TDY、Temporary Duty。アメリカの軍隊用語で出張を意味する。世界の僻地の出張記録!TDYの次は日常の雑感

現役時代の出張記録。人との出会いと感動。TDY編を終え、写真を交えた日常の雑感を綴る。

TDY, Temporary Duty パプアニューギニア編 4

2015年01月26日 | 旅行
 ポートモレスビーで飛行機に乗るとき、「お洒落なシャツを着ていますね」とクリス・ブルックに云われた。私が不思議そうな顔をしたのか、私のシャツの胸ポケットの刺繍を指差した。見ると、馬上でポロのプレイヤーがマレット(スティック)を振り下ろそうとしている図柄があった。もしこれが本物であるなら、ラルフローレンのシャツである。ウッドラーク島行が決まってから、例の「スパマケット」と書かれているスーパーマーケットで白いデニムのズボンと一緒に買ったシャツである。700円だったか800円で買ったものである。胸ポケットの刺繍など気にもしなかった。彼は、「ちょっと失礼」と云うとシャツの襟を引っ張り上げ、「これ、本物のラルフローレンですよ」と云った。日本のデパートで買えば、8千円は下らない。気が付いていれば、一ダースも買っておきたかった。
 
 後で確認したことだが、中国の「ポロ」と書かれたラルフローレンの偽物の刺繍は、プレイヤーがマレットを振り下ろした後の図柄になっている。香港に「U2」と云う割と有名な洋品店がある。此の店はかなり大きく、「ラコステ」の正規の代理店でもある。そこで私は偽物を発見した。毛糸のチョッキの胸の刺繍は、例の右向きのワニではなく、左を向いていたのである。襟を見ると、商標が「ラコステ」ではなく「クロコダイル(わに)」となっていた。ラコステの正規の代理店が、このような商品を販売している神経が信じられなかった。手触りからして物は良さそうだったので、「シャレ」の積りで本物の「ラコステ」と対で買ったことがあった。


 マスリナ・ロッジに向かう途中に寄り道をして、雑貨屋に寄った。店には格子の鎧戸が下がり、まるで客を拒否しているかのようであった。


 マスリナ・ロッジの別館。本館の道路を隔てた向かい側にあった。本館は満員だとのことで、私だけが此の別館に泊ることになった。新しかったが、エアコンはなく、網戸の隙間から蚊が侵入してきた。
 翌朝、朝食を取るべく本館に行った。「昨夜は蚊の攻勢に参った」とクリス・ブルックに云うと、彼は不思議そうな顔をして「エアコンがあったでしょ?」と云った。その話を傍で聞いていたローランド・クリステンセンは具合の悪そうな顔をした。瞬間に私は人種差別に合ったのだと不快感を覚えた。こんなことはかつてなかった。これから一年後に行くことになったモーリシャスでも人種差別らしきものを経験したが、英国紳士に救われた(マダガスカル編の18をご参照願いたい)。
 ダイニングルームには西洋式肉料理の他にパプアニューギニア独特の料理が何種類も用意されていた。タロイモを食べたことがなかったので、どれがそうかと聞くと。ローランド・クリステンセンが「これですよ」と云って私の皿に取ってくれた。初めてのタロイモは大きめの里芋のように感じた。塩が効いていて旨かった。
 朝食付きで75キナ(円換算で¥11,250)をカードで支払った。マスリナ・ロッジを出るとき、オーナーが「また来て下さい」と握手を求めてきた。私は無視した。オーナーはパプアニューギニア人とオーストラリア人の混血のように見えた。オーナーは図々しく「日本人のダイバーに、此のマスリナ・ロッジを紹介して下さい」と云ってきた。私は「日本人を大事にしないロッジなんて、紹介するわけがないだろ!」と声を荒げてロッジを出た。クリス・ブルックは私の背中を叩いて同意してくれた。
 昨日の、高給取りのグレイダー君がピックアップトラックで迎えに来てくれた。空港に向かうのだが、申し合せたように全員で空を眺めた。間違っても今日は雨は降りそうもなかった。


