TDY、Temporary Duty。アメリカの軍隊用語で出張を意味する。世界の僻地の出張記録!TDYの次は日常の雑感

現役時代の出張記録。人との出会いと感動。TDY編を終え、写真を交えた日常の雑感を綴る。

TDY, Temporary Duty マダガスカル編 52

2014年12月29日 | 旅行
 ある日、アンタナナリブの日本大使館を訪ねた時、何人かの職員が慌ただしく出て行くのに遭遇した。これから空港に衆議院議員を迎えに行くのだそうだ。名前を伺ったが、聞いた事もない議員だった。マダガスカルは大変な親日国であるのに、日本政府はマダガスカルをそれほど重要な国とは見做していないようだ。それなのに、今回ばかりではなく、議員先生がよく訪れるらしい。どのような用件でお出でになるのかは知らぬが、観光であるなら非常に息抜きが出来る国である。国会議員と云うだけで大使館の職員に出迎えをさせたり、自分の使用人であるかのように扱うのはどうかと思う。職員は本来の業務を放り投げて議員先生のお守りをしなければならない。気の毒な話である。これはマダガスカルに限ったことではない。他の国々に於いても行われている事であるようだ。

 トマシナの道端で遊んでいた子供たちに「ニイハオ」と声をかけられたとマダガスカル編の41で述べた。その編では詳しく書かなかったが、子供たちは私に好意的な態度で「ニイハオ」と云ったのではなかった。私を中国人だと見誤った子供たちは侮蔑の意味を含めて「ニイハオ」と云ったのである。不法滞在の中国人の所業を親から聞いていたのであろう。
 中国人のグループが、マダガスカルで禁止されている地域から貴重な木材を不法に伐採し、中国に密輸している映像を最近に観た。日本近海でサンゴを密漁しているようなものだ。以前にも少し触れたが、1991年の段階で不法に滞在している中国人が約2万人いた。それが1995年には5万人にもなった。外務省の金庫から、未使用のパスポートが大量に盗まれたことから、加速度的に人数が増えたらしい。また、中国政府から公金を横領してマダガスカルに逃げてきたり、公務で出張してきた職員が中国に帰らず、そのままマダガスカルに居座ってしまうケースも増えてきた。マダガスカル人は非常に大人しく、断固とした処置を取れないことは承知している。それでも、私はその呆れるほどの寛容さに腹が立つ。

 選木が早く終り、早めにホテルに帰ってきたことがあった。シャワ-を浴びた後の体を拭いているときにドアーのノックの音がした。開けると見たことのないお嬢さんが立っていた。「あのー、あのー」と云ったきり用件をなかなか切り出さなかった。その時、階段を駆け上がってきたハウス・ボーイが私の所に来た。「すみません、つい油断しまして」と謝った。夜の姫君が出張販売にお出でになったようだ。アンタナナリブのコルベール・ホテルでは入口に門番を置き、この種の侵入者を防いでいるのだが、このような事がたまにあるらしい。
 私のマラリアを「風邪」であると診断した名医が旅行会社のツアーでイタリーに行った際に、二人組の姫君の出張販売に出くわしたそうだ。彼はその姫君たちを自室に入れた。そして姫君が帰った後に金目のものが全て無くなっていたことに気付いた。30万円ほどの現金、金側のローレックスの腕時計にクレジットカード。だが、その時の姫君は非常に良心的で、パスポートは残しておいてくれたと感謝していた。阿呆としか云いようがない。






 良く手入れされたネプチューン・ホテルの庭。その庭の管理責任者とも云うべき物静かなお譲さん。


 庭できれいに咲いた花はレストランを飾る。


 ネプチューン・ホテルのメインレストランのスタッフ。コルベール・ホテルと同様に細やかなサービスをしてくれていた。








 ネプチューン・ホテルの事務スタッフ。コルベール・ホテルと違い、此処の事務スタッフはフロアーマネージャーも含めて殆どがお嬢さんたちであった。このホテルでもかなりお世話になった。


