TDY、Temporary Duty。アメリカの軍隊用語で出張を意味する。世界の僻地の出張記録!TDYの次は日常の雑感

現役時代の出張記録。人との出会いと感動。TDY編を終え、写真を交えた日常の雑感を綴る。

TDY, Temporary Duty マダガスカル編 5

2013年12月30日 | 旅行
 クアラランプールからの便が2時間も遅れたため、ホテルに仮眠を取りに行くには中途半端な時間になってしまった。エアー・モーリシャスが用意してくれたファーストクラスのラウンジで仮眠をとるしかなかった。
 コーヒーテーブルを挟んで、二つの大きなソファーが向き合って並んでいた。中には四つのソファが向き合っているコーナーもあった。乗客は各自に適当なソファーを決めて仮眠の準備を始めていた。ソファーの上には毛布が一枚ずつ置かれていた。私はソファーが二つ向き合っている一角を占有した。毛布の一枚をかけ、使わないソファーの上に置いてあった毛布を枕にするべく丸めていると、ラウンジの入り口で戸惑っている若い黒人を見かけた。私のような一人客は向かい側のソファーを使っていない。だが、二つとも使われていない場所はなかった。全員が白人であり、東洋人は私一人しか居なかった。アフリカ人は一人もいなかった。それが彼の躊躇している理由だった。「一つ使ってないから、此処へ来いよ」と声をかけた。彼は遠慮したが、私が再度声をかけると嬉しそうにやって来た。大きくはないが、重そうな荷物を肩にかけていた。丸めた毛布をそのまま放り投げてやった。彼は何度も何度も礼を云いながらソファーに腰を掛けた。彼はこれからケニアのナイロビに帰るところだと云った。シンガポールからパソコンの材料をしこたま仕入れ、それをナイロビで高値で売ると云っていた。結構な稼ぎになるようだ。
 若いケニア人は仮眠の場所が確保出来た安堵感からか、やたらと口が軽くなった。「貴方は日本の方ですよね、中国人ではありませんね」と確かめてから次を続けた。「中国人は何でも食べてしまいます。我々がゴミとして捨ててしまうような動物の腸、猿の脳みそ、虫。ゴキブリまで食べてしまうそうですね」。彼は中国人を非常に嫌っているように感じた。だが、同じ東洋人として私は黙っていられなかった。それに腹も立った。「あぁ、確かにお前さんの云う通りだ。中国人はなんでも食っちまうよ。だけど、人間までは食わないよ」と云うと、彼は唖然とした顔をした。そして一泊置くと「あれはセレモニー(儀式)です」とむきになって云った。「セレモニーだろうとなんだろうと、食ったことは食ったんだろ。お前さんも食ったか?」と聞いた。「それはずっと昔のことです。ずっと昔、、、」。そこまで云うと彼は、「明日のために、もう寝かせて下さい」と毛布をかぶってしまった。ちょっと云いすぎたかなと反省したが、云っちまったんだから仕方ないさと、私も寝ることにした。
 
 それから一か月ほどして、あの若いケニア人とまたモーリシャスで会った。「おい、食ったか?」と聞くと、ニコニコしながら「残念ですが、食うチャンスがありませんでした」としれっとした顔をして云った。たくましい奴だった。

 モーリシャスから出る飛行機は全てナイロビ行の表示が出ており、アンタナナリブなど一言も書いていない。アンタナナリブ行の搭乗を促すアナウンスがあったが、初めての時は何処から乗ればいいのかと迷った。前に並んでいた乗客に聞くと、搭乗口は此処でいいと云った。ナイロビ行きじゃないかと云うと、当然のように「そうだ、ナイロビ行だよ。アンタナナリブはその途中で寄るのさ」と答えた。広い空港じゃないからいいようなものだが、成田のような空港でこのような表示をされたら確実に乗り損なってしまうだろう。