 チャーター便が来て、真っ先に積み込んだのがローランド・クリステンセンの長男と次男への土産の品々だった。


 昨日と同じパイロットが笑顔で迎えてくれた。副操縦席に乗ったグレイダー君はご機嫌だった。


 真っ青な海に染まったように、陸地までブルーだった。「ヤ・チャイカ、地球は青かった」を地で行くようだった。


 途中の小さな島。周囲をサンゴ礁に囲まれていた。私が写真を撮っているのを見たパイロットが急降下で高度を下げてくれた。「俺の島はもっときれいですよ。フィルムを無駄にしないで!」とローランド・クリステンセンが云った。

 一時間ちょっとでウッドラーク島が見えてきた。島の周囲を旋回するようにして高度を下げ、雑草の生えた土の滑走路にゆっくりと降りた。


 チャーター機の前の私。村の住民が総出で迎えてくれた感じだが、実際は只の野次馬である。娯楽の無い村の人たちにとってはめったに飛んでくることのない飛行機を見るだけでも大変な事なのであろう。

 ウッドラーク島は東西に約65キロ、南北に25キロほどの島である。面積から判断すれば東京都は約2,000平方キロなので、二廻りぐらい小さいだろうか。其処に、当時は多くても2千人ほどしか住んでいなかった。その大部分が空港のある東側に集中していると聞いた。
 東西では何とか言葉は通じるが、南北では全く通じないと云う。東の外れにある空港を起点にして西の海辺まで一本の道がついている。言語が似たようなものになったのは、東西で人の交流が昔からあった証拠ではないだろうか。


 ローランド・クリステンセンのピックアップトラックに荷物を満載にして、いよいよ西に向かって出発の準備が整った。


 クリステンセン夫人が運転席から助手席に移った。彼女は非常に嬉しそうな顔をしていた。ローランド・クリステンセンは今まで穿いていたビーチサンダルを脱ぎ、裸足で運転席に座った。まるで野生の人間を見るようだった。
デコボコの道を疾走した。オイルパンを擦ってしまうのではないかと心配したが、日本製(トヨタ)のピックアップトラックはそのような心配を払拭していた。悪路で弾みながら西へ向かっている車からは、外の風景を撮るどころではなかった。両側は何処までも緑が続き、ジャングルの中の一本道を実感した。一時間半ほど走ると、「もうすぐです」とローランド・クリステンセンは振り返って嬉しそうな顔をした。「我が王国へようこそ」と云っているようだった。

 ローランド・クリステンセンの自宅に着き、奥さんと子供たち、それに荷物を降ろすと直ぐに集材場に向った。家の前の道を更に西へ行くと、すぐに海が見えてきた。船着き場の手前の広場に黒檀のフリッチが山積みにされていた。クリス・ブルックは目を輝かせた。




 宝の山だった。今までにこれほど見事な黒檀のフリッチを見たことがなかった。床柱に加工するのに充分過ぎる太さと長さがあった。


 クリス・ブルックは傍まで確かめに行った。彼も実物を見るまでは不安を抱えていたのであろう。

TDY, Temporary Duty パプアニューギニア編 3

2015年01月19日 | 日記
 パプアニューギニアは非常に親日的であるから気持ちが良い。ポートモレスビーの空港での荷物検査は特に厳重で、到着便に依ってはかなりの行列が出来る。やっと私の番になり、税関職員にパスポートを渡し、スーツケースを開ける準備をしていると、「日本からお出でになったのですね。どうかそのままお通り下さい」と云われた。全くの無審査だった。アタッシュケースを開けようともしなかった。周囲の旅行客は唖然とした顔で私と税関職員を見ていた。ロサンゼルスの空港でも同じようなことがあった。パスポートで日本からの旅行客だとの確認をすると、「ハイ、出口はあちら」と云うだけだった。

 朝の散歩から帰り、フロントで鍵を受け取るときに何か伝言はなかったかと聞いたが無駄であった。約束の日を過ぎているのに、ローランド・クリステンセンから何の連絡もなかった。部屋に戻り、ラバウルのレックス・グラッテージに電話したが留守だった。仕方なく、無駄を承知でカナダのジャック・ラウに電話をしてみた。カナダの英語圏であるトロントとポートモレスビーの時差を手帳で調べた。15時間の時差である。計算してみたら、トロントは前日の午後8時であった。食事中だったようだが、気持ちよく電話に出てくれた。「落ち着きなさいよ、ミスター。世の中は予定通りにことは進みません。ゆっくりお待ちなさい。二、三日したら、私からレックスに電話してみましょう」と云われた。初めての国に来て、約束の日から二日も過ぎているのに取引相手が現れず、連絡もなければ誰だっていらだつだろう。それを「ゆっくりお待ちなさい」と云ったのだ。日本人と中国人では考え方が違うのだろうか。それとも私に忍耐心が足りないのであろうか。

