◆ 第4回杉並近現代史講座「安保条約と天皇」
皆様
こんにちは。犯罪都教委&1・5悪都議と断固、闘う増田です! これはBCCでお知らせしています。重複・長文、ご容赦を。
件名講座を以下で行います。ご都合のつく方は、どうぞ、おいでください!
●日時:3月13日(土) 18:00~20:00
●場所:アンサンブル荻窪
http://mappage.jp/popup/popmap.php?X=2.4368238534938&Y=0.62309466329625&L=12&KanriNo=13115S000042&init=yes
●内容:「サンフランシスコ条約・旧安保条約に昭和天皇は、いかなる役割を果たしのたか?」
●第3回講座は「昭和天皇の『全責任発言』のなぞを解く」でした。その感想・意見をご紹介します。
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「真実を語ったらクビ」で、九段中を分限免職された増田都子元教諭が、杉並区の市民を対象に近現代史講座を始めた。その3回目は上記のタイトルで行われたが、まさしく胸のすくようなスッキリした「真実」が語られた。
B4・3枚裏表印刷の教材プリントは、1964年出版『マッカーサー回想録』からの引用で始まる。
天皇は「私は、国民が戦争遂行にあたって政治、軍事両面で行なったすべての決定と行動に対する全責任を負う者として、私自身をあなたの代表する諸国の裁決にゆだねるためおたずねした」と言った。私は大きい感動に揺すぶられた。…この勇気に満ちた態度は私の骨の髄までも揺り動かした。(1945月9月27日、第1回マッカーサー・昭和天皇会見)
しかし、授業の最後に示された結論から言うと、天皇のこの言葉は後付けのフィクションだったのだ。
2002年10月に、情報公開制度により外務省の『公式文書』が開示された。
(朝日新聞記者開示請求→外務省非開示決定→不服審査申立→審査会開示を求める答申、という経過に1年半要している)
10月17日『朝日新聞』夕刊に掲載された全文の中に、「戦争責任」発言は全く見当たらない。
「此ノ戦争ニ付テハ、自分トシテハ極力之ヲ避ケ度イ考デアリマシタガ戦争トナルノ結果ヲ見マシタコトハ自分ノ最モ遺憾トスル所デアリマス」
この言い訳じみた言葉だけである。
(『公式文書』全文をネット上で見ることはできないようだ。全文は小森陽一『天皇の玉音放送』五月書房に引用されている。もちろん『朝日新聞縮刷版』でも見ることが出来る。)
その後も天皇戦争責任自認発言についての「論争」は、通訳が勝手に削除したのではないかとか一部で続いているようだが、『公式文書』に載っていないという事実は重い。この時点で決着がついている。
ではこの天皇戦争責任自認発言は、誰が何のために「捏造」をしたのか。
増田さんの授業プリントでは、1945/9/27の会見から、天皇が何を語ったのか、その後の報道など内外の様々な記録が引用され、検証が試みられている。
おおむね、1948/11/12東京裁判で東条ら7人に死刑判決が出る以前のものは、「国民への責任転嫁」か「東条への責任転嫁」の論調である。(中略)
ところが、55年以降になると一変して「全責任を負う」一色になっていく。(中略)そして、64年出版の『マッカーサー回想録』で、フィクションが確立することになる。
天皇の人柄が高潔であるという美談は、日本人的感性に訴えて、天皇を美化することに大いに貢献してきたことは間違いない。でも後付けの作り話はもうお終いだ。
天皇は自ら「戦争の全責任を負う」などと語ったことは一切なかった。
では仮に、天皇が「戦争の全責任を負う」と、本当に言ったとしたらどうなるか。「天皇の戦争責任論争」にキッパリ終止符が打たれるだろう。天皇には戦争責任がある。何より天皇自身が「戦争責任」を自らの言葉で認めたのだから>。右翼の論客諸氏も、天皇の戦争責任を前提として、その責任の取り方があれでよかったのかを論じなければならなくなるだろう。
そもそも、天皇の「自責発言」と、「天皇に戦争責任なし」は、相互に両立しえない立場である。
授業では、連合国はなぜ天皇の戦争責任を追及しなかったかについても、様々な資料に基づいて分析があった。
私の理解では、マッカーサーが最優先したのは「占領統治の成功」であって、天皇制など二の次だったのだろう。東西対立の中で、ソ連を押さえ込もうとするマッカーサーと、共産主義嫌いな昭和天皇とが意気投合したとも言える。要するに「政治的思惑」の中で、連合国側からの天皇の戦争責任は見逃されることになったのだ。
しかし、外国からは責任を追及されなかったとしても、対内的なの「戦争責任」はどうなったのだろう。連合国側に対しては「諸国の裁決にゆだねる」と恭順の意を表しつつ、国民に向けては謝罪の一つもないというのは、指導者の人格として誉められたものだろうか。天皇の「自責発言」があったとしても、戦勝国から免罪してもらうためのものであったとしたら、自己保身のための外向けのポーズでしかなかったことになる。
歴史教育は「客観的事実」に基づくことが根本である。『公式文書』に載っていない天皇の言葉をあたかも事実であるかのように「人物コラム」に載せている扶桑社の歴史教科書は検定をやり直すべきだろう。そうでなければ「歴史」の看板を外して「物語」とでも看板を掛け替えるべきだ。
大変有意義な授業であった。こんなすてきな授業を聞けなくなった区立の中学生達は本当に気の毒である。
皆様
こんにちは。犯罪都教委&1・5悪都議と断固、闘う増田です! これはBCCでお知らせしています。重複・長文、ご容赦を。
件名講座を以下で行います。ご都合のつく方は、どうぞ、おいでください!
