TDY、Temporary Duty。アメリカの軍隊用語で出張を意味する。世界の僻地の出張記録!TDYの次は日常の雑感

現役時代の出張記録。人との出会いと感動。TDY編を終え、写真を交えた日常の雑感を綴る。

TDY, Temporary Duty ビルマ番外編 枕木

2014年05月26日 | 旅行
 マラリアが発症した1993年の5月に入院し、約3週間ほどで退院した。全く動かずにベッドで寝ていると、10日もしないうちに立てなくなってしまうことを実感した。一日も早く退院したかった。その旨を今村先生にお願いすると「このままでは退院しても粗大ゴミでしょう」と云われてしまった。それで、必死に立つことを練習し、歩行練習も始めた。
 5月の末には何とか退院出来たが、一歳児の歩行と同じようなものだった。練習の結果、何とかまともに歩けるようになったのは6月の半ばを過ぎたころだったと思う。

 あまり無茶はしないように、少しでも熱が出たらすぐに病院に駆け込むようにと先生から厳重な注意を受け、9月にインドネシアに行った。友人の材木商から依頼を受け、家具用の材木を仕入れるためだった。帰ってから今村先生の診察を受け、なんとか合格点を頂いた。

 久しぶりに新木場に顔を出すと、顔見知りの業者と偶然に出会った。彼は町田の方に事務所を構え、一般建築材を扱っている。私とは競合しないので、色々と情報交換をしあう仲であった。彼に枕木を手に入れてくれないかと頼まれた。枕木はマレーシア産のクルーインが最適であるが、非常に値が高くて手が出ないとのことだった。この材はトラックの荷台にも使われるほど固く、粘りもある。此れと同じ樹種がビルマにある。ガジュンと云い、クルーインとは商品名が違うが学術名は同じである。この話をすると、是非とも手に入れて欲しいと頼まれた。

 3年ぶりのビルマだった。1989年、1990年と今回の1993年。何一つ変わっていなかった。空港の非能率な手作業。穴ぼこだらけの道路。相変わらずの戒厳令。そして威張りくさった兵隊ども。そのような中でミント・ウー社長の商売が上向いているようで、自分の車を持ち、長男を社員兼運転手として使っていた。非常に嬉しいことだった。
 
 ビルマのカリンを諦め、PNG(パプア・ニュー・ギニア)の離れ島からの黒檀、マダガスからのパリサンダーの輸入に専念していたので、ビルマにはもう来ることもないと思っていた。来たついでに私の専門外だが、日本ではほとんど手に入らなくなった櫛の材料となるツゲ、高級内装材であるチーク、その他にも多くの樹種がビルマにはあるので、その下調べもすることにした。

 ストランド・ホテルではマネージャーのドゥー・ウネ(ドゥーは年配のご婦人に対する尊称)を始め、顔なじみだった従業員が歓迎してくれた。以前から働いていたベル・ボーイが私のスーツケースを持ってエレベーターの前まで運んできた。ストランド・ホテルではエレベーターが一機だけあったが、自動ではなくエレベーター・ボーイが動かしていた。運転の下手な奴で、目的の階に着いても、床と平行に停められたためしがなかった。あれから3年もたっているのに運転の腕はひどいものだった。以前は、急いでいるときに限ってサボっていたので、階段を使ったことが何度もあった。

 着いた夜は、味気ないホテルのレストランは敬遠してタイ料理の「サラ・タイ」に行った。バンコクで評判を聞いたのだが、期待を裏切られなかった。


 ミント・ウー社長一家。長女のサンダー・ルーは居なかったが、成長した子供たちに会えた。




 ココ・ジィーの奥さんのセン・セン(中央)と長女のモー・モーは共同でラングーン(現ヤンゴン)の最大のマーケットであるボジョー・マーケットに宝飾店を開いていた。モー・モーは閉鎖されたままになっていたラングーン大学に戻るのを諦め、既に結婚していた。
 「ビルマ編」をお読みになっていない方は奇異に感じると思うが、ビルマ(現ミャンマー)には苗字がない。従って、名前だけで親子関係は判断出来ない。






