=進む南西諸島軍事化~現地から(立川テント村通信)=
◆ 奄美の自衛隊に反対です
私がなぜ戦争を頑なに拒否するのか。それは、母の生い立ちによるものが大きい。
私の母は3月10日の東京大空襲で家族を失った戦争孤児だ。4歳の女の子は苦労して育ち、何よりも、親兄弟を奪った戦争をとても恨んでいた。
そんな母を見ながら育った私は、戦争は恐ろしく残酷なことで、2度と戦争を起こさないと誓った憲法を誇りに思っていた。
私は、東京とはいえ当時はど田舎であった町田の団地でのびのびと育ったが、厚木基地が近かったせいか米軍機が頻繁に低空飛行していた。のちに日米地位協定のために東京の空を飛ぶ飛行機は日本のものではないと知って、違和感と悲しみを同時に感じていた。
30歳を過ぎて移住をした宝島は、海は青く空気は澄み、子どもは地域みんなで育ててくれて、申し分のないパラダイスだった。
しかし、そこでも夜中に怪しげなヘリが飛んできて旋回していたり、学校で野球中に乗組員の顔が確認できたほど低空飛行があったりと、澄んだ空に暗い影を落としていた。
島には、高校がない。下の娘が奄美大島の高校を受験しようと決めていた頃、311が起きた。体の全身の気力がうせ、被害者でもないのに毎目泣いて絶望感に苛まれた。
その後の日本政府の動きを見て、「日本に生まれて良かった、官僚のような頭のいい人たちに任せておけば、私たちの暮らしは守られていくんだ。」と思っていた今までの考えは勘違いだったと思い知った。
◆ 陸上自衛隊が奄美へ
奄美市への陸自部隊配備は、2014年8月に当時の防衛副大臣が奄美市へ要請し、それを朝山市長が承諾。その後も着実に部隊配備の計画・事業が進む一方で、これまで同市での住民脱明会は一度も開かれてこなかった。(以上奄美新開から抜粋)
ある日、奄美市市役所に防衛副大臣が訪問すると情報が入った。
え?なになに?何が起こった??という感覚で、市役所前でデモを行うという人々に加わった。
防衛副大臣が正面玄関に立ったとぎ、自衛隊誘致賛成の市議会議員が出迎え万歳三唱を唱えていた。
私は怒りに震え「やめろ~!!人殺しを連れてくるな~!!」と叫んでいた。体から言葉が溢れてきてしまった。
戦争の世界のルールとして「軍地基地が無い場所への攻撃はしてはならない。」というようなことがあるということは、後から知ったことだった。
その日をきっかけに集会やデモ、市議会議員活動報告会など主張できる場所に赴き、反対運動に加わった。
夫が奄美での大きな団体、「集団的自衛権行使と戦争のための自衛隊誘致に反対する奄美ネットワーク」通称、自衛隊ネットと繋がり、また、独自に自分なりの方法で活動できる、「奄美のミサイル基地を考える会」を発足しメンバーとなった。
自衛隊ネットと連携し、活動を共にするとともに、街中にスクリーンを置き基地建設の進行状況や自然破壊の様子をスライド映写したり、与那国島の現状を語つてくれる哲さんの講演会を開いたり、2019年3月31日には小西誠さん講演会のお手伝いなどもした。
自衛隊ができれば必ず米軍も来る。今の自衛隊のあり方は戦争が前提のもので我が国の平和憲法が脅かされてしまう。
◆ 自衛隊基地反対運動の経過
ここで振り返って奄美の自衛隊基地反対運動の流れも押さえておきたい。
2014年奄美市名瀬の市街地で「奄美への自衛隊配備は許さない7.26緊念行動」と銘打つ反対集会を開いた。
参加者は「奄美への自衛隊基地は絶対許さない」などとシュプレヒコールをし、怒りのこぶしを突き上げた。(以上南海日日新聞より抜粋)
2015年より環境調査、用地交渉・取得など進め、2016年戻から実施設敢敷地造成工事など着手するとのことだったので、自衛隊ネットでは環境調査の内容を開示するよう防衛省に申請したが、長くかかって送られてきた分厚い制査票は黒塗りの「のり弁」状態のものだった。
