TDY、Temporary Duty。アメリカの軍隊用語で出張を意味する。世界の僻地の出張記録!TDYの次は日常の雑感

現役時代の出張記録。人との出会いと感動。TDY編を終え、写真を交えた日常の雑感を綴る。

TDY, Temporary Duty マダガスカル編 43

2014年10月27日 | 日記
 コルベール・ホテルにもカジノはあるが、ヒルトン・ホテルの方が大規模で雰囲気もいい。私はそれほどの博打好きではないが、翌日の予定がないときはカジノに行くことがあった。マダガスカル人は絶対に中に入れないため、誰も誘えなかったことは残念であった。
 ヒルトン・ホテルの正面玄関に着いたタクシーのドアーを、大仰な制服を着た小柄なボーイが「ボン・ソワール、ムッシュウ」と挨拶しながら開けてくれた。
 カジノがある階でガタガタ揺れるエレベーターを降りると、「ボン・ソワール、ムッシュウ。パスポートをどうぞ」と警備員に云われる。お互いに顔見知りではあるが、規定通りにパスポートを提示するのが常であった。入り口近くに大きな半円形のバー・ラウンジがあり、左手にはルーレットのテーブルがある。その日は週末でもなく、まだ早い時間なのに五つあるルーレットのテーブルには人が溢れていた。私の好きな、とても縁起のいい二番テーブルには博打好きの中国人が全部の場所を占領していた。彼等と同じテーブルでルーレットを楽しむ気にはなれない。騒々しすぎるのだ。仕方なく比較的空いていた四番テーブルに行った。詰めてもらって何とか座れた。チップを10万フラン(約2,000円)買い、テーブルを一通り見てみた。今夜はあまり儲かっている客はいないようだった。バカつきしている客がいれば、それに乗って張ればかなりの確率で儲かる。残念だがその手は使えそうになかった。10万フランのチップはあっという間に無くなった。10万フランを買い足したが、それもダメだった。それでルーレットを諦めてスロット・マシンのコーナーに行き、5万フラン分のコインを買った。スロット・マシンの台が三台続けて空いている場所があった。私は、そのマシンの真ん中に座り、ハンドルを右腕で激しく動かし始めた。全然ヒットしない。コインがどんどん減って行く。今夜はついてないのかと感じたとき、カジノのボーイが「ミスター、何か飲み物でもお持ち致しましょうか?」と云うので馬のラベルのマダガスカル製のビールを注文した。大して飲めもしない私にとってはヤケ酒である。カジノに居るかぎり、飲み物は全部無料である。持って来たボーイに500フランのチップを渡した。ビールを飲みながら更に続けていると、レモンが並び、苺が並んだりしてコインがたまりだした。そして直ぐにアメリカの国旗が三つ並び、ジャラジャラとコインが大量に流れ出て来た。それを見ていたアメリカ人が私に云った。「薄情な国だよな、USAは。ミスター」としきりにぼやいた。彼はつい先ほどまでこの機械にかなりのコインをつぎ込んでいたらしいがUSAの国旗は一度も並んでくれなかった。そばで奥さんが楽しそうに笑っていた。


 鎖を太いフリッチに巻きつけ、トラクターで引いていた。人力に代る唯一の道具であった。


 トラクターの力を借りても、トラックに乗せるにはさらに重労働が必要であった。


 作業員の一人がフリッチに加工した自分の作品の上で昼寝をしていた。日陰ではなかったが、余程疲れていたのであろう、汗をかきながら寝ていた。だが、木材の上はひんやりとしている筈である。


 樵が曲っているパリサンダーを切り倒してしまったらしい。これを私が真っ直ぐであると勘違いするように、どのように加工するつもりだろうか。


 水辺でのしばしの休憩。BIEの社員はこざっぱりした服装をしている。


 左端がBIEの社長のジルス・ベドで右端が筆者。


 初めての伐採地で、期待以上の木目のいいパリサンダーが多く確保出来たので、BIEの社員も安堵感を持っていた。




 洗濯前の私のブルー・ジーンズ。見ているだけでなく、私も労働に加わっていた。此の汚れたブルー・ジーンズはメイドが、次の日に私が森から帰って来るまでにきれいに洗い、アイロンをかけておいてくれる。


 森の入口にある村。この村の一部を借りて我々のフリッチの中継地にしていた。


 村一番の豪邸。中に入れて頂いた。部屋の隅に竈があるだけで家具らしい家具は全くなく、土間の上に木で組んだ台の上にわらが敷かれ、薄い布が敷いてあった。そのベッドの周囲には何枚かの衣類がかけてあった。その奥に仕切りがあったので、覗いてみたかったが拒まれた。その家のご婦人が人の寝ている格好をして済まなそうに私を見た。