 驚いたことに、民営の、しかも個人のホテル経営が許可されていた。上の三枚の写真はココ・ジィーの奥さんのセン・センの親戚であるオン・スーの経営するホテル。自宅を改造した民宿のようなものだった。すぐ上の写真のご婦人がオン・スーの奥さん。オンは成功の意味で、スーは祈りの意味だそうだ。「Princes Inn」と云う名前を付けたところを見ると、かなり奥さんに参っているらしい。支払はVisaカード、Amexカード、米ドル、日本円のどれでもいいそうだ。以前にビルマに来たときは米ドルかAmexカードしか受け付けて貰えなかった。経営者のオン・スーが全ての通貨をタイで換金してくるそうだ。このへんの所の締め付けが緩やかになっていたのには驚いた。




 既に多少の枕木は用意されていたが、我々の要求を満たすには程遠い数量だった。






 工場では製造に精を出していたが、家内工業のような設備ではかなりの時間がかかりそうだと覚悟した。近代的な新木場の材木工場に比べるべくもなかった。終戦直後でももっとましな工場だったと写真を見た新木場の老舗の社長が云っていた。すぐ上の写真は、停電したときに備え、車のエンジンを利用して製材機を動かす装置である。


 裏に廻ってみたが、到着するはずになっている材木がまだ来ていなかった。カリンの二の舞にならないかと危惧した。


 以前に知り合った政府の役人(名前は伏せたい)のお宅にお邪魔した。枕木の件を話すともう一つの工場を紹介してくれた。




 上の二枚の写真は政府の役人から紹介を受けた製材工場。規模は最初の工場より小さいが、やる気満々の男たちが働いていた。ミント・ウー社長には二つの工場と契約し、一日でも早く出荷が出来るよう頑張ってもらうことにした。


 ミント・ウー社長と長男。後ろの木は何かの記念で植樹されたらしいが、全く理解出来なかった。

TDY, Temporary Duty マダガスカル編 25

2014年05月19日 | 旅行
 フォー・ドーファンからアンタナナリブに戻り、するべきことは全て終えた。日本を出てから一カ月以上を経過している。予定表を見ると、家内が双子の娘を連れての香港旅行から帰っていることに気が付いた。里心がわき、自宅に電話をしてみた。電話には家内が出て、香港を楽しんで無事に帰って来たとのことだった。次に長女が代った「パパ、ありがとう。ビジネスクラスって凄いのね!」と云った。買ってやったのはツーリストクラスのチケットで、ビジネスクラスなどではない。貧乏旅行であったのに、帰りはビジネスクラスにアップグレードして帰って来たのかと、そのときは考えた。だが、後でその理由を聞いて吹き出した。当時の香港と成田との間の便には禁煙席と喫煙席があった。遅くチェックインしたせいか、他の理由からか、喫煙席しか空いていなかった。頑固な長女は「ノー・スモーキング・シート、プリーズ」と禁煙席の要求を頑としてひっこめなかったらしい。キャセイ航空の職員は困り果て、泣く泣く三人分のビジネスクラスの禁煙席を提供したのだった。当然のこと、機内食もビジネスクラスのものを勝ち取った。長女の頑固ぶりは未だに健在である。

 帰る前に、招待されていたラザフィンドラティラ氏のお宅に伺うことにした。フォー・ドーファンの山中から紫檀を運び出すいい手立てを考えて貰えるかもしれないとの期待もあった。




 上二枚は、ラザフィンドラティラ氏のお宅に行く途中の造成地。マダガスカルが「赤い大地」と云われる理由がお分かりと思う。地面が本当に赤茶けているのである。


 ラザフィンドラティラ氏邸。アンタナナリブ市内のいい住宅地は飽和状態である。氏はいち早く一つ輪の外に出た。アンタナナリブ市の電話線の敷いてある外に出たことで、非常に広い敷地と静けさを手に入れた。問題は電話だったが、市内と自宅との中間に自前で無線中継器を設置して問題を解決した。


 ラザフィンドラティラ氏ご夫妻。二人のお嬢さんはパリに留学中である。寂しかったのか私の訪問を非常に喜んでくれた。奥さんの料理の腕はプロのコック並みで、この日は私のために一羽丸ごとのカモの蒸し焼きを用意してくれた。


