ぷらっとこだまで京都に向かう。
のぞみを利用すると、東京-京都間は約2時間半。
こだまを利用すると、約4時間弱。
料金は往復で6千円くらい異なる。
地元豊橋に帰るときでさえ、こだまは使わない。
同じ料金であるのに、新幹線のメリットが感じづらいからだ。
ただし豊橋にはのぞみは止まらないので、ひかりを使う。
今回は、節約のためと、新幹線の中で仕事をしようと思ったため。
割に仕事が立て込んでしまっていて、私が思う十分で潤沢な自由時間が減ってしまい、細切れにも仕事を片付けておきたい。
新幹線は広いしWi-Fiもあるので、これまでも仕事をする機会はあっただろうが、外で仕事をするという発想を持っていなかったので一度もしたことはなかった。
それにPCを持ち歩く習慣も自由業になる前はなかった。
新幹線の中で仕事をするのは、非常に良い、ということが分かった。
どうせ本を読んでいても寝てしまうし、どうせ音楽を聴いていても寝てしまうし、しかし熟睡できるわけでもなく、とても首が痛くなったりするので寝るにはあまり相応しくない。
外の景色を眺めるにも東海道線は乗車しすぎていて見慣れているし、スマートフォンも4時間はさすがにやっていられない。
こまごまとした仕事を片付けるには、4時間はある程度の仕事量を片付けることができてちょうど良いし、集中力も持続する。
何より、席が決まっていて隔離状態にあり、身動きが取れないのが都合良い。
それに、小さなPCを膝の上に乗せてカタカタやるにも十分なスペースがある。
それに、本を読むのと違って、オフィスでの仕事に慣れているからか、ある程度の人の話し声の中でもできる。
という、初めての合理的体験を、京都に着いて友人に会うや否や喋る。
いつものように、夜ごはんを食べて、バーをはしごして、いろんな話をして、ふらふらで友人宅に帰り、お風呂に入って寝て、起きて喋って、いつものタイ料理屋でランチをして、14時の新幹線こだまで東京にとんぼ返り。
一切の観光をせず、京都の市バスの混雑さや煩雑さに腹を立て、京都という街の良さをまた今回もあまり実感することなく。
東京は酷い雨が続いているから、京都の晴れ間は暑かったけれど眩しかった。
入道雲のある青空と、緑をキラキラ照らす強い光、密度の高い重たい空気は、まさに夏の様相だった。
お店の中もすっかりクーラーが効いていて、1時間もいると手足が冷え冷えしてしまう。
触れかけた核心は、お酒が輪郭をぼやかし、他人が横入りして、綿の中に吸い込まれてしまった。
フィクションみたいなそのことが、リアルよりリアルであったという一瞬の幻を、私は誰かに伝えようとすることに果たして意味を持たせることができるのだろうか。
「全部がぜんぶ、嘘でした」ということかもしれない、そのことに。
「そんなの本当じゃない」と言われて明確な言い返しもできない、そのことに。
“はだかの価値”を持つのは、とても難しい。
思考は影響され、あるいは統制され、構築される。
関係し合うことしか、何かに意味づけすることなどできない。
しかしながら、その関係し合う中での圧倒的な“ひとり感”なわけであって、その地点が“満腹の飢餓感”を生む。
「孤独」という言葉が、憂いや寂しさや暗さばかりを内包しているイメージがあるのであれば、「ひとり」という「孤独」よりはニュートラルなイメージの言葉を使いたい。
ここから一歩も通さない 理屈も法律も通さない
誰の声も届かない 友達も恋人も入れない
手がかりになるのは 薄い月明かり
(中略)
いつでも真っすぐ歩けるか 湖にドボンかもしれないぜ
誰かに相談してみても 僕らの行く道は変わらない
手掛かりになるのは 薄い月明かり
何度見てもヒロトのこの詞には打たれるわけで。
「こっちの方が、私にとってより正しそうだ」ということしか道標はない。
しかしながら、その入り口そのものの概念がどうやら私を掴んで離さないようだということは言うことができるけれど、その先にある何が欲しいのかは全然分からない。
ちなみに私自身、この後半部分、ほとんどニュアンスだけのことを書いていて、何が軸なのかがよく分からない。
