TDY、Temporary Duty。アメリカの軍隊用語で出張を意味する。世界の僻地の出張記録!TDYの次は日常の雑感

現役時代の出張記録。人との出会いと感動。TDY編を終え、写真を交えた日常の雑感を綴る。

TDY, Temporary Duty マダガスカル編 9

2014年01月27日 | 旅行
 マダガスカルで一番品質の良いパリサンダーを産出しているのは、南西部にあるツレアルである。材の硬さ、色合い、木目が数ある産地の中で最も良いとされている。新木場に限らず、全国の銘木屋の垂涎の的となっていた。而し、新木場で最大の銘木問屋であり、輸入会社であるH社が買いまくった為、材は枯渇状態であった。良い材を此処から集めるのは、その経済効率の点からマダガスカルの業者からは敬遠される状態となってしまった。
 私はツレアル産のパリサンダーに拘らなかった。それと同等か、それより良ければ全て買うことにした。協力してくれる業者や商務省、森林省の役人から教えを受け、ツレアルより少し北にあるモロンダバの森に目を付けた。ご存じのように、此処はバオバブで最もよく知られている地域である。アンタナナリブからは直線で380キロほどの所にある。 
 
 木材、特に銘木の業界は特異な存在で、非常に保守的であり排他的である。銘木の輸入業者は、H社のような大手は別として、銘木関連業者の海外駐在員を経て独立する例が多い。彼らは人脈を持っているのですんなり業界に溶け込める。而し、彼らは海外駐在中に知り合った業者からしか買うことが出来ない。他の国や地域から買う方法を知らないのである。従って材の種類や産地も限られている。その点、私は貿易業からの参入なので、木材の種類、産地に関係なく、客の要望通りの材を世界中から集める自信はあった。だが、弱点はこの業界に人脈を持っていなかったことだ。一軒一軒当るしかなかった。売込みの段階で、パプア・ニューギニアの黒檀とマダガスカルからのパリサンダーの情報を得た。これから先のことは貿易屋である私の最も得意とするところだった。短期間で客の要望を満たせることになり、新木場の業者からの信頼を得た。


 当時(ラチラカ大統領の在任中)の森林大臣ご夫妻。モロンダバの業者と接触するに当たり、細かい指示と助言を頂いた。
 C社の社長は私と一緒にモロンダバに行くのを楽しみにしていたが、北部への出張と重なり実現出来なかった。代りに通訳兼運転手のラフィック君を付けてくれた。目的地に夕方までには着きたかったので、翌朝6時にコルベール・ホテルに迎えに来て貰うことにした。


 モロンダバの手前の漁村。庭にナマコが干してあった。


 このかわいい子も、親の手助けをして働いている。頭に乗せている籠には干す前のナマコが入っていた。


 モロンダバの森には彼女ら姉妹も伐採の権利を持っていると聞き、挨拶に伺った。我々の来たことを他所から知らされる前に、彼女らに挨拶したことで非常な好印象を持ってくれた。そして当方の要望を全面的に聞き入れてくれた。




 上の二枚はモロンダバの森の伐採権を持つ姉妹の住居。これでも周囲の住宅事情に比べれば「豪邸」の部類に入る。


 どのような関係かは聞かなかったが、上の姉妹と一緒に住んでいるようだ。この辺りはアフリカ系のサカラバ族が多く住む場所である。以前のモロンダバはアンセルメ・ジャオリズィキー課長と同じサカラバ族とベゾ族(ともにアフリカ系)だけの居留地だったが、それ以外の部族が他所から移り住んだりしているようだ。