 以下に続く写真は、これから何度も行くことになるトマシナへの道中の写真である。


 トマシナ(旧タマタベ)に行く途中。此処で当座の食料と飲み物を購入した。


 街道沿いの店は夫々に賑わいを見せていた。


 ドライブイン。此処へは寄らなかった。運転手君は寄りたいそぶりを見せたが、C社長は口許をしかめた。衛生状態が劣悪のようだった。


 車道を堂々と歩くセブ牛(コブ牛)。ビルマ、インドネシア、タイ、そしてこのマダガスカルでも牛肉が一番安い。牛、豚、鶏肉の順に高くなっていく。日本と逆である。一匹を殺せば、一番肉がとれるのは牛である。だから安いのだそうだ。
 コルベール・ホテルの近くに「プリゾニック」と云うフランス人が経営する高級なスーパーマーケットがある。客はアンタナナリブに住む外国人か裕福なマダガスカル人しかいない。私はそこで半袖シャツ、フランス製のチューブ入りの歯磨きなど必要なものは何でもここで買っていた。私にとっては驚くほどの安値であった。特に驚いたのは牛肉が10キロで300円(脂身の多い所)から600円(脂身の殆どない所、ヒレ肉は此れの一割増しぐらいの価格)ほどであった。100グラムあたり3円から6円と云うことになる。このプリゾニックではきちんとガラス張りの冷蔵庫に入って売られていたが、外の店では紐で結わえて窓から吊るして売っていた。恐らくプリゾニックの何分の一かの値段であろう。
 青山の紀伊国屋の近くでイタリアンレストランをやっていた友人にプリゾニックで売っていた粒の胡椒をお土産にしたことが何度もあった。500グラム入りの袋で100円か200円だったと記憶している。その他に720ml入りのラム酒が500円弱だった。世界で一番いいラム酒を作っていたのがマダガスカルだったと聞いているが、1991年の段階でもそうであったかどうかは不明である。


 10時の小休止に立ち寄った露天の市場。ドリアンと一緒に蛇の「姿焼き」が売られていた。これをどうやって食べるのかC社長に聞いてみたが、「家内なら知っていると思いますが、メリナは蛇を食べません」と云われた。而し、非常に興味のあることだった。


 果物の王様と云われるドリアンを初めて食べたのはタイのバンコクだった。ねっとりとして濃いクリームのような、いやチーズを溶かしたような食感だった。私にドリアンを勧めたタイの友人は、ドリアンを平気で、しかも旨そうに食べる日本人に呆れたような顔をした。私が吐き出すか、匂いで食べるのをよすだろうと想像していたようだった。確かに匂いはきつい。飛行機の中にドリアンを持ち込むのを禁止されているほどだ。マダガスカルのドリアンは、バンコクで食べた物より濃密だった。一度、勇気を出して食べることをお勧めしたい。きっと病み付きになるだろう。


 どこにでもいる悪ガキども。実にかわいらしかった。

 タマタベがトマシナに、タナナリブがアンタナナリブに、また北の都のディエゴスアレスがアンチラナナに地名が変った。ビルマのように明確な理由があって変えたのだろうか。聞いてみたが、全員が肩をすくめて「とにかく変ったんだ」と云うばかりだった。当時の私はそれ以上気にとめなかった。どなたかその辺りの事情に通じている方はお教え頂きたい。

 2013年はこれで終りますが、これ迄のご購読を感謝致します。2014年の1月6日(月)に再びお目にかかれればこの上ない光栄です。

 どうか、良い年をお迎え下さい。

TDY, Temporary Duty マダガスカル編 4

2013年12月23日 | 旅行
 その国に長く滞在する場合は在外日本大使館に届ける義務がある。その殆どは駐在員や長期に滞在する報道関係者の場合で、私のような旅行者として仕事をしているような場合はその範疇に入ることはない。而し、いつどのような事態で長期滞在になるかもしれぬし、年に何回も通っているのであれば、一応大使館に挨拶しておこうと考えた。国会議員が訪ねたようなレセプションはなかったが、一応は歓迎された。それは私が持って行った何冊もの最新の日本の週刊誌と月刊誌のせいだったに違いない。
 何度目かに訪ねた時、マダガスカルにおけるパリサンダーの分布、日本への輸出量を調べて頂けないかとお願いした。一応は承知してくれたが、その後は全く連絡がなかった。調べられなかったのか、私の方で伺うべきだったのかは不明である。大使館は国会議員と大企業のために存在するとの風評がある。大使館や領事館の主な仕事は大した用もないのに日本からやってくる国会議員の送迎と観光案内だと嘆いていた大使館員がいた。
 大使館に勤務している日本人の医師は大使館員のための医師であり、日本からの旅行者が病気になっても診察や治療の医療行為は出来ない。いじわるでしているのではなく、大使館の医師は現地の医師免許を持っていないからである。取引先の社員の一人が病気で長く休んでいると聞いた。私はその社員を連れてマダガスカル大使館の医師を訪ねた。私の会社の社員だと嘘をついて診察をお願いした。その医師は非常に心が優しい。私の嘘を承知で「治療は出来ません。而し、診察はしましょう」と云ってくれた。診察のあと、私が常に所持していた病原微生物の増殖を抑える抗生物質の薬を飲ますように指示された。一、二週間もすれば直るでしょうと医師に云われたが、その社員は一週間もしないうちに元気に出社してきた。お礼を兼ねて報告に伺うと医師は飽きれていた。その患者は今までに一度も抗生物質を使っていなかったので効き目が素晴らしかったのだ。怪我をしたマダガスカル人に、抗生物質の軟膏を塗り、その上に絆創膏を張ると、翌朝にはほぼ直っていた。日本の薬は魔法のようだ云われた。お蔭で、行くたびに薬品を持っていく羽目になった。

