量産される不当判決(下)
◆ 司法原則を逸脱する最高裁
◆ 現代に生き残るお白州の思想
最高裁の法廷は、地裁・高裁のそれとは根本的に異なる。
地裁・高裁では、原告と被告側が左右に分かれ相対するように席が作られている。そしてその中間に裁判官席がある。いうならば、ボクシングのレフリーのような位置である。双方が弁論を競い、裁判官がそれを判定するような席の作りになっている。民事も刑事も同じ法廷で行われるのである。
ところが最高裁はこれとは全く異なる。中央にそびえる裁判官席はかなり高い。そして上告人側と被上告人側は左右に分かれるが相対しない。裁判官の高い席を仰ぎ見る仕組みになっている。
しかしこの席に座するのは弁護士(代理人)だけなのである。上告人などの当事者は、傍聴席の前列に座ることになる。傍聴席は仕切りで区切られて.おり、席数は48と決められており、裁判官を仰ぎ見るような席なのだ。
この最高裁判所の法廷の作りは、裁判官が上席から下席に一方的に判決を下す。下級審では、判決に不服があれば上訴が可能である。しかし最高別は最終審であることから代理人も含めこれに従わせる意味をもっている。言うならば大岡越前の“お白州”と同じなのある。
奉行が「沙汰を申し下す」と、裁かれる側がお白州で膝まづき、罪人などが玉砂利に頭をこすりつけるほどに低頭する、まさにあの思想に基づいているのである。およそ、近代法思想に基づく法廷ではありえないのである。
ここに最高裁判所のイデオロギーを証明するエピソードがある。最高裁判所では「裁判所ナビ(裁判所ってどんなとこ、?)」のリーフレットを、配布している。その中の「Q&A」に「裁判所のバッジはどういうものなの?」の項目がある。そこではこのように書かれている。「裁判所職員のバッジは、八腿(やた)の鏡を形どり、中心に裁判所の『裁』の字を浮かした形をしています」と。
「八腿の鏡」と言えば天皇の三種の神器のひとつである。つまり、最高裁判所職員は天皇の官吏であることをこのバッジが表象している。最高裁ではいまだに国体が護持されているようだ。
このように見ると仰ぎ見る裁判官席のさらにその背後には天皇制が鎮座しているのかもしれない。国民主権の憲法の番人であるはずの司法が天皇イデオロギーによって支配されているならば、国民のための司法判断が下されないのはうなずけるというものだ。しかしこんな最高裁には国民を裁く資格はない。
◆ 司法は多数決原理の抑制装置
司法・立法・行政の三権分立は民主主義の基本原理である。その中で司法の役割は何であろうか。戸松秀典教授の「法律学大系『違憲訴訟』」(有斐閣)は、司法審査の目的は「社会における少数者の権利や利益を保護することが主題となる」と指摘する。
この指摘はあらゆる「憲法」の基本書の最初に示される原則なのである。国民の多数者の意見や利害は選挙の多数決原理による行政によって実現する。これに対して「司法審査制度は、多数決原理に対する抑制装置として意義付けられる」(同掲書)のである。
ところが今回の一連の「日の丸・君が代」訴訟の最高裁判決多数意見は、この司法原則の反対物を判断している。まず法廷意見は、起立斉唱行為は、「一般的、客観的に見て」、あるいは「外部からも認識されるものというべきである」として、多数者による視点を判断基準として採用している。そして国旗国歌に敬意を表することが「社会一般の規範」であるという。
しかし被処分教員の多くは、立たないことが教員としての規範に適うと考えていたから不起立を行ったのである。そして、2007年の東京地裁判決は「日の丸・君が代」は「いまだ価値中立的ではない」と判示している。つまり、国旗国歌への儀礼を「社会規範だ」とする最高裁多数派の立場は社会の多数派を代弁する立場なのである。
この多数意見を批判したのは宮川光治反対意見であった。宮川は「憲法は、少数者の思想及び良心を多数者のそれに等しく尊重し、その思想及び良心の核心に反する行為を行うことを強制することは許容していない」と述べている。そして多数意見は「多数者の視点でそのようなものであると評価しているとみることができる」としてさし戻すことを主張している。
このように宮川意見こそが司法原則を忠実に表明したものであった。最高裁の多数意見がこのようであるならば、最高裁としての信頼を失うことになる。このような最高裁を最後の砦として頼らなければならないこの国の状況は悲劇的と言うしかない。
『週刊新社会』(2011/9/13)
◆ 司法原則を逸脱する最高裁
予防訴訟原告団共同代表 永井栄俊