 居間は非常に落ち着いた装飾品でまとめてあった。


 庭は広々としており、奥さんの丹精込めた花壇もあった。敷地は1エーカーと云うから、1,200坪はある。

 今回はマレーシアのクアラランプールからタイのバンコクと廻り、これから始める新しい事業の手配を済ませた。
 日本に帰ってきた翌日の朝、事務所にしていた自宅からファックスをマダガスカルに送ろうとファックスのプッシュボタンを押そうとしたが、ぼんやりとしてボタンがよく見えない。足もふらついていた。大事なファックスなので、何としても送らなければならなかった。大げさな表現で恐縮だが、死に物狂いで頑張った。送り終えた後はソファーにへたり込んでしまった。頭もぼーっとしてきた。額に手をやるとかなり熱があるようだった。
 近所の診療所に行った。私が学生の時に開業したのだが、それ以来ずっと通い続けている診療所である。看護婦さんから体温計を渡され、待合室で熱を計らされた。先程の看護婦さんが、時間を見計らって体温計を取りに来た。私から体温計を渡された看護婦さんは首をかしげ、奥に引っ込んだ。別の体温計を持って来て、もう一度計るように云われた。今度は彼女が私に体温計を当て、つきっきりで熱を計った。計ったあと、また首をかしげた。私が覗くと水銀は一番上まで行っていた。順番が来て診察室に入ると先生は「しばらくじゃないか。ラム酒をありがとう。マダガスカルはどうだった?」とにこやかに云った。昨夜届けたマダガスカルの特産品であるラム酒のことを云ったのだろうが、その時は高熱のせいでよく理解出来なかった。何故先生は私がマダガスカルに行ったことを知っているのだろうかと考えた。看護婦さんの報告を受けた後、先生は最新型のデジタル体温計で私の熱を再度計った。「可笑しいな」と云うと、先生は看護婦さんに、待合室で私の熱を計った体温計を持って来させた。二つとも水銀計は一番上まで行ったきり戻っていない。体温計は42度までしか計れないので、私の熱はそれ以上あった事になる。而し、普通では考えられない事であった。しばらく体温計を見てから、「しょうがねーな、ウチの体温計を三つも壊しちまって」。そう云って、先生は私を診察し、解熱剤の処方箋を書いた。そして、私は「しばらく、様子を見よう」と云われて帰された。
 三日経っても、四日経っても私の熱は下がらなかった。ついに5月の連休に入ってしまった。体力は衰え、私はベッドから起き上がれなくなった。私はサイレンの音で目を覚ました。家内が救急車を頼んだようだった。私はベッドから担架で救急車に運ばれた。救急車の中は割と広く、意外と乗り心地がよかったのを覚えている。何日も食事もせず、只寝ているだけの私の様子を見て、これはただ事ではないと思い、救急車を頼んだと後から家内は私に云った。救急車は一方通行の道を無視して走り、阿佐ヶ谷の河北病院に着いた。私を診察してくれた若い医師が、カルテを見ながら云った。「検査の結果、熱の出る原因が何一つありません。これ以上のことは、当病院では判断出来ません。都立駒込病院の感染症科に行って下さい。紹介状を書きます」と私は朦朧とした意識の中で、若い医師の云った事を聞いた。5月5日で、今日は休みなので明日行くように云われたのも覚えている。
 翌日、長男に車で都立駒込病院の感染症科に連れて行かれた。私は長男に抱きかかえられて、車椅子に乗せられた。そしてそのまま診察室に連れて行かれた。私は直ぐ採血された。顕微鏡を覗きこんでいた先生が、突如電話機を取り「個室を直ぐに空けなさい。重症だから、空けなさい」と早口でおっしゃった。私は先生が重症と云うのを人事のように聞いていた。重症なのは自分ではなく、他の患者だと思った。まもなく、病棟から若い看護婦さんが二人で私を迎えに来た。車椅子からストレッチャーに乗せられた。病室では若い医師と数人の看護婦さんが私を待っていた。病室はかなり広かったが人で溢れているように感じた。ストレッチャーからベッドに移されて直ぐに、大きな錠剤を三錠も飲まされた。やっとの事で飲み込んだ。それと平行して、何種類かの点滴の準備がされていた。それからの事は覚えていない。寝てしまったらしい。周囲の騒々しさで、私は目覚めた。外は真っ暗になっていた。眼鏡をかけた親切そうな看護婦さんに「お小水は?尿意はありませんか?」と聞かれたが全く尿意は感じなかった。点滴でかなりの量の水分が私の体内に入っているのに、小便が出ないのは只事ではないと、その看護婦さん心配そうな顔をした。そして「尿道にカテーテル(医療用のビニールの細い管)を入れましょう」と云った。私は聞いただけで痛そうなので、すぐには承知しなかった。「先生に頼んで、痛くないようにして貰いますから。ね、入れましょう」とその看護婦さんがあまりに真剣に云うものだから、私は承知した。覚悟していたが、それほど痛くなかった。カテーテルを尿道に挿し、膀胱に到達した時点でかなりの量の尿が出たらしい。私には尿の出た自覚はなかった。尿の量に満足したように、カテーテルを入れてくれた若い先生が「人間、出るものが出ている間は死にません」と云った。お蔭で私は生きている。
 
