【東京「君が代」裁判1次訴訟 2010年7月20日】
◎ 代理人弁論 弁護士 澤藤統一郎
控訴人ら代理人の澤藤から、阿部泰隆教授意見書を援用した準備書面の主張を要約して陳述いたします。
阿部意見書は、まことに端的に、都教委の見解を「全体主義、独裁主義の思想である」と断じています。
全体主義・独裁主義とは、国家が正しいとする自らの価値観の受容を国民に強制してよいとする思想のことです。戦前の日本がまさしくその典型の国家でした。
個人の尊厳ではなく国家の隆盛こそが価値の根源という考え方を国民に強制しました。忠君愛国・富国強兵・国威発揚・滅私奉公という国家中心の思想を国民に注入し、国民精神の内面にまでその支配を貫徹したのです。
戦前、国による国民への国家主義価値観の注入は主に学校教育の場において行われました。国家が選択した、国民としての正しい考え方・生き方、子どもにとって教育的に意義のあることは、そのまま国定教科書の内容となり、あるいは学校儀礼となって、全国一律に子どもたちに教え込まれました。
真面目な教員が、生徒たちに万世一系の神国思想を説き、生徒の命を鴻毛より軽いと教え、国家に殉ずることの大義を教育したのです。
これに対して、民主主義の制度においては、国が特定の価値観を持っことを許容しません。正当な民主的手続きによって形成された権力といえども、特定の価値観を国民に強要してはなりません。
価値観、つまりは何を人生や社会の根源的な価値とし、何のためにどのように生きるべきかという選択は、一人一人の個人に委ねられます。一人一人のものの見方や考え方の根幹に国が介入することは越権の極みとして許されないのです。
戦前の超国家主義に対する深刻な反省から再出発した戦後日本は、日本国憲法を採択して徹底した民主主義の国家となりました。国が、再び国家主義的な価値観を国民に強制することはけっして許されてはなりません。
たとえ都教委が、国旗・国歌の掲揚や斉唱を、正しいこと、よいこと、教育的に意義のあること考えても、その強制に及ぷときは、民主主義に反し、日本国憲法に反して、「全体主義、独裁主義の思想である」と批判されなければなりません。国旗・国歌の強制は、優れて人の価値観に関わる、とりわけ国家主義的価値観に関わる問題だからなのです。
国旗や国歌は国の象徴です。式典において国旗を掲揚し国歌を斉唱せよと求められるとき、式典参列者は、否応なく個人として国とどう向かいあうべきかという問題に直面します。起立・斉唱は、公の場で国に対して敬意や尊重の念を表明する行為だからです。また、「日の丸・君が代」がかつて象徴した旧体制の評価という歴史認識の課題にも直面することになります。
嬉々として国に敬意や尊重の念を表明できる人もいるでしょう。「日の丸・君が代」に格別に抵抗感を持たずに起立し斉唱する人もいるでしょう。しかし、国旗・国歌、あるいは「日の丸・君が代」に敬意・尊重の念を表明することは自分の価値観に根本的に抵触すると考える人もいるのです。とりわけ、教育の場において国家象徴への敬意表明の強制を安易に見過ごしてはならないとする少なからぬ教師集団が存在します。その人たちの思想・良心こそ尊重されなければなりません。
これを無視して、起立・斉唱・伴奏行為を強制することは、権力を持つ者による、特定の価値観の個人への強制以外の何ものでもありません。
また、阿部意見書は民主主義国家における教育のあり方として、多元的価値の尊重を強調しています。
教育という営みにおいて、生徒に対して一方的な価値観の注入は許されません。教育においては、一つの考え方、とりわけ権力者の考え方を一方的に強制して、子どもを一つの型にはめてはならないのです。むしろ、正当な考えにも複数あり、それぞれを学んで、価値の多様性に理解を示すように育成することこそ、望ましい教育であり、子どもの学習権の内実なのです。
阿部意見の批判の矛先は、都教委にだけではなく、裁判所にも「法解釈の名において、教育を窒息させることに手を貸している」と手厳しいものがあります。
原判決は、ピアノ判決に倣って、「式典においては、自分の歴史観、世界観、信条と切り離して、不起立行為に及ばないという選択も可能である」と言っています。
しかし、「それは、裁判官が、原告らのような歴史観、世界観、信条を持たないので理解できないだけではないだろうか。裁判官は、自分がそのような歴史観、世界観、信条を有するとして、どう行動するかを考えているのだろうか。信条を曲げても起立するのだろうか」これが阿部教授の重い問いかけです。
少数者の信条や精神の内面に対する理解の欠如、あるいは理解しようとする姿勢の欠如が、精神的自由の侵害をもたらします。裁判官には、もっとも繊細で脆弱な少数者の精神の内面に寄り添う姿勢をお持ちいただきたい。
貴裁判所が、「法解釈の名において全体主義・独裁主義の思想に手を貸して、教育を窒息させる」との批判を受けることのなきように、憲法の原点を踏まえた審理と判決をされるよう切望いたします。
◎ 代理人弁論 弁護士 澤藤統一郎