 村人たちの早目の夕食。陽のあるうちに食事を済ませ、後片付けをしてしまうらしい。電気のない生活は我々と時間の過ごし方が違う。


 若い母親に頼まれ、彼女の長男(長女?)との写真を撮った。


 バンガロー・ホテルのオーナーの次男君。私のバンガローに良く遊びに来る。名前は忘れてしまったが、実に可愛い子である。父親はフランス海軍の元中佐か大佐であると聞いたが、年から判断して中佐であったように思う。ご存じのように、中佐をルテナン・カーネル、大佐はフル・カーネルと呼ぶのが正式であるが、どちらも略して「カーネル」と呼ぶ習わしが軍隊にはある。私が聞いたのは「カーネル」であった。彼はこの地で地元のアフリカ系のマダガスカル人のご婦人と恋に落ち、フランス海軍の地位を捨てて、此のバンガロー・ホテルを彼女とともに開いたのである。
 解せないことがある。長男であるこの子の兄はアフリカ系のマダガスカル人同様に肌が黒く、次男はご覧の通り肌が白い。然も年が10才ほど離れている。最初は兄弟とは知らなかった。


 左のお嬢さんはこのバンガロー・ホテルでメイドとして働いている最年少の従業員。次男と非常に仲がいい。彼女の仕事中も彼女の後について行く。

 先週、写真仲間と群馬県の南牧村に行ってきた。民宿に泊り、のんびりと歩きながら古民家を撮影するのが目的であった。紅葉のシーズンには少し早かったが、秋を堪能出来た。読者諸兄諸姉にもお裾分けをしたい。














TDY, Temporary Duty マダガスカル編 42

2014年10月20日 | 日記
 一月の終りだった。マレーシアのクアラランプール空港で成田行の便を待っているときに、同年代の日本人に話しかけられた。ドバイからの帰りだと云っていた、そして「成田に着いてすぐに北海道に行くのです。気温の差は60度以上です。参ります」と苦笑いをした。私の場合でも、日本が冬の時は60度までは違わないが、30度以上の差が確実にあった。諸兄諸姉もご存じだろうが、我々の体は夏の暑いときには完全に毛穴が開いてしまう。そして秋に近づくにつれ毛穴が閉じていく。日本が冬のとき、マダガスカルは当然夏である。毛穴が充分に開き切り、閉じる前に寒い日本の冬と遭遇するのである。その寒さは例えようもない。成田に着いた途端に熱い国に戻りたくなる。若いころ、ろくな防寒具も着ないままオートバイで冬の道を走っていた。また、スキー場では汗も拭かずにリフトに乗って風に吹かれた。このような事を繰り返しているうちに肋間神経痛になってしまった。だが、冬に熱い国で過ごすようになると、自然に病状が良くなったようだ。而し、今でも疲れると痛みが出るときがある。そのときは使い捨てカイロを貼ってやると痛みが消える。
 暑い国から、9月の末か10月に帰って来ると、実に清々しく幸福な気分にひたれる。このようなチャンスは一年に一回あるかないかである。暑い国では蚊だけではなく、あらゆる虫に刺されないようにしなければならない。また、土の中にはどのような病原菌が生息しているか不明である。もし、そのような病原菌を持って帰ってきても、日本ではすぐに正しい治療が受けられる保証はない。日本では未知の病原菌である可能性が大である。無事に日本に戻れれば、しばらくの間は何の心配もなく、マラリアの予防薬も飲まずに安心して暮らせる。この点、日本は非常にいい国であり、ありがたい。

 前回にマダガスカルの紫檀に就いて少し触れたが、日本には私がサンプルとして持込んだものしかマダガスカルの紫檀はない筈である。パリサンダーを日本で「紅紫檀」と名前を付けて売っている業者もいる。他の紫檀の代替え品より少しでも高く売ろうと、赤めの塗料を塗って売っているのであろう。その他にも変った名前の紫檀がある。その最たるものは「手違い紫檀」である。銘木を扱わせてはその人の右に出る人は居ないと云われるほどの名高い人が東南アジアで紫檀に出会い、喜んで買ってきた。日本に戻ってからその「紫檀」を再度検分した。「本紫檀」と云われるインド産の紫檀とは異なることに気が付いた。そして「おぉ、手違いだった!」と云ったそうだ。それでそのような名前がついたが、非常にものがよく、今では銘木の中でも高級品で通っている。インドの本紫檀と同じマメ科であるが、学術的には多少違う。此の手違い紫檀をタイではチンチャンと云い、ビルマではイーンダイクと云う商品名で呼ばれている。
 実際の手違い紫檀はマダガスカルの紫檀とは全く違い、むしろ色の濃い、木目のしっかりしたアンツォヒヒ産のパリサンダーの方に似ている。だが、新木場ではパリサンダーより手違い紫檀の方が格段に高い値で取引されている。






