TDY、Temporary Duty。アメリカの軍隊用語で出張を意味する。世界の僻地の出張記録!TDYの次は日常の雑感

現役時代の出張記録。人との出会いと感動。TDY編を終え、写真を交えた日常の雑感を綴る。

折々の写真&雑感 28

2015年09月28日 | エッセイ
 2年に一回催される「第28回江戸幕府鉄炮組百人隊出陣の儀」に、昨日(9月27日)写真仲間と行ってきた。新宿区百人町にある皆中稲荷神社で出陣式が行われ、隊列を組んで行進し、百人町の主要な場所での火縄銃の実射が行われた。

 ウィクペディア(フリー百科事典)によると、百人鉄砲隊について次のような記述があった。「徳川家康は、江戸城が万一落ちた場合、内藤新宿から甲州街道を通り、八王子を経て甲斐の甲府城に逃れるという構想を立てていた。鉄砲百人組とは、その非常時に動員される鉄砲隊のことであり、四谷に配された」。現在も新宿区にある百人町の地名はそれに由来する。
 また、東京商工会議所、新宿支部のホームページには以下のように出ている。「内藤清成が率いていた、伊賀組百人鉄砲隊の同心屋敷があったことから名付けられた百人町は、江戸時代、農村地帯でした。また当時、この地域の武家屋敷では植木の栽培が盛んで、明治時代以降もつつじの名所として広く知られていました。皆中稲荷神社(かいちゅういなりじんじゃ)は、「皆が命中しますように」と、百人鉄砲隊の面々が祈願したといういわれのある神社で、江戸時代には、「鉄砲組百人隊出陣の儀」が行われていました。この儀式は1961(昭和36)年に復活し、以後、隔年9月に、火薬を使った鉄砲の試射を行う迫力満点の行事が行われています」。

 以下が百人鉄砲隊の行進と火縄銃の実写の写真であるが、一番最後の西戸山野球場での、迫力ある実射の場面を撮れなかった。お恥ずかしい話であるが、カメラに故障が起きた。発売と同時に購入したキャノンの初代の5Dを今でも使い続けている。当時のキャノンの技術では、シャッターユニットは10万回のシャッターが限度であった。それを、私は12万回近く使い続けていた。シャッターユニットを交換すれば問題はないが、かなりの出費になる。また、初代の5Dにはゴミ取りの機能がないため、レンズの交換の度に撮像素子にゴミが付く。それに引き換え、初代の7Dはシャッターユニットの性能がかなり向上し、その上ゴミ取りの機能が備わっている。当分はこの7Dだけを使い、どうするかを考えることにした。


 出陣式に先立ち、若い神主が一心に祈っていた。彼の祈りが聞き届けられるよう、私も願った。


 出陣式が終わり、他の隊は出発し終わったが、最後に残った隊が、隊長の指揮の下に実射を行った。


 火縄銃とはいえ、かなりの迫力があった。


 火薬を詰めなおし、再度の実写を行った。


 足軽鉄砲隊の中にはご婦人もいた。


 妙齢のご婦人の足軽は江戸時代には考えられなかったであろう。

 話は変わるが、「御嶽山ではスマホなどから噴火の状況を知らせる」とNHKの昨日(9月27日)の朝のニュースで伝えていた。通常の携帯では駄目なのか?「など」の中に含まれるのはどのような器具なのか?同じNHKのニュースで蔵王に関してはきちんと、以下のように云った。「ラウドスピーで呼びかけるとともに、スマホや携帯で、、、」。大事なニュースは手を抜かずに正確に伝えて貰いたいものだ。我々は強制的に高い聴取料を払わされているのである。

