TDY、Temporary Duty。アメリカの軍隊用語で出張を意味する。世界の僻地の出張記録!TDYの次は日常の雑感

現役時代の出張記録。人との出会いと感動。TDY編を終え、写真を交えた日常の雑感を綴る。

折々の写真&雑感 32

2015年10月26日 | エッセイ
 確か、7月の下旬だったと思うが、ハワイのオアフ島にある「ホノウリウリ強制収容所」がアメリカの史跡に指定されたとのニュースをテレビで観た記憶がある。その時、此の収容所の事を後世に残そうと、その運動の推進役となったジェーン・クラハラさんと云うかなりお年を召したご婦人が収容所のトイレの跡地を指差して云っていたことが今でも頭から離れない。「ドアーのないトイレ」。監視員が監視をし易いようにするためのものであったらしい。彼女は「プライバシィーがなかった」と仰っていたが、私に云わせれば屈辱以外の何物でもない。こんなことを考え出した奴は戦犯には問われないのだろうか?敗戦国であった日本だけに戦争犯罪人を作ったのでは「喧嘩両成敗」の精神に反する。

 アメリカ空軍に派遣されていた当時、私には多くのハワイの二世や三世の友人がいたが、収容所の事は聞いた事がなかった。ステイツ二世と云われるアメリカ本土で生まれた二世やその両親が強制収容所に入れられていたことは聞いていた。彼等は想い出したくない辛い体験を少し、ほんの少し話してくれたことがあった。だが、ハワイの二世や三世からは収容所はおろか、彼等の両親や祖父母が鞭でひっぱたかれながらパイナップル畑で働かされていた事実も直接聞いたことがなかった。話はそれるが、アメリカの軍隊では手榴弾をその形から「パイナップル」と云い、ハワイの二世や三世の事も「パイナップル」と云う。然も、それは「パイナップル野郎」との蔑称である。親しみを込めた愛称ではない。
 だが、こんなことは聞いたことがある。アメリカ軍を中心とした連合軍がヨーロッパ戦線で不利になると、日系二世を戦争に駆り出した。忠誠を誓わされ、その親族を人質に取られた形でアメリカの陸軍に加わった。そして442部隊に配属された。所謂二世部隊である。彼等は今までの屈辱を晴らすため、同胞のために勇敢に闘った。戦死者は通常の部隊の平均値を遥かに上廻った。戦後、日系人の地位は驚くほどの飛躍を遂げた。

 私の知る限り、ハワイの日系人の出身地は圧倒的に和歌山県と沖縄県が多かった。最初に移住した人が故郷から人を呼び寄せたからであろう。私が最初に知り合ったハワイの二世は、ご夫婦ともご両親は和歌山県出身だとのことだった。二人とも私の両親とそれほど変わらぬ年だったが、かなり流暢な英語を話した。だが発音はハワイ独特のものだった。彼等の仲間もほぼ全員が和歌山県出身で、彼等同士で話している内容は、最初のうちはよく理解出来なかった。だが、慣れると、英語、和歌山の方言、ハワイの言葉であるポリネシア語等々を交えて話していることが分かった。後で聞いた話だが、イタリーの戦場に送られた442部隊が、味方同士の通信にこのような言葉、時には沖縄の方言も交えて話していたので、それを傍受していたドイツ軍には全く意味が通じなかったらしい。
 また、沖縄県出身の人たちは沖縄県出身の日系人同志で仲間を作っていた。私の小学校の同級生に「高城」君がおり、勤めてからは「金城」さんがいた。タカシロ、キンジョウ或いはカナシロと一般に呼ばれているが、沖縄では「城」を「グスク」と云う。殆ど英語を話せないハワイの兵隊と知り合った。「オグスク二等兵」だった。最初、フィリッピン人かと思っていたら、ある朝、日本語で「お早ようございます。お元気ですか?」と云われた。彼の両親は沖縄県出身で、オグスクは小城の事だと紙に漢字で書いてくれた。オオグスクは大城、タカグスクは高城、カナグスクは金城だと、その時に教わった。