 アンタナナリブの業者からパリサンダーを買うことにして、その置き場を見に行った。フリッチが30立米ほどあったが、これでは足りない。その業者(現在も日本との取引をしているので、実名を伏せることをお許し頂きたい。仮にC社と呼ぶ)が懇意にしているトマシナの仲間がパリサンダーのフリッチを持っているので、それを見に行かないかと申し出てきた。アンタナナリブからは北東に300キロほどの所にある(直線では200キロほど)。マダガスカルにある唯一の国際港のトマシナ(旧名はタマタベ)までは比較的道がいいのでドライブも快適である。而し、高速道路を走るわけではないので結構な時間がかかる。それで朝の6時にホテルを出発することになった。

 C社はアンタナナリブの中心街からやや北に車で20分ほど行った所にある。そこはもう郊外の感じで周囲には小川が流れ、田んぼが連なり、とてものどかな場所であった。


 パリサンダーのフリッチ。直径は18センチほどあった。これなら新木場の求める品質を充分に満たしている。最高とは云えないが、初回の買い物としては悪くない。


 アンタナナリブの中心街から少し北に行った所。マダガスカルが「赤い大地」とか「赤い土の島」とか云われるのを納得して頂けると思う。


 マダガスカル人のお墓。恐らくはメリナの由緒ある家族の墓であろう。彼等にとって、墓は我々日本人の想像している以上に重要なものである。死後は確実に生まれた土地に先祖と一緒に葬られる。「別の場所に埋めてしまうぞ!」と云うのがマダガスカル人に対する最大の脅し文句だそうだ。
 マダガスカルには戸籍制度がない。出生届は出生地で行い、それによってIDカードの発行を受ける。従って身元の照会は出生地でしか確認が取れない。この事は出生地を大事にしているのでそのようにしたのではない。単なる制度の不備である。而し、結果的に彼等が如何に出生地を大切にしているかの証になってしまっている。


 墓の写真を撮っていると、近所の悪ガキどもが集まってきて、年かさの子が手真似で写真を撮れと云ってきた。


 上の墓よりさらに北に行った所。客より店番の方が多いようだ。


 これから洗濯をするらしいので後について行ってみた。


 既に洗濯を始めているオバさんたちがいた。目が合うと、手真似でこっちに来いと云っていた。日本人が珍しかったらしい。


 彼女らの物干し場に占領されていた。鉄道はアンタナナリブを起点として南のアンチラベ、北のアンバテュンドラザカ、北東にあるトマシナに通じている。而し、私は一度もマダガスカルの鉄道に乗ったことはなく、走っているところを見たこともなかった。

TDY, Temporary Duty マダガスカル編 3

2013年12月16日 | 旅行
 フレデリック・アンドレアンベロ氏と、色々と話し合った結果、今回は取引をしないことにした。マダガスカル大使は好意で紹介してくれたのだが、彼の扱っている樹種と、我々の希望するパリサンダーとは違いがありすぎた。同じ産地から伐採出来るならともかく、全く違う地域で伐採業者を新たに探し出さなければならなかった。信頼し合える仲であったのに非常に残念であった。
 その翌年、思いがけずフレデリック・アンドレアンベロ氏と東京で再会出来た。パリサンダーでは取引出来なかったが、他のもので必ず仕事をしようと約束した。而し、それが果たせなかったことに今でも心残りである。多くのマダガスカル人と接したが、彼ほど信頼のおける人はいなかったと断言出来る。