◆ 現代に生き残るお白州の思想
最高裁の法廷は、地裁・高裁のそれとは根本的に異なる。
地裁・高裁では、原告と被告側が左右に分かれ相対するように席が作られている。そしてその中間に裁判官席がある。いうならば、ボクシングのレフリーのような位置である。双方が弁論を競い、裁判官がそれを判定するような席の作りになっている。民事も刑事も同じ法廷で行われるのである。
ところが最高裁はこれとは全く異なる。中央にそびえる裁判官席はかなり高い。そして上告人側と被上告人側は左右に分かれるが相対しない。裁判官の高い席を仰ぎ見る仕組みになっている。
しかしこの席に座するのは弁護士(代理人)だけなのである。上告人などの当事者は、傍聴席の前列に座ることになる。傍聴席は仕切りで区切られて.おり、席数は48と決められており、裁判官を仰ぎ見るような席なのだ。
この最高裁判所の法廷の作りは、裁判官が上席から下席に一方的に判決を下す。下級審では、判決に不服があれば上訴が可能である。しかし最高別は最終審であることから代理人も含めこれに従わせる意味をもっている。言うならば大岡越前の“お白州”と同じなのある。
奉行が「沙汰を申し下す」と、裁かれる側がお白州で膝まづき、罪人などが玉砂利に頭をこすりつけるほどに低頭する、まさにあの思想に基づいているのである。およそ、近代法思想に基づく法廷ではありえないのである。
ここに最高裁判所のイデオロギーを証明するエピソードがある。最高裁判所では「裁判所ナビ(裁判所ってどんなとこ、?)」のリーフレットを、配布している。その中の「Q&A」に「裁判所のバッジはどういうものなの?」の項目がある。そこではこのように書かれている。「裁判所職員のバッジは、八腿(やた)の鏡を形どり、中心に裁判所の『裁』の字を浮かした形をしています」と。
「八腿の鏡」と言えば天皇の三種の神器のひとつである。つまり、最高裁判所職員は天皇の官吏であることをこのバッジが表象している。最高裁ではいまだに国体が護持されているようだ。
このように見ると仰ぎ見る裁判官席のさらにその背後には天皇制が鎮座しているのかもしれない。国民主権の憲法の番人であるはずの司法が天皇イデオロギーによって支配されているならば、国民のための司法判断が下されないのはうなずけるというものだ。しかしこんな最高裁には国民を裁く資格はない。
◆ 司法は多数決原理の抑制装置
司法・立法・行政の三権分立は民主主義の基本原理である。その中で司法の役割は何であろうか。戸松秀典教授の「法律学大系『違憲訴訟』」(有斐閣)は、司法審査の目的は「社会における少数者の権利や利益を保護することが主題となる」と指摘する。
この指摘はあらゆる「憲法」の基本書の最初に示される原則なのである。国民の多数者の意見や利害は選挙の多数決原理による行政によって実現する。これに対して「司法審査制度は、多数決原理に対する抑制装置として意義付けられる」(同掲書)のである。
ところが今回の一連の「日の丸・君が代」訴訟の最高裁判決多数意見は、この司法原則の反対物を判断している。まず法廷意見は、起立斉唱行為は、「一般的、客観的に見て」、あるいは「外部からも認識されるものというべきである」として、多数者による視点を判断基準として採用している。そして国旗国歌に敬意を表することが「社会一般の規範」であるという。
しかし被処分教員の多くは、立たないことが教員としての規範に適うと考えていたから不起立を行ったのである。そして、2007年の東京地裁判決は「日の丸・君が代」は「いまだ価値中立的ではない」と判示している。つまり、国旗国歌への儀礼を「社会規範だ」とする最高裁多数派の立場は社会の多数派を代弁する立場なのである。
この多数意見を批判したのは宮川光治反対意見であった。宮川は「憲法は、少数者の思想及び良心を多数者のそれに等しく尊重し、その思想及び良心の核心に反する行為を行うことを強制することは許容していない」と述べている。そして多数意見は「多数者の視点でそのようなものであると評価しているとみることができる」としてさし戻すことを主張している。
このように宮川意見こそが司法原則を忠実に表明したものであった。最高裁の多数意見がこのようであるならば、最高裁としての信頼を失うことになる。このような最高裁を最後の砦として頼らなければならないこの国の状況は悲劇的と言うしかない。
『週刊新社会』(2011/9/13)
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