11月7日東京しごとセンターで「言論状況を考える 韓流と嫌韓流のはざまで」(主催:平和力フォーラム)というセミナーが開催された。この日の講師は板垣竜太さんと米津篤八さんの2人。
わたくしは、なぜこれほど「マンガ嫌韓流」が売れ、ネット上で「反日」「売国奴」「死ね死ね死ね」といった単語が飛び交うのかがよくわからない。この日セミナーに参加したのもその謎解きをしてもらえるかもしれないと考えたからだった。そこで、板垣さんの講演のなかの「嫌韓流」に関する部分を中心に紹介する。
▲ 「嫌韓流」と「韓流」「親韓」に通底するもの
「嫌韓」が表現の場に蔓延している。いまや主流に近いところにまで入っていて、けして無視できない状況になっている。「嫌韓流」は、狭義には3冊合計で公称78万部を販売した山野車輪「マンガ嫌韓流」(晋遊舎2005.9、06.2、07.8)を指す。広義には2ちゃんねるをはじめとするネットやサブカルチャーに広がる「嫌韓流」現象のことである。この「嫌韓流」現象は朝鮮人へのバッシングであり、「拉致」問題や2002年のサッカーワールドカップ、2005年の「反日」デモ報道等を契機にエスカレートしてきた。
「マンガ嫌韓流」の読者は男性66.6%、女性33.3%と男性が多く、年代では30~49歳が42.4%、19~29歳が37.5%と中心を占め、10代は3.6%に留まる。ネットのほうはもっと若い世代が多いと推測される。
このマンガは、メディアや教育の世界は反日分子に占領されているので「真実」を教えようというスタンスで描かれている。描写の面では、集合化された「韓国人」「朝鮮人」を感情的ですぐに切れる民族、逆に日本人をクールで理性的として描き、日本人キャラクターに論破された在日朝鮮人キャラクターはすぐ「ウグググ」となってしまう。著者自身「あえてステレオタイプ化して描いている」と述べている。
そして「韓国人」のなかにも悪いやつと少しマシなやつ(たとえば呉善花や金完燮のような「歴史を直視できる韓国人」)がいるとする。また「一部の在日朝鮮人は非常に悪いことをした」と「一部」という修飾を付けてエクスキューズを試みる。しかしそう言いながら朝鮮人「全体」を攻撃している。
「一部」か「その他多く」かを線引きするのは著者の山野氏であり、日本人のフィルターで振り分けているに過ぎない。この点をガッサン・ハージの「ホワイト・ネイション」を援用して、寛容と不寛容の線引きをし、さじ加減をコントロールするのは空間の管理者である日本人にほかならないと指摘した。「マンガ嫌韓流」の在日朝鮮人のキャラクター「松本光一」は、一家にたとえれば日本人宅の居候なので、奥さんや子どもとは違い「家族会議に参加する資格がない」、そして「他人の家庭を好き勝手にかき回していいわけがない」と、一家をかき回す「他人」として位置づけられる。他人を家に入れるか排除するかは「日本人」が決めるというこのマンガがもつ人種主義や国家観がよく表れている。
「マンガ嫌韓流 公式ガイドブック」によれば、読者の反応は「こんな気持ちのいい本が出たことに本当に感動しています」(35歳女性)、「胸につかえていたモヤモヤがスーッとおりたような気分です」(45歳男性)といったものだ。モヤモヤから解放され「日本人」のプライドを取り戻せたという、嫌韓流の論法に引き込まれた感想である。
なお上記については「『マンガ嫌韓流』と人種主義―国民主義の構造」(「前夜」2007春)に、史実の誤りや誇張の指摘も含め、さらに詳しく分析されている。
次に「韓流」と「嫌韓流」に話が移った。
