TDY、Temporary Duty。アメリカの軍隊用語で出張を意味する。世界の僻地の出張記録!TDYの次は日常の雑感

現役時代の出張記録。人との出会いと感動。TDY編を終え、写真を交えた日常の雑感を綴る。

折々の写真&雑感 10

2015年05月25日 | エッセイ
 またマフィアの話で恐縮であるが、今回はシチリアではなくニューヨークのマフィアについてである。
 
 仕事の要件もそこそこに「保険屋」が席を立って行ってしまった。友人が「済まない。彼はこれから人に会うんだ」と云った。「保険屋」と敢えて名前を伏せるが、彼は個人で保険の代理店を営んでいる。だが、それは表の顔で、裏ではありとあらゆる揉め事の解決を生業としている。従って個人の保険代理業としては異常なほど「表」の営業成績がいいらしい。「裏」での人とのつながりが如何に多いかである。
 友人は続けた。「今、ニューヨークの空港で美術品の盗難事件が多発しているんだ。それも日本から輸出された美術品の被害が群を抜いて多い」。美術品を輸出している画商や保険会社が悲鳴を上げているとの事だ。輸出業者まで悲鳴を上げるのは、恐らく正当な価格での輸出ではなく、関税を下げるために常識外の価格で輸出書類を作成していたのであろう。当然のこと、インボイス(TDYマダガスカル編の15をご参照願いたい)に示された価格以上の保険金は支払われない。

 「保険屋」がこれから会いに行く相手は来日中のニューヨークのマフィアである。「今後一切、自分が関与している日本からの美術品に手を付けるな」とニューヨークのマフィアに話をつけるためだと友人は説明してくれた。後日、その「保険屋」に会った際、「話はついた」と一言云われた。経緯は途中までしか話してくれなかったが、日本から輸出される貨物にある特殊なマークをつけるのだそうだ。ニューヨークの空港でそのマークの付いた荷物は決して紛失したり壊れたりしないそうだ。此の話し合いの後、被害は一切なくなったそうだ。この話を聞いても、私は信じられなかった。
 
 当時日本最大手の航空会社の国際貨物課に勤務していた友人にこの話をし、「そんなことあるのか。この話は本当か」と聞いた。彼は「まぁな」とあいまいな返事をした。さらに問い詰めると「実際にあることだ」と渋々認めた。「どんなマークだ?誰がそのマークを付けるんだ?」と聞いたが、頑として云わなかった。世界中のマフィアは勿論のこと、税関吏や空港職員もその「マーク」の付いた荷物には絶対に余計な手を付けないのだそうだ。どのようなマークかを知ったら、私のスーツ―ケースにも常時そのマークを付けておきたかった。そうすれば、待たされることなく、私の荷物が真っ先に出てくるような気がする。

 以下は引退してから家内を連れてスペインに行った時の写真である。私は出張でかなり多くの国へ何度も行っていたが、特別な場合を除いて仕事で家内を連れて行く事は決してなかった。あまりにも日本人的な考え方だと云われるかもしれないが、当時の私はそれほど仕事にのめり込んでいた。従って、家内は、娘が住んでいる香港を除いては、外国への旅行はほんの四、五回しかなかった。


 バルセロナの裏道。


 泊ったホテルで行われていたバレンシアの火祭りの前夜祭。


 ロバに鞭打って突進するドン・キホーテを彷彿とさせる。ラ・マンチャの風車群。


 グラナダの街角。南国を思わせる風情だった。


 「白い街」ミハスの入口。


 坂の多いミハスでは、配達サービスが当たり前に行われている。

折々の写真&雑感 9

2015年05月18日 | エッセイ
 撮影して印画紙に焼き付けるまでが写真を撮った者の務めであると、私は考えている。白黒(モノクロ)写真が全盛のころ、自宅に暗室を持っていた。最初は押し入れ、風呂場、そして自宅を新築したのを機に念願の「常設の暗室」を作った。暗室の仕事は、最初の頃は失敗の連続で、フィルムの現像だけはDPE店に持って行くこともあった。それが、火事の撮影で知り合ったDPE店の若い店主と仲良くなってからは、彼の暗室作業の手伝いを條件に、彼の技術を教えて貰った。最初は色揚げからだった。色揚げと云ってもカラー写真ではない。白黒写真である。店主が伸ばし機で露光をし、それを現像液に浸して、適当な濃度とコントラスになるのを待ってバットから引き揚げるのである。自分で判断して引き上げようとすると、店主は横目で私の作業を監督しながら、「まだ早い。もっと押せ」とか、「その子供の写真をすぐ引き揚げろ」とかを早口で命令された。彼は赤坂のDPE店で修業をし、毎日12時間も暗室に入っていたそうだ。その技術の何分の一かを教えて頂いた。暗室に赤色灯を、一灯ではなく二灯付けることも教わった。ときにはフィルムをポケットに入りきらぬほど渡され、結婚式や祝い事の式場に助手として連れて行かれた。「可能な限り沢山撮れ」と云ったのが彼の唯一の注意事項だった。私は28mmの広角レンズをつけて撮りまくった。此のレンズは距離を5メートルに合わせ、絞りをf8にしておくと、手前2,3mからほぼ無限遠にまでピントが合う。当時のレンズは今のようにピントが自動で合うのではないので、シャッターを押す前にピントを合わせる必要があった。だが、此のレンズを使うと、レンズの特性である「焦点深度」を利用して、一々ピントを合わせる必要がなかった。広角なので、被写体に出来る限り近づき、歪みがないように角度を調節するのを心がければよいだけだった。

