TDY、Temporary Duty。アメリカの軍隊用語で出張を意味する。世界の僻地の出張記録!TDYの次は日常の雑感

現役時代の出張記録。人との出会いと感動。TDY編を終え、写真を交えた日常の雑感を綴る。

折々の写真&雑感 446

2023年08月27日 | エッセイ
 太平洋戦争で戦い、無事に日本に帰還された兵士たちのご年齢は既に100歳を超えているようだ。私の購読している新聞では過酷なビルマ戦線の様子が記事になっていた。

 私が出張で初めてビルマに行ったのは、国名がビルマからミャンマーに変ったばかりの1989年の7月だった。湿度が高く、異常な暑さだったのを記憶している。本来はその前年の5月に行く予定だったが、ラングーン大学(現ヤンゴン大学)の学生たちのデモが暴動になり、治安が極端に悪くなったために出張を控えてくれとの連絡がこれから取引を始める会社からテレックスが来た。非常に大人しい民族であると聞いていたが、あのような激しい暴動を報じているテレビ・ニュースを信じられない思いで観ていた。

 ビルマ人が何故あのような暴動を起こしてしまうのか不思議でならなかったが、あの国に行って多くの人から得た情報で、その全てが判明した。ご存じのようにビルマ(現ミャンマー)は多民族国家であるがその70%がビルマ族である。ビルマ族が主体となっているラングー大学の学生のデモを抑え込もうと、軍がビルマ族以外の民族で構成されている部隊を投入し、彼らが学生たちにやたらと発砲し、何人もの怪我人や死者が出たのをきっかけに学生のデモがラングーン市民を巻き込んだ暴動に変化したらしい。暴動が先で、発砲が後だと云う人もいるが、そのどちらであるか、私には判断出来ない。

 タイのバンコクの飛行場からラングーン行きの便に乗ったのだが、着いた空港の標識は板で出来ており「ヤンゴン空港」となっていた。暑い中を飛行機から空港ビルまで歩かされた。やっと辿り着いた建物には空調の設備がなく、天井から吊るされている時代物の扇風機がゆっくり廻っているだけだった。「ひどい国に来ちまったな」と感じた。

 1989年の国の玄関である空港でもこの状態であったので、他は皆さまに想像して頂きたい。首都を一歩出るとジャングルの続きのような地域である。北にある最大都市のマンダレーに一機しかないプロペラ機で行った。飛行中に下を見ると空港から空港まではほぼ深いジャングルだった。このような場所で戦った敵や味方の兵士たちは、マラリアや多くの未知の細菌とも戦わなければならなかったであろう。

 この最初の年に4回、その後3回ほど続けてミャンマーに行ったが、一度の取引も成功しなかった。「我が敗北の記」と云う本を出版された日本の将軍が、その著書の中で日本兵が敗走する先々に敵兵(イギリス軍)が待ち受けていたと書いていた。信頼していたビルマ人たちが裏切っていたのだ。過去7回のミャンマー出張が失敗した。テレックスで送られてきた情報が全て噓だったのだ。その将軍の本を先に読んでおくべきだったと後悔した。気づくのが遅すぎた。

 掲載したのはコロナに関係なく、自由に写真を撮りに行けた頃の明治神宮の写真である。暑い時期の8月だったせいか、参拝客は極端に少なかった。













折々の写真&雑感 445

2023年08月20日 | エッセイ
 現在の損保ジャパンを構成している安田火災(旧安田銀行系列)の任意保険に長年入っていた。而し、事故を起こしても一銭も出さずに口から出まかせの嘘ばかりをつく安田火災に呆れ、すぐに解約した。テレビニュースで見た現在の損保ジャパンの対応が、その時の対応と全く変っていないように感じた。

 出勤途中で、左の道から飛び出してきた車に横っ腹をぶつけられ、運悪くバスを待っている人の一人にぶつけてしまった。膝を少し打っただけで、大した怪我はしていなかったが、その人は交通事故を理由に保険金目当てで入院してしまった。

 私の車にぶつけた人が全面的に車の修理をし、私が負傷者の保証をすることになった。その段階では安田火災を全面的に信頼していたので、彼らが全てを取り仕切ってくれるものと信じていたが、実際は何もしてくれなかった。だが、被害者からの請求書を送ると、これは不当な請求だ、当方で弁護士を付けるから裁判に持ち込めと云われた。確かに不当な請求であった。その請求書の中には、治療費以外に見舞客に出した店屋物、被害者の奥さんが病院に見舞いを重ねることですり減ったサンダル代まで入っていた。