 ホテルのレストランでの昼食を終え、部屋で第一次湾岸戦争に関する新聞の記事を読んでいると、フロントから電話があった。「クリステンセン様が、宜しければお目にかかりたいそうです」とのことだった。宜しくないわけがない。急いでロビーに向った。

 フロントの前で物凄い巨漢が気まずそうにしていた。白いYシャツに、窮屈そうにネクタイをしていた。約束より二日も遅れたことに、どのような云いわけをしたらいいか悩んでいるようにも見えた。それがローランド・クリステンセンだった。文句を云う気が失せた。彼が何か云おうとすると、後ろからラフな格好をした若い男が現れた。「クリス・ブルックと云います。遅れたのは私のせいです。申し訳ありませんでした」。これで初対面の挨拶が全て終ったようだった。
 コーヒールームに行き、これからの予定を聞いた。明日の午後一番のアルタオ行の定期便に乗り、そこからはローランド・クリステンセンがチャーターしてある小型機でウッドラーク島に行くことが説明された。
 クリス・ブルックはオーストラリアのアデレードで木製の食器を作る工房を持っているそうだ。やはりラバウルに住むレックス・グラッテージの仲介で、私と行を共にすることになったのだ。話してみて、非常にいい奴だと感じた。彼もウッドラーク島に行くのは初めてだと云っていた。


 首都のポートモレスビーから地方の都市や島に行くには全て20人、多くて50人乗り程度の飛行機が利用されている。


 私の前を行くのがローランド・クリステンセン。今日はネクタイを外し、靴をビーチサンダルに履き替えていた。


 ローランド・クリステンセンの右前方を歩いているのがオーストラリア人のクリス・ブルック。


 ローランド・クリステンセンは二席分を占有してしまったのに、窮屈そうだった。


 一時間ほどでアルタオに着いた。


 アルタオの「ガーニー空港」の建物。ビルマの地方の空港施設の方がよっぽど気が利いていた。屋根のあるバス停を想像して頂ければいい。此の何年か後に行った、マダガスカルのアンツォヒヒの空港といい勝負だった。




 アルタオの住民にとって、空港は涼み場所や遊び場を兼ねているようであった。木の陰に入ると、涼しい風が吹いて心地よかった。
 ポートモレスビーからたった350キロ南に来ただけで、照りつける太陽の暑さがかなり弱まったようにも感じた。ご存じと思うが、パプアニューギニアは南半球に位置しているので、南に行けば赤道から離れて気温が下がる。

 空港職員は汗をかきながらローランド・クリステンセンの荷物を降ろしていた。ポートモレスビーから積み込んだ荷物は子供の三輪車をはじめ、台所用品と思われるもの、食料品、衣類等々。まるで目につくものを手当たり次第に買い込んだように思えた。
 一番大変そうだったのは大きな、重そうなアイスボックスだった。冷凍の肉やハムだと聞いたが、このようなものまで本島に来なければ買えないとなると、ウッドラーク島の暮らしの厳しさを想像した。