●日時:3月13日(土) 18:00~20:00
●場所:アンサンブル荻窪
http://mappage.jp/popup/popmap.php?X=2.4368238534938&Y=0.62309466329625&L=12&KanriNo=13115S000042&init=yes
●内容:「サンフランシスコ条約・旧安保条約に昭和天皇は、いかなる役割を果たしのたか?」
●第3回講座は「昭和天皇の『全責任発言』のなぞを解く」でした。その感想・意見をご紹介します。
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「真実を語ったらクビ」で、九段中を分限免職された増田都子元教諭が、杉並区の市民を対象に近現代史講座を始めた。その3回目は上記のタイトルで行われたが、まさしく胸のすくようなスッキリした「真実」が語られた。
B4・3枚裏表印刷の教材プリントは、1964年出版『マッカーサー回想録』からの引用で始まる。
天皇は「私は、国民が戦争遂行にあたって政治、軍事両面で行なったすべての決定と行動に対する全責任を負う者として、私自身をあなたの代表する諸国の裁決にゆだねるためおたずねした」と言った。私は大きい感動に揺すぶられた。…この勇気に満ちた態度は私の骨の髄までも揺り動かした。(1945月9月27日、第1回マッカーサー・昭和天皇会見)
しかし、授業の最後に示された結論から言うと、天皇のこの言葉は後付けのフィクションだったのだ。
2002年10月に、情報公開制度により外務省の『公式文書』が開示された。
(朝日新聞記者開示請求→外務省非開示決定→不服審査申立→審査会開示を求める答申、という経過に1年半要している)
10月17日『朝日新聞』夕刊に掲載された全文の中に、「戦争責任」発言は全く見当たらない。
「此ノ戦争ニ付テハ、自分トシテハ極力之ヲ避ケ度イ考デアリマシタガ戦争トナルノ結果ヲ見マシタコトハ自分ノ最モ遺憾トスル所デアリマス」
この言い訳じみた言葉だけである。
(『公式文書』全文をネット上で見ることはできないようだ。全文は小森陽一『天皇の玉音放送』五月書房に引用されている。もちろん『朝日新聞縮刷版』でも見ることが出来る。)
その後も天皇戦争責任自認発言についての「論争」は、通訳が勝手に削除したのではないかとか一部で続いているようだが、『公式文書』に載っていないという事実は重い。この時点で決着がついている。
ではこの天皇戦争責任自認発言は、誰が何のために「捏造」をしたのか。
増田さんの授業プリントでは、1945/9/27の会見から、天皇が何を語ったのか、その後の報道など内外の様々な記録が引用され、検証が試みられている。
おおむね、1948/11/12東京裁判で東条ら7人に死刑判決が出る以前のものは、「国民への責任転嫁」か「東条への責任転嫁」の論調である。(中略)
ところが、55年以降になると一変して「全責任を負う」一色になっていく。(中略)そして、64年出版の『マッカーサー回想録』で、フィクションが確立することになる。
天皇の人柄が高潔であるという美談は、日本人的感性に訴えて、天皇を美化することに大いに貢献してきたことは間違いない。でも後付けの作り話はもうお終いだ。
天皇は自ら「戦争の全責任を負う」などと語ったことは一切なかった。
では仮に、天皇が「戦争の全責任を負う」と、本当に言ったとしたらどうなるか。「天皇の戦争責任論争」にキッパリ終止符が打たれるだろう。天皇には戦争責任がある。何より天皇自身が「戦争責任」を自らの言葉で認めたのだから>。右翼の論客諸氏も、天皇の戦争責任を前提として、その責任の取り方があれでよかったのかを論じなければならなくなるだろう。
そもそも、天皇の「自責発言」と、「天皇に戦争責任なし」は、相互に両立しえない立場である。
授業では、連合国はなぜ天皇の戦争責任を追及しなかったかについても、様々な資料に基づいて分析があった。
私の理解では、マッカーサーが最優先したのは「占領統治の成功」であって、天皇制など二の次だったのだろう。東西対立の中で、ソ連を押さえ込もうとするマッカーサーと、共産主義嫌いな昭和天皇とが意気投合したとも言える。要するに「政治的思惑」の中で、連合国側からの天皇の戦争責任は見逃されることになったのだ。
しかし、外国からは責任を追及されなかったとしても、対内的なの「戦争責任」はどうなったのだろう。連合国側に対しては「諸国の裁決にゆだねる」と恭順の意を表しつつ、国民に向けては謝罪の一つもないというのは、指導者の人格として誉められたものだろうか。天皇の「自責発言」があったとしても、戦勝国から免罪してもらうためのものであったとしたら、自己保身のための外向けのポーズでしかなかったことになる。
歴史教育は「客観的事実」に基づくことが根本である。『公式文書』に載っていない天皇の言葉をあたかも事実であるかのように「人物コラム」に載せている扶桑社の歴史教科書は検定をやり直すべきだろう。そうでなければ「歴史」の看板を外して「物語」とでも看板を掛け替えるべきだ。
大変有意義な授業であった。こんなすてきな授業を聞けなくなった区立の中学生達は本当に気の毒である。
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