マラリアが発症した1993年の5月に入院し、約3週間ほどで退院した。全く動かずにベッドで寝ていると、10日もしないうちに立てなくなってしまうことを実感した。一日も早く退院したかった。その旨を今村先生にお願いすると「このままでは退院しても粗大ゴミでしょう」と云われてしまった。それで、必死に立つことを練習し、歩行練習も始めた。
5月の末には何とか退院出来たが、一歳児の歩行と同じようなものだった。練習の結果、何とかまともに歩けるようになったのは6月の半ばを過ぎたころだったと思う。
あまり無茶はしないように、少しでも熱が出たらすぐに病院に駆け込むようにと先生から厳重な注意を受け、9月にインドネシアに行った。友人の材木商から依頼を受け、家具用の材木を仕入れるためだった。帰ってから今村先生の診察を受け、なんとか合格点を頂いた。
久しぶりに新木場に顔を出すと、顔見知りの業者と偶然に出会った。彼は町田の方に事務所を構え、一般建築材を扱っている。私とは競合しないので、色々と情報交換をしあう仲であった。彼に枕木を手に入れてくれないかと頼まれた。枕木はマレーシア産のクルーインが最適であるが、非常に値が高くて手が出ないとのことだった。この材はトラックの荷台にも使われるほど固く、粘りもある。此れと同じ樹種がビルマにある。ガジュンと云い、クルーインとは商品名が違うが学術名は同じである。この話をすると、是非とも手に入れて欲しいと頼まれた。
3年ぶりのビルマだった。1989年、1990年と今回の1993年。何一つ変わっていなかった。空港の非能率な手作業。穴ぼこだらけの道路。相変わらずの戒厳令。そして威張りくさった兵隊ども。そのような中でミント・ウー社長の商売が上向いているようで、自分の車を持ち、長男を社員兼運転手として使っていた。非常に嬉しいことだった。
ビルマのカリンを諦め、PNG(パプア・ニュー・ギニア)の離れ島からの黒檀、マダガスからのパリサンダーの輸入に専念していたので、ビルマにはもう来ることもないと思っていた。来たついでに私の専門外だが、日本ではほとんど手に入らなくなった櫛の材料となるツゲ、高級内装材であるチーク、その他にも多くの樹種がビルマにはあるので、その下調べもすることにした。
ストランド・ホテルではマネージャーのドゥー・ウネ(ドゥーは年配のご婦人に対する尊称)を始め、顔なじみだった従業員が歓迎してくれた。以前から働いていたベル・ボーイが私のスーツケースを持ってエレベーターの前まで運んできた。ストランド・ホテルではエレベーターが一機だけあったが、自動ではなくエレベーター・ボーイが動かしていた。運転の下手な奴で、目的の階に着いても、床と平行に停められたためしがなかった。あれから3年もたっているのに運転の腕はひどいものだった。以前は、急いでいるときに限ってサボっていたので、階段を使ったことが何度もあった。
着いた夜は、味気ないホテルのレストランは敬遠してタイ料理の「サラ・タイ」に行った。バンコクで評判を聞いたのだが、期待を裏切られなかった。
ミント・ウー社長一家。長女のサンダー・ルーは居なかったが、成長した子供たちに会えた。
ココ・ジィーの奥さんのセン・セン(中央)と長女のモー・モーは共同でラングーン(現ヤンゴン)の最大のマーケットであるボジョー・マーケットに宝飾店を開いていた。モー・モーは閉鎖されたままになっていたラングーン大学に戻るのを諦め、既に結婚していた。
「ビルマ編」をお読みになっていない方は奇異に感じると思うが、ビルマ(現ミャンマー)には苗字がない。従って、名前だけで親子関係は判断出来ない。
驚いたことに、民営の、しかも個人のホテル経営が許可されていた。上の三枚の写真はココ・ジィーの奥さんのセン・センの親戚であるオン・スーの経営するホテル。自宅を改造した民宿のようなものだった。すぐ上の写真のご婦人がオン・スーの奥さん。オンは成功の意味で、スーは祈りの意味だそうだ。「Princes Inn」と云う名前を付けたところを見ると、かなり奥さんに参っているらしい。支払はVisaカード、Amexカード、米ドル、日本円のどれでもいいそうだ。以前にビルマに来たときは米ドルかAmexカードしか受け付けて貰えなかった。経営者のオン・スーが全ての通貨をタイで換金してくるそうだ。このへんの所の締め付けが緩やかになっていたのには驚いた。
既に多少の枕木は用意されていたが、我々の要求を満たすには程遠い数量だった。
工場では製造に精を出していたが、家内工業のような設備ではかなりの時間がかかりそうだと覚悟した。近代的な新木場の材木工場に比べるべくもなかった。終戦直後でももっとましな工場だったと写真を見た新木場の老舗の社長が云っていた。すぐ上の写真は、停電したときに備え、車のエンジンを利用して製材機を動かす装置である。
裏に廻ってみたが、到着するはずになっている材木がまだ来ていなかった。カリンの二の舞にならないかと危惧した。
以前に知り合った政府の役人(名前は伏せたい)のお宅にお邪魔した。枕木の件を話すともう一つの工場を紹介してくれた。
上の二枚の写真は政府の役人から紹介を受けた製材工場。規模は最初の工場より小さいが、やる気満々の男たちが働いていた。ミント・ウー社長には二つの工場と契約し、一日でも早く出荷が出来るよう頑張ってもらうことにした。
