TDY、Temporary Duty。アメリカの軍隊用語で出張を意味する。世界の僻地の出張記録!TDYの次は日常の雑感

現役時代の出張記録。人との出会いと感動。TDY編を終え、写真を交えた日常の雑感を綴る。

折々の写真&雑感 24

2015年08月31日 | エッセイ
 我国は中国に対して過去3兆円を超す有償、無償の経済援助を行ってきた。そればかりか人材育成にも膨大な貢献をしてきた。それに依って中国のインフラが整備され、経済発展の基礎が出来た。その日本に対して、彼等は日本を敵視している。彼等の宗教や古の賢人の教えを守っているとするなら、礼儀をわきまえ、恩義を忘れない国民の筈である。今や韓国と同様の見下げ果てた国になってしまっている。
 
 写真を撮りに桂林を始めとする様々な地域に行きたいと願っていたが、もう何年も前から足を踏み入れるのも嫌になった。「抗日戦勝記念行事」と云っているが、日本は未だかってあの国に負けたことはない。第二次世界大戦では、日本軍は連合軍に負けたのであって、中国やロシアに負けたのではない。特にロシアなどは日本と交わした不可侵条約を無視して終戦間際に満州に攻め込み、多くの民間の邦人を殺戮し、婦女を暴行した。そして何十万人と云う兵士をシベリアに連れて行き苦役につかせた。そればかりか泥棒のように日本の領土である北方四島を盗んだ。そのロシアは日本に、四島返還を餌に経済協力を求めた。全く返す意思がないのにである。

 日本のお人よし過ぎる政治家先生には呆れてものが云えない。中国国民の暴動による日本の民間企業の損害をきちんと支払わせたのだろうか。また、返ってきそうもない北方四島にまだ夢を見ているのだろうか。北朝鮮による拉致問題をきちんと解決するご意志をお持ちだろうか。また、いつまで竹島に韓国の上陸を許しておくのだろうか。新聞を読むたびに腹が立ってくることばかりである。

 1970年代の半ば、アメリカ製のヘインズのTシャツが輸入価格で一枚300円もした。それが、インドや中国から輸入すれば、品質はかなり落ちるが、僅か10円であった。香港の取引さ先の一人が、「中国から買ってあげましょうか」と親切に声をかけてくれた。Tシャツを作っている国営企業では一年先まで注文が詰まっていたので、私は諦めていたのである。「賄賂を渡せば、直ぐに注文を受けてくれます」と云われて驚いた。中国は共産主義国家になり、汚職と無縁の国になったと私は信じていた。その香港人は云った「なーに、国が変っても、人は変わりません」。私は賄賂を委ねた。だが、Tシャツは予定通りの期日には届かず、L/C(信用状)の期限は切れた。香港人の仰った通り、「国が変っても、人は変わらなかった」。賄賂を騙し取られただけであった。

 以下の写真は全て川崎にある日本民家園で撮ったものである。一部を除いて撮影年月日は異なる。日本民家園では行く度に新しい発見がある。













 例によって、8月27日(木)の朝に撮ったカルガモ一家の写真を以下に掲載する。今朝は母ガモと8羽の子ガモが揃っているかどうかの確認にかなりの時間を取られた。殆どは池で泳いでいたのに、陸に上がっている奴がいた。8羽の子ガモを確認出来たときはホッとした。


 気の合った子供同志、お気に入りの場所に自由に行くようだ。手前の子ガモに青色の羽が生えてきたことをご覧になれると思うが、どの子ガモにもこの色の羽が生えてきた。従って、どれが母ガモか、此の羽の色だけでは判別がつかなくなった。


 母ガモであると確信を持てた。落ち着いた、自信にあふれる泳ぎ振りであった。彼女は子ガモたちの間をパトロールしているようだった。
 
今朝もモデル代の食パンを持って行ったが、競って餌を取りはしなかった。餌とは関係なく何羽かが私の方に寄ってきた。池の中と丘の上で餌は足りているようだ。私の食パンは殆どが鯉の餌になった。亀も寄って来た。彼等は争うことなく、自然に共存しているようだ。