 9月23日(水)の朝に、カルガモ母子の様子を見に行った。池には7羽ものカルガモがいた。一瞬、移動した子ガモたちが戻って来たのかと思った。だが、そうではなかった。よく観察していると、絶えず二羽で行動をしているカルガモがいた。他のカルガモが近寄ると、一羽が威嚇して他のカルガモを追い払っていた。この二羽を暫く観察していて、例の肝っ玉母さんの母ガモと羽を痛めた子ガモの二羽であることに確信を持った。他の5羽のカルガモは全く別の一家であるようだ。他の池から移動してきたのであろう。


 羽を痛めていても、泳ぐには不自由しない。右の、先頭を泳いでいるのが子ガモである。母ガモは後ろから、辺りに気を配りながら泳いでいた。


 手前が母ガモで、奥が子ガモ。目の下が幾分黄色に見えるのが成長しきっていない証拠だそうだ。母ガモは白くなっているので、完全な大人であることを証明している。子ガモを暫く観察していたが、以前のように、痛々しく羽を持ち上げる仕草をしなくなっていた。かなり回復してきたのだろうか。羽を痛めたのは猫にやられたのではなく、飛行練習中に木の枝にぶつかって左の羽と左の足を痛めたのだそうだ。


 昨夜(9月27日)、庭で蚊に食われながら中秋の名月を撮った。

折々の写真&雑感 27

2015年09月21日 | エッセイ
 また友人の話で恐縮だが。どうしても此の友人の事が頭から離れない。警官に「死ぬのは俺で、、、」と云い、「好きな名前」をファイル名にした友人である。彼は決して頭が悪いわけではない。六大学の一つをまぁまぁの成績で卒業している。考え方が実にユニークなだけである。いや、ユニーク過ぎると云った方が適切であろう。

 ある夜電話がかかってきた。「ファックスって、原稿を表にするのか、裏にするのか、お前知っているか?」と聞いてきた。「それは機械に依る」と私が答えると、「俺んちのファックスはどっちだ?」と聞いてきた。彼のファックスを使ったことがないので、そこまでは知らなかった。「そんなの、俺が知るわけねぇだろ。送る前にコピーをとってみろよ」と答えた。「お前、頭がいいな!」と感心された。まるで私がファックスの機械を発明したような褒められ方だった。

 彼は非常に友人に対する面倒見がよく、中学時代の正規の同期会を何度か主催してくれた。その後は年に何回も有志で行う同期会の面倒も見てくれていた。彼が鬼籍に入った後は、大手の建設会社の設計部に勤めていた友人と私とでその後を引き受けているが、彼ほどマメには開けていない。せいぜい年に一回か二回がやっとだ。こうやって途切れることなく昔の悪ガキ仲間が集まれるのも、その友人が土台を作ってくれたお蔭だと感謝している。

 朝早く、富士山の写真を撮りに富士五湖に行こうと彼の自宅に行った。彼を拾い、「行きは俺が運転するけど、帰りはお前だぞ」と念を押してから彼を助手席に座らせた。彼も私も酒はあまり飲めないので、車の運転には都合がいい。彼の提案で富士五湖に来ると必ず寄るという老舗の和菓子屋で美味しい和菓子と緑茶を堪能した後、忍野八海に行った。干しブドウのシーズンだったので、二人ともしこたま買い込んだ。すると、「車の中でお食べなさい」と一袋をサービスに呉れた。食い意地の張っている私は、「此処からはお前が運転しろ」とサービスの干しブドウを掴んだ。だが、敵はそれを離さなかった。仕方なく、浅間神社の撮影を済ませ、帰りの高速道路がある方に走り出した。高速道路に入る前に彼と運転を代った。ゲートを入って、5分もしないうちに「眠くなった」と友人はおっしゃった。眠い奴に無理に運転させるわけにはいかないので、路肩に寄せて運転を代った。往復とも私が運転することになった。友人は直ぐに寝てしまった。中央高速を降りて甲州街道に入るとかなりの渋滞だった。キューピー・マヨネーズの本社の前を通過するころ、友人はお目覚めになり、「まだ着かないのか?」と仰せになった。「ふざけんな!」と応酬した。

