TDY、Temporary Duty。アメリカの軍隊用語で出張を意味する。世界の僻地の出張記録!TDYの次は日常の雑感

現役時代の出張記録。人との出会いと感動。TDY編を終え、写真を交えた日常の雑感を綴る。

折々の写真&雑感 459

2023年11月26日 | エッセイ
 神代植物公園での撮影が終り、魔法瓶のコーヒーをテーブルのあるベンチで飲むために椅子に全ての荷物を下ろした。すると、前の方のベンチに白人のお嬢さんが座り、ベンチを埋め尽くすほどの、大きなお揃いのバッグの見張り番をしている様子に気が付いた。その左側では中国人とみられるご婦人のカメラマンが男女のアシスタントを使い、モデルの撮影をしていた。カメラマンがモデルに出す指示を聞いていると、内容はわからないが、かなり厳しい口調で注文を付けていた。私にも撮らして貰えないかと頼もうとしたが、そのモデルは私の好みの顔ではなかったので止した。それに、そのモデルは長丁場の撮影のためか、うんざりしているような顔を私に向けていた。尚更に撮る気がしなくなった。

 やっとのことで撮影が終り。その場所から他の場所に移動を始めていた。見ると、荷物の番人の白人のお嬢さんは、その撮影スタッフの一員だったようだ。モデルとカメラマンは手ぶらだったが、ベンチに積まれていた荷物は他の全員で担いでいった。なかでも白人のお嬢さんは一番多くの荷物を持たされていた。

 時代が変ったことをつくづく感じた。一人の白人が大勢の中国人をこき使っていた時代は遠いものになり、今では多くの中国人が一人の白人をこき使っている印象を受けた。そのようなことを考えていると飲んでいるコーヒーがウーロン茶の鉄観音を飲んでいるようにも感じられた。

 神代植物公園内でモデルを使っての職業的な撮影は許可が必要なのだが、彼らが正式に許可をとっているとは考えられなかった。大きな三脚や大型のレフ版を持って入れば入口で止められるが、撮影は手持ちのカメラで行われていたので、入口の係員は見逃してしまったのであろう。

 神代植物公園に撮影に行ったのは11月8日だったが、是非とも撮りたい花はなかった。バラは最盛期を過ぎていたように感じられた。例年なら、この時期になるとモミジが多少は色づいてくるのだが、その期待も裏切られた。その場から戻って温室に行けばよかったであろうが、空腹には勝てなかった。満足のいく撮影は出来なかったが、いつもの店で美味しい深大寺蕎麦を食べられたのは良かった。

 以下はその時の写真である。次回は完全に紅葉が始っているであろう今週の火曜日に、写真仲間と神代植物園に行く約束になっている。
















折々の写真&雑感 458

2023年11月19日 | エッセイ
 南米や北米、それにヨーロッパ、アジア、中近東等々から大勢の観光客が日本に訪れている。そして、その殆どの人が「日本は安全に過ごせるから」と嬉しいことを云ってくれている。

 私は現役のころ、出張先で「安全に過ごせるから」ではなく、「安全に過ごす」ことを心掛けていた。一番簡単なことは、人相が悪い現地の人と目が合ってしまった時は無理にでも笑顔を作り,「今日は!」とその国の言葉で声をかける。このようにされれば悪い気はしないだろう。これで難癖をつけられたり追剥にあったりしたことはなかった。タイのバンコクは比較的安全だからと、大勢の日本人が観光で行っている。だが、決して日本ほど安全ではない。アジアの中では非常に人の良い、親切なタイ人であるから他のアジアの国々より安全であることは確かである。タイ以外の国が危険であると云うわけではない。例外はあるが、仏教が盛んな国ほど人々は大人しく信頼がおける。