 あの船が、私のパリサンダーを積んだ三井船舶の貨物船であろうか。もし、そうであるなら敬礼をして見送りたかった。




 上の写真の薬草をベド元法務大臣がわざわざコルベール・ホテルに届けて下さった。大変に恐縮すると「ついでですから」と人懐こい笑顔を見せてくれた。「これこそキャンサー(ガン)に効く薬草です」と、過日の思い違いを訂正しながら説明してくれた。頂いたフランスの薬学の機関の説明書は全てフランス語であったので全く読めず、内容も全く理解出来なかった。
 根のある植物は日本に持ち込めない。そのように云うと、「貴方が次回にマダガスカルにお出でになるまでに、これを乾燥させて漢方薬のようにしておきます」とおっしゃって下さった。


 長男の住むフランスにご夫婦で行くことになった。ジルス・ベドが所用で見送りに来れなかったので、私がジルスの次弟のルイス・ベドとアンタナナリブの空港に見送りに来た。


 長男を抱いているルイス・ベド君。手を引いているのが長女。此の時の彼女は元気そうに父親と一緒でご機嫌でいるが、ついこの間まで死ぬか生きるかの境目にいた。母親が不用意に出しっぱなしにしておいたマラリアの治療薬を飲んでしまったのである。マラリアに感染しでいないのに治療薬を飲んでしまったら大変なことになる。読者諸兄諸姉もご記憶ではないだろうか、ある大学教授がタイ旅行の際、予防薬を飲まずに、治療薬を飲んで死亡してしまったことがあった。無知としか云いようがない。ご存じと思うが、バンコク市内にいる分にはマラリアの心配はない。而し、バンコクを離れると、タイにはマラリアの汚染地域は多くある。

 まだまだ書き足りないことが山ほどあるが、「マダガスカル編」をこれで終りたい。最後までお付き合い頂いた読者諸兄諸姉に心から感謝申し上げたい。そして、豊かな地下資源と美しい自然を持ったマダガスカルが誰からも侵されない事を願っている。

 来年、2015年の1月5日には新しく「パプアニューギニア編」を綴りたい。正式な国名はPapua New Guynia(P.N.G.)だが、日本国内の通り名であるパプアニューギニアと呼ばせて頂く。

 皆様、是非とも良いお年をお迎え下さい。そして、またこのブログでお目にかかれれば此の上の幸せはありません。

TDY, Temporary Duty マダガスカル編 51

2014年12月22日 | 旅行
 マダガスカルのアンタナナリブにある大使館の中で、群を抜いて大きいのが中国大使館と崩壊前のソ連大使館である。同じ社会主義国同士と云うこともあり、両国は我が物顔にマダガスカルに君臨しているとの態度を示していた。だが、先にも述べたように、マダガスカルはマルクスを心から信じて社会主義国になったのではない。疲弊しきった経済を立て直すためだけに、第一次のラチラカ大統領が社会主義の形態をとっただけである。共産主義だのマルクスだのをひけらかす人間などマダガスカル国内には居るわけがない。
 私が初めてマダガスカルに行ったのは1991年の10月で、ソ連が崩壊したのはその年の12月25日だった。かなりの重大事件であった筈であったのに、そのことについての話を聞いたことがなかった。ソ連の崩壊後はご存じのようにロシアとなったが、同じ場所に国旗と看板を変えて「ロシア大使館」としてしばらくは存在した。だが、持ち堪えられないのではないかとの風評があった。広大な敷地に高い塀をめぐらした大使館は、塀に沿って車で走ってみたことがあったが、かなりの距離があったように記憶している。中国大使館もこれと同様であった。両国の大使館の存在価値はすごいが、凄いのは建物と敷地の話題ばかりで、両国を褒めるどころか、話題にもされていなかった。ただ、不法滞在の中国人の悪事に頭を痛めていたことは確かである。