 何かの都合で、チャ-ター機の到着が遅れていた。ローランド・クリステンセンは、多分別の場所に行っていて手間取っているのだろうと、のんびり構えていた。
 木陰で待っていると、リュックサックを背負った若い男がやって来てローランド・クリステンセンに挨拶した。彼はグレーダー(立木、葉、花などを見て木目や心材の色を判断する専門家)であると紹介された。一緒にウッドラーク島に行くそうだ。
 お互いに打ち解けてくると、とりとめのない雑談が始まった。若いグレーダーが「日本では嫁さんの値段は幾らですか?」と聞いてきた。結納金がそれに当たるのかと考えたが、結納金をあらわす単語を知らなかった。下手に説明すると誤解を招くので、「そのような習慣はないよ」と答えた。彼は非常に不思議そうな顔をした。そして、別の質問をしてきた。「アルタオの群長さんが、去年日本に行った話を知っていますか?」。そのような話は聞いたことがなかった。「そんな有名な話を知らないんですか?群長さんは12人の嫁さんを全員連れて日本に行ったんですよ」。それを横で聞いていたクリス・ブルックが腰を折り曲げて笑い出した。「日本の税関はびっくりしたでしょうね。ミセス群長、次もミセス群長、その次も、次も」。その先は吹き出して言葉にならなかった。ローランド・クリステンセンはニヤニヤしているだけだった。グレイダー君はその先を話してくれた。「一番下は13歳です。去年、日本に行く前に嫁さんにしたばかりなんです。金があれば何人でも持てるんですよ」。羨ましい国もあるもんだ。「ところで、お前さんの嫁さんは幾らだった?」と聞くと、「俺は500キナを払いました」と云って胸を張った。1991年当時は1キナが約¥150円(US$は約140円)だったので、¥75,000であった。グレイダーの給料が高いとしても、かなりの金額である。確か、タクシー運転手が月に5千円ほどの収入だと云っていた。

 それから10年後の2004年の1キナの価値は34円でしかなかった。現在の為替相場はかなり回復しており、先週半ばの相場は1キナが約45円となっている。これはキナの価値が上ったのではなく、円安がかなり進んでいる結果かもしれない。




 滑走路に向かいながら、パイロットが管制塔と交信していた。「雨?、物凄い雨?」と聞き返しているのが聞こえてきた。ローランド・クリステンセンもそれを聞き、我々に向って「まずいよ」と独り言のように云った。結局、今日のフライトはキャンセルになった。ウッドラーク島の飛行場は土なので、雨でぬれていてはタイヤが滑ってしまい、着陸出来ないとのことだった。台風や雪の影響で離発着出来なかったことは何度も経験したが、雨が原因とは初めての事だった。明日のフライトを確約して、我々はアルタオに一泊することになった。グレイダー君が借りてきた5人乗りのピックアップトラックに荷物を満載してマスリナ・ロッジに向った。

TDY, Temporary Duty パプアニューギニア編 2

2015年01月12日 | 旅行
 赤道直下の南太平洋にあるニューギニア島の東半分と多くの島々から構成されていることは前回に述べた通りである。そのパプアニューギニアについて多少の補足説明をしておきたい。時差は日本より1時間早いだけなので、殆ど影響はない。
 此の島に最初にやって来たのはポルトガル人のメネセスであった。そして、勝手にパプアと命名してしまった。1526年の事であった。それ以前に人が住んでいなかったわけではない。ニューギニア島には最古のシェルマネー(貝の貨幣、貝貨とも云う)が使われていたほどの文明を持った先住民がいた。その後の植民地主義の時代に、オランダ、ドイツ、イギリスが良いように分割して統治してしまった。
 余談だが、アフリカ大陸の西海岸にあるシエラレオーネに隣接してギニアがあるのはご存じと思う。そこの民族とこの島の民族が非常に似ているところから、新しいギニアであると「ニュー・ギニア」の名前を西洋人が付けた。そして、「パプア」とは縮れた髪の毛を云うそうである。

 通常の場合は取引先が空港に迎えに来てくれる。だが今回はそのようなわけにはいかなかった。ポートモレスビーから350キロほど離れたニューギニア島の東のはずれにアルタオと云う所がある。私の目指すウッドラーク島は、そのアルタオから更に洋上約300キロの所にある。電気、ガスは勿論のこと水道も電話までもない。通信手段は無線だけである。アルタオだが、地図には、Alotau、アロタウと表記されており、それが正しいのであろうが、土地の人たちが「アルタオ」と呼んでいるので、私もそのように呼びたい。
 私の取引先のローランド・クリステンセンはオーストラリア人だがウッドラーク島に長く住み、現地のご婦人と結婚して2児の父親になっている。ポートモレスビーのホテルで会うまで、彼と直接のコンタクトは一切取れなかった。