 入院して何日目なのか私には分らなかった。枕元には次女がいた。声をかけた。娘は私の声を聞いてホッとした顔をした。若い看護婦さんが、病室に二人いた。「よく頑張ったわね。基礎体力もあったのね」と看護婦さんは私の汗を拭きながら云った。「頑張ったのは看護婦さん達だろ?俺はただ寝てただけ」と云うと、小柄の看護婦さんが「何云ってんのよ、大変だったんだから。ねぇ」と娘に同意を求めた。私が入院した日に、家内を除く家族全員が呼ばれ「助かるかどうかは五分五分です。今夜が山です。マラリアは意識がはっきりしていますから、本人は最後の最後まで苦しいですよ」と担当の先生に云われたらしい。私は聞いて吃驚した。そんな大した事ではないと思っていた。あの晩に、カテーテルを入れたのが良かったらしい。尿が出ないままでいれば尿毒症になっていたかもしれなかった。マラリアの症状がひどくなると腎臓の機能が低下する。その結果、私に黄疸の症状が併発した。いよいよ人工透析が始まる寸前に、先生のお蔭で劇的に症状が好転し、透析をせずに済ます事が出来た。あのとき、人工透析に踏み切り、それが慢性化していれば、長期の出張など望むべきもなかったろう。
 
 私の容体が落ち着いたせいか、看護婦さんたちが気軽におしゃべりを始めた。「マファナって、何のことですか?」と聞かれた。熱に浮かされ、私はうわ言で「マファナ、マファナ」とマダガスカル語で云っていたらしい。マファナとは暑いとか熱いと云う意味である。熱があるのに体は寒かった。私は電気毛布で体を温められていた。おしゃべりをしていると、主治医の先生が来て下さった。「元気になったみたいですね」と柔和な顔で云われた。「お蔭様で、ありがとうございました。ところで、いつ退院出来ますか」と聞くと、「何を云っているんですか。貴方は重症で、危なかったんですよ」とたしなめられた。
 
 血液中にマラリア菌が5パーセントあると重症だそうである。私の場合は10パーセントあったと云われた。毎朝採血されて、血液の検査をしているが、マラリア菌はまだあるそうだ。私の退院は、マラリア菌が完全に退治され、体力が回復してからでないと駄目だと云われた。
 今あるマラリアの予防薬は、数多くあるマラリア菌の60パーセントしかカバー出来ない。現在考えられる最もいい予防薬がヴィブラ・マイシンだそうである。マラリアの感染率は1パーセントか2パーセントだが、私みたいにマラリア汚染地域に数多く行けば、100パーセントになるのは当たり前だと云われた。そして、成人病を除けば、マラリアの死亡数が世界で一番多いそうである。マダガスカルの日本大使館の医師が「貴方が、今此処にいるのは奇跡としか云いようがありません。10パーセントのマラリア菌を持って生き残ったのは、私の知る限り貴方だけです」と云った。都立駒込病院の感染症科が私の命を救ったのである。私は今でも感謝している。主治医の先生は今村先生で、サブの先生は味澤先生であった。このお二人の先生に治療して頂けなければ、私の人生はあの時で終っていた。そして、「熱の出る原因が何一つありません」と云って、都立駒込病院に行くよう指示して下さった河北病院の先生にも感謝している。