2016年6月5日建設予定地の大熊地域の住民説明会があった。大熊住民のみの説明会であり、奄美市民に向けられたものではなかったが、朝山市長はこの一度だけで説明は十分であると述べている。
「米軍の利用はないのか?」との質問に、市長は「米軍が来るなら反対だ。」と言っていたが、駐屯地ができる前に米軍との共同訓練は行われた。
同時期に、自衛隊ネットから市長宛に自衛隊基地について奄美市民に説明がないことについて質問状を提出。市長からは一切返答なし。
2017年5月、駐屯地など関連施設整備の工事差し止めを求める仮処分を鹿児島地裁名瀬支部に申請した。
何度も裁判を行ったが、高裁宮崎支部で「本抗告のいずれも棄却する。」と決定が下され、2019年1月末に最高裁への「特別抗告」を断念した。
2018年度末、奄美市名瀬の大熊と瀬戸内町節子で、配備に向けた土地造成と施設整備が急ピッチで進んだ。
自衛隊ネットとともに都度、抗議やデモ活動を行い、市民の意見が言える市議会議員報告会などに積極的に出席し奄美市民へのきちんとした説明を求めた。
◆ 市長選とその後
私たちの運動はなかなか広がらず、実を結ぶことなく自衛隊基地はできてしまったが、奄美に生まれ育った人々も本音ではミサイル基地には反対だ。
署名活動には記名が憚られできなくとも、シール投票では80%以上の方が反対に票を入れている。
名前がわかれば、狭い地域で自分自身や家族、親戚にどんな影響があるか分からないから怖い。というアレルギーが強いのだ。
昔「島を二分する戦争のような選挙」があったことはググれば容易にわかる。そんな中一縷の望みを託して2017年に市長選に候補者を立てて戦ったが、健闘するも結果は完敗だった。
2018年選挙活動を通じて学んだことを活かし、「奄美をよくする市民会議」として、草の根運動を始めた。
もっと身近なところからじわじわと、奄美の生活に関わる疑問や問題点から、「実は○○が関わっていそうですよ。」とか、「△△っていう計画ご存知ですか?」と呼びかけて、、奄美の政治や環境、あるいは周りの国々の取り組みなどにも目を向けてお互いに勉強しあっていこう。という趣旨で、主に新聞発行しながら、配布していく活動を行っていた。
コロナシヨックなどを機に活動は停止中だが、今も、何かしなくてはという思いは続いている。
◆ 地域に入り込む自衛隊
2021年今現在、自衛隊基地が来てからまる2年たち、予想通り地城の中に自衛隊は入り込み、祭りやイベントでよく出会うようになった。特に「働く乗り物フェア」みたいなイベントは大人気だ。
奄美にはアミューズメント施設はほとんどなく、子どもたちには憧れを抱かせているように見える。本来奄美では自然豊かなことがアミューズメントなのだから、子供達に必要なのは今ある自然であると私は考えるのだが。
2010年の奄美豪雨災害の際に自衛隊が活躍して救助に当たったので「災害の際自衛隊がいれば安心。」と、人々の意識に刷り込まれたようだ。
自衛隊組織に精通している方は群しくご存じだろうが、救助隊としての自衛隊組織と奄美にできた駐屯地の職務は違うものだ。
市民団体が「平時での迷彩服での活動は控えてもらいたい」と申し出て、今は少なくなったようだが、一時は迷彩服で買い物をしている姿が頻繁にみられ、戦争を連想する私などは大変不愉快な思いをしたものだった。
コンビニではスポーツ新聞がラックから溢れるくらい積まれていたり、屋仁川では今までなかった風俗店までできてしまった。
子供を持つ親世代はそれも何も思わないのだろうか?と、疑問に思う。基地ができたことによるデメリットは大きいのに気づかないのだろうか?
自衛隊のHPには肯定派の市長が顔写真入りで「いもーれ、奄美へ」などと、歓迎のコメントまで出している。
『国で決めたことに市長が口出しはできない。』なんて公式の揚で発言している「市民の意見を無視する市長」って要るんだろうか??