 最近は彼の夢を見る回数が減ったものの、それでも彼と二人で旅行に行ったときの夢をよく見る。彼の車で行ったり、私の車で行ったりした。云い合いはしょっちゅうだったが憎めない奴だった。会わぬ日が一週間もあると、必ずどちらかが電話した。
 彼が何回も入退院を繰り返し、死が近づいていることを本人だけが知らなかった。病床では、見舞いの度に私に悪態をついた。腹を立てる前に、非常に淋しい想いを味わった。

 以下は日本民家園(川崎市)にある石仏である。四季折々に色々なお顔を見せてくださる。日本の各地から古民家を移築したときに一緒に石仏もお移り願ったのであろう。その地方独特の特色が出ているように思え、素朴な石仏に非常な親しみを感じる。













 金曜日(9月18日)、晴れ間が出てきたので、気になっていたカルガモを見に行った。だが、予想外のことが起きていた。
 羽を痛めていなかった2羽は、移動先から母ガモが戻ってきて、既に連れて行っていた。そして羽を痛めて全く飛べない子ガモを気遣って母ガモが再度戻ってきていた。察するに一家の移動先はそれほど遠方ではないのではないか。犬を連れての散歩がてら、母ガモを見ていた人たちは母ガモの行為に感じ入っていた。この母ガモは全く人間を恐れていない。それが8羽とも育て上げた要因の一つなのだそうだ。空腹になると、管理事務所の方にまで足を運んで餌を貰いに行くこともあると聞いた。


 私と目が合うと、母ガモは頭を下げて寄って来た。それは挨拶をしているように見えた。だが、実際は餌をあさっていただけなのであろう。


 飛べぬ自分だけが取り残され、寂しさを感じているように見えた。


 母ガモが、子ガモを励ますように池で泳ぎ始めた。


 母ガモに促され、リハビリのために歩き始めた。歩いている間も、絶えず左の羽を動かしていた。飛べるほどには上がってはいなかったが、先週に比べるとかなり回復してきたように見えた。歩き方に多少のぎこちなさはあったが、足の怪我はほぼ癒えたようだった。

 子ガモがまだ小さかった頃、群れを少しでも離れる子がいると、激しく叱っていた母ガモの姿が忘れられない、と犬を抱いたオバさんが云っていた。私もその場面に何度も出くわした。子ガモたちはきちんと云うことを聞いていた。人間が見習うことが多くあった。

折々の写真&雑感 26

2015年09月14日 | エッセイ
 かなり以前の事であるが、親しい友人のご母堂から云われたことがあった。「お金持ちの基準が、今いくら持っているかではなく、過去にいくら使ったかであるなら、我が家は世界でも有数な資産家よ」との仰せであった。その理論が通るなら、私もかなりの資産家の筈である。詐欺にあってかなりの資産を失い、取引が成功するまで、懲りもせずに世界各地に出張した。TDYビルマ編をお読みの方々はお分かりのように、高い出張費を払ってビルマ(現ミャンマー)に何回も何回も通ったが、結局は一銭の商売も出来なかった。

 一年程前に、裁判員裁判の裁判員を経験した。サブの裁判員ではなく、量刑に投票権のある正規の裁判員であった。残念だが、その詳細については書けない。裁判員に選ばれたときに誓約しているのである。その前の年(2013年)の11月に「裁判員に選ばれる可能性がある」との通知を東京地方裁判所から受けた。それで、辞退するかどうかを問われた。私は辞退しなかったし、この時点で選ばれるような予感があった。そして実際に選ばれた。この段階での確率は23万人に一人とか、25万人に一人だとか聞いた。年末ジャンボ宝くじの発売を待って、3千円分を買ったが100円すら当たらなかった。その時の裁判長が「裁判員に選ばれて、宝くじを買って当ったと聞いた事は一度もありません」とおっしゃっていた。裁判長の予言は正しかった。マダガスカルで罹ったマラリアから生還したことで(TDYマダガスカル編の「25」をご参照願いたい)、一生分の運を使い果たしてしまったのであろう。ついでに申し述べたいが、年賀はがきの切手すら当たらなくなってしまった。