 以下は長野県にある「地獄谷野猿公苑」の、いたずら盛りを迎えた子ザルたちの写真である。彼等は一つの群れで、ほぼ同じ時期に生まれている。夫々が遠い血縁関係にあるのかもしれぬが、直接の兄弟姉妹ではない。而し、同じ群れに居ると同じ親から生まれてきたような錯覚を起こす。顔の表情と甲高い声で全てのコミュニケーションが取れているように感じる。













訂正とお詫び

 10月24日夜の池上彰さんの番組を観ていて、先週の私のユネスコに関するブログの内容とかなりの差があることに気づき、再度調べてみた。結果、私の間違いであった。以下に訂正し、お詫び申上げたい。

「ユネスコへの拠出金は日本が第二位で20%弱(約84億円)である」。
 上記は2006年(平成18年)の数字であった。昨年の2014年は10.83%で37億1千800万円(米国が支払いを停止していたので、日本が実質第一位)であったが、他に任意の拠出金があり、総計で54億3千270万円になった。これに対し、中国の分担率は6位の5.14%で日本の約半分であった

「シベリア抑留」
 完全に私の間違いで、2015年10月10日に正式に登録されていた。「政治的に利用すべきでない」と撤回の要請をしたのはロシアであった。この要請に対し、岸田外務大臣は拒否した。

 以上訂正し、重ねてお詫び申上げたい。


折々の写真&雑感 31

2015年10月19日 | エッセイ
 日本が大反対していたにも拘らず、ユネスコは中国の申請していた「南京大虐殺文書」を世界記憶遺産に登録してしまった。日本が申請していた「シベリア抑留」に関する文書は50万人に上る抑留者の過酷な環境下での強制労働、それによる死者(事故死の他に大多数の栄養失調に依る病死)を出しているのに、「ユネスコを政治的に利用するものではない」との理由で却下された。それなら、中国の申請はどうなのだと云いたい。

 サラリーマンになりたての頃、中国への従軍経験のある大先輩に南京事件の事を聞いた事があった。「お前さん、俺たちは一人に銃弾を5発しか渡されていなかったんだ。2万の兵で、どうやれば30万人も殺せるんだ?」と仰った。「日本刀で切ったのでは?」「バカ、日本刀なんて将校しか持っていない。ごぼう剣(小銃の先に刺す銃剣の俗称、野菜のごぼうに似ていたのでそのように云われた)で無抵抗の人間を刺せる程の度胸のある奴は俺の周りには居なかった」。これで話は終り、中国の云っていることは「白髪三千丈」の類であろうと、そのまま忘れていた。

 「南京大虐殺文書」の登録のニュースを耳にし、気になって調べてみた。以下にその一部を記したい。激しい戦闘を勝ち抜いた日本兵が南京に入って行くと、中国の敗残兵が多くの親日派の中国人を殺し、同胞の民家に押し入り、食料と金目のものを強奪し、強姦し、殺人まで犯して逃げて行った。また日本の部隊別の公文書によると、「処断」の項目に交じり「釈放」と「収容」の項目が多く混じっていた。この、「処断」の項目の数字を全て足しても2万に満たなかった。処刑したのは大多数が便衣兵(民間人に偽装して敵対行為をする兵)であるが、軍服を着ていない軍人は国際法違反であり、裁判にかけられて全て処刑されている。

 以前にユネスコ事務局長をしていらした松浦氏によると「南京大虐殺文書」のように政治的な狙いを持ち、日中の意見が並行していても、ユネスコにはそれを公正に吟味するメカニズムがないそうだ。何とか日本が食い止めないと中国ばかりか韓国までが慰安婦の問題を出してくると警告なさっている。彼等は何年も前から陰湿に準備を進めてきたのである。

 日本国内では、ユネスコは国連と同様に公明正大な組織であると認識してきた。だが、実際のユネスコは各国のエゴがぶつかり合う場であると聞いた。日本政府の調査不足と外交の手ぬるさがこのような事態を引き起こしたのであろう。