 此の両国の大使館に比べたら、日本の大使館などは米粒みたいなものだ。両隣にある民家とさして変わらぬ広さである。ただ、日の丸だけは大きかった。この小さな大使館がモーリシャスやコモロ諸島をも兼轄し、領事館の任務もこなしているそうだ。
 だが、大使の公邸は日本の威信を示せる程の大きさだと聞いている。当然のこと、私は招待されたことは一度もないが、この大使公邸で外交目的のパーティーが開かれるようだ。大使館は「外交」を主目的としているが、領事館は自国民の保護をし、通商関係の援助を行い、日本国へのビザも発給している。マダガスカルに限らず、何処の国の日本領事館からも私は「保護」を受けたこともなく、「通商関係の援助」を受けたこともない。幸いなことに「保護」は特に必要なかったから良かったが、「通商関係の援助」は受けたかった。マダガスカルの大使館では領事館の業務も行っていたので、最新の日本の月刊誌や週刊誌を届けた際に、パリサンダーをはじめとする銘木の分布を調べて頂くようお願いした事があった。「はい、承知しました」と請け合ってくれたが、未だに私の手元に「マダガスカルの銘木の分布状況」は届いていない。マダガスカルの大使館に限らず、そこの職員が行う業務は日本から訪れる政治家のお守りと、大企業に対する手伝いが主な仕事であるとさえ疑ってしまう。


 ジルス・ベドの母親が手作りの料理で我々を待っていてくれた。メイドの手を煩わせず、母親が息子のために作った料理だった。


 どの料理も初めて体験する素朴な味であった。左上の黒っぽい料理は「茶」を料理したものだと説明された。以前にビルマで出された料理にもこのようなものがあった。そのとき「茶の葉を食べるのは世界でビルマ人だけです」と説明を受けたが、マダガスカルの東海岸にこのような料理があることに驚いた。






 上の写真はどれも母親の手作りの料理だが、種類が多く、その上に量も多いのでとても食べきれるものではなかった。


 父親の元法務大臣が丹精込めて作っている薬草畑。


 何か特別な病気に聞く薬草であると聞いたが、メモを取っていなかったので、申し訳ないが忘れてしまった。


 ガンに効くとされる薬草。フランスの薬学に関する機関で効能を保証していると元法務大臣から説明を受けた。


 この写真の植物はトマシナのネプチューン・ホテルの庭にきれいな花を咲かせていた。ジルス・ベドの父親が作っていた薬草と同じなので、その名前を聞いた。「Rosy Periwinkle」だと云われた。「ガンに効くそうだね?」と云うと、そのハウス・メイドのお嬢さんは「そのような話は聞いたことがありません」と不思議そうな顔で云った。気になったので日本に戻ってから英語名を頼りに図鑑で調べてみた。それには「ニチニチソウ」と出ていた。ガンに効くとの記述はなかったが、葉を煎じて飲むと糖尿病に薬効があると出ていた。ベド元法務大臣殿は薬効を誤解していたようだった。




 上の二枚の紫檀の写真は、ベド家の本拠地からトマシナに帰る途中で撮ったものである。東海岸の山中にこのような素晴らしい紫檀があることを知った。


 上の写真もほぼ同じところで撮った黒檀の写真であるが、紫檀と黒檀では比重と心材の色の違いだけで、学術的には同じ属なのでないだろうかと疑いたくなるように似ている。
 読者諸兄諸姉のご参考のために、紫檀は「Dalbargia属のマメ科」(パリサンダーもこれに属する)であり、黒檀は「Diospyros属カキノキ科」である。

 マダガスカル編の49で、フェナリブだけが良質な胡椒の産地のように書いてしまったが、此処で訂正してお詫びをしたい。良質な胡椒は、フェナリブ以外にもマナナラ(フェナリブより北)、トマシナ、アンパシマヌルートラ(トマシナの少し南)でも産出されている。東海岸の北よりの地域全体が主要な生産地である。

 モーリシャスに着き、香港行きのトランジットカウンターに向っているとき、前方から「お兄ちゃーん!」と呼んで駆けてくる二人のお嬢さんが目に入った。香港からモーリシャスに向かう飛行機の前の席に座っていた例のお嬢さんたちだった。「バカ!みっともない呼び方すんな!」と云ってたしなめたが、全く無駄であった。良く考えてみれば、周囲にはその言葉を誰一人理解する人は居なかったのである。だが、どうも照れ臭かった。
 彼女らを特別待合室に招待した。ファースト・クラスやビジネス・クラスの搭乗券を持っていなくても、私の持っている「MK Plus Card」を提示するだけで中に入れる。このカードには私の名前と、東京で二番目に発行された番号が印字されている。また、「MK elite」のタグをスーツケースに付けておくと優先的に荷物が出てくる。今回は空港の外に出るわけではないので、此のタグは意味をなさないが、外に出るときは真っ先にスーツケースが出てくるので非常にありがたかった。