 だが、写真は運ではなく実力であろうと信じ、下手は下手なりに、懲りずに写真を撮り続けている。そして、少しでもいい写真を撮りたいと願っている。


 上野動物園の猛禽類の檻で、かなり前に撮ったものである。顔を見合わせた時、「何か文句あるか!」と云われたような気がした。だが、彼はもう居ない。


 上野動物園の鳥類館の中にいた「アンデス岩鳥」。此の鳥も残念だが今は居ない。


 上野動物園の居候。此のゴイサギをアシカの檻でよく見かける。


 上野動物園の「カンムリサケビドリ」。名前は叫び鳥だが、叫び声を一度も聞いたことがない。食べ残した餌を鼠が盗みに来るが、彼は全く無視している。


 富士花鳥園のフクロウ君。彫刻のようにじっとしていた。


 和田堀公園の主のような顔をしている野生のゴイサギ。立派に自立している。

 カルガモは既に飛び立っていた。先週の土曜日(9月5日)には居なかった母ガモが帰ってくると、雨の合間を縫って、力強く飛べる5羽の子ガモだけを連れて飛び立って行ってしまった。左の羽と左足を痛めて飛べない子ガモと、いつも2羽でつるんで遊んでいた、どことなくひ弱な子ガモを残して行ったのだ。子育てが上手でしっかり者の、愛情あふれる母ガモだが自然の法則通りに、弱い子は見捨ててしまう。自然の厳しさを感じた。
 8羽を孵し、8羽とも育て上げた母ガモは、此の池では初めての快挙だそうだ。公園で毎年カルガモの子育てを見守ってきた係員氏の話では、今年の母ガモは子育てが上手なだけではなく、非常に厳しい母親だったそうだ。「人間の母親も見習うべきですね」と云って笑っていた。

 下の2枚は残された子ガモたちである。9月12日(土)の朝の撮影。


 左の羽が垂れ下がり、自由に羽を動かせない。一生懸命に羽を動かそうとするが、一定の高さまでしか羽が揚がらず、飛ぶことは出来そうもない。羽だけではなく、左足も痛めていると、朝のラジオ体操を終えた人たちが云っていた。温暖の地に移動しなくても、此の池で暮らせば餌の心配はない。また、カメの休憩所に居れば猫に襲われる心配もない。


 この2羽を見ている限り、母親に置き去りにされてしまった「悲劇の子」には見えなかった。いつも通り、仲良く、ゆったりと泳いでいた。現実が分っているのだろうか。

折々の写真&雑感 25

2015年09月07日 | エッセイ
 NHKの「暮らしの何とか」と云う番組で、アナウンサーが「窓を開けると温度などが下がる」と云った。ご丁寧に下に字幕まで出ていた。「温度など」と云うが、温度の他に何が下がるのか?湿度が下がるとは限らない。気圧に関しては殆ど影響ないのではないか?こればかりではない、天気予報でも「今夜半から雨などに変ります」と云っている。冬なら雨や雪と考えられるが、いまどき雪が降るわけがない。何故決まりきったことに「など」と付けるのか。「等」「等々」は、「AとB」或いは「AとBとC」と多くある語句や事柄に「等」や「等々」を付けると小学校の国語の時間に教わった。これはNHKに限ったことではない。私が購読している日本最大手の新聞でもこのような表現が使われている。「Aなど」と使われると、Aの他にBやCがあるのではないかと考える。また、「胸などをナイフで刺された」と云う記事は、胸部以外に他の箇所も刺されたのであろうと判断するが、「胸をナイフなどで刺された」と云う記事は、ナイフだけではなくフォークも使ったのだろうかと疑いたくなる。殺人犯の逮捕の報道に、NHKも大手の新聞も「殺人などの容疑で逮捕された」と云っているが、何故「殺人の容疑で逮捕された」と報道出来ないのか?NHK流に云うなら「殺人などの容疑などで逮捕などされた」と報道することも出来る。だが、これでは聞いている方が迷ってしまう。殺人の他にも罪を犯したのか?容疑の他にも逮捕理由があるのか?逮捕以外にも身柄を拘束される他の方法があるのか?此処まで書くと理屈っぽいと感じる諸兄諸姉もおいでだろうが、報道は簡潔に、正確に行って欲しいものだ。