 シカゴデイリー・ニュースやニューヨーク・タイムスは中国から多額の献金(賄賂?)を受けて「南京大虐殺事件」を報じたことがあったようだ。而し、ニューヨーク・タイムスのティルマン・ダーディン通信員は、「文藝春秋」(1989年10月号)のインタビュー記事に於いて以下のように語った。「(上海から南京へ向かう途中に日本軍が捕虜や民間人を殺害していたことは)それはありませんでした」。とし、「私は当時、虐殺に類することは何も目撃しなかったし、聞いたこともありません」「日本軍は上海周辺など他の戦闘ではその種の虐殺などまるでしていなかった」「上海付近では日本軍の戦いを何度もみたけれども、民間人をやたらに殺すということはなかった。漢口市内では日本軍は中国人を処刑したが、それでも規模はごく小さかった。南京はそれまでの日本軍の行動パターンとは違っていたのです。南京市民にとっても、それはまったく予期せぬ事態でした」と、伝聞等による推定の数として南京では数千の民間人の殺害があったと述べた。また南京の「安全地区」には10万人ほどおり、そこに日本軍が入ってきたが、中国兵が多数まぎれこんで民間人を装っていたことが民間人が殺害された原因であるとしている。またニューヨーク・タイムスは「安全区に侵入した中国便衣兵が乱暴狼藉を働いて日本軍のせいにした」とも報道した。

 ユネスコへの拠出金はアメリカが第一位で22%、日本が第二位で20%弱(約84億円)である。アメリカはパレスチナのユネスコ加盟に反対して拠出金を停止してしまっている。日本が拠出金を停止するとユネスコを恫喝していると云うが、日本の意見も聞かずに一方的に「南京大虐殺文書」を正確に調査もしないで登録してしまうようなところに一円たりとも拠出したくない、と私も思う。何も云わずに支払いを停めてしまえばいいのだ。

 先週に続いてお台場の夜景である。私が撮影地点にしているビルの6階には三脚を立てても全く他の人に迷惑がかからないほどの広さがある。だが、背後からビルの光が強く届くので、シャッターを切っている間にファインダーから光が入らないようにファインダーを覆う必要があった。













 以下の写真は10月12日(月)に撮ったものである。前日の日曜日には28羽もいたカルガモが19羽になっていた。暫く観察していたが、印象として最初からいた一家の9羽がいなくなっていたようだ。母ガモが8羽の子ガモを引き連れて他に移動してしまったのだ。羽を痛めていた子ガモも癒えたので一緒に移動出来たのであろう。カルガモの顔は皆同じ、羽の色も同じ、全く区別のつけようがない。肝っ玉母さんの一家は、統率が取れていた。子ガモ同士で争うこともなく、常に固まっていた。


 この写真でお分かりのように、餌の取り合いで喧嘩になる。肝っ玉母さんの一家は決してこのようにならなかった。今は全く統率がとれていない。それで、あの一家が他の池に飛び立ってしまったのであろうと想像した。写真を撮っていて高揚感がなく、餌を与える楽しもなくなった。


 こいつだけは人間の餌に目もくれず。飽きることなく池の底の水草を食っていた。

折々の写真&雑感 30

2015年10月12日 | エッセイ
 イギリスの写真家のカメラをクロザルが勝手に使い自分を撮った。此の著作権は誰にあるのかで話題になった。カメラは自分のものだから著作権は自分にあるとカメラマンは云い、他の意見はクロザルにあると揉めることになった。