 二人のお嬢さん方は二週間もモーリシャスに滞在していたことになる。このように長く休暇を取れる日本の企業は珍しい。その上かなり経済的に余裕があったのであろう。羨ましい限りである。特別待合室でコーヒーを飲み、クッキーを食べながら、彼女等が如何に楽しく休暇を過ごしたかを聞いていると、香港行の便を待つ時間はあっという間に終わった。

TDY, Temporary Duty マダガスカル編 50

2014年12月15日 | 日記
 香港からモーリシャスに行くエアー・モーリシャスの便は比較的新しい航空機を使用しているが、エンジン・トラブル―航空会社や旅行会社では「エントラ」と云っている―のため、香港に一泊しなければならないことがあった。
 とっくに出発時間を過ぎているのに駐機場から全く離れなかった。スチュアーデスは不安を押し隠すように客室の通路を歩き廻っていた。やっと滑走路に向けて動き始めたが、途中で大きく旋回して元の駐機場に向った。その途中で機長からのアナウンスがあった。フランス語だったので全く理解出来なかったが、次に英語で「エンジンが不調ですので、これから点検を致します。出発までもうしばらくお待ち下さい」とのアナウンスがあった。
 私の前の席の日本人のお嬢さんから「今のアナウンスは、どのようなことですか?」と不安そうな顔で聞かれた。説明すると、近くの日本人の乗客から「大丈夫なのでしょうか?」との質問があったが、私は専門家ではないのでそれ以上の事は説明出来なかった。駐機場に戻ると、スチュワーデスが乗客から飲物の注文を受け始めた。
 更に一時間近く待たされた挙句機長から次のようなアナウンスがあった。「この機をこれから格納機に運び、徹底的に点検を致します」。次いでスチュワーデスが「これから皆様をホテルにお連れ致します。係員の案内に従い、お荷物を持って機を離れて下さい」。周囲の日本人の乗客が一斉に私の方を見た。仕方なく機長とスチュワーデスの云ったことを説明した。私が席を立つと、次々に質問された。「手荷物は持って行くのでしょうか?」「スーツケースは?」「次の乗継便は」「モーリシャスのホテルの予約変更は?」。私はツアーコンダクターでもなければ付添い人でもない。だが、不安そうな顔を見ているとつい面倒を見てしまうことになった。それで、一通りの説明をした。「手荷物は全て持って席を離れて下さい。乗るときにお預けになったスーツケースも受け取って下さい」。説明が終ると日本人乗客のほぼ全員が私の後をついて来た。旗があった方がいいのかなと思いながら歩いていると、私の前の席に座っていたお嬢さんに声をかけられた。「オジさん、お陰様で助かりました」。彼女にはもう一人の連れがいた。「オジさんだ?お兄さんの間違いだろ?」と云うと、親しみのこもった笑顔を見せた。

 エアー・モーリシャスの用意したバス(このバスの乗客はほぼ全員が日本人のようだった)は空港ハイウェイを西に進み、高速道路を屯門(テュンムン、香港の郊外とも云うべき地域である。マダガスカル編の40をご参照願いたい)に向って一時間近く進むと目的のホテルに到着した。Panda Hotel、それに悦来酒店と書かれていた。出来たばかりのホテルのようだった。全てが新しく見えた。
 部屋に入ってすぐに「ベッドがない!」と瞬間に思った。あるのはコーヒーテーブルにソファー・セットだけだった。だが、ベッド・ルームは別にあり、その先にバス・ルームがあった。それほど上等ではなかったが、一応はスィート・ルームの様式をとっていた。

 翌朝はバイキング形式の中華料理が用意されていた。美味しかった。これだけ食べれば昼食はいらないだろうと思えるほど食べた。昨夜、私を「オジさん」と呼んだ二人組のお嬢さんが私と同じテーブルに着いた。二人で休暇を利用してモーリシャスでダイビングを楽しむのだと云っていた。


