ってやりたくなった。ビルマの昔の王城を囲む大きな池を過ぎると、広い敷地の中にマンダレー・ホテルはゆったりと建っていた。ラングーンよりは6百キロも北にあるのに、このマンダレーの方が南国的だった。ホテルは開放的で、入口の前には沢山の椅子とテーブルが置いてあった。丸いテーブルの中央にはパラソルが挿してあったが、既に夏の強い日差しがパラソルを通して白いテーブルを焦がそうとしていた。私が入口に近づくと、清楚な女の子が笑顔と共に冷たいお絞りを差し出した。私が名乗る前にレセプショニスト(フロントではなく、英国風にレセプショニストと呼んでいる)が鍵をくれた。宿泊カードには必要事項が既に書き入れられてあり、私はパスポート番号を書き入れ、サインするだけでよかった。住所の蘭には「ストランド・ホテル、ラングーン」と書き込まれていた。何と機転の利く事だろうか。同じビルマ人とは思えなかった。従業員の表情は明るく、活き活きとしていた。部屋もきれいで清潔だった。家具は安物ではあったが、明るい色が使われており、如何にも南国を思わせた。そして、朝食も美味しかった。久しぶりに人間らしい朝食にありついた。デザートの果物も豊富で新鮮だった。
機上から見ると、マンダレーの街並みは碁盤目のようだった。南国の例にもれず、朝の始動は早いとみえる。人や車の動きが忙しそうだった。
朝日に輝く王城。中を見ることは出来なかったが、堀の中に浮かぶ城壁は息をのむような美しさがあった。現在(1989年)はビルマ陸軍の駐屯地になっている。
マンダレー・ホテル、如何にも南国を思わせる開放的なホテルである。ストランド・ホテルのように、その背後に軍事政府を感じさせられるようなことは全くなかった。
二階建てだから、当然のことエレベーターはない。ラングーンのストランド・ホテルでは旧式のエレベーターを操作するボーイが不器用で、きちんと所定の位置に停められない。高すぎるか低すぎる。彼は何度も修正を試みるが、私は待っていられなかった。それはまだいい方だ。用があっても彼がいないことがよくあった。そんな時は階段を使うが、英国が建てた古いホテルはやたらと天井が高く、その分階段も長かった。5階に泊った時には往生した。その点、このマンダレー・ホテルはエレベーターに頼ったり、長い階段に苦労することはなかった。
ホテルに到着したときも、外出から疲れて戻ってきたときも、冷たいおしぼりを持って笑顔で出迎えてくれた。
暑くなる前にと、ホテルの従業員が塀の外の手入れをしていた。塀の中だけではなく、外の道路に面している処にも手を加えて客の目を楽しませていた。
ホテルの用意してくれた車には既に相乗りの客が乗っていた。ラングーン(ヤンゴン)空港に向かった。街を走っているタクシーよりは新しかったが、一人分としてUSドルで十二ドルも請求された。悔しいが他に方法が無いので云われるままに払った。車はあっという間に空港に着いた。途中に信号がいくつもあったが、全て赤の点滅だけになっていたので空港までは殆どノンストップだった。空港は国際線も、国内線も入口は同じだった。国際線に人影は無く、大勢の人が頭に荷物を乗せたり、腕に抱えたりしながら国内線の待合室に向っていた。私はホテルにスーツケースを預け、身の廻りの物だけをボストンバッグに詰めてきたので身軽であった。国内線のゲートを通過するときにチケットの提示を求められた。そこを通過すると待合室があった。そこに入るときにチケットはもぎ取られ、何回も使用された、よれよれのボーディングパス(搭乗券)を渡された。その待合室の壁は四方が全て金網だった。鳥小屋の中に押し込められたようだった。搭乗時間がくるまで、その金網の中から外へ出られない。ペンキの剥げたベンチに夫々腰掛け、客達は黙って待っていた。辺りにはタバコの吸い殻が散らばっていた。何日も掃除をしていないようだった。