 このことについて、フリー百科事典の[ウィキペディア(Wikipedia)]に詳しいことが載っていたので以下にご紹介したい。
 
 2011年に自然写真家のデイヴィッド・スレイターがクロザルの撮影のためにインドネシアに行った。彼が撮影の準備をしているとメスのクロザルがカメラを奪い、そのカメラで何枚も自分を撮った。写真の殆どは役に立たなかったが、中に非常にいい写真があった。彼はそれらの写真を発表した。スレイターは自分に著作権があると信じていた。
 だが、その写真はパブリック・ドメイン、即ち公有のものだと主張するITニュースサイトが現れた。スレイターの抗議にもかかわらず、写真は画像、音声、動画を保管するウィキメディア・コモンズにもアップロードされた。ご存じのようにこのサイトは著作権の対象とはならないメディア素材のみを受け入れており、スレイターの写真も人ではなく動物による作品だとの理由から彼には著作権がないとされた。スレイターはウィキメディア財団を相手取り、自身が著作権を有する写真である以上はその対価を支払うか、写真をコモンズの掲載から削除するよう求めた。
 アメリカとイギリスにまたがり知的財産権を専門とする法律家のメアリ・ルリアとチャールズ・スワンは、写真の作者は動物であって人間ではないため、撮影の機材が誰の所有物だろうと著作権は発生しない、と述べている。而し、イギリスのメディア法の専門家クリスティーナ・マイクロスは、一連の写真にはカメラを提供した彼に著作権が生じるという議論はあり得る、と語っている。
 2014年12月22日、アメリカの著作権庁は人間以外の動物による作品は著作権の対象とはならないと明言し、その例のなかに「サルが撮影した写真」を挙げた。
 
 決着がついたようなので、少し遅いが、その写真を以下に掲載する。

  
 一枚は嬉しそうに笑っており、もう一枚はお見合い写真のように神妙な顔をしている。 

 以下はお台場の夕景から夜景の写真である。













 10月29日(木)の朝、カルガモの写真を撮りに行った。驚いたことに、池には18羽ものカルガモが泳ぎ廻っていた。どれが元々いた一家なのか、どれが羽を痛めた子ガモなのか全く見分けがつかなかった。だが、母ガモだけは見当がついた。周囲の人の話では、羽を痛めた子ガモはかなり回復し、もうすぐ飛べそうだと云っていた。もともと此の池に居た一家が9羽、他から移動してきたカルガモが9羽。増えた9羽の内訳は、一旦他に移動して戻ってきた一家が5羽、はぐれカルガモが1羽、新しく加わった一家が3羽である。この公園の池は一方が20メートルほどで他の一方が60~70メートルほど。そしてほぼ真ん中がくびれ、橋が架かっている。以前は餌を与えても、それほど急いでやってこなかった。だが、その朝は餌を投げると18羽ものカルガモが一斉に群がってきた。私の餌が無くなると、他の何人かの人がエサを投げ与えていた。池の底に潜るカルガモがいなかったのが心配だ。水草が底をついてしまったのであろうか。この公園の池から700~800メートル北に妙正寺川が流れている。そこにも多くのカルガモがいると聞いた。今年はカルガモだけではなく、10羽以上の緑のインコが住みついている。図鑑で調べたらインドネシア原産の「ワカケホンセイインコ」であることが分かった。


 あの一家の母ガモだけは見分けがついた。他は見分けのつけようがなかった。池一杯に18羽のカルガモが泳ぎ廻っている様を望遠レンズでは撮れない。標準か広角レンズでなければ無理だろう。


 緑のインコ(ワカケホンセイインコ)が木の穴を覗いていた。他のインコが近づくと、ものすごい勢いで追い払い、それでも足りずに追い廻していた。恐らく、この穴の中に卵があるか雛がいるのであろう。

 昨日(10月11日)、雨の合間を見てドッグフードを買い、公園に行ってみた。またカルガモの数が増えていた。何とか数えてみると28羽もいた。餌を投げ与えると、一斉に押し寄せてきた。橋を挟んで東側の池に28羽が集中している。理由は分らない。


折々の写真&雑感 29

2015年10月05日 | エッセイ
 バーリー・フリーマン・バーディックと云う非常に調子のいい名前を持つアメリカの友人がいる。彼と知り合った時、彼はアメリカ空軍の軍曹だった。彼はモンタナの州立大学を出ているので、試験さえ受ければ将校になるチャンスはあったのに、彼は決して受けようとしなかった。軍曹の方が気楽でいいのだそうだ。
 彼の実家はモンタナにあり、父親は小学校の校長だと云っていた。先祖代々引き継いだホテルになるほど大きな屋敷と広大な土地を持っている。そして敷地内には湖まであるので、夏になると何家族もの人たちがキャンプをさせて欲しいとやって来る。その湖の大きさだが、湖の中央に標的を置き、それを自動小銃で撃っても、弾は対岸まで届かないと云っていた。何度も遊びに来るように云われたが、まだ一度も行ったことがない。
 長男が小学校4年の時、「夏休み中は責任を持って引き受けるから、荷札をつけて送ってこい」と云う電話があった。長男に行くかと聞くと、言葉が心配だとしり込みをした。長男より二才半下の双子の妹たちは「私たちは行きたい」と云った。これにはバーリーの方がしり込みした。長男は中学生になって想い出しては、あの時に行くべきだったと残念がっていた。

