東京のコロナ感染者数の劇的な減少が続いていたので、10月の第二週に日本民家園に行った。園内にはかなりの変化があった。原家にカフェが開業していた。また、ボランティアの方々が「勤務」を再開し、囲炉裏に火が入った。だが、床上に登ることは相変わらず禁止されていた。
江向井家の正面右端から撮った。此のアングルから撮ったのは初めてであったが、如何にも農村の感じが出たと満足している。
何回も書くようだが、日本民家園には50回近く行っているが、行くたびに、季節が異なるたびに、また時間に依って被写体の感じが違う。そして同じ被写体でもアングルを変えただけでいままで撮ったことのないような写真が撮れる。自己満足であることは承知している。だが、日本民家園は何回通っても楽しい。
前回の選挙よりは騒音が少ないように感じてはいたが、それでもどうかすると選挙カーからの連呼が聞こえてくる。駅前で彼らの空々しい演説を聴いていると、我々庶民はまるで楽園での暮らしが約束されているようだ。人前で平気で嘘をつけなければ政治家にはなれないとはよく云ったものだ。所得倍増、拉致被害者の解決、政治家の説明責任等々を何十年も聞かされてきたが、何一つ解決されていない。今日はこれから投票に行く予定だが、この人なら日本を任せられると確信を持てる人がいない。投票所に行くのも億劫になる。
我々庶民とはけた外れの歳費を受取りながら、まだ足りぬと政党助成金を平気で受け取っている。共産党だけが受け取っていない。私は共産主義者ではないが、共産党の矜持には感銘を受ける。赤旗の売り上げが凄いから受取る必要がないのだと他の政党の人たちは云うが、あっちに付いたりこっちに付いたりする党だって、その母体が膨大な量の新聞を売っているだろう。そして政治家は支持者から頼まれると莫大な手数料を取って口利きをする。仕切り屋やフィクサーとどこが違うのか?
疎遠が続いている人から、選挙が始まると必ず電話がある。自分の支持する政党の候補者に投票してくれと頼むための電話だが、なかなかそれを云い出さない。歯の浮くようなお世辞を聞いていてもラチがあかない。それで「選挙のことでしょ」と当方から云い出し、「承知していますから」と云って電話を切るようにしている。
江向井家の正面右端から撮った。此のアングルから撮ったのは初めてであったが、如何にも農村の感じが出たと満足している。
何回も書くようだが、日本民家園には50回近く行っているが、行くたびに、季節が異なるたびに、また時間に依って被写体の感じが違う。そして同じ被写体でもアングルを変えただけでいままで撮ったことのないような写真が撮れる。自己満足であることは承知している。だが、日本民家園は何回通っても楽しい。
前回の選挙よりは騒音が少ないように感じてはいたが、それでもどうかすると選挙カーからの連呼が聞こえてくる。駅前で彼らの空々しい演説を聴いていると、我々庶民はまるで楽園での暮らしが約束されているようだ。人前で平気で嘘をつけなければ政治家にはなれないとはよく云ったものだ。所得倍増、拉致被害者の解決、政治家の説明責任等々を何十年も聞かされてきたが、何一つ解決されていない。今日はこれから投票に行く予定だが、この人なら日本を任せられると確信を持てる人がいない。投票所に行くのも億劫になる。
我々庶民とはけた外れの歳費を受取りながら、まだ足りぬと政党助成金を平気で受け取っている。共産党だけが受け取っていない。私は共産主義者ではないが、共産党の矜持には感銘を受ける。赤旗の売り上げが凄いから受取る必要がないのだと他の政党の人たちは云うが、あっちに付いたりこっちに付いたりする党だって、その母体が膨大な量の新聞を売っているだろう。そして政治家は支持者から頼まれると莫大な手数料を取って口利きをする。仕切り屋やフィクサーとどこが違うのか?
疎遠が続いている人から、選挙が始まると必ず電話がある。自分の支持する政党の候補者に投票してくれと頼むための電話だが、なかなかそれを云い出さない。歯の浮くようなお世辞を聞いていてもラチがあかない。それで「選挙のことでしょ」と当方から云い出し、「承知していますから」と云って電話を切るようにしている。