 上の三枚はモロンダバで我々の居住する、一戸建てのバンガロー・ホテルとその内部である。意外と快適だった。窓とドアーを開けておけば涼しい風が入りきれないほど入って来ては、反対側の窓から抜けていく。ただ、シャワーからお湯が出ないのには困った。愛想のいいマネージャーに「お湯が出ないよ!」と云ったら、彼は落ち着いた態度で「此処は熱い国ですから」と云った。装置が壊れているのではなく、最初から水のシャワーなのだ。いくら熱い国だと云われても陽が沈んでからの水のシャワーには参った。次の日からは、少し早めに帰り、誰も使わぬうちに熱いお湯のシャワーをふんだんに使った。朝出かけるときに、母屋の屋根に水槽があるのを見つけたのだ。やはり私の考えてた通り、日中の太陽の熱で、水槽の水は相当に熱くなっていた。但し、それを使いきってしまえば水道から自動的にタンクに補充されるので、新鮮な、冷たい水のシャワーとなる。此のことは、他の客には勿論のこと隣のバンガローに住むラフィックにも黙っていた。お蔭で滞在中は熱いシャワーを満喫出来た。


 バンガロー・ホテルからの眺め。地平線の向うにアフリカ大陸のモザンビークがある。此の砂浜から600キロ程の所だ。

TDY, Temporary Duty マダガスカル編 8

2014年01月20日 | 旅行
 マダガスカルのカラスは真っ黒ではないことをご存じだろうか。胸の一部が白く、紳士が蝶ネクタイをしているように見える。それにフランス人が「おしゃれなカラス」と云う名前を付けた。非常に残念だが写真がない。アンタナナリブの郊外で何度か見かけたことがあったが、直ぐに飛び去ってしまい、とても写真に撮れる状態ではなかった。日本のような図々しさはなく、恥らっているようにも見えた。
 
 マダガスカル人は、種族を問わず可笑しな人種であるとつくづく思うことがある。真っ黒なカラスしかいない日本を、また太陽が南にある日本を可笑しな国だと彼等は思っている。ラチラカ大統領が疲弊しきった経済を立て直すために敢えて社会主義国家にしたことは前にも述べたが、国民の誰もが自分たちの国は資本主義国家であり、自由主義国家だと信じている。暇そうにしていたボーイたちにそんな話をしたら、「えっ、共産主義?どこの国がですか?」と全員が首をかしげた。「お前さんたちの国がだよ、このマダガスカルがだよ」と云ったことがある。彼等は信じられない顔をしていた。ラチラカさんが頭を痛めるわけだ。
 マダガスカルは地理的にも、歴史的にもアフリカに所属する。我々にとっては当たり前のことであるのだが、彼等は「マダガスカルはアジア、日本からは一番遠いアジア」であると信じきっている。日本と同じアジアの一員であると主張している。これほどに親日的であることは涙が出るほど嬉しい。

 以前にも少しご紹介した、通産省の商事部貿易課のアンセルメ・ジャオリズィキー課長がコルベール・ホテルに私を訪ねてきた。「トマシナからお帰りだと伺いましたので。今日はお暇でしょう?」とニコニコしながら云った。地域産業を盛り立てるための産業振興会館のようなものがあるから、そこにご案内したいと云うのである。通産省の管轄だから、これも公用だとウィンクをした。
 ホテルの玄関を出た途端、私を見た大勢の子供の乞食が周りに群がってきた。容易には前に進めないぐらいだ。アンセルメは子供たちに一喝した。やっと通れるようになった。「貴方はあの子供たちの誰かに、小銭をあげたでしょう。それを見ていた連中は貴方が出て来るのを見張っていたのです。やるから来るのです、やらなければ近寄りません」。以後はその忠告に従うことにした。

 タクシーに乗り込むと、若いメリナの運転手は私の方を見ながらマダガスカル語で話し始めた。「マンザ・べ」以外は何も理解出来なかった。アンセルメの方を向くと、彼はにやにや笑いながら説明してくれた。『俺のカミさんを買ってくれないか?結婚してまだ6か月だ。すごい美人だ(マンザ・べ)。博打の借りを返さなければならいんだ。よかったら、これから俺の家に行って、実物を見てくれ』と云ったのだそうだ。私が「今回は遠慮するよ」と断ると、非常にがっかりした様子だったが、何故かホッとしたようにも感じられた。それからは機嫌よく目的地まで行き、余分なチップをせびることもなく「ミソートラ」(ありがとう)と云って走り去った。
 アンセルメは、マダガスカル人同士では大きな博打などしない、恐らく不法滞在の中国人にでも引き込まれたのではないかと顔をしかめていた。