 対岸から戻ってきた。これから荷卸しが始まるが、此のシャンブー・シャラシャラには乗れるだろう。


 荷物より先に、この物売りのオバさんが走るように降りてきた。


 座る場所を見つけると早速商売を始めた。玉ねぎに焼き魚、それと何かの鳥のモモ肉を焼いたように見えるものを私に見せ、「ミヴィディ」と云った。恐らく「買わないか」と聞いてきたのだと思うが、定かではない。


 この物売りは川で獲れたばかりの魚をぶら下げていた。売り声もなしで、魚を持ってただじっと立っていた。


 我々の車の積み込みが始まった。ジルス・ベドは「船長」の指示通りに車を進めているのだが、かなり緊張している様子であった。運転席に座ってみれば良く分かるが、前は川しか見えない。車止めもないので、前に行きすぎたら川に落ちてしまう。「船長」は少しでも余計に積もうと、先端のギリギリのところまで車を進めさせる。


 シャンブー・シャラシャラが対岸に無事に着いた。北に向かう道路は殆ど痛んでおらず、快適に走れた。


 このような風景が延々と続いていた。窓を全開にして、かなりのスピードで走っていたので、暑さをあまり感ぜずに済んだ。


 新築中だったり、増築中だったりの住居がかなりあった。胡椒の売上金を当てにしての建築だろうとジルス・ベドが説明してくれた。


 ベド家のフェナリブでの家に到着した。アンタナナリブの家よりは狭く感じられたが、此処がベド家の原点のようだった。


 第一次ラチラカ大統領時代から20年も法務大臣を務めてきたジルス・ベドの父親が我々を出迎えてくれた。


 彼女の兄であるジョセ・マリエ・ダヒー(在日本マダガスカル大使館の商務官)から連絡を受けていたのであろう、トレッキング・シューズの到着を待ちに待っていた。それで、我々が到着する何時間も前から待っていたようだった。

 彼女の兄であるジョセ・マリエ・ダヒー商務官にアンセルメ・ジャオリズィキー課長(マダガスカル編の3をご参照願いたい)を紹介された。彼等はアンタナナリブ大学で同期であった。卒業後、ジョセ・マリエ・ダヒー(ベツィミサラカ族)は外務省に、アンセルメ・ジャオリズィキー(サカラバ族族)は商務省に入省した。
 ご記憶の方も多いと思うが、商務省に勤務しているアンセルメ・ジャオリズィキーの出張費は非常に少ない。台湾出張の際は何とかまともな食事が出来たが、ヨーロッパの場合は露店のハンバーガーで凌ぐのが常であると聞いていた。
 外務省に勤務し、在日本マダガスカル大使館員として日本にやって来たジョセ・マリエ・ダヒーは非常に豊かであった。日本における彼の自宅は3LDKだったが、リビングルームが非常に広かった記憶がある。釣りをしたいと云うので、私がよく行く船宿に連れて行ったことがあった。釣り船代は当時、8千円か9千円であった。アンセルメ・ジャオリズィキーの事を聞いていたので、彼の分も払おうとしていたら、彼は私の分まで払うと云いだした。結局割り勘にしたが、同じマダガスカルの省庁でも、外務省の在外勤務手当が非常にいいのだと思った。
 伝聞だが、当時の大使が交替になり、彼も帰国することになった。その際、クレジットカードで日本製品を買いまくり、かなりの借金を抱えてマダガスカルに帰ったらしい。外地勤務手当が無くなれば、その借金を払えるのだろうかとマダガスカルの大使館内で心配したそうだ。
 余談だが、ジョセ・マリエ・ダヒーはジルス・ベドの姉と結婚している。従って彼等は「ザオダヒ」(義兄弟)である。その縁から、ベド家がジョセ・マリエ・ダヒーに借財の援助をしたらしいとの噂があるが、私の知るところではない。

 アンセルメ・ジャオリズィキー元商務省課長のことに触れたい。彼は1995年の6月に商務省を辞め、在マダガスカルのアメリカ大使館に勤務することになった。当時の新聞に「大型転職」とか「華麗な移籍」とかの見出しで新聞で大きく報道された。フランス語とマダガスカル語の新聞だったので読めなかったが、ジルス・ベドが「商務省の給料の6倍の給料になったのです」と説明してくれた。一時は時の人になったほどだ。だが、アンセルメ・ジャオリズィキーの私に対する態度は変わらず、土、日はホテルに訪ねてきては私の手伝いをしてくれた。