折々の写真&雑感 23

2015年08月24日 | エッセイ
 中国の「抗日戦勝行事」にアメリカを始めとするドイツ、フランス、英国の各首脳は誰も出席をしないのに、韓国の大統領は出席すると云う。アメリカは、このように日本の神経を逆なでするような言動を取り続けている国と仲良くやれと要請、いや強く要求している。我々国民は悪意を持っている国と無理に仲良くしたくない。
 もし朝鮮半島で戦争が起きた場合、日本の自衛隊を戦わせるために、アメリカ政府はあらゆる手を打っている。それに気付いていないような自民党の議員先生たちではないと信じている。だが、気付いていてその手に乗るなら、呆れてものが云えない。小泉元首相が、「自分が安全だと云ったら、そこは安全な地域だ」など馬鹿も通り過ぎるようなことを云ったことがあった。自衛隊はその「安全な」クエイトのサマワに派遣された。小銃のほかに身を守る充分な武器すら持たされなかったと聞いた。ある上官は自衛隊の規約を無視して「身に危険が迫るようなら、迷わず発砲しろ」と部下に命じていたそうだ。幸い戦死者は出なかったが、非常な危険な状態だったと聞いている。

 朝鮮戦争に駆り出されたら、「危険を感じる」どころの騒ぎではない。ある若い海上自衛隊員から直接、「自分たちは国のために戦い、命を落とすであろう覚悟は出来ている」と悲壮な覚悟を聞かされた。国を守る為なら命をかけて戦うと覚悟している自衛隊員は決して少なくはないだろう。だが、朝鮮半島で戦うのでは話が違う。日本に悪感情を持つ韓国政府と、アメリカ軍のために戦う結果になる。

 朝鮮戦争が行われていた当時、立川基地にアメリカ兵の戦死者の遺体が続々と送られてきた。その遺体処理のアルバイトをしていた青年をモデルにした小説を読んだことがある。圧倒的に黒人兵の戦死者が多かったとその小説に書いてあったように記憶している。このことが気になり、日本政府からアメリカの空軍に派遣されるようになった時、朝鮮戦争に従軍したことのある佐官クラスの白人の将校のもとで勤務したことがあった。彼は当時、少尉で何人かの部下と最前線で戦っていた。「朝鮮戦争では圧倒的に黒人兵の戦死者が多かったと聞いているが、本当の事か」と聞いたことがあった。彼は即座に「本当だ。それは当然のことだった」と答えた。当時、黒人の地位は今ほど向上していなかった。黒人と云うだけで、白人に遠慮もしていた。軍隊では一応人種差別はなく、全て平等であると教育されていたが、白人兵と黒人兵との争いは日常茶飯事であったようだ。それならと、朝鮮戦争の頃に、白人だけの部隊と黒人だけの部隊を作ったそうだ。将校は話を続けた。「中国兵の協力を得た北朝鮮軍は強かった。我々は時に退却を余儀なくされた。その時、敵に向けていた野砲やその他の重火器は破壊してから退却した。これが軍の規定だ。だが、黒人兵は武器を破壊せず、そのまま逃げてしまった。敵は重火器の向きを変えて逃げて行く黒人兵を撃ちまくった。だから戦死者が多いのは当たり前だ。白人兵はぎりぎりまで頑張ってから退却、いや、後方前進した」。それで何とか黒人兵の戦死者が多かったのは納得がいったと感じたが、そればかりではないような気もした。その事を想い出すと、今でも何とも云えない気分になる。


 踊り終えたお嬢さんの襟足は実にきれいだった。モデルになって頂いたお礼にこの写真を差し上げたかったので、八方手を尽くして探したが見つからなかった。少し時間が経ってしまったが、思い当たる方がおりましたらご連絡を頂ければ幸いである。











 以下の写真はその後のカルガモ一家。8月19日(水)に撮ったものであるが、一つの画面に一家を収めることは無理であった。子ガモが大きくなったのが最大の原因であるが、成長するに従って必ずしも行動を同じにはしていない。此の日も写真を撮る前に一家の数を数えた。確かに八羽の子ガモと一羽の母ガモが揃っていた。


 手前が子ガモで奥が母ガモだと思うが、大きさでは判断が難しくなった。母ガモは濃い青色の羽が下部にあるので、それで区別するしかない。子ガモたちは体こそ大きくなったが、飛べるほどに羽が成長していない。