 アンセルメ・ジャオリズィキー課長。この写真では冴えないが、事務所にいるときはスーツを着てネクタイをきちんと締めている。サカラバ族(アフリカ系)で、ルーツは南部の西海岸である。アンタナリブ大学出身で、政府機関には多くの友人がいる。奥さんはメリナ族である。
 一見おっかなそうではあるが、非常に大人しく、奥さんには頭が上がらない様子。マダガスカルに滞在中は全てのことに便宜を図ってくれ、まるで私の社員、いや子分のようにさえ振舞ってくれていた。


 産業振興会館のようなものと聞いていたので、ビルの中にあると考えていたが、野っ原に掘立小屋とテント張りの店があるだけだった。木の家具や工芸品もあったが、圧倒的に多かったのは丁寧な刺繍が施された衣類、それにテーブル・クロスとナプキンのセットだった。
 木彫りのお面を見つけた。中学からの友人が趣味で集めているので、買おうとしたらアンセルメに止められた。「古く見せているだけです。本当は新しいものです」。通産省の売上を邪魔してよかったのだろうか?








 綺麗な刺繍のブラウスを娘たちに買って帰ったが、彼女らには着て貰えず、全て家内の家庭着になってしまった。
 ご存じのように木綿は綿花から紡ぐが、マダガスカルの木綿は Cotton Tree,即ち綿の木の実で紡ぐ。実が10センチほどに育つとアケビのように割れる。その実の中にはフワフワの綿のような白い繊維が詰っている。それを取出して木綿にするのである。肌触りがよく、非常に丈夫である。


 ラミルソン・ラジャオベリナご夫妻(ともにメリナ族)。末っ子のアンリ君。彼の上に10歳と15歳の兄がいる。奥さんのアリスがアンセルメの奥さんの友人である。


 ラジャオベリナ夫妻にドライブに誘われた。途中で微笑ましい若いカップルに出会った。


 川での洗濯が終ると、適当な所に衣類を広げ、恐らくは亭主の悪口を云い合いながら洗濯物が乾くのを待っている。のんびりしたものだ。


 アンタナナリブで唯一の美術館。


 アリス・ラジャオベリナさんに、この絵をどう思うかと聞かれたが、返事に困ってしまった。

TDY, Temporary Duty マダガスカル編 7

2014年01月13日 | 旅行
 コルベール・ホテルの朝食に必ず出るプレーン・ヨーグルトは、窓際のテーブルの上に大振りなガラスの容器に大きなスプーンを添えて置いてある。日本の店で売られているヨーグルトとは全く違う。多少ツブツブが残り、本物の手作りヨーグルトである。私はそれに、何種類も置いてあるジャムやプリザーブをたっぷり入れて食べるのが毎朝の楽しみだった。他の客は変な目つきで私のすることを見ていた。折角の上等なプレーン・ヨーグルトに可笑しな混ぜ物をする、可笑しな奴だと思っていたのだろう。だが、次にマダガスカルに行ったときには、私だけではなく、何人かが私と同じヨーグルトの食べ方をしていた。ウエィターのアンドレー君は肩をすくめて笑いながら私の方を見ていた。私のせいで、ジャムとプリザーブ、それにヨーグルトの消費量が増えたと訴えたかったのだろうか。
 
 スイカを食べた時もそうだった。テーブルに塩がなかった。「オメオ シーラ、アホ」(塩を下さい)と云うと、すぐにウエイトレスが小瓶を持ってきた。そして「何にお使いですか?」を聞かれた。「スイカにかけるんだよ」と云うと、びっくりしたように「そんなことをしたら、病気になってしまいますよ」と本気で心配してくれた。パプア・ニューギニアでも塩なしのスイカを出された。ワサビ抜きでお刺身を食べるようなものだった。
 