 マダガスカルに通ったのは紫檀の代替え品としては非常にいい木目を持っているパリサンダーを買うためである。フランスでは100年も前からパリサンドルの名前で輸入し、高級な家具を作っていた。そしてローズウッド(紫檀)の家具として非常な高値で流通させていた。
 工業生産品であるならその都度現地に行かなくとも商売は成り立つ。而し、木材、特に銘木は一本一本木目も違えば太さも違う。いい木目のものと、そうでないものとでは同じパリサンダーでも雲泥の差がある。その上、同じマダガスカルでも産地によっては心材の色も木目も違う。私は一立米当り幾らと決めて売るので、実際には木目の良し悪しは関係ない。だが、木目の悪いものだけを買ってきたのでは当方の希望する価格を大幅に下廻らなければ新木場では売れない。場合によっては原価割れする危険すらある。新木場の銘木問屋や床柱の製造メーカーでは「化ける」と云う言葉をよく使う。床柱の原材が一本当たり2万円ほどのものを床柱に加工すると20万円にも30万円にも売れることがある。大儲けである。それを「化ける」と云う。末端価格で、パリサンダーの床柱が一本100万円を超すこともあると聞いた。而し、こんな話は私にとっては夢のまた夢である。仮に、どれだけ木目がよく、直径が40センチを超えるようなフリッチ (丸太の白太を多少残して四角にしたもの、杣角〈ソマカク〉とも云う)があったとしても、一立米当り幾らの単価の中に含まれてしまう。そのようなフリッチがどのぐらいの割合で私の荷の中に含まれているかで、私の商品の人気も高まるし、希望の価格も維持出来る。そのために、毎回出荷前に検品を行う。気に入らないものは買わない。この條件でマダガスカルと取引をしていた。

 ご存知とは思うが、貿易の決済についてご説明したい。買手(輸入者)が、売手(輸出者)に、その商品を送れ、そうすれば代金を払うと云えば、売手は実際に送金されるかどうか心配である。だから、代金を先に払え、そうすれば商品を送ると云う。これでは永久に取引きは成立しない。江戸時代の貿易は小判か特産物を持って相手の国に行き、それと引き換えに商品を手に入れていた。現在では、売手と買手の間に銀行が介在する。即ち、銀行が輸入業者(A社)の信用に基いて、或いは担保を取って「A社は貴社がその商品を船積みしたら代金を支払います。これを当行が補償します」という一種の証明書を発行する。これが信用状である。一般にL/C(エル・シー、Letter of Credit)と呼ばれ、通常の貿易で使われる決済方法である。輸出業者はL/Cに添えて船積みが終わった証拠に船会社が発行するB/L(ビー・エル、Bill of Lading、船荷証券の意)と海上保険の証書とを持って取引銀行に行けば、銀行ではその信用状を買取ってくれる。勿論手数料と金利は取られる。買取った銀行は信用状の発行銀行に、その代金を請求する。その段階で輸入業者は銀行に、輸入代金を決済する。この方法はヨーロッパで19世紀の半ばごろから始ったと一般的に云われている。
 どの貿易会社でもやっていることだが、私はL/Cを発行する際に全ての取引條件を記載し、その條件を満たした場合のみ代金を支払う旨の要綱を入れておいた。


 コルベール・ホテルには二つのレストランがある。ビジネスと云っている少し安いレストランとそれよりは高級なラ・タベルナとがある。上の写真のアンドレ―君はビジネス・レストランのウエイターである。朝食は全員がこのレストランで取る。お昼はホテルのバーか外のレストラン。夕食はその日の気分で、この気軽なレストランか、多少ドレスアップしてラ・タベルナに行く。どっちのレストランでも、出されるバンズの味は格別である。ほぼ真ん丸で、外はかりっとしていて中はしっとりしている。フランスパンと云うと腕に抱えるような長いものを連想する方が多いだろうが、コルベール・ホテルでは、この丸いバンズが主流である。フランス人のシェフが焼いていた。


 客の安全のため、不審者は断固ホテル内に入れぬのが彼の使命である。而し、心優しい門衛君は誰でも入れてしまう。従って夜の姫君が昼間でも客室をノックしては御用聞きに励んでいる。だが、ホテル内での盗難や危険な目に会うことは一切なかった。