 1990年になるとインドネシアの黒檀が異常に高騰し、とても商売にならなくなっていた。パプアニューギニアにも黒檀があるらしいと云う噂を新木場で聞いた。今までは黒檀に手を出さないでいたが、そんな噂を聞くと「何とか探し出したい」との貿易屋の血が騒いだ。外国の色々な方面に手紙を出した。いい情報をくれたのが、以前に香港にいたジャック・ラウ氏だった。彼は香港の中国返還の噂を聞くと、貿易会社をたたみ、直ぐにカナダに脱出した。その彼が、黒檀のことはよく知っている、ラバウルで貿易商をやっているオーストラリア人のレックス・グラッテージ氏に連絡を取ってみるようにと住所とファックス番号を教えてくれた。早速ラバウル(パプアニューギニア最大のニューブリテン島のはずれにあり、首都のポートモレスビーから直線で約800キロの所にある)のレックス・グラッテージ氏に連絡を取った。彼は毎朝定時にウッドラーク島のローランド・クリステンセンと無線で連絡を取り合っているのですぐに用件を伝えるとのファックスが届いた。新木場における単なる噂が現実のものになった。それからの仕事は早かった。

 ローランド・クリステンセンが所用でポートモレスビーに行くので、それに合わせて日程を組んでは如何かとレックス・グラッテージから連絡が入った。そして、ポートモレスビーのトラベロッジ・ホテルで落ち合うことになったのである。そうすれば、ウッドラーク島に行く飛行機のチャーター料がいらなくなると気を遣ってくれた。帰りのチャーター料だけを負担すればいいことになる。小型飛行機のチャーター料は決して安くはないが、荒れやすい海を高速艇をチャ-ターして行くよりは安全で早い。私は香港からの便の都合で一日早くパプアニューギニアに着いた。
 
 部屋の掃除に来たハウスメードのオバさんが「これからどちらかに行くのですか?」と聞いてきた。「ウッドラーク島に行くんだ」と答えると、「マラリアの予防薬は当然お持ちですよね」と念を押された。「予防薬はないけど、虫よけのスプレーを持ってきた」と云うと、彼女は腰を抜かさんばかりに驚いた。「そんなもんじゃ、ウッドラーク島の蚊に対抗出来ません。ホテルの前を下って行くと、ドラッグストアーがあります。そこで予防薬をお買いなさい。今すぐに!」と叱られた。
 当時、パスポートの申請窓口は交通会館の中にあった。そこの何とか云う内科医院でマラリアの予防薬を売っていた。一錠が800円だか900円だった。だが、忙しくて買いに行く暇がなかった。タイやビルマでも平気だったので、蚊除けのスプレーを買っていけば大丈夫だろうと安易に考えていた。
 云われたところにドラッグストアーがあった。「マラリアの薬を下さい」と云うと、「プロテクト(予防)ですか、トリートメント(治療)ですか」と聞かれた。「これからマラリに罹るんだ」と云うと女主人は笑顔で予防薬を出してくれた。50錠入って1.5キナだった。日本円に換算すると225円にしかならない(当時のレートで1キナは約150円)。一錠あたり5円にも満たなかったのである。交通会館の何とか内科が如何に暴利をむさぼっていたかと呆れた。
 私が料金を払い終ると、彼女は「ちょっと待って」と云って奥に引っ込み、紙コップに入れた水を持ってきた。「すぐに飲みなさい。一錠でいいです」と云ってその場で予防薬を飲まされた。「この薬は一週間に一回、忘れずに必ず飲みなさい。日本に帰ってからも、一週間か二週間は飲み続けなさい。強い薬ですから、その間はアルコールは極力控えなさい」と細い注意をしてくれた。私は殆ど酒類を飲まないから問題ない。以前に「マラリアの予防薬を飲むと、酒を飲めなくなるから、予防薬は飲まない」と云っていた男がいた。彼はインドネシアのスラウェシ島から縞黒檀を輸入している。此の島のどこかは云わなかったが、マラリアの汚染地帯であることに違いない。それなのに、マラリアに罹ったとは聞いていない。軽いマラリアに罹り、それを何度も繰り返すことによって抗体が強くなってきたのか、悪運が強いとしか云いようがない。

 マラリアの予防薬を飲んだ安堵感から、街を探索してみたくなった。地図を持ってはいなかったが、取敢えず海であろうと見当をつけた方に行ってみた。


 海岸近くに改装中の建物があった。屋根の看板を見ると海運会社であった。


 「港」の看板を掲げた建物も工事中だった。


 その建物の右側には桟橋があり、一応船が入れるようにはなっていた。だが、漁港に毛の生えたような港では大型貨物船は無理のようだ。


 ユナイテット教会の看板を見つけた。パプアニューギニアはキリスト教がかなり普及していると聞いている。「ユナイテット」と云うからには、いくつかの宗派が一つになった教会なのだろうか。