 諸兄諸姉は充分にご存じであろうが、今村先生から伺ったマラリアについての留意点を述べたい。マラリアの潜伏期間は30日だそうだ。私はせいぜい一週間ほどだと気軽に考えていた。もし、私がフォー・ドーファンの山中からアンタナナリブに帰ってきてからも、予防薬を飲んでいれば発症しなかったか、発症したとしてもずっと軽い症状だったかもしれないと云われた。また、マラリアには免疫がないので、何度でもかかる可能性があるそうだ。但し、私は一度もマラリアにかかったことのない人より、多少の抵抗力があると云われた。だから、マラリアの汚染地帯に住む人は予防薬を飲まなくとも平気であることに納得がいった。子供の頃から何度もマラリアにかかり、それを繰り返しているうちにかなりの抵抗力がついたのであろう。

 麻布にあるマダガスカル大使館で、当時非常にお世話になった大使秘書の宇山女史に「マダガスカルに行くときには、マラリアの予防薬は必ず日本から持って行かなければ駄目ですよ」と笑いながら云われた。その理由はマダガスカル製の予防薬は製品にむらがあり、フランスからの輸入薬はお金のある(外貨のある? )ときだけに輸入するので、古くて薬効が切れてしまっているとのことだ。私がマラリアにかかる前に伺いたかった。

 私がマラリアの治療のために都立駒込病院感染症科に入院したのは1993年5月です。退院した時は足が弱り、何かに掴まらなければ歩行が出来ないほどに体力が消耗していました。今村先生から、体力が完全に回復するまでは長期の出張を禁じられていました。
 マダガスカルとの取引を再開したのは1995年の2月からでした。それまでの間は種々の事情でインドネシア、ビルマ、ラオスとの取引に携っておりました。従いまして、このブログは「マダガスカル編」を一時中断し、次回からは「ビルマ番外編」を、そして「ラオス編」と続けたいと考えております。南半球から北半球に戻ってくるわけです。従来通り、ご購読をお願い出来れば幸甚です。

TDY, Temporary Duty マダガスカル編 24

2014年05月12日 | 旅行
 アンタナナリブのコルベール・ホテルに戻ってくると、フロントには私宛のメッセージの束があった。その殆どが不動産屋と建設業者からのものだった。それをアタッシュケースに押し込むと、他の手荷物をフロントに預け、アンセルメ・ジャオリズィキーの事務所に向かった。
 案内を乞う必要もないほど商務省のビルは馴染になっていた。商務課のドアーはいつものように開いたままになっていた。私が顔を出すと、アンセルメ・ジャオリズィキー課長があわてて立ち上がり、走るようにして私の所にやって来た。そして私の両腕を抱え込むようにして云った「食事に行きましょう!」。私もそのつもりで来たのだ。
 コルベール・ホテルの南側、ズマ・マーケットに降りる長い石段の手前にあるレストランに入った。昼食には少し間がある時間だったので、奥のコーナーの席が取れた。座ると同時に「無事に帰ってこられて安心しました」と云い、すぐその後で「貴方がフォー・ドーファンに行かれたことがアンタナナリブ中に知れ渡ってしまいました」と済まなそうに云った。それがあのメッセージの束だと直ぐに気づいたが、それには触れずにフォー・ドーファンの山中の報告をした。二人の結論は、あの山までの道路と橋の整備は国が動かなければどうにもならないことであった。新木場の業者全員が賛同してくれたとしても、とても賄える金額ではない。このような事に日本のODAの制度が利用出来ればいいが、紫檀の運搬の為だけにそのような資金は使えない。その上、住民が道路や壊れた橋にそれほどの不自由を感じていないようだ。このような状態では日本政府を動かすことなど到底出来ないだろう。
 だが、壊れた橋の修復だけでも行えば、たとえ少量ずつでも紫檀のフリッチを運べるのではないかとの希望は持てた。或いはヘリコプターをチャーターしてフォー・ドーファンまで運ぶかだ。これはアメリカの深い森林で桐の丸太の運搬に利用している方法である。アメリカでの小型機やヘリコプターのチャーター料はべらぼうに安いから出来るが、マダガスカルではどうだろうか。二人の間では結論が出なかった。だが、マダガスカルでヘリコプターのチャーターは非常に難しいことだけは確かのようだった。そう簡単に結論が出るものではない。だが、折角の紫檀を埋もれたままにはしたくなかった。何としてでもいい方法を見つけ出したい。






