(2022年7月14日東京地裁709号法廷にて陳述)
◎ 原告 塚本秀男・意見陳述要旨
1 定年退職後、再任用教員として勤務し、2019年3月に再任用を終了しました。その後、学習支援を主な目的とした無料塾を週2~3回、SSWや「子ども食堂」の方々らと連携しながら進めてきています。
通ってくるのは中高生相当の若者で、「様々な課題を抱えている外国出身の保護者の子ども」や「不登校で学力保障がままならない子ども」たちです。市から無料で提供された会場で、子どもたちの学習を支援するほか、相談に応じたり、野外学習を計画するなどの活動をしています。
無料塾を進めてくる中で気づいたのは、ある種の「安堵感」「心の平静」です。
これは、在職中に「10・23通達」発出以来、毎年ほぼ通年的に余儀なくされた圧迫される体験がなくなったことによるのではないかと思うことがよくあります。
毎年毎年、都教委の指示を受けた校長から「国旗に正対して起立し、国歌斉唱」を強制する職務命令毎年が出されてきました。その結果、「持続的な重苦しい圧力、持続的な精神的苦痛、持続的な自分との格闘と葛藤、処分に対する屈辱的な恐怖感、永遠に繰り返されるのだろうかという諦観的な不安感」が増幅していきました。
さらに、「待ち受ける担任等をさせない差別人事、待ち受ける低いランク差別査定」が続く中で教育活動に従事していた17年間もの日々から、ようやく解放されているのだなと気づくことです。
そのような精神的なゆとりの下で、教材などを準備し、子どもらに接することのできる充実感は何物にも代えられないものだなあと、久々に感じています。
2 私は、不起立を理由に二回の処分を受けました。私が起立斉唱できなかった理由は、主に二つあります。
第一は、戦前の軍国主義やアジア太平洋戦争の歴史に対する教育者としての痛烈な反省の継承です。「教え子を戦場に送らない」という教育信条に従って起立できなかったことです。
私は二回とも、教員席の中でも管理職がわざわざ指定した目立たない席で、国歌斉唱時のわずか40秒間、静かに着席していただけです。式揚内で異様に目立っていたのは、背面監視と不起立職員の現認を目的に教員席の後ろを斉唱中に二回も往復していた副校長の方でした。
第二は、人権教育を公教育の柱の一つとして考え、実践してきたという少なからぬ自負が私にはありました。意に沿わない起立行為によって、自分に泥を塗るようなことはできないのではないかと迷いました。どうすべきか自問を繰り返しましたが、起立しないことが良心的にも法的にも間違っていない以上、自分に対し正直に生きようと最終的に決めました。
お互いの思想信条を尊重しあう寛容さを投げ捨てて、静かなる着席を殊更摘発・問題視し、処分することは絶対に許されないと強く思いました。
時が経てば、国歌国旗の強制が社会的な問題として批判され、必ずや司法からも賢明な判断が示されるに違いない、心配するなと、自分を鼓舞して来たというのが率直なところです。
また、在職時に出会った卒業式を迎える「同和地区」出身生徒から「君が代斉唱の時は、起立しなければいけないのですか」と、ある宗教団体に属している生徒からは「私には仕えている神がいるから君が代を歌うことは出来ない。どうしたらいいのでしょうか」との相談を受けるなど「卒業式」を前にした生徒から毎年のように相談を受けました。
生徒の葛藤を受け止めながら、「自分の考えに従って判断していいんだよ、それはあなたに与えられている権利なのだから」と私は話してきました。
特に、二回目の処分にかかわる卒業式前は、不眠と緊張が連続した日々でした。
卒業式の数か月も前から、管理職による「執拗な説得」を受けた上、卒業式後からは管理職二人による「着席確認と執拗な詰問」がなされ、胃の痛くなるような毎日でした。
その後の都教委による「事情聴取」「処分発令」「処分とは無関係な同僚と一一緒に受けさせられることもある連座制の再発防止研修」においても、意に反する「懲罰」を強いられた屈辱で、憔悴し正気を失う日々が続いたことを今でも思い出してなりません。
3 その後、2019年となり、経過は省きますが、ILOとユネスコから日本政府に対して学校における国旗国歌強制の是正を求める、いわゆるセアート勧告が出されました。
被処分の屈辱・悔恨後遺症に悩まされていた自分ですが、何度も読みながら少しずつ元気が湧いてきていることに気づきます。その勧告の中で、私が最も印象に残っているのは、以下の二つの文言です。
一つは『(国歌斉唱時に)起立斉唱を静かに拒否することは勤務中の職場においてさえ、式典の混乱をもたらさない限り不服従の市民的権利として認める見解にILOとユネスコが立つ』と記され、不起立・不服従を権利として承認していること!これが人権の国際水準だと日本政府に勧告していることです。
もう一つは、『民主主義社会では、異議を唱える言動の存在それ自体が、愛国的な行為が信念から発している証拠となる』と記されていること。換言すれば、「異議を唱える言動(が理由で処分されることなく)認められてこそ、愛国的な行為が強制ではなく信念に基づく行為として意義深くなる」との指摘です。
日本政府・都教委当局を諭している画期的な勧告だと私は解釈した次第です。人権の被害者が「行政罰」を被せられ、人権の加害者が「不問」にされるアベコベな、「信用を失墜させる」教育行政を抜本的に正していくことを求めている勧告ではないでしようか。
最後に、裁判官へのお願いです。
私は減給処分取り消し後に戒告という再処分を受けたことから、三度目の提訴ということになりました。「今度こそ被処分者の着せられた濡れ衣をはらし、自由闊達な学校を取り戻せる」三度目の正直に期待せずにはいられません。
私の拙い陳述にもご配慮いただき、国際的にも胸をはれる画期的な人権擁護判決をお願いしたいと考えます。以上陳述とします。
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