◆ 基地と環境問題
世界遺産決定が目前だが、基地をはじめ山削りや沖砂採果など環境問題は山積している。
開発(おがみ山トンネル計画)や砂防ダム、唯一残された完全の浜のコンクリー卜堤防工事計画なども、基地建設と深く関わっているのではないかと思ってしまうのは考えすぎだろうか。
前宮古島市長の下地氏が、自衛隊基地をめぐつて汚職があったことで逮捕されてたことは都市伝説でもなんでもない。
もともと、武器など何も持たぬ素朴な島にミサイル基地が立つ。隣国から見れば脅威までとは行かずとも、「銃口を向けられた」と捉え、以前にも増して敵国扱いとなるであろう。いざ、有事の際は南西諸島が狙われる。
自衛隊には島嶼防衛としての、「奪還訓練」というのがある。
何ぶ奪還だ!すでに一度攻撃されてしまう想定!そのとき、島に暮らす6万5千人はどこにいるのか?(奄美大島全体2010年の統計)
奇しくも5月11日からは自衛隊のある九州3県で日米仏による合同演習が行われている。7月には日米共同訓練も予定されている。
有事の際の市民の避難計画はまだない。
2019年8月4日に奄美瀬戸内分屯地(節子)の見学会があった際、移動式ミサイルの下で複数の自衛隊員が「これで奄美は絶対に守ります。」と、言ったことを私は忘れない。
◆ 平和への道は
以前、私はSNSで「偉そうにいうな」という言葉の持つ上から目線を批判した投稿をしたが、私の文章やものの捉え方は実に幼稚で「偉そうに」と言われて当然である。
しかし、勉強した人もしない人も、頭のいい人もそうでない人もこの世に生きている。戦わずして平和に生きる道を国をあげて考えてほしいし、私たち一人一人ができることをしていくべきなのだと思う。
先日、友人のヨットに乗って海の上を1日ふわふわ浮かんで過ごした。そんなことも、人の意識を変えるには大いに役立つと思った。こんなにも幸せで自分自身を肯定できる世界は、何よりも豊かな自然があるからこそと気づくからだ。自然豊かな奄美が、日本が、これ以上傷つくことがたいように祈るばかりだ。
『立川テント村通信』(2021年6月1日、7月1日)
◆ 奄美の自衛隊に反対です
奄美の自衛隊-ミサイル部隊配備を考える会 牧ロ典乎
◆ 宝島から奄美大島へ私がなぜ戦争を頑なに拒否するのか。それは、母の生い立ちによるものが大きい。
私の母は3月10日の東京大空襲で家族を失った戦争孤児だ。4歳の女の子は苦労して育ち、何よりも、親兄弟を奪った戦争をとても恨んでいた。
そんな母を見ながら育った私は、戦争は恐ろしく残酷なことで、2度と戦争を起こさないと誓った憲法を誇りに思っていた。
私は、東京とはいえ当時はど田舎であった町田の団地でのびのびと育ったが、厚木基地が近かったせいか米軍機が頻繁に低空飛行していた。のちに日米地位協定のために東京の空を飛ぶ飛行機は日本のものではないと知って、違和感と悲しみを同時に感じていた。
30歳を過ぎて移住をした宝島は、海は青く空気は澄み、子どもは地域みんなで育ててくれて、申し分のないパラダイスだった。
しかし、そこでも夜中に怪しげなヘリが飛んできて旋回していたり、学校で野球中に乗組員の顔が確認できたほど低空飛行があったりと、澄んだ空に暗い影を落としていた。
島には、高校がない。下の娘が奄美大島の高校を受験しようと決めていた頃、311が起きた。体の全身の気力がうせ、被害者でもないのに毎目泣いて絶望感に苛まれた。
その後の日本政府の動きを見て、「日本に生まれて良かった、官僚のような頭のいい人たちに任せておけば、私たちの暮らしは守られていくんだ。」と思っていた今までの考えは勘違いだったと思い知った。
◆ 陸上自衛隊が奄美へ
奄美市への陸自部隊配備は、2014年8月に当時の防衛副大臣が奄美市へ要請し、それを朝山市長が承諾。その後も着実に部隊配備の計画・事業が進む一方で、これまで同市での住民脱明会は一度も開かれてこなかった。(以上奄美新開から抜粋)
ある日、奄美市市役所に防衛副大臣が訪問すると情報が入った。