 安田火災では弁護士を付けるから安心していて欲しいと云いながら、いざ裁判が行われると告げると態度が変った。「そんなことで弁護士はつけられないね。自分で何とかするんですね。裁判に負けたら全ての費用はアンタが自分で払うんだね」と顧客を相手にするような口調ではなかった。そして全く当方の要求に応じなかった。全くひどい保険会社があったものだ。ビッグモーターとの癒着が取りざたされている損保ジャパンの前身だけのことはあると感じながらテレビニュースを観た。当時衆議院議員だった友人にこの件を相談すると、安田火災の悪い評判は色々と聞いている。だから裁判で揉めて来い。そのあとは俺が引き受ける。国会で問題にすると云ってくれた。

 簡易裁判が始った。たった一回の審議で原告側の要求通りの、強制保険で補償されている治療費以外の20数万円の支払いを命じられた。こんなバカなことがあるかと、「裁判長、このような事故のために、高い保険料を払っている。その保険会社が一銭も払わないと云っているのに、なぜ私が全額を支払わなければならないのか?」と質問した。この場に損保ジャパンの前身である安田火災を引っ張り出したかったのである。私の質問に裁判長は左右の判事に相談し、一時休廷すると宣言した。再開後、私が一万円、私の車にぶつけた人が一万円を支払うことでどうかと裁判庁から提案された。友人の云う通り、もっと揉めたかったが、一万円で済むならと裁判長の提案を受け入れ、全てを終了させた。不当な要求をした被害者夫婦は肩を落としただけだった。当てが外れたのだろう。

 現在の損保ジャパンはビッグモーターの不正を知らなかった、見抜けなかったと云い訳をしているが、当時の安田火災の顧客へのやり口を考えると、自社の利益を最優先させている従来の経営方針を全く変えていないように見受けられる。

 何年か前の八月に撮った竹寺(鎌倉の報国寺)の写真である。この写真で少しでも凉を感じて頂ければ幸いである。













折々の写真&雑感 444

2023年08月13日 | エッセイ
 「断る勇気」と云う文章を新聞の声欄で読んだ。同感である。その時に「勇気ある貿易マン」のことを思い出した。私のチケットはツーリスト・クラスだったので、当時の荷物の重量制限は22キロだった。而し、何処の空港でも25キロ程までは何とか黙って通してくれた。その時の荷物(スーツ・ケース)は27キロもあったように思った。出張を何度も繰り返すうちに、手に持った感触でほぼ何キロかの判断がつくようになっていた。

 タイのバンコクの空港でチェック・インをする前に、辺りに日本人がいないかと探すと、おとなしそうな日本人が居た。然も私と同じ貿易屋の匂いがした。綺麗に梱包された銘木のサンプルを相手に見せて「この分が重量オーバーなので、なんとか引き受けて頂けないでしょうか?」と丁寧にお願いしたところ、「断ります」と全く付け入るスキのない調子で拒否された。同じ日本人なのに非人情な奴だと思ったが、超過した重量分は料金を払えばいいと諦めた。だが、幸いなことに追加料金なしで受け入れてくれた。それを通してくれたフロントのお嬢さんは私を見てニヤニヤしていた。私が断固断られたシーンを見ていたのだろうか?

 帰国してから、その話を航空会社に勤めている友人にすると、「当たり前だ。頼んだお前が悪い。その中に麻薬が入っていたらどうする?いいか、お前が逆の立場だったら絶対に断れよ!」と強く云われた。それから何十年もその友人の忠告を守り続けた。

 クアラランプールからモーリシャス経由でマダガスカルに行くべく、ボーディング・パス(搭乗券)をもってゲートを通ろうとしたとき、係員に「これがあなたの新しいボーディング・パスです」と別のパスを渡された。見るとファースト・クラスのものだった。私の乗る予定だったビジネス・クラスが満員で、私が選ばれてファースト・クラスに行かされたのだ。オーバー・ブック(過剰予約)でツーリスト・クラスの客がビジネス・クラスに移され、幸運な私がそこから押し出されてファースト・クラスに行かされたのだ。