 鉄道の駅のような建物があった。看板には「モレスビー警察署」となっていたが、まさかパプアニューギニアの首都の警察本部ではないだろう。此の警察署は非常に親しみのもてる建物だった。


 砂浜のある海にやっと出会えた。1月は南半球の真夏である。だが、日本の砂浜のような海水浴客は一人もいなかった。暑くて海水浴どころではないのであろう。涼しげなスタンドがあったので一休みすることにした。

 パプアニューギニアの銀行や空港ではご婦人方が要職についているケースが多い。男どもはご婦人の上司に命令されて働いている。これは会社の事であって、家庭内ではどのよな力関係になっているかは知らない。だが、テキパキと仕事をこなしているのはご婦人たちである。話し方も歯切れがいい。男どもはグータラなのか大人しい性格なだけなのかはわからない。だが、近代的なビルの間から、突如として槍を持った戦士と出くわす。頭に羽根をつけた戦士のオジさんを見ると、とても大人しい性格には思えない。此の戦士には何度も驚かされたが、不思議そうな目で見られたことはあっても、槍を突き付けられたことはなかった。非常に近代的なビルが建ち並ぶ首都のポートモレスビーの街なかにこのようなオジさんが裸足で歩いているのを見ると、何とも奇妙な感じがする。

 メインストリートを一歩入った所に日本語で大きく「鉄板焼き 大黒」と書かれたレストランがあった。入ると元気のいい「イラッシャイマセ!」の声で迎えられた。日本の鉄板焼きの店で、全員が絣の着物を着ており、カウンター席の椅子にも絣のカバーがかけられていた。肉の焼ける旨そうな匂いが店内にしていたが、非常に清潔な感じがした。カウンター席に座ると一人のお嬢さんがメニューを持ってやってきて、「いらっしゃいませ。こちらがお勧めです」と日本語で説明してくれた。勧められたセット料理を注文した。目の前で、鮮やかな手つきで肉を焼き、適当な大きさに切っている板前に「此の店には長いの?」と日本語で聞いてみた。彼はきょとんとした顔をしていた。「日本人じゃないの?」と英語で聞くと、「フィリッピンから来ました」と云った。日本の板前が着るような着物にねじり鉢巻きをした姿は日本人にしか見えなかった。
 話はそれるが、アメリカの空軍に「アマノ」と云うフィリッピン人がいた。自分は日本人との混血だと云うっていたが、どう見てもフィリッピン人だった。彼は同僚からマノンと呼ばれていた。一番下っ端の軍曹(スタッフ・サージャン)が私にぼやいたことがあった。「マノンの奴、偉そうに俺に命令しているが、フィッシュ(魚)と云えなくて、ピッシュとしか云えねぇんですよ」。確かにフィリッピン人の英語の発音には癖がある。而し、目の前にいる板前の英語は素直だった。此のマノンだが、暇さえあると女の兵隊や女子従業員の所にへばりついていた。文句を云うと、「俺はちゃんと給料分の仕事をしてる。俺にもっと仕事をさせたかったら、もっと給料を払え」と云うのが彼の云い草だった。憎たらしいことを云うが、どうも憎めない奴だった。
 客が少なくなると、日本のお嬢さんが私の所にメモを持ってきた。「私の実家の住所と電話番号です。両親に私は元気にやっているので心配いらないと、伝えて頂けないでしょうか」と頼まれた。住所を見ると、練馬区の北の方だった。日本に帰り、直ぐに電話をした。つい長話になってしまった。此のお嬢さんは小さいころから独立心が強かったそうだ。どのような経緯でポートモレスビーの「大黒」で、たった一人の日本人として働くようになったか知らぬが、頼もしいお嬢さんであったと今でも記憶に残っている。「大黒」の写真とお嬢さんの写真を撮っておけば、ご両親も喜んだに違い。残念だった。