TDY, Temporary Duty マダガスカル編 49

2014年12月08日 | 旅行
 シンガポールで、よく危機を脱したとのメールを各方面から頂いた。前にも書いたと思うが、私は最悪の事態を考えて物事に対処することにしている。そうすると、どのような結果になろうと、私が予測していたことより少しは状態がいいと考え、落ち込むことなく次に当たれる。よく云えば、立ち直りが早いとか打たれ強いと云うことかもしれない。要は能天気なのであろう。
 針が落ちる音にも注意をする半面、「何とかなるさ」と安易に考えてすぐ行動に移すことが多くある。これも、よく云えば決断が速いと云うことなのだろうが、いい加減な面が非常にあると、私自身大いに反省している。

 私の聞き間違えか、マダガスカル側の連絡不足か、当然のこと伐採地から荷が届いているものだと決め込んでアンタナナリブにやって来た。而し、パリサンダーの影も形もなかった。現地では出荷を急いでいるが、サイクロンの影響がマダガスカルの中心地にまで及び、積み込み作業に手間取っているらしい。最初のトラックが到着するまでに二、三日かかる。全てが到着するには一週間以上かかると云われた。ジルス・ベドに「いい機会ですから、これからアフリカ大陸の南アフリカ共和国に行きましょう」と誘われたが、その時の私の態度は「慎重」の面が全てを圧倒した。近い将来、マダガスカルではパリサンダーの入手が手詰まりになる可能性がある。南アには彼の知り合いがおり、パリサンダーに近い樹種が豊富にあるから、必ずいい木が手に入ると云われた。だが、私の知識(「熱帯の有用樹種」から学んだものが殆ど)の中には「南アフリカ共和国」はなかった。或いは私が読み過ごしてしまっただけかもしれないが、ジルス・ベドの云うような記述はなかったように思えた。その結果、行くことを止した。面倒だったのかもしれない。マダガスカルから直行便はなく、アンタナナリブからケニアのナイロビまで行き、そこから何回か乗り継いで南アに行かなければならない。此の面倒さが、いい加減な私を「慎重」な私に変えてしまったのかもしれない。それに、事前に新木場のお得意様たちにサンプルを見せ、買って頂ける約束をしてからでなければ輸入出来ない。新木場は非常に保守的な所である。新しい材には必要以上に慎重になる。今回行かなくとも、次があるさとずぼらを決め込んだ。
 そうかと云って一週間以上もホテルで寝て暮らしても仕方がない。断らずに南アに行くべきだったかと反省した。

 ジルス・ベドがフェナリブに行きませんかとホテルに訪ねてきた。国際港のあるトマシナから真北に向かう海沿いの道を100キロほど行った所にある。アトラスの地図には「フェノアリボ(Fenoarivo)」とローマ字読みに表記されているが、マダガスカルではフェナリブと発音されている。フェナリブは良質な胡椒の産地であると同時に、ベド家の属するベツィミサラカ族の本拠地でもある。フェナリブにもある自宅に彼の両親が滞在しているので、是非にもお連れしたいと云う申し出であった。願ってもないチャンスであった。日本で使われている胡椒の主な産地はインドネシア、マレーシア、それとフィリッピンである。これらの国の品は悪くないが、非常に高い。フェナリブから直接買えれば、高品質な胡椒を日本が現在輸入している価格の半値かそれ以下で買える。胡椒については以前にも書いた。マダガスカル編の5と16をご参照願いたい。
 それに、もう一つフェナリブには用事があった。麻布にあるマダガスカル大使館の商務官に頼まれた件である。日本製のトレッキング・シューズを彼の妹に届けて欲しいと頼まれていたのだ。彼の妹はフェナリブでトレッキングのガイドをやっている。妹にねだられて、本皮の上等なものを無理して買ったらしい。かなりの重さがあったが、何とかスーツケースに入れてきた。