 上の三枚の写真は全てパリサンダーである。而し、もう少し色を濃くしたら「手違い紫檀」(チンチャン)としても通用するに違いない。比重の問題だけである。
 新木場の床柱の加工業者には名人が揃っている。木目と木目の間に木目を書き足したり、全くない所に木目を書いてしまうこともやる。中には節のあるフリッチを安く買い、その節を消して、その上に新たに木目を書いたりもする。仕上げの塗装をしてしまえば素人、いや玄人が見ても書き足した木目を識別することは出来ない。このような名人技を以てすれば、上の三枚の写真のようなパリサンダーを「手違い紫檀」風に加工することなど造作もないだろう。


 手違い紫檀とパリサンダーの比重が違うが、せいぜい0.2から0.4の差である。「211」と番号が振ってあるパリサンダーなどは非常に重い。従って手違い紫檀の比重と変わらないのではないだろうか。




 上の二枚の写真は、パリサンダーのフリッチとしては決して悪くない。中より上である。だが、手違い紫檀と見まがうようなパリサンダーを見た目には非常に安っぽく見える。


 そのような目で見れば、上の写真のパリサンダーなどは只の角材にしか見えない。而し、これも含めて買わざるを得ない。一番上にある写真のようなパリサンダーだけを買えば、購入価格は倍かそれ以上になるだろう。だが、新木場ではそのような値段は通用しない。


 「どうだ、俺の作ったフリッチは。いいだろう」と云っているようだった。


 マダガスカル固有の紫檀のような木目を持ったパリサンダーにお目にかかった。木目だけではなく色の具合も非常に近かった。


 トラックまで肩に担いで運ぶ。私がいるのを認めると手を振って挨拶してくれた。私は安全を願って「モラ、モラ」(ゆっくり、ゆっくり)と声をかけた。重量のあるものを不用意に急いで運んだのでは事故のもとである。


 荷台が傾いてしまうほどの重量であった。もっと積むと云っていたが、大丈夫だろうか。




 35センチから40センチ角ほどの太いフリッチをトラクターで森から運んできた。これからトラックに乗せ換えるのが一苦労である。後ろに見えるのはマンゴーの木。




 アンツォヒヒの街中にあるホテル。BIEの社員もこのホテルに泊っている。私が泊っているバンガローよりかなり安いそうだ。そのホテルにBIEの社員を降ろすと、顔見知りになった森の民の一家に出会った。結婚式に出席するそうで、いいホテルに泊れたのを喜んでいた。それにしても、あの森の中からどうやって此処まで来たのだろうか。歩いてきたとしか考えられない。

TDY, Temporary Duty マダガスカル編 41

2014年10月13日 | 日記
 マダガスカルから少し離れるが、丁度今が上海蟹のシーズンなのでそのことに触れたい。上海蟹を注文すると、オスとメスの二匹が必ずセットで供される。その年に依ってメスが旨いとかオスが旨いとか云われる。或いは10月はメスが旨く、11月はオスが旨いとも云われている。従って、メスだけが売れたりオスだけが売れたりしないように、オスとメスを必ずセットにして売るのだそうだ。だが、残念なことに、私はその微妙な味の差が分らない。微妙な差を感じ取る中国人の舌は尊敬に値する。食通であると宣言している日本人が、今年のメスの何処が旨いとか11月のオスのどの箇所が旨いとかいう人がいる。本当にその差が分るのであれば、それはそれで尊敬出来る。11月のオスが旨いと云われても、11月のメスだって旨い。
 香港や中国の人に蟹は体を冷やすから、沢山食べてはいけないと云われる。だが、経済が許すなら全身が凍えるほど食べたい。

 今は鬼籍にある中学からの友人が「パリで何回もコンニチハと云われた」と嬉しそうにしていたことがあった。日本人が海外に遊びに行けるような状態になったばかりの頃のことである。彼はどうして日本人だと分ったのだろうと疑問を持ってフランス人に聞いてみた。「こんな遠くに来れる東洋人は日本人しかいない」とそのフランス人は答えたそうだ。
 私はタイのバンコクでそのような経験をした。日本人の服装(着ているシャツ?)が他のアジア人と違うからわかるのだそうだ。同じことを他のアジアの国々でも云われた。それが、マダガスカルのトマシナでは、道端の子供たちに「ニイハオ」と云われた。不法滞在の中国人が如何に多くなっているかの証拠であろう。