 地方から人が集まり、アンタナナリブ市内は飽和状態である。だが、少し離れると上の三枚の写真のように、広々とした土地がある。しかも、格段に安い値で手に入る。


 不動産屋が熱心に勧めた建築途中の家。建て主が建築業者に支払いが出来ずに放置したままになっている家で、相場の半額を払ってくれればいいと云われた。但し、内装工事は全くされておらず、当然の事その費用は含まれていないとのことだった。だが、ホテルに泊り続けることを考えると、買ってしまったほうが安いことは確かだ。マダガスカルの一般の物価と外国人が払うホテル代との格差は非常なものだ。だが、いくら安いからと云って一度に支払える余裕はなかった。


 不動産会社に建築業者まで加わり、私に製材工場の建設を持ちかけてきた。上の写真の家のすぐ近くの空き地である。アンタナナリブの中心地から車で30分程北々東に行った所にある。たったこれだけ外に出ただけで、土地代がアンタナナリブ中心街の一割にも満たないなどとは考えられなかった。電話線は引かれていないが、工事費を負担すれば引くことは可能だと云われた。
 欲しいことは欲しかったが、今の状況では全く工場など必要なかった。フォー・ドーファンの山中から紫檀がどんどん運び出されるようになれば必要になるかもしれない。そして、それらを購入する資金も得られる。




 コルベール・ホテルから北々東に向かう道路は途中までは舗装がしてあり、信号もなくて非常に快適であった。


 彼女の名前はハインゴー。この名前にどのような意味かは知らない。アンタナナリブのイヴァト空港の出発ロビーの免税店で働いている。空港に他の用事で行った際に、彼女の友人から頼まれたものを渡すことを思い出した。而し、その時はパスポートを持っていなかった。何とかなるだろうと到着ロビーの観光客に紛れ込んで中に入ってしまった。そこから出発ロビーに潜り込み、ハインゴーを探し、目的のものを渡した。だが、出るときに困った。到着ロビーからなら、手薄な警備を潜ってパスポートなしでもなんとかごまかして外に出られるが、出発ロビーからはそれほど簡単に出ることは出来ない。ご存じのように、正式に出国手続きをしなければ出発ロビーには入れない筈だ。どうやって出るか、あちこちを歩いて抜け道を探しているときに空港警備員に不審尋問をされた。2メートルを超すような大男だった。「恐れ入りますが、パスポートと搭乗券をお見せ下さい」と云われた。言葉は丁寧だが、否やは云わせないぞとの迫力があった。どちらも持っていない。「すみません、パスポートはホテルに置いてあります」と云うと、彼は仲間を呼び私を逮捕しようとした。逮捕されてしまったら、私の残された道は牢獄に収監されるか強制送還しかない。そうなったら二度とマダガスカルには入国を許して貰えないだろう。「安全のため、パスポートはホテルの金庫に預かって貰っている。俺は、あんた達の仲間の警備員に断り、到着ロビーを通り抜けて此の出発ロビーに入ってきた。何の問題もなく入れた。それをあんた達は俺を逮捕するのか?」と云ってみた。大男は私の目をじっと見て考えていた。やがて、「此処から出て行って下さい」とドアーの一つを示した。それが正しい解決策である。もし私を逮捕したら、中に入れない筈の人間を「到着ロビー」と「出発ロビー」の両方に入れてしまったことになる。これは彼等の警備が完全ではない証になる。私のずるい云い訳が功を奏した。それにしても、あの大男が知恵の廻る奴でよかった。