 白黒写真が徐々に影を潜め、カラー時代に入った。私もカラーの現像と焼き付けの技術習得の準備を始めた。而し、問題があった。引伸ばし機はカラー対応だったので、買い替える必要がなかったが、バット(現像液や定着液のプラスティック容器)を買い替える必要があった。白黒写真の場合は液を凡そ20度にしておけばよかったが、カラー写真では厳密に20度でなければいけなかった。一定に20度を保つ「電子バット」が一つ10万円もした。それが最低で5つ必要だった。当時の私の給料は手取りで10万円がやっとだった。分割で購入するにも、家と車のローンでそのようなゆとりはなく、家内のご賛同は到底頂ける状態ではなかった。強行すれば、私は養子ではないが、追い出される危険さえあった。
 断念し、撮ったカラーフィルムをDPE店に持ち込んだ。出来上がった写真はどれも不満足であった。海に向かって砂浜に座っている人物を後ろから撮れば、当然背中は黒くつぶれる。だが、私は海を綺麗に撮りたかったので、黒くつぶれるのは想定内であった。出来上がった写真は背中がよく見えるように明るく仕上がり、砂浜と海は白く飛んでしまっていた。私の趣旨を説明し、再度の焼付けに出したが、結果は同じだった。この様なことが何度も続いたので、写真に対する情熱を徐々に失った。唯、子供たちの成長の記録を撮るだけになってしまった。だが、今はデジタルの時代である。パソコンが私の暗室となった。


 鎌倉の長谷


 豪徳寺




 上の二枚は高円寺の南口のお寺。


 阿佐ヶ谷のお寺。


 杉並の妙法寺。特別に中に入れて頂いて撮った。

 ぬくもりを感じる木造建築物を撮りたいと、寺や神社に行くが、最近は鉄筋コンクリートの上に建築物が乗っている。建物を大切に保全するには経費の点からも、土台を鉄筋コンクリートにするのが最適であろう。だが、それでは風情が感じられない。従って、寺に行っても上にあるような写真になってしまう。


折々の写真&雑感 8

2015年05月11日 | エッセイ
 友人は警官に向って「死ぬのは俺で、アンタじゃない」と云った。もうかなり前の話である。車のシートベルトが罰則付きで義務化されたのは1985年の9月からだった。それまでは「努力義務」と云うあいまいな規則であった。要するに、車にシートベルトが具えられていても、必ずしも着用しなくても仕方がないと云うほどの交通法規だった。当時はシートベルトをするのを誰もが嫌がった。私などは、高速道路の入口ではシートベルトをしたが、交通警官の目が届かなくなると直ぐに外していた。友人は私以上にシートベルトが嫌いのようだった。一般道で警官に掴まり、シートベルトの件をくどくど云われたらしい。それで文頭の言葉が出てしまったのだ。「それでどうした?」と私が聞くと、彼は「呆れて行っちまった」と澄ました顔で云っていた。出張で行ったアメリカで、取引先の社長に此の話をしたら、最初は飽きれ、それから大声で笑い出した。「そんなことをアメリカで云ったら逮捕される」。だが、この話のお蔭で商売は旨くいった。
 
 このユニークな友人は4年ほど前に鬼籍に行ってしまった。今でも彼の夢を見ることがある。中学以来、色々なことがあった。特に、共通の趣味であった写真を通しての繋がりは深かった。だが彼は機械に弱く、デジタルの時代になってもフィルムのカメラを放さなかった。彼にパソコンを教えたことがあった。ワードで文章を書き終わると、「これをどうやって取っておくんだ?」と聞かれた。保存の方法を教え、「好きな名前を書けばいいんだ」と云うと、彼はファイル名の欄に「好きな名前」と書き込んだ。私は呆れかえり何も云えなかったが、奥さんが傍で見ていて腹をよじって笑っていた。素直と云えば素直だ。私の云う通りにファイル名を付けたのだから。それでも、私の説明が足りなかったのかと反省し、当時小学校3年だった孫娘に、同じ説明をして保存させた。彼女はきちんとファイル名を「00子の手紙」と書いた。
 