 仏教が盛んでパゴタを多く建て、仏を非常に敬っているビルマ(現ミャンマー)にも凶悪な犯罪者はいる。北の都のマンダレーから以前の首都であったラングーン(現ヤンゴン)に列車で戻ってくるとき、窓に肘をかけていた。その時に同じ車両にいた親切なお嬢さんから「駅に停まっている間は、列車がホームから完全に離れるまでは腕を窓から出していると危険です。時計欲しさに腕を切り落とされることがあります」と云われた。それまでは熱心にパゴタに向かって手を合わせている大人しいビルマ人がそれほど凶悪な犯罪を起こすなど考えてもいなかった。

 マダガスカルでも同じ注意を受けたことがある。商務省の課長であるアンセルメ・ジャオリジキィー氏は私のことを余程頼りないと考えていたのか、上から命令されていたのかは知らぬが私が一人でホテルから外出するときは必ずついてきた。特にズマ・マーケットには絶対に一人では行かないでくれ。行くときに必ず自分に連絡して下さいと懇願されるように何回も云われていた。時計欲しさに腕を切り落としてしまう人間がいると脅されていた。だが、ズマ・マーケットに何回も通ってみるうちに、そのような人間が到底いるようには思えなかった。それに私の時計は百円ショップでも買えるような安物だった。柱時計のように二針の表示とデジタルの表示があり、それぞれ別の時刻が設定出来た。安いが非常に便利で正確であった。

 仕事がなく、取引先からも誘われないような日はホテルでのんびりと過ごしたい。また、外出はアンセルメ抜きで自由にしたい。ある日、一人でズマ・マーケットに行ったことがアンセルメにバレてしまったことがあった。ものすごく文句を云われたが、行ってしまったことは元に戻せない。フロントの誰かが私の行動をアンセルメに善意で連絡したのだろう。ズマ・マーケットは本来、「ズマ」( Zoma、マダガスカル語で金曜日の意。発音はゾマではなく、ズマである)の名の通り、金曜日だけに開かれる青空マーケットであるが、それがいつの間にか連日休みなく開かれるようになった。而し、金曜日が一番賑う。他の日より、露天の出店者も客の人数も違う。

 久しぶりに団地の花壇の花の写真を撮りに行ったが、花も猛暑の影響を受けたのか、今年の暑さ続きで彼女らも季節感を狂わされたのか多くの花に例年ほどの瑞々しさはなかったように思えた。ファインダーで確認して、良さそうなものだけを撮った。













折々の写真&雑感 457

2023年11月12日 | エッセイ
 10月の31日に上野動物園に写真を撮りに行った。上野駅の公園口を出るとものすごい人、人、人だった。動物園にこれだけの人が入るとなると、ゆっくり写真を撮れないなと心配になった。だが、途中で国立西洋美術館に大勢の人が入り、また東京都美術館に入る人たちが右にそれて行った。かなりの人が減った感じだったが、それでも動物園に入る人は普段の日より多かった。入口で年間パスを提示すると「いつもありがとうございます」と係りのお嬢さんが笑顔を向けてくれた。「今日は月末なのに、こんな大勢の人が上野に来ていいのかな?」と云うと、そのお嬢さんは「今日はハロウィンですから」と返してきた。

 ハロウィンの語源やその意味を皆様はよくご存じと思うのでそれは省くが、現在のハロウィンは、私の知っている限り多くの国では昔どおりの子供のお祭りだけになっている。子供たちが何人かのグループを作り、近所の家々を廻っては「お菓子か、いたずらか」と云ってはキャンディを貰う行事で実に楽しそうだ。

 それが日本では、渋谷区の区長が「ハロウィン目的で渋谷に来ないで下さい」と云っているように非常に迷惑なお祭りになっている。世界の風習や習慣を誤解しているのか、わざとか、その国とは全く違う方法が我が国に根付いているようだ。その最たるものがクリスマスで、商売に利用することは別としても、多くの人がそれを祝うこと自体がおかしいと思わないだろうか。殆どの日本人は、日常の生活とは別に、お盆には迎え火を焚き、大晦日にはお寺の鐘の音を聞き、新年には神社にお参りに行く。キリストさんとは全く関係がないのに、その生誕には大騒ぎをする。楽しむのは大いに結構だが、騒ぎはほどほどに願いたい。