林香里さんの『「冬ソナ」にハマった私たち』(文春新書 2005.12)のアンケートによると、冬ソナをみて「韓国のイメージが向上した」と答えた人は59.8%に上る。自由回答には「同じアジア人、親近感」「明るい開かれたイメージ」「北と違う、先進国」「怖くないイメージ」といった回答が並ぶ。これは逆にいうと、それまでもっていた韓国のイメージが「異質な外国人、疎遠感」「暗い閉ざされたイメージ」「北朝鮮と同じ、後進国」「少し怖いイメージ」だったことを意味する。いわばヨンさまと将軍さまとのイメージの分断であり、日本社会に存在する「朝鮮人」のイメージと、その否定としての「ヨンさま」を示している。
このあと「韓流」のなかにも「嫌韓流」と通底した論理がみられる事例として小倉紀蔵氏の話に移った。小倉紀蔵氏は「ハングル講座」の講師を務めたこともあり一般には「韓流」理解者にして推進者とみなされている。しかし著書「韓流インパクト」(講談社 2005.7)をみると、ポストモダンの日本は韓国に先行していると発展段階論的に分析し、しかも「右」「左」など冷戦的なカテゴリーを使いながら自らは中立を装っており、「嫌韓流」に似た論理が見られる。
最後に、リベラリズムと嫌韓流というテーマで、一見リベラルと目される朝日新聞社と社会学者・東浩紀の言説へ話が移った。
「竹島に続き、対馬も韓国領土だって?いい加減にしろ、韓国人」、「対馬で韓国人を論破する」という雑誌見出しをみつけた。「正論」や「諸君!」ではない。前者は週刊朝日8月15日号、後者はアエラ8月18日号である。これは「理性なき困った韓国人」「それを論破するクールな日本人」という「嫌韓流」の論理と基本的に同じである。また、前・論説主幹、若宮啓文氏のコラムは05年に竹島(独島)放棄論で話題になったが、その後のコラムを合わせ読むと、連帯する相手は韓国だけで、東アジアの自由主義国どうしで北朝鮮に対抗しようといっているにすぎない。それを阻害するのは「異論を激しく排斥するばかり」「ひとつになって燃える」韓国という論理は、嫌韓流と同じだ。
哲学者・東浩紀氏は嫌韓流を、内容は「嫌韓」であっても、形式は「繋がりの社会性」を求めるコミュニケーションだと、内容と形式を分けた議論をする。また嫌韓=右傾化=軍国主義化と捉えるのは短絡的だという。そして差別者やネット右翼に対して「拡張されたリベラリズム」で臨むしかないと主張する。しかし繋がりの表現がなぜレイシズムなのか説明がない。右傾化=軍国主義化という把握は「右傾化」の意味の矮小化である。レイシズムをどう批判し、変えていくかが問題なのだ。
このように一見、親韓・韓流に近いとみえるサイドにも嫌韓流とそっくりの韓国・朝鮮の見方があることを示した。
米津篤八さん(翻訳家)は朝日新聞の元記者である。「朝日も岩波文化人も終わっている。マスコミ総崩れの状況だ。自分で主宰するブログの体験から、いま一番の希望は30-40代の女性ではないか」と述べた。
嫌韓流の構造についてはわかったが、なぜ納得し賛同する若者がいま増えているのかということは、まだわからなかった。
わたくし京都出身なので小中学校のころどのクラスにも在日の人がいた。容姫さん、永祚君など名前が少し違い、集住して住み、しかも貧しい人も多かったので「違い」はわかった。なかには体が弱い人もいたが、守ってあげようという人が必ずいた。そして1世代あとの子どもの時代になるとカン君、ファソンちゃんなどと呼び、国籍が違うことはわかっていても仲良く絵を描いていて、わたしは日本もやっとここまで来たと思った。
年長の人のなかには石原慎太郎など差別主義者がいることは知っているが、いまの20代、30代にふたたび「特定アジア」の差別主義者が大量に発生しているのはなぜなのか、理由がわからない。