 沖縄駐留になったとかで、バーリーがひょっこり遊びに来た。私はアメリカ空軍の勤務を辞め、既に貿易の仕事を始めていたが、クリスマス・カードや電話で彼との付き合いは途絶えていなかった。我が家に滞在し、一週間ほどたったころ、沖縄にいる奥さんから電話があった。「何をやっているの!迷惑でしょ!すぐに帰ってきなさい!」とすごい剣幕だった。盗み聞きをしたわけではない。彼女の声が大きかったので、受話器から漏れてきたのだ。彼は慌てて空軍の横田基地に向った。二、三日して彼から電話があった。まだ横田にいると云った。スペース・アベアブルと云う制度で、無料で沖縄までの便に乗れる。但し、席に空きがなければ乗れない。所持金も殆どなくなっているようだった。既に高校生になっていた息子にドルを持たせて横田基地のエアー・ターミナルビルに向かわせた。やっとバーリーを探し出して、ドルを渡して帰ってきた。400CCのオートバイで行ったので、帰って来るまで心配だった。「お前、よく中に入れたな」と云うと、片言の英語と手真似。最後は「エマージェンシー(緊急)」と彼の名前だけを繰り返してバーリーにたどり着いたらしい。所持金は底をつき、今朝からは無料のコーヒーを一杯飲んだだけだったそうだ。確かにエマージェンシーだった。メス・ホール(兵士と下士官に限り、無料で食事が出来る食堂)に行けば食事の心配はなくなるが、いつ飛行機の順番が廻って来るかわからないので、その場所を離れるわけにはいかず、エアー・ターミナルの高い食事を買っていたらしい。このような兵隊さんに日本の安全が守れるのだろうか。それ以来ずっと心配し続けている。

 彼が消防隊に配属されていた時、軍人家族の宿舎に火災が起こった。バーリーは勇敢に火の中に飛び込んだが、しばらくすると出てきた。火事は消えたのかと思ったが、そうではなかった。タバコを吸いに出てきたのだ。この様な兵隊さんに日本の安全が託せるのかと、私が心配している理由をご理解頂けると思う。だが、友人としては大事な友人である。

 以下は、写真仲間と行った横浜の子安運河の写真である。この一帯は、殆どがアナゴ漁を主としている漁師街である。大通りに面したところに美味しいアナゴ丼が食べられる食堂があるが、行ったときはあいにくとアナゴが不漁で食べられなかった。而し、他の料理を注文し、満足のいく昼食となった。













 9月30日(水)の朝、カルガモの様子を見に行った。最初は一羽しか確認出来なかったが、「今朝はうじゃうじゃいますよ!」と顔見知りになったオジさんに云われた。橋を挟んだ反対側の池に行くと、確かに沢山のカルガモがいた。体操や太極拳を終えた人たちの話を総合すると、他の池からやって来た5羽は何処かに飛び去り、今いるのは最初から此の池に居た一家だそうだ。数えてみると10羽いた。母ガモと8羽の子ガモ、それに他の一家からはぐれたカルガモが一羽。他の池に移動していた子ガモたちが、羽を痛めた子ガモを気遣って、全員が此の池に戻って来たのだ。カルガモの絆は強いと噂には聞いていたが、現実を目にし、その家族愛に驚かされた。


 どれが羽を痛めた子ガモか見分けがつかなかったが、母ガモだけは直ぐに見分けられた。此の自信に満ちた顔と泳ぎぶりは他を圧していた。


 小さくて見づらいとは思うが、母ガモを中心に集まった8羽の子ガモたちである。以前のように母ガモに寄り添ってはいなかった、成長した子ガモたちへの、彼女の締め付けが緩やかになったのであろう。