 洒落た建物の商務省。私がアンタナナリブにいる間は、商事部貿易課のアンセルメ・ジャオリズィキー課長がずっと私の面倒を見てくれていた。「ズマ・マーケットには、絶対にお一人で行かないで下さい。非常に危険です。貴方に何かあったら、非常に困ります」と彼は云っていた。而し、私は彼に黙って何回も一人でズマ・マーケットに行った。私の中学からの友人で、このような場所が好きで、いろいろ買ってくるように頼まれていた。必ず一緒に行こうなと約束していたが、果たせぬまま彼はC型肝炎を患い、ガンへと移行し、ズマ・マーケットではなく鬼籍に行くことになってしまった。その寂しさは今でも癒えていない。


 女王宮のあるアンボマンガ。正面に見えるのははレストラン。アヒルの肉のフライがものすごく旨かったのを覚えているが、値段は忘れてしまった。安かったことは確かである。
 1万円を両替すると22万か23万マダガスカル・フラン(FMg)になる。1991年当時、マダガスカル・フランに0.045をかけると日本円に換算する凡その数字になるので、そのように計算していた。最初の半年ぐらいはそれほど変わらなかったが、そのあとは行くたびに大幅に日本円の価値が上がってしまった。1996年の初めは、1万円が60万FMgぐらいだったのが、4月には65万FMgを越していた。




 上の二枚は女王宮。女王の別荘だと云う人もいるが、私が聞いたのは女王宮であった。城壁の入口には大きな丸い石があり、それを転がして敵の侵入を防いだのだそうだ。


 女王宮の敷地内の建物。宗教的な儀式が行われていた。赤いドレスを着た巫女が右手で持っているのは、血を出すために首を切られたニワトリ。生憎と暗くて映らなかった。


 トランス状態になった巫女。神聖な儀式のようだったので、写真を撮るのを多少は遠慮したが、誰も気にする様子はなかった。


 最初の巫女が引っ込むと、次の巫女が出てきた。これからが本番の儀式が始まるのか、人々は遠慮勝ちに私の方を見て、出て行ってほしいようなそぶりを示した。

TDY, Temporary Duty マダガスカル編 2

2013年12月09日 | 旅行
 日本とマダガスカルとの時差は6時間である。GMT(グリニッジ標準時)でいくと日本が+9時間でマダガスカルが+3時間である。即ち、日本の方が6時間早い。

 このマダガスカルに行くには、成田⇒クアラルンプール⇒モーリシャス⇒アンタナナリブ。自宅を出てからアンタナナリブのコルベール・ホテルに着くまで36時間かかる。実際の飛行時間は17,8時間だが、待ち時間が多い。のちに香港からモーリシャス行の便が就航したが、所要時間はほぼ同じだった。
 アンタナナリブに着いて、真っ先に頭を切り替えなければいけないのは、太陽が北にあるのだとの認識を持たなければならない。赤道直下の国なら、それほど気にする必要はないが、南緯20度ともなるとかなり違う。「えっ、太陽が南にある?アンタ、おかしな国から来たねぇ。じゃ、太陽は西から登って、東に沈むのかい?」。初めてマダガスカルに来た時、空港で働く英語の達者なオバさんに云われた。おかしいのはこの国だろうと云ってやりたいのを我慢した。

 税関を出ると、私の名前を大書したボール紙を持ったフレデリック・アンドレアンベロ夫妻が出迎えてくれた。マダガスカルに向かう前に、在日本マダガスカル大使から製材業をやっているアンドレアンベロ氏の紹介を受けた。彼の父親はマダガスカルの二大新聞社のうちの一社を経営しているメリナの名家である。
 マダガスカルは世界の最貧国の一つだと認識してきたが、出迎えてくれたご夫妻を見ると、非常に豊かそうに見えた。この国も、ビルマ同様に貧富の差の大きいことを感じた。