 森への入口にある集材場にかなりの量のパリサンダーのフリッチが集まりだした。手前の赤い帽子は監督中のジルス・ベド社長。炎天下の中で手作業の労働はかなりきつそうだった。だが、彼等は不平も云わず、私を見ると笑顔さえ見せてくれた。私は「ミソートラ」(ありがとう)、そして「モラモラ」(ゆっくり、ゆっくり)とか「エケナ?」(大丈夫か?)と声をかけるしか彼等の労働に報いるすべがなかった。


 木陰を見つけて小休止。これを何度も繰り返して欲しかった。








 対岸に渡ると、前回とは別の場所に一本一本を撫でてみたくなるような素晴らしい色と木目を持つパリサンダーが積まれていた。太さも文句の云いようのないものばかりだった。


 お昼の時間。バンガローで用意してくれるお弁当は鶏のフライの日が多かったが、全く飽きることがなかった。何とも云えないぐらいに美味しかった。最初はアヒルかと間違えるほどであった。ローストビーフ、ハムの燻製、それに野菜と沢山の果物。毎日のお昼の時間が楽しみであった。


 森の民との交流。ジルス・ベド社長は私よりかなり若いが、何処へ行っても地域の人たちと如才なく話し、全員を自分の味方につけてしまう。不思議な能力の持ち主である。






 伐採の許可を取っていない「マダガスカル・ローズウッド」(マダガスカル固有の紫檀)。一人の樵がパリサンダーと間違えて切り倒してしまったそうだ。折角だからとフリッチにしてしまった。当局にこの不始末を届けるべきであったが、そのようなことをしたら、この地での伐採の全てを取り消されてしまう恐れがあった。
 BIEの社員の一人が云った。「社長、間違えたものは仕方ありません。これを売れば罪になるでしょうが、売らなければ単なるミスです。パリサンダーの中に入れて、日本に出荷しましょう。その代金を請求しなければいいのです」。それを聞いたジルス・ベド社長は笑い出した。社員の云ったことを要約して私に説明してくれた。私は同意した。間違えたものは仕方がない。私もお世話になっている新木場の業者にこれをタダで差し上げてしまおうと心に決めた。
 間違えて切ってしまった樵も、それをフリッチに加工してしまった作業員も、事の成り行きの説明を受けて安心したように地面に座り込んでしまった。最初は気軽に考えていたが、許可を受けていない木を切ることの重大さに気が付いたようだった。
 前回、木の地肌を見ただけで、私にはパリサンダー、紫檀、それに黒檀の区別がつかないと云ったことをご記憶だろうか。専門家である樵でさえ間違えることがあるのであるから、私に分らなくて当然であると、多少の自信を取り戻した。

TDY, Temporary Duty マダガスカル編 40

2014年10月06日 | 日記
 マジュンガに泊ったのはちゃんとしたホテルであったので、豊富なお湯でシャワーが使えた。それだけではなくバスタブまであった。而し、アンツォヒヒのバンガローはモロンダバのそれと同じように水のシャワーであった。それで、モロンダバで行ったように太陽光の温水を誰よりも早く使うことにした。

 本館の裏庭には放し飼いの鶏とアヒルが多数飼われていた。ビルマの田舎と同様に、小屋はあるが出入りを自由にしてあった。ビルマと違う点は、飼い主がちゃんと餌を与えていた。だが、鶏もアヒルも意地汚いのか庭中をほっつき歩いては餌になる虫を探していた。
 ある日、気がついてみるとアヒルの一羽が何故か私になついていた。餌をやったこともないのに何処までもついてきた。一度などは私のバンガローの入口までついてきたことがあった。頭を撫でて帰るように云った。理解したのか、彼(彼女?)はトボトボと帰って行った。アヒルの顔を見ても識別はつかないが、羽の汚れ具合で他のアヒルと区別出来た。以後、裏庭に行き、そのアヒルの様子を見るのが楽しみになった。それが、そのアヒルの姿が見えない日があった。ついに人間どもに食われてしまう順番が来てしまったのだと想像し、複雑な思いがした。もしかしたら今日のお昼の弁当だったのか?私の滞在中に順番が来てほしくなかった。