 どうも落ち葉の中から、旨そうな葉を選んで餌にしているらしい。

折々の写真&雑感 22

2015年08月17日 | エッセイ
 以前にこのブログの「16」で多少触れたように、娘に頼まれて香港の一年のうちで最も暑い6、7、8月の約三カ月を滞在したことがあった。娘が住んでいるところは屯門(テュンムン)と云い、香港の新界と呼ばれている地域である。西の外れにある香港の郊外である。非常に緑が多く、香港の中心街しか訪れたことのない方々にとっては、別世界である。九龍(カオルーン)からは頻繁に運行されている路線バス、地下鉄等々を利用すればわけもなく行ける。屯門地区内には二系統のチンチン電車〈路面電車〉が円を描くように走っている。また、屯門碼頭(テュンムン・マトウ、碼頭は桟橋とか港の意)から香港島へは、ジェットの高速船を使えば30分ほどで行けてしまう。ご存じとは思うが、九龍半島は1842年の南京条約と1860年の北京条約で、英国が中国から割譲された地域である。新界とは、その後の1898年に99年間の期限で租借された地域及び200を超える島々を指す。話が少し外れるが、英国が中国に香港を返還するのは、此の新界だけで、九龍半島はそのまま英国の領土であると考えていた。だが、したたかな中国人に九龍半島も含めて取り返されてしまった。同じように、日本の北方領土である四島を取り返せないものだろうか。日本の外交力の弱さでは、ただ夢を見るしかないようだ。

 娘が住んでいる地域の公園には何ヶ所も2メートル四方ぐらいの木枠に砂が入っている場所がある。砂場にしては随分と小さいなと思っていたら、砂場ではなく犬と猫の公衆トイレであると説明された。だが、猫や犬が其処で用を足しているのを一度も見たことはなかった。

 ある日、娘の用事を済ませたついでに路面電車に乗って「市中心站(駅)」に行った。此の駅は名前の通り屯門の中心にあり、大きなショッピング・センターがいくつもある。果物屋の中に入り、涼をとりながら旨そうな果物を物色していると、「今はこれが美味しいです」と店員のお嬢さんに日本語で云われた。しかも非常にきれいな日本語であった。彼女が指差した先には漢字で「茘枝」と書かれており、ライチーが山盛りになっていた。私が不思議そうな顔をしてお嬢さんを見ると、「私、日本に憧れています。必ず日本に行きたいと一生懸命に日本語を勉強しています」と云った。日本で日本語を聞くなら別に驚くことではないが、屯門で日本語で話しかけられたのには驚いた。ライチーを買った後で、何故私が日本人だと分かったのかと聞いた。「屯門に住んでいる日本人は一人しか居ません。その人のお父さんが日本から来ていると噂で聞いていました」。そう云うと、親しげな笑顔を見せてくれた。その時の私の服装から、どう見ても観光客ではないと判断したらしい。娘が住んでいる場所と、此処とでは新宿から東中野ほどは離れている。何かの間違いだろうと考えていると、彼女は娘の名前を正確に云った。娘は女優や歌手でもないのに、噂とは凄いものだ。まるで小さな集落に居るような気がした。その後、どうせ暇なので彼女の日本語の勉強に付き合った。果物屋のお嬢さんとの日本語でのおしゃべりは非常に楽しいものになった。以前にも「TDY編」のブログでも書いたと思うが、外国人から見ると、他のアジア人との区別が何となくつくそうだ。

 先週、暑いのを我慢して写真仲間三人と昭和記念公園にサギソウを撮りに行った。花壇で育てられている他に、ボランティアの方々が丹精込めて育てたサギソウの鉢植えを貸して頂ける。それを思い思いの場所に持って行き、納得のいくまで、失敗を重ねながら写真を撮る。花の写真が苦手な私にとって、サギソウを撮るのは特に難しいと感じた。昨年までは明るめの望遠レンズを使ったり、手ごろなレンズに接写リングを使ったりと苦労してきたが、今年は100ミリのマクロレンズをフルサイズのカメラに装着して撮った。このレンズには手振れ防止の機能があるが、ちょっとした風でもサギソウは揺れてしまうので、その効果は期待出来なかった。その上、ピントも手動で合わせるしかなかった。