 何処の国に行っても、私は出来る限り現地の習慣を守ることに気を使ってきた。而し、スイカに塩は欠かせなかった。果物に塩を使う習慣は他の国にはないようだが、アメリカ人はグレープフルーツ・ジュースに少量の塩を入れて飲む。またトマト・ジュースには塩と胡椒を入れる。
 
 国により、食べ物や飲物の習慣が違うように、ものの考え方や物の価値判断等々、かなり違うのは確かだ。全く逆の考え方をする国もある。私もそれを尊重することを基本としていたが、どうにも我慢ならないこともかなりあった。修行が足りないせいだと今になって反省している。

 今回は前々回のマダガスカル編5の続きとして、マダガスカルの唯一の国際貿易港であるトマシナへご案内したい。


 私が近づくと、運動場で遊んでいた子供たちが集まってきた。マダガスカル語で友好的に話しかけてきてくれたが、ちっとも理解出来なかった。此の時である、フランス語をもう一度やり直すより、マダガスカル語を覚えてしまおうと決心したのは。


 トマシナの木材倉庫の前で、約束通り「女王」が待っていてくれた。従業員が「フェイナ」と呼んでいた。それが名前だと思ったが、そうではないとC社長が「Reina」と紙に書いてくれた。それなら「レイナ」だろうと何度も聞いたが、「フェイナ」としか聞こえなかった。スペイン語では、「reine」と書きレイナと発音する。最初が大文字であるため「フェ」と「ㇾ」の中間の発音なのだろうか。どうもフランス語は難しい。ご存じだろうが「Reina」も「reine」も「女王」を意味する。


 日本までの長い道中では材が割れてしまう恐れがある。それを防ぐために木工用ボンドをフリッチの四面に塗る。




 上の二枚はトマシナの中心地である。一日のうちで最も暑い時間帯であったため、人通りが殆ど絶えている。だが、むしむしする東京の夏から比べればずっとしのぎやすいと感じた。


 建物が古く、非常に汚れてはいるが、なんとなく南仏を想わせる風景に出会った。


 マダガスカル唯一の国際貿易港。日本からは三井船舶だけが定期便を運航している。


 アンタナナリブからずっと一人で運転してきた。こちらの云うことは何とか分るらしいが、話す方は二言である。「イエス」と「ノー」しか駄目だった。運転が楽しくてたまらないような若者だった。


 ネプチューン・ホテル。トマシナ(旧名タマタベ)に来るときは必ずこのホテルに泊った。最近はかなり多くのホテルが建ったと聞くが、当時は此処ぐらいしかいいホテルはなかった。
 シングルの部屋を三つ必要だとフロントのお嬢さんに頼んだ。すると「私たちは別のホテルに泊ります。明日は、朝8時にお迎えに参ります」と云って、私のチェックインを確認してからC社長は運転手とホテルから出て行った。彼等にとってはかなりの負担であることは承知していたので、私がそれを負担するつもりでいた。私に借りを作りたくなかったのであろう。


 仕事を終えた後、だだっ広いだけの、何の変哲もないトマシナの空港からC社長と私はアンタナナリブに帰った。
 運転手君は「今はまだ4時前なので、今夜中には帰れます」とC社長を通して私に云った。事故のないことを願った。社長の見えないところで、夕食代とお礼の意味で、かなりのチップを彼に渡した。彼は嬉しそうに「ミソートラ、ミソートラ ベサカ」(ありがとう、ありがとうございます)と云って足早に車に向かった。

 トマシナとアンタナナリブ間の航空運賃は、マダガスカル人は6,000円ほどだが、外国人である私はその3倍をカードで支払った。ネプチューン・ホテルのシングルが13,000円に比してそれほど高いとは思えなかったが、どうしたわけか、後に私もマダガスカル人並みの航空運賃で国内便のチケットが買えるようになった。