 モーリシャスの空港が近づいた時、隣の席のフランス人から「このコニャック(ブランディー)を持って税関を通って頂けないか」と頼まれた。私は友人の忠告を思い出して断った。密閉された新品のコニャックだったが、麻薬が入っていないとは限らない。相手は恨めしそうな顔をしていたが、意思は変えなかった。ファースト・クラスに乗るゆとりのある人間がコニャックの関税をけちるなどとは考えられない。

 この日は朝早く起きて暑くなる前に撮り終えようと、裏の団地の花壇に行った。而し、夏の太陽は容赦なく、私の期待を裏切った。朝の清々しさなど感じる術もなかった。その上、これぞという花は花壇になかった。今の時期は致し方ないとは思うが、やはり残念だった。



 下の二枚の花だけが花壇にあった花だった。











折々の写真&雑感 443

2023年08月06日 | エッセイ
 この原稿を書いている間に沖縄に大きな台風が上陸し、全ての空の便が欠航して殆どの観光客が帰れなくなったニュースを連日テレビ・ニュースで観ていた。

 マダガスカルへの出張を繰り返しているときのことだった。アンタナナリブからモーリシャスに着き、クアラルンプール行きの便に乗るべく、トランジット・カウンターに行くと「サイクロン(この地域では台風をサイクロンと云う)で、全ての便は欠航です。再開の予定は立っていません」と云われた。再開の予定が立ったら、ホテルに連絡を致しますと云われたが、今まで泊ったことのあるホテルは全て満室のために断られた。他のホテルにも電話したが、同じ状態だった。空港の職員に相談すると、海岸に面した高級なホテルは全て満室と思われます。内陸の二流、三流のホテルに行くしかありません。但し、空港からの連絡を受ける装置がないところが殆どですので、お泊りのホテルから空港に定期的に電話を頂くしかありませんと云われた。

 電話帳を調べて良さそうなホテルに電話したが、応対はすべてフランス語だった。泊まりたい旨を英語で伝えると、面倒になったのか電話が一方的に切られてしまった。どのホテルも同じ扱いだった。空港の職員に予約の電話をお願いしたが、忙しいので後にしてくれと相手にしてくれなかった。

 欠航と決ったので、預けたスーツ・ケースは全て引き取るように云われた。空港のアナウンスはフランス語が優先され、付け足しのような英語のアナウンスを聞き逃してしまったのだろうが、スーツ・ケースが手元に残って良かった。そして、学生時代にフランス語をもっと真剣に学んでいたらと悔やんだが、手遅れだった。こうなったら自分で何とかするしかない。税関を抜けるとタクシーの運転手が大勢寄ってきた。その中から人のよさそうな運転手を指名した。「オテル?」(ホテル?)と聞かれたので、「ウィ」(イエス)と答えた。着いたホテルはさびれていたが、ホテルはホテルだと考え、チェックインをした。フロントの話だと、高級ホテルから客が埋まっていったらしい。運転手は気を利かせて英語の通じるホテルに連れて行ってくれたのだ。まぁ、まぁの部屋だったが困ったことに予想はしていたが、空港からのニュースが直接入る設備がなかった。何とかなるだろうと気楽に考え、食事をし、シャワーを浴びた。あとは果報を待って寝るだけだった。

 朝食を済ませ、チェックアウトをすると、料金はシャンドラニ・ホテルの1/3にも満たなかった。呼んで貰ったタクシーで取敢えず空港に行ってみた。空港のロビーには昨夜から動けずにいた旅行客が大勢いた。床にじかに座ったり寝転んだりしている多くの観光客の姿があった。私を見ると、何か食べ物はないかと中年のご婦人に聞かれた。気の毒だったが、食料は持っていなかった。

 いつ運航が再開されるのか全く見当がつかなかった。レ・ユニオンの空港で知り合ったモーリシャス人の名刺にあったアラビア系のラフィック・アリマモッド氏に電話をしてみた。彼は心配してくれ、「私の家に来て下さい」と云ってくれた。タクシーの運転手に直接道順を聞いて貰い、彼のお宅に向った。ウィークデーだったが、個人で仕事をしているので時間は自由になるらしい。とにかく運航が再開するまでラフィック・アリマモッド氏に頼るしかない。彼には私の双子の娘とほぼ同じ年の双子の娘がいることをお互いに知り、遠慮の壁が取れたような気がした。この件については、2014年8月18日付のTDYマダガスカル編の33をご参照願いたい。

 以下の写真は何年か前の8月の昭和記念公園の写真である。連日の暑さで写真を撮りに行けず、古い写真で申し訳なく思っている。