 以下の写真は8月13日(木)の夕方に撮ったカルガモである。私が行ったときには、一家が岸辺でくつろいでいた。どれが母ガモであるかわからぬほどに子ガモたちは成長していた。よく見ると、他のカルガモたちより落ち着いた様子で優しそうに見える一羽がいた。多分彼女が母ガモであろうと判断した。その母ガモの他に、子ガモがちゃんと8羽揃っていた。


 亀の休憩場所を通過するときでも、非常に落ち着いていた。成長した子ガモである。


 雑食であるカルガモの食性を実感した。動物性の餌だけではなく、母ガモに習い、子ガモたちも植物も餌にしていた。

折々の写真&雑感 21

2015年08月10日 | エッセイ
 以前に観たTBSの「世界ふしぎ発見」の中で、地名は忘れてしまったが、秋のシーズンになるとアワビを一人につき六個までなら、誰でも自由に獲れると紹介していた。地元の家族がアワビを海岸で料理している場面があった。
 アラスカでのキング・サーモンの釣りは一人が一日5匹まで認められているそうだ。以前に私の貿易会社の契約社員として働いてくれていたジェラルド、通称ジェリーは元アラスカの州警察の警官であった。彼は夜の8時か9時ごろ、彼だけが知っている釣りのポイントに着き、その日に許可されている5匹を釣り上げる。そして、夜中の12時を待って翌日分の5匹を釣る。一度の釣行で10匹を釣ってしまう。決して違法ではない。彼がニヤニヤしながらこのことを話してくれたことがあった。「現職の警官が違法な行為は出来ないからな」と胸を張っていた。

 その彼が原宿の私の事務所にやって来たとき、厚手の布袋に10円玉を、片手で持ち上げるのが苦労するほど持ってきた。そのわけを聞くと、「これは自動販売機で25セントとして使えるんだ」と云った。警官時代、自動販売機に見慣れない硬貨が入っているとの苦情が何件もあった。それが10円玉であった。1980年代の当時、25セントは日本円で55円から60円ほどの価値があった。いくら警官を辞めて民間会社に勤めたからと云って、警官時代に得た知識を利用して悪事を働くとはとんでもないと思った。少量の10円玉なら許せる部分もあるが、あれほどの10円玉をアメリカに持ち帰って25セントとして使うなら、立派な犯罪行為である。それをきっかけに、彼との契約の更新は行わない方がいいと考えた。頭が切れ、非常に調子がいい。私の要求した仕事はきちんと果たしてくれていた。だが、一つ信頼しきれない部分があった。だが、10円玉が25セントとして通用するなど、初めて知った。そして試してみたい誘惑に駆られた。
 
 所用でロサンゼルスに行った帰り、私の乗る便がキャンセルになり、次の便まで何時間も待たされることになった。トイレに行くと、靴磨きの機械があった。料金は25セントだった。いいチャンスだと、ポケットにあった10円玉を入れてみた。機械に靴を入れても全く動こうとしなかった。蹴っ飛ばしてみたが駄目だった。床に「out of order(故障中)」の張り紙が落ちていた。二重の悔しさを味わった。10円玉が25セントに変身する実感を得られなかったことと10円も損してしまった。不正をしたのだから苦情も云えなかった。


 北鎌倉の円覚寺。朝早く寺を清掃に向う人の前に、お参りのご婦人が歩いていた。


 鎌倉の佐助稲荷を遊び場にしている少年。あの長い階段を何回も駆け登ったり、駆け降りたりしていた。


 腰越海岸にある小動(コユルギ)神社。


 青山の梅窓院。フルサイズのカメラに17-40ミリの広角レンズを装着して撮った。山門の下からの光をもっと強調したかったが、時間が経つに従ってそれが難しくなった。時間との勝負だった。


 杉並の妙法寺。特別にお願いしてお寺の中に入れて頂いた。渡り廊下から外を見ると、全く違ったお寺を拝見しているように感じた。

 下の二枚の写真は8月8日(土)の朝に撮ったカルガモの写真。


 岩に乗っている母ガモと私の目が合った。彼女だけが岩から降り、私の方に泳いできた。今までは払ったことがなかったので、今朝はモデル料として一枚の食パンを払った。すぐに鯉との争奪戦が始まった。