TDY, Temporary Duty マダガスカル編 6

2014年01月06日 | 旅行
明けましておめでとうございます。

 またお目にかかれて嬉しい限りです。「マダガスカル」編はまだまだ続きますので、引き続いてのご購読をお願い申上げます。

 今回はお正月でもあるため、マダガスカルで「財」をなしたかもしれない、或いはこれからなすかもしれないことに触れたい。この国はビルマやラオス、アフリカ大陸の小国等々と肩を並べる世界最貧国の一つである。だが、実際はビルマ同様に非常に豊かな国である。人口比で云うなら、日本の20倍ぐらいの広い国土を持つ。米の二毛作三毛作が可能である。無尽蔵とも云える森林資源に加え、海産物も豊富である。さらに莫大な量の宝石と砂金がある。




 一枚目の写真はアンタナナリブ郊外にある何の変哲もない田圃である。だが、この田圃の畦道を歩くと、キラキラと輝くものが目に付く。赤、ブルー、緑に輝いている。お察しのようにルビー、サファイア、それにエメラルドである。宝石を踏んづけて歩いた経験をお持ちだろうか。王様だってないだろう。だが、私はやった。アンタナナリブの人々は日常的にやっている。ガラス球ではない、本物の宝石である。非常に残念なことに粒が小さいのだ。砕けたお米より小さい。こんなものはいくら集めても一文の価値もない。その上、マダガスカル産の宝石はどれも質がよくない。而し、たまに1カラットを超える石が手に入ることがあるようだ。だが、マダガスカル人はそのために田圃を掘り返すようなことはしない。偶然に拾えればいいぐらいに思っている。そのようなものを見つけたら、売りに行く。ズマ・マーケットにインド人が経営している宝石屋がある。マダガスカル中から宝石を買い漁っている。そしていいものがあると、それを持ってヨーロッパに売りに行くそうだ。
 二枚目の写真は「宝石の町」と呼ばれるマナカラである。交差点で車を止めようものなら四方八方からティッシュペーパーに包んだ宝石を売りに来る。私は買ったことはないが、興味を持って包みの中を覗いたことがある。かなり大粒で1カラットを優に超えているように見えた。燦然と輝いているサファイアーだった。2万円ほどの値段を云われた。私が考えていると、ポケットから少し小さめのものを出し、「これも付ける」と云った。私が「円で払ってもいいか?」と聞くと、渋々承知したので払おうとした。運転をしていたG社長が隣からマダガスカル語で何か云った。そして車を発進させた。聞いてみると、「帰りに、ドルで払うからそれまで待っていろ」と云ったのだそうだ。そして、「もしも、道端で買って、後でガラス球だと分ったらどうします?」と云われた。云われてみれば確かにそうだった。そんな値段で1カラットを超えるサファイが買えるわけがない。だが、本物だったかもしれない。「God knows」、神のみぞ知るだ。


 坂道を登ってやっと平らな道にたどり着いた。その坂道は海岸のように砂の上を歩いているようだった。そして、その砂は太陽に照らされキラキラと輝いていた。「もしかして、これは砂金ではないでしょうか?」と、案内してくれたこの山一帯の地主(左側のご老人)に聞いた。「そうですよ」とこともなげに云われた。そして「お望みなら、バケツに何杯でもお持ち下さい」と云った。
 何故、砂金を放置しているのかを伺った。彼は苦笑いを浮かべながら次のように説明してくれた。此処に精錬所を建てる莫大な資金なんてない。砂金の含有率と埋蔵量が分らない限り、それに投資をしてくれる人もいない。含有率を調べるだけでも相当な金がかかる。これらのことがその理由だった。私に億の単位の現金があればと悔やんだが、どうにもなるものでもない。
 1990年代のマダガスカルには近代的な技術がなかった。切手やお札、それにパスポートなどはフランスに印刷を依頼している。それも政府に資金があるときだけで、ないときは古いまま何年でも使われている。従って、砂金の含有率と埋蔵量を調べるのもそう容易なことではないのである。


 マダガスカルには上質な大理石がある。既にお使いの方もおいでと思うが、イタリーから輸入されている茶色の縞模様のついた大理石が日本では高値で売られている。これと同じ大理石がマダガスカルからイタリーに輸出されているのをご存じだろうか。マダガスカルから直に買えば、イタリーから買う値段の一割ほどで買えるのではないだろうか。宝石の街のアンカラの近くに「ソフィア」と云う洒落たホテルがある。このホテルの浴室は全てこの大理石が使用されている。西洋風のバスタブではなく、大理石で出来た四角の大きな浴槽にお湯をたっぷり溜めて入った。大富豪になった気分だった。