 メリナ王朝はフランスにいいように操られ、1896年には植民地化が始ってしまった。1960年にフランスから独立し、ラチラカ大統領が就任した。そして、疲弊しきったマダガスカルの経済を立て直すために、敢えて社会主義国家の形態をとった。日本の外務省がこのラチラカ大統領の手腕をかなり評価していると聞いた。ラチラカ大統領の政権は、1993年にザフィ大統領が就任するまで続いた(1997年に再選を果たしたが、以後の任期は短かった)。この間はずっと社会主義国家であったため、同じ社会主義国家の中国とはかなり親密に過ごした。だが、マダガスカルの社会主義は経済を立て直すのが目的であって、思想的にはマルクスの共産主義とは相容れないものがあった。あるマダガスカル外務省の役人が「中国から出張に来た役人たちが国へ帰らないのです。帰りたがらないのです。現在2万人もいます」と私に云った。窮屈な中国から自由な雰囲気で開放的なマダガスカルに来ると、それだけで天国にいるような気になるのだろう。後日述べることになるが、居残ったり、偽造パスポートで密入国した中国人が多く入り込み、1996年4月の段階では5万人を超えた。彼等による犯罪も多発している、と外務省だけではなく警察も頭を抱える状況となった。
 
 ラチラカ大統領は大の日本びいきである。「日本に見習え、日本に追いつけ」。これが大統領の演説の際の枕詞になっているのだそうだ。何かにつけ日本のいい所を宣伝してくれたおかげで、人々も日本人には非常に好意的である。私が地方に行くときは「この日本人に危害を加えず、あらゆる便宜を図るように要請する」とマダガスカル語とフランス語で書かれ、森林大臣が署名したものを持たせてくれた。マダガスカルに来た外国人は、地方のホテルに泊る場合、その支払いはフランスのフランかドイツのマルク、又はアメリカのドルで支払うのが原則である。私の場合は、マダガスカルのフランで払ってもいいよとの一文も添えられてあった。首都のアンタナナリブ以外では、クレジット・カードで支払えるホテルは限られていた。


 フレデリック・アンドレアンベロご夫妻。非常に洗練されており、普通のマダガスカル人とは全く違っていた。口には出さなかったが、お二人ともフランスに、或いは他の国に留学していたのではないだろうか。


 アンドレアンベロ家のメイド。写真を撮っていいかと聞くと、はにかんで下を向いてしまった。それでも、写真を撮られることに強い興味を示し、こちらを向いて控えめに微笑んでくれた。


 フレデリック・アンドレアンベロ氏のご自宅。ご両親もご一緒にお住まいと聞いていたが、お目にかかったことはなかった。前庭も広いが、このお屋敷の裏に広大な敷地があり、そこに大きな製材工場と材木置き場がある。大型トレーラーと材木を整理するための重機が急がしげに動いていた。


 私が定宿にしていたコルベール・ホテルから5分も歩くとやたらと坂道が続く。手前が住宅地の中にある何かの会社。その向こう側にはテニス・コートを持っている個人のお宅。このような場所に住めるのは殆どがメリナ族である。


 やはりメリナ族の住宅地。アメリカの南部や西部の住宅地と違い、隣に他の部族が越してきても全く気にしていない。アメリカのように嫌がらせをしたり、自分が他所へ越して行ったりなど決してしない。おおらかな民族であると私は感じている。




 ホテルから中央の広場に向かうと、右側に何処までも続くかと思えるほどの長い階段がある。階段を降り切ると、左右に広がる道路がある。此処が全て「ズマ・マーケット」である。ズマとは金曜日を指す言葉であり、以前は金曜日にしか開かなかった。最近では連日開かれているが、やはり金曜日が最も盛況である。店は全て露店か白い丸いパラソルである。
 この階段を何度か登ったことがあるが、とにかく長い。まるで登山をしているようである。階段の両側にもある店を覗きながら登るのだが、途中で何回も休む有様だ。階段を登る気がしないときは、遠廻りでもタクシーを捕まえてホテルに帰る。料金はチップを余分に払っても何十円かであった。


 歩道にびっしり並べられた商品。革製品、衣服、食料、野菜に香辛料。此の店ではマダガスカル独特のガラス球を使ったゲームが売られていた。ゲームの名前、ルール、勝ち方等々を教わったがついに身につかなかった。柱の手前にある、丸い板の皿状の上にビー玉が乗っているのが、そのゲームである。此処にあるのはそれほど大きくないが、大きいものは直径が50センチ以上あり、台の板は黒檀やパリサンダー(紫檀の代替え品)を使用してかなり高価である。

TDY, Temporary Duty マダガスカル編 1

2013年12月02日 | 旅行
 今週から南半球にあるマダガスカルに入るが、その背景からご説明したい。ご存知とは思うが、アフリカ大陸の東海岸にあるモザンビークの東側に位置し、モザンビーク海峡の一番狭い所で500キロ、一番離れていても800キロほどのところにある。マダガスカルの更に東にはフランスが領土権を持つレユニオン、インド洋の貴婦人と呼ばれるモーリシャス。北にはシーラカンスの住むコモロ諸島が点在している。セイシェルはマダガスカルの北北東、約1,200キロの洋上にある。 