 今朝は早く到着したせいか、森の民はテントを片付け始めていたところだった。


 少し奥の方に行くと、そこでは全員が忙しそうにしていた。朝食は既に終わったようだった。


 この森の民の一家は高床式の家を建設するようであった。どうやらこの地に永住することを決めたらしい。


 マンゴーの木。収穫の時期を迎えると、果実の重さで全ての枝は地面に向けて垂れ下がる。


 信じられるだろうか?白く丸で囲んである直径2センチにもなっていないマンゴーが、10月の初めには15センチかそれ以上の大きさに育つ。そうなったら届く範囲の実は手でもぎり取り、うすべったい種に沿って切り落とした実にナイフでさいの目の切れ目をつけてかぶりつく。至福の時である。
 これと同じ大きさのマンゴーを伊勢丹の地下で一個1,500円で売っていた。私は一度に最低でも4,500円分は食べていた。




 お昼になり、森の民の樵の一団が対岸から賑やかに帰ってきた。


 トラクターを降り、伐採地に入って行くと樹木は密集しており、森の民から離れてしまったら、二度と文明の地に戻れなくなる。遅れぬよう、必死について行った。


 パリサンダー。これがパリサンダーだと云われても、私には黒檀や紫檀の木との区別が全くつかなかった。前にも述べたように、木の皮の文様も葉の形もほぼ同じなのである。同じ場所に全て並べてみなければ区別がつかないとは情けない。


 フリッチに仕上がったパリサンダーが置かれていた。材の幅は規定の寸法を何とかクリアーしていたが、木目と色は魅力のある物ではなかった。










 最初のフリッチを見て失望した私を見て、ジルス・ベドはニヤニヤしていた。そして、次の置き場に私を急がせた。そこには彼に抱きつきたくなるような、フリッチや加工する前のパリサンダーが山のようにあった。
 前にもご説明したように、木目が良いからと高値で売れるわけではない。だが、この素晴らしいパリサンダーを私から買ったと新木場に噂が流れれば、私は取引先に不自由しなくなる。競争相手も蹴落とせる。現に、新木場の大手の銘木の輸入問屋がパリサンダーから手を引いてしまっている。残る強敵は西の方の業者である。

 香港のことに触れたい。1997年、香港が英国から中国に返還される年であった。所用で香港に行く必要があった。用事はすぐに終わるので、家内に一緒に行かないかと誘ったが断られた。彼女はもう少しずらして、返還の「7月1日」を跨いで香港に行く予定を立てていた。即ち、家内は入国の時のパスポートに「香港」のスタンプ、出国の時には「中華人民共和国」のスタンプが押されることを計画していたのである。呆れるほどのミーハーである。
 私はそれより10日ほど前に行った。ホテルは利用せずに娘のマンションに泊ることにした。娘の住まいは香港の郊外である屯門にある。香港にこれほどの緑があるのかと驚かされるほど樹木の多い、静かな住宅街である。そこには屯門地区を循環している路面電車が走っており、非常に便利である。それに、屯門の港からは香港島に行くホーバークラフトの高速艇が就航している。
 そんな住宅街のあちこちに以下のようなポスターが貼ってあった。かなり以前から貼ってあるらしく、はがれかかったり、印刷の色が変わっていたりもしていた。
    倒数百天  心懐祖国  家在屯門  屯問区慶祝香港回帰祖国
 返還までは後100日、家は屯門にあっても、心は懐かしい祖国にあると云う事だろう。私はこのポスターを見て、香港の人たちは返還に反対なのだと感じた。「どうなるかわからないが、今のうちに中国におべっかを使っておけ」と云うのがこのポスターの心底にあるように思えたのである。それで、心の許せる香港の人に聞いてみた。すると、「自分たちは元々中国人だから、香港が中国に戻るのはいいです。而し、共産主義になるのは絶対に嫌なのです」との答えがすぐに返ってきた。
 返還後に香港に行ったとき、中国の云う一国二制度はそれらしく機能していた。而し、香港の魅力は全くなくなっていた。西洋でもない、東洋でもない不思議なところが香港にあったのである。それが一変していた。バーやクラブの従業員に白人の姿が全くなくなっていた。中国政府は外国人を全て排除し、中国本土からそれに代わる人たちを香港に連れてきたのだ。ご存じのように、中国人程サービス業に適さない国民はいない。
 また、庶民からは別の愚痴を聞かされた。今までの香港は英国の女王陛下の土地であったので地代は一切無料であった。而し、返還後は中国政府に地代を払わなければならないようになったそうだ。

 今回の、若者を中心とするデモは、返還直後からの不満が一挙に爆発したように感じる。私の娘も国籍は日本であるが、デモに参加すると、先日家内にメールをしてきた。