ミント・ウー社長と長男。後ろの木は何かの記念で植樹されたらしいが、全く理解出来なかった。
5月の末には何とか退院出来たが、一歳児の歩行と同じようなものだった。練習の結果、何とかまともに歩けるようになったのは6月の半ばを過ぎたころだったと思う。
あまり無茶はしないように、少しでも熱が出たらすぐに病院に駆け込むようにと先生から厳重な注意を受け、9月にインドネシアに行った。友人の材木商から依頼を受け、家具用の材木を仕入れるためだった。帰ってから今村先生の診察を受け、なんとか合格点を頂いた。
久しぶりに新木場に顔を出すと、顔見知りの業者と偶然に出会った。彼は町田の方に事務所を構え、一般建築材を扱っている。私とは競合しないので、色々と情報交換をしあう仲であった。彼に枕木を手に入れてくれないかと頼まれた。枕木はマレーシア産のクルーインが最適であるが、非常に値が高くて手が出ないとのことだった。この材はトラックの荷台にも使われるほど固く、粘りもある。此れと同じ樹種がビルマにある。ガジュンと云い、クルーインとは商品名が違うが学術名は同じである。この話をすると、是非とも手に入れて欲しいと頼まれた。
3年ぶりのビルマだった。1989年、1990年と今回の1993年。何一つ変わっていなかった。空港の非能率な手作業。穴ぼこだらけの道路。相変わらずの戒厳令。そして威張りくさった兵隊ども。そのような中でミント・ウー社長の商売が上向いているようで、自分の車を持ち、長男を社員兼運転手として使っていた。非常に嬉しいことだった。
ビルマのカリンを諦め、PNG(パプア・ニュー・ギニア)の離れ島からの黒檀、マダガスからのパリサンダーの輸入に専念していたので、ビルマにはもう来ることもないと思っていた。来たついでに私の専門外だが、日本ではほとんど手に入らなくなった櫛の材料となるツゲ、高級内装材であるチーク、その他にも多くの樹種がビルマにはあるので、その下調べもすることにした。
ストランド・ホテルではマネージャーのドゥー・ウネ(ドゥーは年配のご婦人に対する尊称)を始め、顔なじみだった従業員が歓迎してくれた。以前から働いていたベル・ボーイが私のスーツケースを持ってエレベーターの前まで運んできた。ストランド・ホテルではエレベーターが一機だけあったが、自動ではなくエレベーター・ボーイが動かしていた。運転の下手な奴で、目的の階に着いても、床と平行に停められたためしがなかった。あれから3年もたっているのに運転の腕はひどいものだった。以前は、急いでいるときに限ってサボっていたので、階段を使ったことが何度もあった。
着いた夜は、味気ないホテルのレストランは敬遠してタイ料理の「サラ・タイ」に行った。バンコクで評判を聞いたのだが、期待を裏切られなかった。
ミント・ウー社長一家。長女のサンダー・ルーは居なかったが、成長した子供たちに会えた。
ココ・ジィーの奥さんのセン・セン(中央)と長女のモー・モーは共同でラングーン(現ヤンゴン)の最大のマーケットであるボジョー・マーケットに宝飾店を開いていた。モー・モーは閉鎖されたままになっていたラングーン大学に戻るのを諦め、既に結婚していた。
「ビルマ編」をお読みになっていない方は奇異に感じると思うが、ビルマ(現ミャンマー)には苗字がない。従って、名前だけで親子関係は判断出来ない。
驚いたことに、民営の、しかも個人のホテル経営が許可されていた。上の三枚の写真はココ・ジィーの奥さんのセン・センの親戚であるオン・スーの経営するホテル。自宅を改造した民宿のようなものだった。すぐ上の写真のご婦人がオン・スーの奥さん。オンは成功の意味で、スーは祈りの意味だそうだ。「Princes Inn」と云う名前を付けたところを見ると、かなり奥さんに参っているらしい。支払はVisaカード、Amexカード、米ドル、日本円のどれでもいいそうだ。以前にビルマに来たときは米ドルかAmexカードしか受け付けて貰えなかった。経営者のオン・スーが全ての通貨をタイで換金してくるそうだ。このへんの所の締め付けが緩やかになっていたのには驚いた。
既に多少の枕木は用意されていたが、我々の要求を満たすには程遠い数量だった。
工場では製造に精を出していたが、家内工業のような設備ではかなりの時間がかかりそうだと覚悟した。近代的な新木場の材木工場に比べるべくもなかった。終戦直後でももっとましな工場だったと写真を見た新木場の老舗の社長が云っていた。すぐ上の写真は、停電したときに備え、車のエンジンを利用して製材機を動かす装置である。
裏に廻ってみたが、到着するはずになっている材木がまだ来ていなかった。カリンの二の舞にならないかと危惧した。
以前に知り合った政府の役人(名前は伏せたい)のお宅にお邪魔した。枕木の件を話すともう一つの工場を紹介してくれた。
上の二枚の写真は政府の役人から紹介を受けた製材工場。規模は最初の工場より小さいが、やる気満々の男たちが働いていた。ミント・ウー社長には二つの工場と契約し、一日でも早く出荷が出来るよう頑張ってもらうことにした。
ミント・ウー社長と長男。後ろの木は何かの記念で植樹されたらしいが、全く理解出来なかった。