控訴人ら代理人の澤藤から、阿部泰隆教授意見書を援用した準備書面の主張を要約して陳述いたします。
阿部意見書は、まことに端的に、都教委の見解を「全体主義、独裁主義の思想である」と断じています。
全体主義・独裁主義とは、国家が正しいとする自らの価値観の受容を国民に強制してよいとする思想のことです。戦前の日本がまさしくその典型の国家でした。
個人の尊厳ではなく国家の隆盛こそが価値の根源という考え方を国民に強制しました。忠君愛国・富国強兵・国威発揚・滅私奉公という国家中心の思想を国民に注入し、国民精神の内面にまでその支配を貫徹したのです。
戦前、国による国民への国家主義価値観の注入は主に学校教育の場において行われました。国家が選択した、国民としての正しい考え方・生き方、子どもにとって教育的に意義のあることは、そのまま国定教科書の内容となり、あるいは学校儀礼となって、全国一律に子どもたちに教え込まれました。
真面目な教員が、生徒たちに万世一系の神国思想を説き、生徒の命を鴻毛より軽いと教え、国家に殉ずることの大義を教育したのです。
これに対して、民主主義の制度においては、国が特定の価値観を持っことを許容しません。正当な民主的手続きによって形成された権力といえども、特定の価値観を国民に強要してはなりません。
価値観、つまりは何を人生や社会の根源的な価値とし、何のためにどのように生きるべきかという選択は、一人一人の個人に委ねられます。一人一人のものの見方や考え方の根幹に国が介入することは越権の極みとして許されないのです。
戦前の超国家主義に対する深刻な反省から再出発した戦後日本は、日本国憲法を採択して徹底した民主主義の国家となりました。国が、再び国家主義的な価値観を国民に強制することはけっして許されてはなりません。
たとえ都教委が、国旗・国歌の掲揚や斉唱を、正しいこと、よいこと、教育的に意義のあること考えても、その強制に及ぷときは、民主主義に反し、日本国憲法に反して、「全体主義、独裁主義の思想である」と批判されなければなりません。国旗・国歌の強制は、優れて人の価値観に関わる、とりわけ国家主義的価値観に関わる問題だからなのです。
国旗や国歌は国の象徴です。式典において国旗を掲揚し国歌を斉唱せよと求められるとき、式典参列者は、否応なく個人として国とどう向かいあうべきかという問題に直面します。起立・斉唱は、公の場で国に対して敬意や尊重の念を表明する行為だからです。また、「日の丸・君が代」がかつて象徴した旧体制の評価という歴史認識の課題にも直面することになります。
嬉々として国に敬意や尊重の念を表明できる人もいるでしょう。「日の丸・君が代」に格別に抵抗感を持たずに起立し斉唱する人もいるでしょう。しかし、国旗・国歌、あるいは「日の丸・君が代」に敬意・尊重の念を表明することは自分の価値観に根本的に抵触すると考える人もいるのです。とりわけ、教育の場において国家象徴への敬意表明の強制を安易に見過ごしてはならないとする少なからぬ教師集団が存在します。その人たちの思想・良心こそ尊重されなければなりません。
これを無視して、起立・斉唱・伴奏行為を強制することは、権力を持つ者による、特定の価値観の個人への強制以外の何ものでもありません。
また、阿部意見書は民主主義国家における教育のあり方として、多元的価値の尊重を強調しています。
教育という営みにおいて、生徒に対して一方的な価値観の注入は許されません。教育においては、一つの考え方、とりわけ権力者の考え方を一方的に強制して、子どもを一つの型にはめてはならないのです。むしろ、正当な考えにも複数あり、それぞれを学んで、価値の多様性に理解を示すように育成することこそ、望ましい教育であり、子どもの学習権の内実なのです。
阿部意見の批判の矛先は、都教委にだけではなく、裁判所にも「法解釈の名において、教育を窒息させることに手を貸している」と手厳しいものがあります。
原判決は、ピアノ判決に倣って、「式典においては、自分の歴史観、世界観、信条と切り離して、不起立行為に及ばないという選択も可能である」と言っています。
しかし、「それは、裁判官が、原告らのような歴史観、世界観、信条を持たないので理解できないだけではないだろうか。裁判官は、自分がそのような歴史観、世界観、信条を有するとして、どう行動するかを考えているのだろうか。信条を曲げても起立するのだろうか」これが阿部教授の重い問いかけです。
少数者の信条や精神の内面に対する理解の欠如、あるいは理解しようとする姿勢の欠如が、精神的自由の侵害をもたらします。裁判官には、もっとも繊細で脆弱な少数者の精神の内面に寄り添う姿勢をお持ちいただきたい。
貴裁判所が、「法解釈の名において全体主義・独裁主義の思想に手を貸して、教育を窒息させる」との批判を受けることのなきように、憲法の原点を踏まえた審理と判決をされるよう切望いたします。
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