我々を待っていたのはツインオッターのように、翼が胴体の上にある高翼のプロペラ機だった。ジェット機でないことで安堵した。エンジンが止まっても、ジェット機のようにきりもみ状態にはならず、グライダーのように滑空出来ると聞いている。
10分遅れで、プロペラ機は7時10分に田舎の停車場のようなマンダレー空港に着いた。人々はラングーンより明るい表情をしていると感じた。空港には自動小銃を持った兵隊が大勢いたが、銃口を客に向けるような事はなく、持ちにくそうに腕に抱えていた。兵隊は友好的で私にも笑顔を向け「ミンガラバ」と云ってくれた。今まで我慢していたタバコに火をつけた。兵隊にも勧めてみた。彼等は遠慮がちに手を出し「サンキュー・サー」と云った。ラングーン空港のすれっからしの兵隊とは大変な違いだった。
約束通りセイン・ウェイが迎えに来ていてくれていた。私を見つけると「ミンガラバ」(朝、昼、晩の挨拶は全てミンガラバ)と云って満面に笑みを湛えて迎えてくれた。私の荷物を取ると「ミンレイを待たせてあります。車がなくミンレイで申訳ありません」と云った。彼の後について行って理解出来た、ミンレイとは馬車の事だった。
馬車はゆっくりと動き出した。馬が一生懸命に車を引く姿を見ていると、降りて一緒に引っ張ってやりたくなった。ビルマの昔の王城を囲む大きな池を過ぎると、広い敷地の中にマンダレー・ホテルはゆったりと建っていた。ラングーンよりは6百キロも北にあるのに、このマンダレーの方が南国的だった。ホテルは開放的で、入口の前には沢山の椅子とテーブルが置いてあった。丸いテーブルの中央にはパラソルが挿してあったが、既に夏の強い日差しがパラソルを通して白いテーブルを焦がそうとしていた。私が入口に近づくと、清楚な女の子が笑顔と共に冷たいお絞りを差し出した。私が名乗る前にレセプショニスト(フロントではなく、英国風にレセプショニストと呼んでいる)が鍵をくれた。宿泊カードには必要事項が既に書き入れられてあり、私はパスポート番号を書き入れ、サインするだけでよかった。住所の蘭には「ストランド・ホテル、ラングーン」と書き込まれていた。何と機転の利く事だろうか。同じビルマ人とは思えなかった。従業員の表情は明るく、活き活きとしていた。部屋もきれいで清潔だった。家具は安物ではあったが、明るい色が使われており、如何にも南国を思わせた。そして、朝食も美味しかった。久しぶりに人間らしい朝食にありついた。デザートの果物も豊富で新鮮だった。
機上から見ると、マンダレーの街並みは碁盤目のようだった。南国の例にもれず、朝の始動は早いとみえる。人や車の動きが忙しそうだった。
朝日に輝く王城。中を見ることは出来なかったが、堀の中に浮かぶ城壁は息をのむような美しさがあった。現在(1989年)はビルマ陸軍の駐屯地になっている。
マンダレー・ホテル、如何にも南国を思わせる開放的なホテルである。ストランド・ホテルのように、その背後に軍事政府を感じさせられるようなことは全くなかった。
二階建てだから、当然のことエレベーターはない。ラングーンのストランド・ホテルでは旧式のエレベーターを操作するボーイが不器用で、きちんと所定の位置に停められない。高すぎるか低すぎる。彼は何度も修正を試みるが、私は待っていられなかった。それはまだいい方だ。用があっても彼がいないことがよくあった。そんな時は階段を使うが、英国が建てた古いホテルはやたらと天井が高く、その分階段も長かった。5階に泊った時には往生した。その点、このマンダレー・ホテルはエレベーターに頼ったり、長い階段に苦労することはなかった。
ホテルに到着したときも、外出から疲れて戻ってきたときも、冷たいおしぼりを持って笑顔で出迎えてくれた。
暑くなる前にと、ホテルの従業員が塀の外の手入れをしていた。塀の中だけではなく、外の道路に面している処にも手を加えて客の目を楽しませていた。