 日本人は包容力があり、全ての国の風俗や習慣を取り入れることを私は大賛成である。だが、それによって事件を起こしたり、無関係の人たちに迷惑をかけるのだけは止して頂きたい。

 以下は10月31日に上野動物園に行った時の写真である。朝は少々寒かったが日中は半袖でもいいような陽気になった。


 上野にやって来たときはほんの子供だったブランがこれほど大きく、たくましくなっていたのには驚いた。


 餌箱の構造を調べているのか、木の材質を調べているのか、熱心に考え込んでいた。


 仲の良い仲間と楽しそうに会話をしながら食事をしていた。


 こんなかわいい顔をしているツキノワグマなのに、人間を襲うなどとは考えられない。


 母象は片時も離れず子象を気遣っている。全く面倒を見ようとしない一部の母親に見せてやりたい。


 父象が母象に代って、夜中には子象の面倒を見ているのか?勤務時間中であるのに相当にお疲れのようだ。寝ていたのだが、大勢の園児たちの「起きろ!」の大合唱で仕方なく目を開けた。

折々の写真&雑感 456

2023年11月05日 | エッセイ
 私は神や仏を信じてはいないが、神社や寺院の撮影に訪れた際は賽銭箱にいくばくかの金銭を投じ、これから写真を撮らせて頂く許可を乞いながら手を合わせる。無信心者の私がそのようなことをするのは奇異に感じる方も多いと思うが、何か清々しい気分になる。可笑しなものだ。

 クリスチャンが教会で熱心にお祈りをしている姿より、お百度参りをしている人を見る方が、何かご利益があるように思える。この不思議な感覚は生まれ育った環境によるものだろうか?

 現役のころに繰り返していた海外への出張では、キリスト教が盛んな国に入る際は入管で「仏教徒」だと申告し、タイやビルマ(ミャンマー)のような仏教の盛んな国では「クリスチャン」だと申告していた。ずるいやり方だと云われればその通りだが、この方が無駄な摩擦を引き起こさないで済んでいた。アメリカで熱心なキリスト教信者に次のように云われたことがあった。「神を信じないような人間を、私は到底信用出来ない」と。日本と違い、無神論者は非常に非難される。そのようなわけで、入国の際にそのように申告しておくのだ。この方が私が無神論者であることがバレないし仕事も旨くいく。

 非常にいい加減なやり方だと承知してはいるが、永年の貿易業で培ってきた処世術の一つとご理解して頂きたい。要はつまらない事、信者にとっては非常に重要なことであることは承知しているが、私にとっては些細なことである。そんなことで波風を立てたくなかったのである。私は考えている「宗教とは死に対する恐怖から生まれたものである」と。もし、その恐怖が薄ければ神や仏を信じる気持ちは自然と弱まるような気がしてならない。

 ビルマ(ミャンマー)の元の首都であったラングーン(現ヤンゴン)の最大のパゴダには仏教が伝来した歴史の模型を作って紙芝居風に解説しているスペースがあった。そして時たま僧が集まった信者に説明している。全てビルマ語であったので全く理解出来なかったが、連れの取引先の社長が所々を説明してくれた。キリスト教の伝来と全く同じであることに気が付いた。アラーの神様も同じような成り立ちだと書物で読んだことがある。

 聖書に「隣人を愛せ」とあるのに、クリスチャンは本気で隣人を愛しているのか?隣人に親切をしているのはキリスト教とは別の、個人々の人間性に依るような気がしてならない。その点、仏教や神道とは違うようだ。第一、熱心なクリスチャンはお祈りに忙しく、周囲を見廻すゆとりなどないようだ。

 久しぶりに井の頭公園の水生物園に行った。運悪く、その日は幾つもの幼稚園児が入ってきていた。園に依って教育方針が違うのか、他の客の迷惑も考えずに大声をだしながら走り廻っている園児を野放しにしている幼稚園の付き添いの先生もいれば、他の客の迷惑にならぬようきちんと管理している幼稚園もあった。この段階で、園児の将来が決まるようで不安を覚えた。