 途中の、川岸にある店では竹の皮に似た草で編んだ様々な生活用品が売られていた。客の多くは笊と云うか、籠と云うか、瓶に似た蓋付きの容器を買っていた。私はソンブレロ風の帽子を買って被ってみたが、強烈な太陽を遮ってくれ、実に快適であった。


 マダガスカルの他の河川と同様に、此処に架かっていた橋も壊れていたままに放置されていた。


 此の、のんびりとした風景は心を慰めてくれる。


 壊れたままの橋の50メートルほどの下流にシャンブー・シャラシャラ(舟じゃない舟、マダガスカル編の19をご参照願いたい)の渡船場があった。


 対岸からシャンブー・シャラシャラは既に着いており、積み込みが始まっていた。香港にいる中国人も含めて、中国人は順番を守らずに先を争、人を押しのけて乗り込もうとする。だが、マダガスカル人は焦らずにゆったりと待つ。


 我々以外にも乗船客は多く、次のシャンブー・シャラシャラまで待たなければならないだろう。


 少しでも多く車を乗せ、人と物資を運ぶ。土台となっているボートの浮力はかなり強いらしく、シャンブー・シャラシャラの上甲板が水に浸かる心配はないようだ。ベテランの「船長」の指示のもと、乗客たちも手伝いながら積み込みを行っていた。




 この白いピックアップトラックも乗せるらしく、場所を整理していた。人間は車と車の空いた隙間に乗り込む。人間優先ではなく、車優先のようだ。


 何とか空間を作り、ピックアップトラックは「船員」の誘導でゆっくりとャンブー・シャラシャラの「上甲板」に進んでいった。


 どうにか全ての整理がついたらしく、いよいよ出航の最終準備を始めたようだ。


 上の看板であるが、恐らく渡船料金と重量制限が書かれているのであろう。詳しく知りたかったのでダガスカル大使館に何度かメールを送って聞いたが、ウンでもスンでもなかった。以前はU嬢と云う非常に優秀で親切なお嬢さんが大使の秘書をやっていた。彼女の後任のご婦人の従業員にマダガスカルについて何かを聞こうとすると、「それには答えられません。業務に差支えます」と云う返事が必ず返ってくる。もう一人の若いお嬢さんは非常に親切であるが、私が電話すると意地の悪い、年かさの従業員の方が出ることが多い。それで、電話をしなくなった。「業務に差支える」と云うが、我々の質問に答えるのも業務の一つであろう。親切な方のお嬢さんは、自分で答えられない件は気軽にマダガスカル人の大使館員にすぐに聞いてくれる。非常にありがたい。
 今回はマダガスカル人の大使館員宛にメールに上の写真を添えて何度か質問したが、一向に質問に答えて貰えていない。本国にいるマダガスカル人は非常に親切で親しみやすい。日本人の従業員が私のメールをマダガスカル人の大使館員に取り次いでいないのか、マダガスカル人の従業員が私のメールを面倒がって無視しているのかは不明である。
 ビルマ大使館のビルマ人はもっとひどい。質問の途中でも、「そんなこと、私は知らない」と電話を切ってしまう。発展途上国の大使館員は、日本人従業員も含めて「特権階級」の一員であるとの考え違いをしているのではないだろうか。特に日本人にビザを発給する大使館には威張りくさっている従業員が多い。その国にとって非常にマイナスである。一言付け加えたいが、特殊な場合を除いてビザを発給する必要のないタイやマレーシア、それにインドネシアなどの大使館は日本人の従業員も含めて、非常に親切である。

