太平洋戦争で戦い、無事に日本に帰還された兵士たちのご年齢は既に100歳を超えているようだ。私の購読している新聞では過酷なビルマ戦線の様子が記事になっていた。
私が出張で初めてビルマに行ったのは、国名がビルマからミャンマーに変ったばかりの1989年の7月だった。湿度が高く、異常な暑さだったのを記憶している。本来はその前年の5月に行く予定だったが、ラングーン大学(現ヤンゴン大学)の学生たちのデモが暴動になり、治安が極端に悪くなったために出張を控えてくれとの連絡がこれから取引を始める会社からテレックスが来た。非常に大人しい民族であると聞いていたが、あのような激しい暴動を報じているテレビ・ニュースを信じられない思いで観ていた。
ビルマ人が何故あのような暴動を起こしてしまうのか不思議でならなかったが、あの国に行って多くの人から得た情報で、その全てが判明した。ご存じのようにビルマ(現ミャンマー)は多民族国家であるがその70%がビルマ族である。ビルマ族が主体となっているラングー大学の学生のデモを抑え込もうと、軍がビルマ族以外の民族で構成されている部隊を投入し、彼らが学生たちにやたらと発砲し、何人もの怪我人や死者が出たのをきっかけに学生のデモがラングーン市民を巻き込んだ暴動に変化したらしい。暴動が先で、発砲が後だと云う人もいるが、そのどちらであるか、私には判断出来ない。
タイのバンコクの飛行場からラングーン行きの便に乗ったのだが、着いた空港の標識は板で出来ており「ヤンゴン空港」となっていた。暑い中を飛行機から空港ビルまで歩かされた。やっと辿り着いた建物には空調の設備がなく、天井から吊るされている時代物の扇風機がゆっくり廻っているだけだった。「ひどい国に来ちまったな」と感じた。
1989年の国の玄関である空港でもこの状態であったので、他は皆さまに想像して頂きたい。首都を一歩出るとジャングルの続きのような地域である。北にある最大都市のマンダレーに一機しかないプロペラ機で行った。飛行中に下を見ると空港から空港まではほぼ深いジャングルだった。このような場所で戦った敵や味方の兵士たちは、マラリアや多くの未知の細菌とも戦わなければならなかったであろう。
この最初の年に4回、その後3回ほど続けてミャンマーに行ったが、一度の取引も成功しなかった。「我が敗北の記」と云う本を出版された日本の将軍が、その著書の中で日本兵が敗走する先々に敵兵(イギリス軍)が待ち受けていたと書いていた。信頼していたビルマ人たちが裏切っていたのだ。過去7回のミャンマー出張が失敗した。テレックスで送られてきた情報が全て噓だったのだ。その将軍の本を先に読んでおくべきだったと後悔した。気づくのが遅すぎた。
掲載したのはコロナに関係なく、自由に写真を撮りに行けた頃の明治神宮の写真である。暑い時期の8月だったせいか、参拝客は極端に少なかった。
私が出張で初めてビルマに行ったのは、国名がビルマからミャンマーに変ったばかりの1989年の7月だった。湿度が高く、異常な暑さだったのを記憶している。本来はその前年の5月に行く予定だったが、ラングーン大学(現ヤンゴン大学)の学生たちのデモが暴動になり、治安が極端に悪くなったために出張を控えてくれとの連絡がこれから取引を始める会社からテレックスが来た。非常に大人しい民族であると聞いていたが、あのような激しい暴動を報じているテレビ・ニュースを信じられない思いで観ていた。
ビルマ人が何故あのような暴動を起こしてしまうのか不思議でならなかったが、あの国に行って多くの人から得た情報で、その全てが判明した。ご存じのようにビルマ(現ミャンマー)は多民族国家であるがその70%がビルマ族である。ビルマ族が主体となっているラングー大学の学生のデモを抑え込もうと、軍がビルマ族以外の民族で構成されている部隊を投入し、彼らが学生たちにやたらと発砲し、何人もの怪我人や死者が出たのをきっかけに学生のデモがラングーン市民を巻き込んだ暴動に変化したらしい。暴動が先で、発砲が後だと云う人もいるが、そのどちらであるか、私には判断出来ない。
タイのバンコクの飛行場からラングーン行きの便に乗ったのだが、着いた空港の標識は板で出来ており「ヤンゴン空港」となっていた。暑い中を飛行機から空港ビルまで歩かされた。やっと辿り着いた建物には空調の設備がなく、天井から吊るされている時代物の扇風機がゆっくり廻っているだけだった。「ひどい国に来ちまったな」と感じた。
1989年の国の玄関である空港でもこの状態であったので、他は皆さまに想像して頂きたい。首都を一歩出るとジャングルの続きのような地域である。北にある最大都市のマンダレーに一機しかないプロペラ機で行った。飛行中に下を見ると空港から空港まではほぼ深いジャングルだった。このような場所で戦った敵や味方の兵士たちは、マラリアや多くの未知の細菌とも戦わなければならなかったであろう。
この最初の年に4回、その後3回ほど続けてミャンマーに行ったが、一度の取引も成功しなかった。「我が敗北の記」と云う本を出版された日本の将軍が、その著書の中で日本兵が敗走する先々に敵兵(イギリス軍)が待ち受けていたと書いていた。信頼していたビルマ人たちが裏切っていたのだ。過去7回のミャンマー出張が失敗した。テレックスで送られてきた情報が全て噓だったのだ。その将軍の本を先に読んでおくべきだったと後悔した。気づくのが遅すぎた。
掲載したのはコロナに関係なく、自由に写真を撮りに行けた頃の明治神宮の写真である。暑い時期の8月だったせいか、参拝客は極端に少なかった。