TDY, Temporary Duty パプアニューギニア編 1

2015年01月05日 | 旅行
明けましておめでとうございます。本年もご購読頂けるよう、お願い申し上げます。

 パプアニューギニアは食料品の持込みが禁止されている。又、麻薬を持ち込んだ旅行客には、その数量に関係なく死刑が待っている。入国審査の書類に、一字でも間違いがあれば入国を拒否される。融通の利かない国である。オーストラリアと英国の頑固さがそのまま反映されているかのようである。
 このパプアニューギニアは南半球の西太平洋のニューギニア島の東半分と多くの島から成り立っている。オーストラリアの委任統治領から1975年に独立し、英連邦に加盟している立憲君主国である。首都のポートモレスビーは本島と呼ばれているニューギニア島にあるが、他に四つほどの比較的大きな島と無数の小島からこの国は構成されている。全体を合わせると日本よりはずっと大きいが、私が訪れた1991年当時は400万人しか住んでいなかった。それが、2013年には730万人にまで膨れ上がっている。かなりの人口が増えてはいるが、日本とは比較にならないほどの人口密度である。そうであるのに、七百とも八百とも云われる言語がある。パプア人とメラネシア人が人口の九十パーセントを占めていると云うから、言語は二つでいいと私は勝手に考えたが、実際の人の営みはそんな単純なものではないと、パプアニューギニアと親しく付き合うにつれてその間違いに気がついた。言語は多くても、人々は不自由とは思わず、それを当たり前の事として暮らしている。

 空港ビルから一歩出た私に赤道直下の暑い太陽が出迎えてくれた。空港ビルの前には一方通行の道路があり、その向うには駐車場がある。陽を遮るものは何一つない。辺りには日本からの観光客はいなかった。駐車場の右手には木が鬱蒼と繁り、日陰を作っていた。そこには物売りや老人が海を通ってくる涼しい風を楽しんでいた。タクシーも何台か停まっており、エンジンを止めて窓を全開にしていた。そのうちの一台がゆっくりと近づいて来た。
 「旦那!どちらまで?何処までも行きますよ!」と運転手が陽気に声をかけてきた。彼の話す英語は聞きづらかったが、多分そのように云ったのだと判断した。彼等の話す言葉に慣れる迄が大変だった。分りづらいオーストラリアの英語がパプアニューギニア流の発音と言葉づかいで出来上がった「ピジョン・イングリッシュ」である。「トラベロッジ・ホテル」と行き先を告げると「イエス・サー、ミスター」と礼儀正しい返事が戻ってきた。
 車のエアコンを最大限にしてあるようだったが、室内はそれほど涼しくはない。それでも外に比べたら別天地だった。助手席のダッシュボードに「KEN SMOK」と書かれたアクリルの板が張り付けられていた。それを“Can’t Smoke”(禁煙)の積りなのであると理解するまでに、かなりの時間を要した。出張が決ったときに、公用語は英語だとパプアニューギニアの大使館で聞いてきたのだが、いざ、ポートモレスビーに着いてみて「話がだいぶ違うではないか」と不安を感じたのを私は今でも覚えている。
 途中に “Supa Maket”の看板のある、スーパーマーケットの前を通った。その道はやがて大きく右に曲り、ゆっくりした上り坂になった。上り詰めたところに、辺りを睥睨するかのようにトラベロッジ・ホテルがあった。


 高度をどんどん下げて着陸態勢に入った。ポートモレスビー空港は目前だった。飛行機の窓越しに、安物のバカチョンカメラで撮ったので、ピントは悪いが、美しい半島であることはご理解頂けると思う。


 左から来た道を、此の急カーブに沿ってゆるやかな坂を登って行くとホテルはすぐである。


 ホテルの入口にブーゲンビレアがきれいに咲いていた。


 トラベロッジ・ホテルは辺りを圧倒するようにそそり立っていた。




 部屋はそれほど広くはなかったが、非常に快適に過ごせた。


 ベランダのすぐ下にプールがあった。






 部屋の窓やベランダから広い範囲の風景が望めた。


 パプアニューギニアはオーストラリアと同様に、車は左側通行である。だが、車は道路の右側に不規則に駐車していた。写真でもお分かりのように、車が道路の前方を向いていたり、こっち側を向いたりしていた。




 政府機関の建物であると思ったが、近寄ってみると、そうではなさそうであった。だが期待していたショッピングモールでもなかった。