 マダガスカルの西北にあるマジュンガの港である。アフリカ大陸から一番近い位置にある。モザンビークからたった500キロしか離れていない。日中は暑く、冬でも摂氏40度を超す。此処に漁業の基地がある。豊富な魚貝類が獲れる。特に日本人の好むエビが大量に網にかかる。それも種類豊富である。ブラックタイガーのような小さいものから、伊勢海老として通用するものまである。マジュンガに滞在するときは、あらゆるエビを飽きるほど食することにしていた。


 紫檀。本紫檀はインドにしかないが、それよりは上等な紫檀のようである。


 黒檀。板目を見ることが出来なかったので、木目は定かではないが、インドネシアの縞黒檀より硬く、小片をぶつけると金属的な音がした。
 
 紫檀は東海岸の北部フェナリブ近くの山中に、黒檀は南東部フィラナンツォオの山中にあった。紫檀、黒檀とも産地から貿易港のトマシナに運ぶには、大型トラックの通れる海岸線の道路まで人力で運ぶしか方法はない。また、これらの樹種は東部南端のフォー・ドファンの山中にも大量にある。だが、トラックの通れる道路は皆無である。その上、途中には多くの川があるが、橋はない。




 ガンに効くと云われる野草。上が「ロージィー・ペリウィンクル」と云い、日本のツルニチニチソウの一種らしい。下が「ユージニア・ジャンボラナ」と云うが、日本名は不明。マダガスカルの薬草研究所ではその効用が確認され、現在はフランスで実験を重ねているそうだ。

 更に、写真はないが松茸の栽培が可能と思われる。マダガスカルの中央部、アンタナナリブより少し南に行った所に赤松が群生している山がある。土地は季節を問わず湿っており、土は赤黒く、辺りはひんやりとしている。松茸の最適温度は摂氏22度から25度だと聞いているが、生育可能温度範囲は摂氏5度から30度とかなり広い。松茸の胞子を散布してみる価値はあると思う。失敗したとしても、夢があっていいではないか。


 金儲けの話とは少々離れるが、マダガスカルの自然の素晴らしさをご紹介したい。パプア・ニューギニアのウッドラークアイランドでは、雨水を溜めて飲料水として使っている。それほど空気が澄んでいることの証明でもある。従って夜空もきれいだった。南十字星に初めて出会ったのはこのウッドラークアイランドだった。


 パプア・ニューギニアのウッドラークアイランドで見た南十字星のイメージ画像。


 マナンジャリー(南東部)からの帰り道、疲れて後部座席でぐっすりと寝込んでいた。「トイレ休憩をしましょう」と起こされた。藪に向かって関東の何とかだった。その時、前方を見て驚いた。上のイメージ画像がその時の私の印象である。南十字星が地面から生えているように見えた。その周辺には大ぶりな星が所狭しとせめぎ合っていた。まるで宝石箱を上から逆さにしてばら撒いたようだった。今までは夜になっても空を見ることはなかった。これほど星が近くに見え、南十字星がこれほど巨大だとは知らなかった。多くの星が集り、十字架の形を作っているのだが、他の星との境目がどのようにして出来るのかは知らない。他の星と輝度が違うのはわかるが、明るいものだけがこのように集まったのは不思議としか云いようがない。三脚を持っていず、フィルムのバカチョンのカメラではとても撮れる状態ではなかった。現在のようなデジタルカメラがあれば皆様に素晴らしい南十字星をお見せ出来たのだが、残念である。
 南緯10度のウッドラークアイランドに対し、マダガスカルのこの位置は南緯22度か23度だ。この差が南十字星の大きさの差である。これはマダガスカルの大きな財産である。だが、彼等には分っていない。ごく当たり前のことだと、別に気にもしていなかった。