 その友人の奥さん(我々より20才以上も若い)から「形見分けをしたいのでご足労願えないか」との電話を受けた。形見の品を頂いた後で、パソコンによる銀行取引の方法を教えて欲しいと云われた。銀行とのパソコンでの取引契約後の残高照会、振替え、振込みの方法を説明した。此処までは完全に理解してくれたようだった。だが、「じゃ、引き出すときはどうするんですか?」と真面目な顔で聞かれた。パソコンから現金が出てきたら、こんな素晴らしいことはない。夫婦は似るものらしい。

 似ると云えが飼い犬のラブラドールも決して引けをとらない。友人と私が玄関を開けると、友人にではなく、私に先に飛びつき歓迎の意を表する。「お前、誰からエサを貰っている!」と叱られても、前足で私をしっかり捕まえて離さない。それに飽きてから友人に軽く尾を振る。これで一応の義理を果たしたことになるのであろう。

 羽田空港に飛行機を撮りに、写真仲間と相談して行った。成田空港の方が離発着が多く、いいシャッターチャンスが多い筈である。だが、人が多く、お勧めの場所には人があふれかえっている。のんびり楽しく撮るには羽田に限る。国内線だって、国際線だって飛行機は飛行機である。















折々の写真&雑感 7

2015年05月04日 | エッセイ
 モッツァレラ・チーズと聞いて非常な違和感を覚えた。最初はモザレラ・チーズとは違うものだと考えていたが、そのチーズの使用法を聞いていると、同じチーズの事だと知った。私がこのチーズと出会ったのは1960年代であった。その頃の日本でこのチーズは全く知られていなかったし、ピザ・パイも食べられていなかった。
 イタリアではどのように発音するのかと思い、友人のイタリア人に聞いた。彼は「モツァレラ」と発音した。決して「モッツァレラ」とは云わなかった。Mozzarellaのことを、アメリカ人は「モザレラ」と云い、イタリアでは「モツァレラ」と云う。「モッツァレラ」とはどこから来たのか、誰が云いだしたのか。
 
 アメリカ空軍の勤務を終え、本格的に貿易の仕事を始める前に、アメリカ空軍時代の経験を買われ、コンビニエンス・ストアーの本部に籍を置いたことがあった。上司に云われ、京都で開かれているコンビニエンス・ストアーについてのレクチヤーを受けに行った。
 我々に上から目線で話していた講師が「コーペラティブ・チェーン」と云った。何度も同じことを云ったので聞き間違えたわけではなかった。その時はどのようなチェーンなのか、全く理解出来なかった。宿に戻ってからもう一度考えてみた。どうやら「cooperative チェーン」のことを云ったのではないかと結論した。それなら、「コ・オペレイティヴ」或いは「コーポレイティヴ」である。以前はco-operativeと綴っていた。而し、使用頻度が高くなると、間の「-」が取れてしまう。同じように、recycle(再生利用する),rebuild(再建する)等々「-」が取れてしまった単語は数多くある。
 この講師はアメリカに行って(ほんの一週間らしかった)徹底的にコンビニエンス・ストアーのことを勉強し、多くの店を見て廻ったと自慢げに説明した。講師はレクチュアーの中でアメリカのコンビニエンス・ストアーとは全く意味合いの違うものを我々に想像させた。広いアメリカの国土で、遠くのスーパーマーケットに行けなかったり、ほんの当用買いのために利用されるのがアメリカのコンビニエンス・ストアーである。文字通り「便利な店」である。日本ではどの店もコンビニエンス・ストアーである。トンチンカンな講師や他に参加した講師も、コンビニエンス・ストアーとは長時間営業の小型のスーパーマーケットであると勘違いしていた。
 だが、現在の日本のコンビニエンス・ストアーは日本流の独自の進化を遂げてきた。驚きである。言葉も日本流に解釈され、本来の意味とかけ放されたものがある。戸惑うばかりだ。外国語だけではない、「全く」「全然」は否定する場合に使われる副詞である。これを「全くいいです」「全然美味しいです」と使っているタレントが非常に多い。そのように云われると、いいのか悪いのか、美味しいのかまずいのか判断に迷う。タレントは仕方ないとしても、きちんと教育を受けた筈のプロデューサーが見逃しているのはどうしたものか。


 鎌倉の安国論寺


 埼玉のさざえ堂近くの寺


 堀切の多門寺。非常な美人であることに驚いた。


 奈良井宿の裏手にあった馬頭観音


 北鎌倉の円覚寺


 日本民家園

 石仏を撮る上で、私はそれほど拘らないが、馬頭観音だけを撮る人がいる。それ以外の石仏には目もくれない。休みを利用し、或いは仕事をサボってでも全国を巡り歩く。私も馬頭観音に魅了され、出合えばかなりの時間をかけて撮らせて頂く。馬頭観音は確かに魅力がある。そして他の石仏に比べ数も少ない。ご存じとは思うが、馬頭観音は柔和の相と憤怒の相を併せ持つ。非常に興味のある石仏である。また、此の観音像を背中一面に入れ墨をしている人がいる。男だけではない。ご婦人のなかにもいらっしゃる。