 国土は凡そ日本の1.6倍で、1.8倍のビルマよりやや小さい。日本ではマダガスカル島と「島」をつけて呼ぶが、日本より大きい国なのである。而し、人口は日本の約一割弱(1990年の統計)と非常に少ない。部族は18あるが、ビルマと違って部族間の争いはない。せいぜい選挙で闘うぐらいである。昔は異部族との婚姻は不幸を呼ぶとの迷信があったと聞くが、最近では異部族同士の婚姻はそれほど珍しいことではなくなった。現に、私がマダガスカルに通い続けていたときにずっと手助けをしてくれたアンセルメ・ジャオリズィキー氏(商務省の課長、のちにアメリカ大使館の職員)はアフリカ系のサカラバ族であるが、奥さんはメリナ族である。マダガスカルで一番多い部族はメリナ族で、約330万人である。メリナ族は1,500年ぐらい前にポリネシア(主にインドネシアやマレー半島)から渡ってきた民族である。メリナとは「ストレート・ヘアー」、即ちまっすぐな髪の毛の意味だそうだ。次に多いのは、アフリカ系のベツミサラカ族(一致団結の意がある)で約200万人。アンセルメ・ジャオリズィキー氏の所属するサカラバ族は南西の海岸地帯を本拠にし、人口は約75万人である。メリナは首都のアンタナリブを本拠地にし、ベツミサラカは東北の海岸地帯を中心に居住している。昔は各部族がきちんと棲み分けをしていたが、現在は居住地にそれほど拘っていないようである。而し、死後は確実に先祖の土地に葬られることを願望している。
 
 首都のアンタナリブは標高1,200メートルほどで、夏でも平均で摂氏22度か23度である。私はホテルのエアコンを暖房の目的以外に使ったことはなかった。湿度は低く、非常に住みやすい。此処がアフリカかと思えるほどだ。首都のアンタナナリブから車で40分か50分も南に下ると、アンバトランビ村(アンチラベの少し手前)と云う冬場には氷が張る地域がある。夏(10月中旬から4月)でもその村を通過するときはひんやりとしている。住居の周囲には暖房用のマキがうず 高く積まれていた。だが、東西南北の海岸地帯はアフリカの名に恥じない暑さである。特に、北西部にあるマジュンガなどは冬(5月から10月初め)でも40度を何度も超える。低地の海岸地帯はマジュンガほどではないにしろ、とにかく暑い。だから人々はアンタナナリブに住みたがる。それで、アンタナナリブの人口は年々増えているそうだ。ホテルから見ると、かなり高い丘の上に住宅がびっしり建っている。後から来たから仕方なくあんな高い所に建てたと勝手に思い込んでいたが、そうではなく、彼らは1メートルでも高いところが好きらしい。従って、アンタナナリブの低い所に住んでいる人たちは後から移住してきた人たちである。云われてみると、ホテルのはるか下の方にあるアパートにメリナ族をそれほど多く見かけることはなかった。
 
 公用語はマダガスカル語とフラン語である。英語はホテル内と取引相手、銀行、郵便局、それに官公庁の一部の人にしか通用しない。第二外国語としてフランス語をニ年間学んだが、覚えているのは「ジュ・テイム」(愛してるよ)とそれ以外は数語だけである。でも、何とかなるだろう、手真似も足真似もあるさと考えてマダガスカルにやって来た。


 シャンドラニ・ホテル。モーリシャスの高級ホテルの中でも上位に入る高級ホテル。マレーシアのクアラランプールから夜中に着いて、マダガスカルのアンタナナリブ行の飛行機が出るのはモーリシャス時間(日本時間から5時間引く)で午前の11時だ。それまでホテルで仮眠しなければならない。素晴らしい朝食が用意されているのだが、ゆっくり味わうゆとりはない。遅くとも9時半にはホテルを出なければならない。アメリカみたいにデイユース(日帰り使用)の制度がないので、一泊分の料金を請求される。シングルで3万円ぐらい払った記憶がある。現在のこのホテルの価格は一泊6万円もする。このホテルを二度ほど利用したことがあるが、それ以外はもっと安いホテルか、到着時間によっては航空会社のエアー・モーリシャスが用意してくれるファーストクラス専用のラウンジで仮眠を取った。