え?なになに?何が起こった??という感覚で、市役所前でデモを行うという人々に加わった。
防衛副大臣が正面玄関に立ったとぎ、自衛隊誘致賛成の市議会議員が出迎え万歳三唱を唱えていた。
私は怒りに震え「やめろ~!!人殺しを連れてくるな~!!」と叫んでいた。体から言葉が溢れてきてしまった。
戦争の世界のルールとして「軍地基地が無い場所への攻撃はしてはならない。」というようなことがあるということは、後から知ったことだった。
その日をきっかけに集会やデモ、市議会議員活動報告会など主張できる場所に赴き、反対運動に加わった。
夫が奄美での大きな団体、「集団的自衛権行使と戦争のための自衛隊誘致に反対する奄美ネットワーク」通称、自衛隊ネットと繋がり、また、独自に自分なりの方法で活動できる、「奄美のミサイル基地を考える会」を発足しメンバーとなった。
自衛隊ネットと連携し、活動を共にするとともに、街中にスクリーンを置き基地建設の進行状況や自然破壊の様子をスライド映写したり、与那国島の現状を語つてくれる哲さんの講演会を開いたり、2019年3月31日には小西誠さん講演会のお手伝いなどもした。
自衛隊ができれば必ず米軍も来る。今の自衛隊のあり方は戦争が前提のもので我が国の平和憲法が脅かされてしまう。
◆ 自衛隊基地反対運動の経過
ここで振り返って奄美の自衛隊基地反対運動の流れも押さえておきたい。
2014年奄美市名瀬の市街地で「奄美への自衛隊配備は許さない7.26緊念行動」と銘打つ反対集会を開いた。
参加者は「奄美への自衛隊基地は絶対許さない」などとシュプレヒコールをし、怒りのこぶしを突き上げた。(以上南海日日新聞より抜粋)
2015年より環境調査、用地交渉・取得など進め、2016年戻から実施設敢敷地造成工事など着手するとのことだったので、自衛隊ネットでは環境調査の内容を開示するよう防衛省に申請したが、長くかかって送られてきた分厚い制査票は黒塗りの「のり弁」状態のものだった。
2016年6月5日建設予定地の大熊地域の住民説明会があった。大熊住民のみの説明会であり、奄美市民に向けられたものではなかったが、朝山市長はこの一度だけで説明は十分であると述べている。
「米軍の利用はないのか?」との質問に、市長は「米軍が来るなら反対だ。」と言っていたが、駐屯地ができる前に米軍との共同訓練は行われた。
同時期に、自衛隊ネットから市長宛に自衛隊基地について奄美市民に説明がないことについて質問状を提出。市長からは一切返答なし。
2017年5月、駐屯地など関連施設整備の工事差し止めを求める仮処分を鹿児島地裁名瀬支部に申請した。
何度も裁判を行ったが、高裁宮崎支部で「本抗告のいずれも棄却する。」と決定が下され、2019年1月末に最高裁への「特別抗告」を断念した。
2018年度末、奄美市名瀬の大熊と瀬戸内町節子で、配備に向けた土地造成と施設整備が急ピッチで進んだ。
自衛隊ネットとともに都度、抗議やデモ活動を行い、市民の意見が言える市議会議員報告会などに積極的に出席し奄美市民へのきちんとした説明を求めた。
◆ 市長選とその後
私たちの運動はなかなか広がらず、実を結ぶことなく自衛隊基地はできてしまったが、奄美に生まれ育った人々も本音ではミサイル基地には反対だ。
署名活動には記名が憚られできなくとも、シール投票では80%以上の方が反対に票を入れている。
名前がわかれば、狭い地域で自分自身や家族、親戚にどんな影響があるか分からないから怖い。というアレルギーが強いのだ。
昔「島を二分する戦争のような選挙」があったことはググれば容易にわかる。そんな中一縷の望みを託して2017年に市長選に候補者を立てて戦ったが、健闘するも結果は完敗だった。
2018年選挙活動を通じて学んだことを活かし、「奄美をよくする市民会議」として、草の根運動を始めた。
もっと身近なところからじわじわと、奄美の生活に関わる疑問や問題点から、「実は○○が関わっていそうですよ。」とか、「△△っていう計画ご存知ですか?」と呼びかけて、、奄美の政治や環境、あるいは周りの国々の取り組みなどにも目を向けてお互いに勉強しあっていこう。という趣旨で、主に新聞発行しながら、配布していく活動を行っていた。