 アンタナナリブの中心街から少し外れたマーケット。


 この飛行機には度々お世話になった。翼が機体の上にあるので、下界がよく見えて観光客には人気がある。これもツインオッターの機種の一つだと思う。

TDY, Temporary Duty マダガスカル編 23

2014年05月05日 | 旅行
 勿論他の国々でも、住人との心の交流はあった。だが、フォー・ドーファンの山の中ほど心に残ったことはなかった。「素朴」であるとの表現では云い尽くせない純なものを彼等に感じた。私が泊った村はまるで石器時代にタイム・スリップしたのではないのかとさえ感じた。彼等は文明の利器を全く持っていない。今は動いていない発電機と製材機はあったが、これは彼等のものではない。レオング・オーレン社長が運び込んだものである。テレビ、ラジオは勿論のこと、時計さえない。必要としないのである。陽が昇れば起き、太陽が完全に沈んでしまえば寝るだけである。私が持っていたバカチョンカメラにも、時計にも全く興味を示さなかった。だが、懐中電灯には多少の興味を示した。この村には非常にお世話になったので、必要ならと村長に差し上げてきた。持っているだけの予備のバッテリーも全部を差し上げたが、それが切れた後の補充はどうするのかと心配になった。レオング・オーレン社長が「私が何とかします」と云ってくれた。
 往きや帰りの途中で出会った山の民たちも、まるで純粋培養された人たちのように感じた。彼等の言葉には「善意」だけで「悪意」と云う言葉がないのだろう。言葉が通じなくとも、彼等と心が通じ合った実感はあった。そして、善意だけしか感じなかった。私が出会った人たちは誰もが幸せに見えた。資産や文明の機器が人間を不幸にしているのかとさえ考えた。だからと云って、私が永遠にこの山中で暮らすことは出来ないだろう。住んでみたいとの憧れはある。だが、幾ら願っても実現の出来ないことである。


 畑の手入れをしている一家に出会った。作業をしている姿を撮りたかったのだが、カメラを向けた途端に全員が集まってきた。若い父親はどうしたわけか手製のギターを抱えた。


 このだらだら坂を登りきると、車を停めてあるところに出る。嬉しいことに、上半分だけではあるが我々の車が見えた。


 やっと車の停めてある村に着いた。レオング・オーレン社長も、「発電機」のオジさんも、なんとなく疲れが顔に出ていた。それを見て、私は安堵した。オーレン夫人は写真を撮られるのを嫌がった。彼女の顔にも疲れが出ていた。


 車の中は溶鉱炉のように熱くなっていた。窓とドアーを開けて空気を入れ替えていると、村人が集まってきた。興味深げに車の中を覗いたり、我々の持ち物にまで興味を示していた。カメラを向けると、車から離れ、写真を撮られることの方に興味を示した。


 彼等の写真を撮っていると、さらに村人が集まってきた。まるで集合写真を撮るような状況になってしまった。子供だけではなく、大人まで真剣な顔をしてカメラの前に立った。


 折角なので、彼等の招待に応じることにした。よく熟したココナッツのジュースが旨かった。


 対岸のシャンブー・シャラシャラがこっちへ向かって来たと思ったが、すぐに引き返してしまった。客が呼び戻したようだ。真っ青な川面を乱すのは時折吹く柔かい風と、シャンブー・シャラシャラだけだった。


 日本でなら「片肌脱ぎ」と云うべきだろう。12才か13才ぐらいだろうか、家族全員の洗濯物を引き受けたらしく大量の衣類が置いてあった。最初は表情が硬かったが、対岸からシャンブー・シャラシャラが到着するころには、はにかんだ微笑を見せてくれた。実に可愛い笑顔だった。


 対岸ではやっとトラックを積み終えた。10トン車だと思うが、荷物を積んだままシャンブー・シャラシャラに乗せても平気だとは驚きだ。


 我々の四輪駆動車を乗せ、いよいよ対岸に向けて出港することになった。


 フォー・ドーファンに近づいてきた。その証拠に、川には橋が架けられていた。幅は狭いが、大型のトラックの通行も心配のないほどの強度があった。


 フォー・ドーファンの海岸。非常な懐かしさを感じた。


 お嬢さん方が私の無事な帰還を待っていてくれた。いや、そうではなく、私と食べるアイスクリームやケーキを待っていたのだろう。
 ホテルのマネージャーも私との再会を歓迎してくれた。そして、「これからはずっと日本の国旗を掲げておきます。いつでもいらしてください」と嬉しいことを云ってくれた。