 11時40分にアンタナナリブ空港(上の写真二枚)に着く。モーリシャスとは丁度1時間の時差があるので、飛行時間は1時間40分である。ビルマと同じように、入国の際に所持金の申請を義務付けられているが、闇のマダガスカル・フラン(FMg)があるわけではないので、出国の際に金額が合わないことはなかった。顔なじみになってからは、財布を見せて「あるよ」と云えば、それ以上追及されることはなかった。


 初めてマダガスカルに行ったのは1991年の10月の下旬だった。首都のアンタナナリブ市街がジャカランダで紫に染まっていた。日本で云うなら桜の咲く春であった。


 アヌシィ湖(Lac Anosy、日本の地図には「アノジー」と書いてあるが、アヌシィが正しい)。名前は湖だが、池と云ったほうが良さそうな大きさである。アンタナナリブの西側にあり、近くには大きなサッカー場がある。この湖の北側の小高い所に旧大統領府、銀行、官公庁、ホテル、商業地、及び日本大使館がある。そして、それらを囲むように住宅地がある。


 南米(主にブラジルとアルゼンチン)では、ジャカランダを銘木の一種として扱い、世界各地に輸出して重要な収入源としている。而し、マダガスカルでは桜と同じように、国民に愛される鑑賞用の木とされている。「気に入ったジャカランダがあれば、夜中に切ってきます」と冗談に云ってくれたマダガスカル人がいた。


 晴れた日はブルーの空とジャカランダの花が水面に映り、アンデルセンの世界を見るようだった。


 アンタナナリブもこの辺り(中心街近く)はやたらと坂道が多い。アヌシィ湖から中心街へ行く坂道。この坂を上りきって左に行くと、中心街の中心地に着く。


 元の大統領府。マダガスカルの経済を立て直したラチラカ大統領がつい最近まで住んでいたと聞いている。


 マダガスカル最大の銀行。通称BFV銀行。マダガスカル・フラン(FMg)への両替はこの銀行のお世話になっていた。また、当座預金の口座も開設した。


 アンタナナリブの中心地。正面が元大統領府である。両側のビルにはスーツ姿の人たちが出入りしていたので、恐らく政府か大企業が使っているのだろう。私の定宿にしていたコルベール・ホテルは手前の道を左に行けば、すぐの処にある。また、日本大使館は右に行き、坂道を下って左に行けば、右側に大きな日の丸を掲げた大使館がある。




 王宮へ向かう坂道から望んだアンタナナリブ市街。高いところほど高級な住宅が建っているのがお分かりだろうか。どうしたわけか、高いところが好きのようだ。


 昔の王様が住んでいた王宮。理由は聞きそびれてしまったが、女王宮は20キロも離れたところにある。王様の寝室には日本の天皇家から送られたと云う壁紙が使われていた。残念なことに、この王宮は頭の狂った男に火をつけられて全焼してしまった。高い丘の上に建っていたので、アンタナナリブのどこからでも見えた。コルベール・ホテルからこの王宮までは結構な坂道を30分近くかけて登ったように覚えている。地方からアンタナナリブに戻ってくると、真っ先に目につくのがこの王宮の屋根だった。


 チンバザザ動物園。マダガスカルの固有種である進化の遅れた猿の群れを見ているのだが、日本の動物園とは違い、彼等は座ってただじっと猿の群れを見ていた。動こうともしなかった。
 Tsimbazaza Zooと表記されているため、日本の地図や旅行案内には「トサインバザザ動物園」と書かれているが、これは間違いである。チㇺバザザ動物園である。
 
 また、首都のアンタナナリブはAntananarivoと書かれている。マダガスカル人はアンタナナリブと云っていたので、最後のvoをveと書くのが正しいと思っていたら、voが正しいと外務省の役人に云われた。マダガスカルには独自の文字がないため、ローマ字表記を取っているが、彼ら独特の発音がある。水を意味する「ラヌ」はranoと書く。従って、前述のLac Anosyをアヌシィと発音するのである。因みにlacとは、ご存じとは思うがフランス語で湖を意味する。マダガスカル語は18ある部族の全ての言葉が混ざっている。それで足りない言葉はフランス語で補っている。