 かなり前の朝の放送だったが、NHKの「ミニマニスト」の紹介番組でアナウンサーが「洋服が6着」と云っていた。物を持たない暮らしの人のスーツが6着なら少ないとは思えないなと聞いていると、洋服ダンスの中が映し出された。見るとスーツが3着と長袖のシャツが3枚が並んでハンガーにかかっていた。一般にシャツは洋服のカテゴリーには入らないであろう。それとも現代の日本語ではそのような名称に変ったのだろうか。




 上2枚は上野動物園のジロー。写真を撮っていて、やはりカバは巨大であると感じた。姉さん女房のサツキと死別してからは独身を通してきたが、6月に若い嫁さんのユイを迎えた。羨ましい限りだ。


 おしゃれなピーコ。布を時々交換してやると、嬉しそうに被るそうだ。此のピーコは男の飼育員氏に恋をしているとの噂がある。


 ワオキツネザル。マダガスカルのチンバザザ動物園で観るより、上野動物園で見る方がずっと近くで観る事が出来る。TDYマダガスカル編の「1」をご参照頂きたい。


 ユキオが死ぬ1カ月ほど前の写真。死亡時は26歳と11カ月で、「国内飼育最高齢個体」であったそうだ。


 モモコ母娘。我々人間さまの行為に反応している。まるで彼等が我々を観察しているようだ。

 以下の2枚の写真は9月3日(木)の朝の写真である。此の朝は、何度数えても、いくら待っても7羽しかいなかった。母ガモは居たので、子ガモの数が2羽足りなかったのだ。 池の周囲の草地や他の場所を探したが見当たらなかった。周囲の人に聞くと、「もう大きくなったから、カラスにやられる心配はないでしょう」と云っていた。


 母ガモが起きだしてきた。ウオーミングアップをしてから勢いよく子ガモのいるところまで飛んで行った。着水すると、直ぐに子ガモたちが集まってきた。


 母ガモの号令一下、飛行訓練が始まった。かなりピンがボケているが、急に飛び立ったので、カメラの設定が間に合わず、不出来な写真になってしまったことをお詫びしたい。だが、子ガモが飛べるようになったことはお分かり頂けたと思う。

 次の2枚は9月5日(土)の朝の写真である。今朝は8羽いた。1羽足りなかったが、それは母ガモだろうと、朝の体操を終えた人たちとで推測した。時々父ガモがどこからかやって来る。すると母ガモは父ガモと一緒に、子ガモを置いてどこかに飛んで行ってしまう事があるそうだ。今回も母ガモがデートに行って、まだ戻ってきていないのだと結論付けた。


 カメの休憩場を占領してのうのうとしている子ガモがいた。母ガモと見間違えるほどの大きさに育った。


 この子ガモは逆にカメに追われて池に飛び込んでしまった。可哀そうに、この子ガモは左の羽を痛め、他の子ガモたちと一緒に飛行訓練が出来ない。飛行訓練で痛めたのか、猫にでもやられたのか、原因は不明。

 私はアメリカの空軍に勤務したことが縁で、多数のアメリカ人の友人がおり、商取引もしてきた。而し、安全保障條約には全面的に反対である。アメリカを利する事だけが多く、日本を利するものではない。恐れることなく、條約を破棄すべきであると私は信じる。