のぞみを利用すると、東京-京都間は約2時間半。
こだまを利用すると、約4時間弱。
料金は往復で6千円くらい異なる。
地元豊橋に帰るときでさえ、こだまは使わない。
同じ料金であるのに、新幹線のメリットが感じづらいからだ。
ただし豊橋にはのぞみは止まらないので、ひかりを使う。
今回は、節約のためと、新幹線の中で仕事をしようと思ったため。
割に仕事が立て込んでしまっていて、私が思う十分で潤沢な自由時間が減ってしまい、細切れにも仕事を片付けておきたい。
新幹線は広いしWi-Fiもあるので、これまでも仕事をする機会はあっただろうが、外で仕事をするという発想を持っていなかったので一度もしたことはなかった。
それにPCを持ち歩く習慣も自由業になる前はなかった。
新幹線の中で仕事をするのは、非常に良い、ということが分かった。
どうせ本を読んでいても寝てしまうし、どうせ音楽を聴いていても寝てしまうし、しかし熟睡できるわけでもなく、とても首が痛くなったりするので寝るにはあまり相応しくない。
外の景色を眺めるにも東海道線は乗車しすぎていて見慣れているし、スマートフォンも4時間はさすがにやっていられない。
こまごまとした仕事を片付けるには、4時間はある程度の仕事量を片付けることができてちょうど良いし、集中力も持続する。
何より、席が決まっていて隔離状態にあり、身動きが取れないのが都合良い。
それに、小さなPCを膝の上に乗せてカタカタやるにも十分なスペースがある。
それに、本を読むのと違って、オフィスでの仕事に慣れているからか、ある程度の人の話し声の中でもできる。
という、初めての合理的体験を、京都に着いて友人に会うや否や喋る。
いつものように、夜ごはんを食べて、バーをはしごして、いろんな話をして、ふらふらで友人宅に帰り、お風呂に入って寝て、起きて喋って、いつものタイ料理屋でランチをして、14時の新幹線こだまで東京にとんぼ返り。
一切の観光をせず、京都の市バスの混雑さや煩雑さに腹を立て、京都という街の良さをまた今回もあまり実感することなく。
東京は酷い雨が続いているから、京都の晴れ間は暑かったけれど眩しかった。
入道雲のある青空と、緑をキラキラ照らす強い光、密度の高い重たい空気は、まさに夏の様相だった。
お店の中もすっかりクーラーが効いていて、1時間もいると手足が冷え冷えしてしまう。
触れかけた核心は、お酒が輪郭をぼやかし、他人が横入りして、綿の中に吸い込まれてしまった。
フィクションみたいなそのことが、リアルよりリアルであったという一瞬の幻を、私は誰かに伝えようとすることに果たして意味を持たせることができるのだろうか。
「全部がぜんぶ、嘘でした」ということかもしれない、そのことに。
「そんなの本当じゃない」と言われて明確な言い返しもできない、そのことに。
“はだかの価値”を持つのは、とても難しい。
思考は影響され、あるいは統制され、構築される。
関係し合うことしか、何かに意味づけすることなどできない。
しかしながら、その関係し合う中での圧倒的な“ひとり感”なわけであって、その地点が“満腹の飢餓感”を生む。
「孤独」という言葉が、憂いや寂しさや暗さばかりを内包しているイメージがあるのであれば、「ひとり」という「孤独」よりはニュートラルなイメージの言葉を使いたい。
ここから一歩も通さない 理屈も法律も通さない
誰の声も届かない 友達も恋人も入れない
手がかりになるのは 薄い月明かり
(中略)
いつでも真っすぐ歩けるか 湖にドボンかもしれないぜ
誰かに相談してみても 僕らの行く道は変わらない
手掛かりになるのは 薄い月明かり
何度見てもヒロトのこの詞には打たれるわけで。
「こっちの方が、私にとってより正しそうだ」ということしか道標はない。
しかしながら、その入り口そのものの概念がどうやら私を掴んで離さないようだということは言うことができるけれど、その先にある何が欲しいのかは全然分からない。
ちなみに私自身、この後半部分、ほとんどニュアンスだけのことを書いていて、何が軸なのかがよく分からない。