TDY, Temporary Duty マダガスカル編 48

2014年12月01日 | 日記
 今年もまたサイクロンの季節がやって来た。マダガスカルにやって来る大型のサイクロンは2月と3月が最も多く、日本の台風と6カ月程のずれがある。アンタナナリブからインド洋に面しているトマシナ(旧タマタベ)に行くには、サイクロンと向き合う形になるが、どうしても行かなくてはならなかった。マダガスカルではめったにない港湾ストライキが行われていた。我々の荷がいつ積まれ、その船がいつ出航出来るか確かめる必要があった。そのようなことを確かめるだけなら、読者諸兄諸姉は電話で済むとお考えかもしれないが、繋がらないことが多い。回線はそれほど多くなく、大勢が電話しようとすると、いつでも話し中の状態になってしまう。電話回線の状況はビルマほど悪くはないが、首都のアンタナナリブを離れると極度に悪くなる。行って確かめるしかなかった。アンツォヒヒで大量に手に入れたパリサンダーを全て出荷出来ていない状況であった。現地では配送の準備は整っているが、出港地の倉庫に入れないことには輸出されない。
 10日も続いているストライキがそろそろ終わりそうではないかと期待してトマシナにやって来たが、港湾事務所の周囲には労働者が大勢押しかけて、双方とも大声で応じあっていた。ジルス・ベド社長が港湾事務所の中に入って行ったが、興奮した顔で出てきた。「メリナの奴等はいつもあのような態度を取る」と大きな声で独り言を云った。以前にも述べたように、ジルス・ベドはアフリカ系のベツィミサラカ族である。マダガスカルではメリナ族に次ぐ人口を有している。これまでにマダガスカルでは他の部族の悪口を聞いたことがなかった。ジルス・ベドの口からこのような言葉を聞くのは意外であった。食事をしながら聞いたところでは、このストライキはもうじき終わるがかなりの荷物がたまっている。その出荷は荷主がメリナ族のものから船積みされると聞かされたらしい。もしかしたら、既に保税地域に運び込んだのがメリナ族だっただけかもしれない。ジルス・ベドは港湾事務所の所長がメリナ族なので、メリナ族に特別な便宜を図ったのだと思い込んでいるようだった。
 何れにしろ、ストライキは収束に向かっているようなので、多少は時間がかかっても、船積みの希望は持てた。


 ネプチューン・ホテルのメイン・エントランスの庭のテーブルや椅子が昨夜の風と雨で地面にたたきつけられていた。


 その同じ場所を、間違えて茶色に色を変えたカメレオンがゆったりと朝の散歩をしていた。このカメレオンは非常に大人しく、手のひらに乗せるとじっとしている。また、腕に這わせるとゆっくりと上に登ってくる。カメレオンは、庭木のあるところには何処にでも生息しており、通常は草色である。マダガスカルには非常に多くの種類のカメレオンがおり、中には体長が50~60センチのカメレオンもいると聞いている。その殆どが固有種で、カメレオンの研究の為だけにマダガスカルに通っている生物学者が想像以上に多くいた。












 朝食を済ませた後で、海岸沿いの道から山側の道に入ってみた。大量の雨で土留めがしっかりしていない個所は大きく削られていた。土砂で道路が覆われ、四輪駆動車でなければ、自由に走れないほどであった。




 海岸線を北に行くと、道が大きく削られており、近くの住民は何時になったら補修されるのかと心配していた。
 帰国後、この写真を友人である衆議院議員の所に持って行った。何とかマダガスカルに援助金を送れないかと相談に行ったのだ。後日、秘書を通して「難しい」との返事がきた。彼は自民党ではなかったので、強硬に推し進められなかったのか、マダガスカルは日本にとって重要な国ではないので断られたのか、実のところはわからない。秘書は「この写真だけではよく実態がつかめない。もっと詳しい資料が必要だ」と云ってきた。政治家特有の断り方だと理解した。詳しい資料が必要であるなら、いくらでも集められる自信があった。だが、日本政府に援助する「意志」が有るか無いかだ。友人は自分では断り難かったのであろう。秘書に連絡させる手を使った。

 先週も懲りずに写真仲間と日本民家園に紅葉を撮りに行ってきた。日本の各地から古民家を移築して、当時のままの姿で公開しているので、私は年に何回となく此処を訪れる。今回は紅葉の季節と重なったため、紅葉の写真が多くなったが、本来は古民家を様々な角度から撮影する。それに、囲炉裏に火がくべられているので、それを撮るのも楽しみにしている。何度通っても、別の顔を見せてくれる、私のお気に入りの撮影スポットの一つである。
 新宿で皆と別れ、私は所用があって東急ハンズに向った。その途中、南口の道路を渡ってから思わぬ拾いものにぶつかった。我国の誇るLED電球がふんだんに使われているイルミネーションに出合ったのである。