 朝食の終った母ガモは、眠気の去らぬ子ガモのために見張りに着いた。此の岩には3羽しか居なかったが、岸近くの藪の中に残りの5羽が寝ていた。かなり大きく育っていた。

折々の写真&雑感 20

2015年08月03日 | エッセイ
 双子の娘たちが大学に入ったばかりの頃だと記憶しているが、彼女らの化粧台にノクゼマ(Noxzema、アメリカの州によってはノクザメと発音している。日本の広告では、「ノックスジーマ」とわけの分らぬ振り仮名がついている)の壜があった。これは乾燥肌に塗る、黒人専用の薬用クリームである。黒人の多くは乾燥肌で冬になり空気が乾いてくると肌が割れる。それを防ぐためのクリームである。そのことを娘たちに説明すると、「肌にいいと云われて買ったの。とても高かったわ」と口々に云った。捨てるには高すぎたようで、足のかかとが割れる友人に差し上げたと後で聞いた。

 黒人と書いたが、現在のアメリカでは「アフリカ系アメリカ人」と云わなければならぬそうだ。日本語同様に不自由になった。ニグロ(negro)は黒人の意で、決して蔑称ではない。而し、ニガー(nigger)は黒ん坊の意で明らかに蔑称である。それで「カラード・ピープル」(色つきの人たち)と黒人を呼び、今では「アフリカ系アメリカ人」と呼ばれている。また、友人によるとフランスでも黒人(noir、黒の意)とは云わずに「アフリカから来たフランス人」という云い方をしているそうだ。それなら、アフリカに住んでいる黒人は「アフリカ系アフリカ人」、或いは「アフリカに住んでいるアフリカ人」と呼ばなければいけないのか?
 
 日本でも盲人とは云わせず「目の不自由な人」と呼ばされる。それなら、度のきついメガネをかけても、よく見えない人はなんと呼べばいいのか?このような人たちだって「目の不自由な人」である。アメリカでは黒人の事には非常な神経を使っているが、その他のことには無頓着であるように思える。我々アジア人を有色人種とか黄色人種と云っている。「アジアに住んでいる人たち」との表現は聞いたことがない。盲人の事は単に「blind」或いは「blind person」と呼んでいる。また「ブラインド・メイド」と云うブランド名のホウキが売られている。盲人が自立のために作ったホウキである。決して「目の不自由な人が作ったホウキ」とは云わない。

 電車やバスに「お年寄りや身体の不自由な方に席をお譲り下さい」と云うことが書かれ、松葉杖や妊婦のイラストが描かれている。この席に若者が堂々と足を広げて座っている。その前に杖をついているお年寄りが立っていても知らん顔である。このような情景を見ていると「頭の不自由な人もどうぞ!」と云う張り紙をしたくなる。

 香港から夏休みに、当時小学校一年の孫娘が一人で日本に遊びに来たことがあった。電車の座席に座った途端に足を組んだ。「電車で足なんか組むんじゃない!」と孫娘を叱ると、隣に座っていたお嬢さんまで「すみません」と足を組むのをよした。アメリカやヨーロッパから来る観光客の一部は平気で足を組む。彼等の国で乗っている電車は日本のような狭軌ではなく、広軌であるので車体の幅が広い。従って車内で足を組んでもそれほど他人の迷惑になることはない。だが、良識のある人は隣の人の迷惑を考え、決してこのようなことはしない。

 苦手な花を懲りずに撮ってみた。花を撮る場合、皆様は当然ご存じであろうが、マクロレンズを使うのに適した花と、望遠レンズを使うのに適した花がある。以下の花は全て70-200ミリの明るいレンズで撮ったものである。













 
 以下の写真は、7月29日(水)に撮ったカルガモ親子の写真である。水上が6割、丘の上の生活が4割ほどになっていた。子ガモたちは8羽とも無事だった。


 池から上がり、対岸の草地に行くにはどうしても渡らなくてはならない道がある。母ガモは交通整理の警官のように左右を見渡していた。


 子ガモたちが土の中の虫を探している間も、母ガモは注意を怠っていなかった。私からは2メートルと離れていなかったが、安全を確認したのか逃げる様子はなかった。