コロナシヨックなどを機に活動は停止中だが、今も、何かしなくてはという思いは続いている。
◆ 地域に入り込む自衛隊
2021年今現在、自衛隊基地が来てからまる2年たち、予想通り地城の中に自衛隊は入り込み、祭りやイベントでよく出会うようになった。特に「働く乗り物フェア」みたいなイベントは大人気だ。
奄美にはアミューズメント施設はほとんどなく、子どもたちには憧れを抱かせているように見える。本来奄美では自然豊かなことがアミューズメントなのだから、子供達に必要なのは今ある自然であると私は考えるのだが。
2010年の奄美豪雨災害の際に自衛隊が活躍して救助に当たったので「災害の際自衛隊がいれば安心。」と、人々の意識に刷り込まれたようだ。
自衛隊組織に精通している方は群しくご存じだろうが、救助隊としての自衛隊組織と奄美にできた駐屯地の職務は違うものだ。
市民団体が「平時での迷彩服での活動は控えてもらいたい」と申し出て、今は少なくなったようだが、一時は迷彩服で買い物をしている姿が頻繁にみられ、戦争を連想する私などは大変不愉快な思いをしたものだった。
コンビニではスポーツ新聞がラックから溢れるくらい積まれていたり、屋仁川では今までなかった風俗店までできてしまった。
子供を持つ親世代はそれも何も思わないのだろうか?と、疑問に思う。基地ができたことによるデメリットは大きいのに気づかないのだろうか?
自衛隊のHPには肯定派の市長が顔写真入りで「いもーれ、奄美へ」などと、歓迎のコメントまで出している。
『国で決めたことに市長が口出しはできない。』なんて公式の揚で発言している「市民の意見を無視する市長」って要るんだろうか??
◆ 基地と環境問題
世界遺産決定が目前だが、基地をはじめ山削りや沖砂採果など環境問題は山積している。
開発(おがみ山トンネル計画)や砂防ダム、唯一残された完全の浜のコンクリー卜堤防工事計画なども、基地建設と深く関わっているのではないかと思ってしまうのは考えすぎだろうか。
前宮古島市長の下地氏が、自衛隊基地をめぐつて汚職があったことで逮捕されてたことは都市伝説でもなんでもない。
もともと、武器など何も持たぬ素朴な島にミサイル基地が立つ。隣国から見れば脅威までとは行かずとも、「銃口を向けられた」と捉え、以前にも増して敵国扱いとなるであろう。いざ、有事の際は南西諸島が狙われる。
自衛隊には島嶼防衛としての、「奪還訓練」というのがある。
何ぶ奪還だ!すでに一度攻撃されてしまう想定!そのとき、島に暮らす6万5千人はどこにいるのか?(奄美大島全体2010年の統計)
奇しくも5月11日からは自衛隊のある九州3県で日米仏による合同演習が行われている。7月には日米共同訓練も予定されている。
有事の際の市民の避難計画はまだない。
2019年8月4日に奄美瀬戸内分屯地(節子)の見学会があった際、移動式ミサイルの下で複数の自衛隊員が「これで奄美は絶対に守ります。」と、言ったことを私は忘れない。
◆ 平和への道は
以前、私はSNSで「偉そうにいうな」という言葉の持つ上から目線を批判した投稿をしたが、私の文章やものの捉え方は実に幼稚で「偉そうに」と言われて当然である。
しかし、勉強した人もしない人も、頭のいい人もそうでない人もこの世に生きている。戦わずして平和に生きる道を国をあげて考えてほしいし、私たち一人一人ができることをしていくべきなのだと思う。
先日、友人のヨットに乗って海の上を1日ふわふわ浮かんで過ごした。そんなことも、人の意識を変えるには大いに役立つと思った。こんなにも幸せで自分自身を肯定できる世界は、何よりも豊かな自然があるからこそと気づくからだ。自然豊かな奄美が、日本が、これ以上傷つくことがたいように祈るばかりだ。
『立川テント村通信』(2021年6月1日、7月1日)
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