TDY、Temporary Duty。アメリカの軍隊用語で出張を意味する。世界の僻地の出張記録!TDYの次は日常の雑感

現役時代の出張記録。人との出会いと感動。TDY編を終え、写真を交えた日常の雑感を綴る。

TDY, Temporary Duty ビルマ編 2

2013年09月09日 | 旅行
 タイのバンコクからやっとの思いでラングーン(現ヤンゴン)の空港に着いた。機体に階段が着けられると、「YANGON」の看板だけが新しい空港ビルまで炎天下を歩かされた。

 古めかしい木造の建物の中はタイ航空のエアバスA300から降りた人達とミャンマーの軍人、民間人で到着ロビーはごった返していた。軍人以外は男女とも腰に巻く布、ロンジーを巻き、ゴム草履を履いていた。このロンジーはビルマの代表的な民族衣装で、筒状の長い巻きスカートのようなものである。男物と女物では柄と結び方が違うだけで、それ以外は全て同じである。外出着にも普段着にもなっている。
 ロンジーを纏った民間人が旅行客を捕まえては、入国手続きの手伝いをすると云い寄ってきた。私は無視した。冷房はなかった。天井にぶら下げられている時代物の扇風機が一台、ゆっくりと、淀んだ空気を掻き廻していた。パスポートとビザを確認し、ミャンマー大使館からの報告書と照らし合わせた。そして、軍服を着た係官は私を犯罪者を見るようにして入国のスタンプを押した。別の係官に次のコーナーへ行くよう指示された。そこでは各人が財布の中身を点検されていた。あらかじめ用意させられた所持金の申告書と実際の所持金とを照合している。これが済むとアタッシュケースを開けさせられた。このとき、中に入っていた安物のボールペンを要求された。私はそのうちの一本を渡した。すると隣にいた係官までが手を出した。仕方なく渡すと素早くズボンのポケットにしまった。その後はアタッシュケースの中身を見ようともせず、黙って通した。隣では、持込み禁止になっているビデオカメラを取り上げられたヨーロッパからの観光客が「帰るときに、ちゃんと返すか?」と念を押していたが、係官は黙っていた。嫌な気分でその場を立ち去ろうとすると「今度は使い捨てのライターを持ってきてくれ」と先ほどボールペンを手に入れた係官が図々しく云った。私は返事もせず立ち去った。
 バッゲイジ・クリアランスのエリアも人で溢れていた。旅行客が荷物を受取ると数人のポーターが群がってきた。此処は保税地区の筈であるのに、他の国では考えられぬ事だった。私のスーツケースはまだ到着していなかった。大八車に囲いをつけたような大型の手押し車で、荷物は到着機から少しづつ運ばれていた。着くと部屋の隅に放り投げられ、別の労務者がそれを並べた。彼等は皆ロンジーを腰に巻き、よれよれのシャツを着ており、裸足だった。並べられた荷物は軍服を着た連中がタグの番号と旅行客の提示した控えのタグとを照合してから渡していた。そんな作業をしていたら、今日中にこの蒸し風呂の中から出られるのかと疑った。次の便が来たらどうするのかと心配したが、「外国からの到着便は一日一便あればいい方だ」と何回もこの国を訪れているアメリカ人がうんざりした表情で私に云った。
 戒厳令下の軍事政権では、外国人に空路での入国しか認めていない。陸路は全部が閉鎖されている。このヤンゴン(ラングーン)が唯一の国際空港である。従って外国人は全員が此処に集中させられる。公用は別として、条件付きの観光客、政府の認めた商用、特に貿易業者だけは入国を許されている。ジャーナリストは一切入国禁止である。鎖国に近い政策をとっている。

 旧ビルマ、現在のミャンマーはインドシナ半島の西端に位置し、東はタイ、ラオス、北は中国雲南省の昆明、西はバングラデシュ、インドと国境を接している。国土はおよそ日本の1.8倍、人口は3分の1である。日本人には想像もつかぬ多くの国々に囲まれ、昔から紛争が絶えなかった。唯一他の国と接していないのは南で、アンダマン海に面し、少し西へ行くと、其処はもうベンガル湾である。



 私が定宿にしたストランド・ホテル(岸辺のホテルの意)はラングーン川に面しており、すぐ近くにこのようなフェリーの船着き場がある。この近辺は浅く、またその設備もないので貨物船は接岸出来ない。
 朝には対岸から働きに来る人たちを満載したフェリーが到着し、夕方にはその人たちを満載して対岸に帰っていく。



 私の取引先の貿易商が契約している材木商の屋敷。敷地は半エーカーと云っていたので、恐らく600坪はあるのだろう。この写真の奥に二階建ての、古いがしっかりした邸宅がある。昔英国人が建てたものである。これを、最近(1989年5月か6月ごろ)100万円で購入したそうである。引っ越してきたばかりなので、あらゆるところに手を加えている。
 私の取引先の奥さんは公立の高校で英語の教師をやっているが、当時の給料は1,500円だと聞いている。100万円など、夢のまた夢である。



 幸せそうな家族。材木商である父親の名前はココ・ジィー(大きいとか長兄の意味だそうだ)であるが、長女の名前はムー・ムー(雨、雨とか空、空の意)。ビルマでは、人の名前には夫々意味があり、その名前を聞けば何月に生まれ、何処で生まれたかわかるそうだ。ある一定のルールで名前を付けるらしく、似通ったり同じだったりする名前が非常に多い。
 ビルマの庶民の服装は殆どがロンジーである。この家族がスカートをはいたりズボンをはいているのは非常に珍しい。また、ゴムぞうりではなくスニーカーとは驚きだ。貧富の差は凄まじい。



 カンダジー湖に浮かぶ金きら金のレストラン。見た目はいいが、出された食事はまずかった。食事のまずさはこのレストランに限らず。どこに行ってもそれほどおいしくない。ただ一軒だけ「パンダ」という名の中華レストランだけは旨かった。だが、カモの姿煮には参った。何か細長いものがあるので、それをフォークで持ち上げてみるとカモの嘴だった。それが胴体、水かきがついたままの足へと全部繋がっていた。




 パゴダの中に入るには、靴は勿論のことソックスまで脱がされた。床のコンクリートがビルマの人たちの足の油でぬめっていて気持が悪かった。別のパゴダに行ったときは「外国人は靴だけ脱げばいい」と云われ、ほっとした記憶がある。パゴダの中にエアコンはないが、外気とは完全に遮断されているせいか非常に涼しい。床はひんやりとしている。パゴダによって独特な飾りつけがあり、どれにも金が多く使われていた。


 「ご近所のパゴダ」という感じで、近くの人たちが仏様に挨拶に来るのか、願い事をしに来るのかは知らないが、親しみのこもった表情で仏様に対していた。

 次回には別のビルマについて話してみたい。