韓国朝鮮問題に限らないことだが、たとえば今年春の学習指導要領改定のパブリックコメント募集ではウヨク勢力からほぼ「同一文面」の意見が大量に送付され、まるで政治運動のよう様相を呈した。増田都子さんの裁判でも沿道で「北朝鮮に帰れ!」などとマイクで街宣されたりしている。また気のせいかもしれないがウィキペディアでもサヨク的な言説はできる限り削除され、ウヨク的な論点は数多く紹介されている。一般の人たちはウヨクが振りまく俗説を「そういうこともあるのか」と素直に受け入れてしまう。
わたしたちは、ウヨクと同じようなやり方はしたくないと思っていたが、ここまで来ると対抗戦略を真剣に考えるべき時点に立っているのかもしれない。
『多面体F』「集会報告」より(2008年11月18日)
http://blog.goo.ne.jp/polyhedron-f/
わたくしは、なぜこれほど「マンガ嫌韓流」が売れ、ネット上で「反日」「売国奴」「死ね死ね死ね」といった単語が飛び交うのかがよくわからない。この日セミナーに参加したのもその謎解きをしてもらえるかもしれないと考えたからだった。そこで、板垣さんの講演のなかの「嫌韓流」に関する部分を中心に紹介する。
▲ 「嫌韓流」と「韓流」「親韓」に通底するもの
板垣竜太さん(同志社大学准教授)
「嫌韓」が表現の場に蔓延している。いまや主流に近いところにまで入っていて、けして無視できない状況になっている。「嫌韓流」は、狭義には3冊合計で公称78万部を販売した山野車輪「マンガ嫌韓流」(晋遊舎2005.9、06.2、07.8)を指す。広義には2ちゃんねるをはじめとするネットやサブカルチャーに広がる「嫌韓流」現象のことである。この「嫌韓流」現象は朝鮮人へのバッシングであり、「拉致」問題や2002年のサッカーワールドカップ、2005年の「反日」デモ報道等を契機にエスカレートしてきた。
「マンガ嫌韓流」の読者は男性66.6%、女性33.3%と男性が多く、年代では30~49歳が42.4%、19~29歳が37.5%と中心を占め、10代は3.6%に留まる。ネットのほうはもっと若い世代が多いと推測される。
このマンガは、メディアや教育の世界は反日分子に占領されているので「真実」を教えようというスタンスで描かれている。描写の面では、集合化された「韓国人」「朝鮮人」を感情的ですぐに切れる民族、逆に日本人をクールで理性的として描き、日本人キャラクターに論破された在日朝鮮人キャラクターはすぐ「ウグググ」となってしまう。著者自身「あえてステレオタイプ化して描いている」と述べている。
そして「韓国人」のなかにも悪いやつと少しマシなやつ(たとえば呉善花や金完燮のような「歴史を直視できる韓国人」)がいるとする。また「一部の在日朝鮮人は非常に悪いことをした」と「一部」という修飾を付けてエクスキューズを試みる。しかしそう言いながら朝鮮人「全体」を攻撃している。
「一部」か「その他多く」かを線引きするのは著者の山野氏であり、日本人のフィルターで振り分けているに過ぎない。この点をガッサン・ハージの「ホワイト・ネイション」を援用して、寛容と不寛容の線引きをし、さじ加減をコントロールするのは空間の管理者である日本人にほかならないと指摘した。「マンガ嫌韓流」の在日朝鮮人のキャラクター「松本光一」は、一家にたとえれば日本人宅の居候なので、奥さんや子どもとは違い「家族会議に参加する資格がない」、そして「他人の家庭を好き勝手にかき回していいわけがない」と、一家をかき回す「他人」として位置づけられる。他人を家に入れるか排除するかは「日本人」が決めるというこのマンガがもつ人種主義や国家観がよく表れている。
「マンガ嫌韓流 公式ガイドブック」によれば、読者の反応は「こんな気持ちのいい本が出たことに本当に感動しています」(35歳女性)、「胸につかえていたモヤモヤがスーッとおりたような気分です」(45歳男性)といったものだ。モヤモヤから解放され「日本人」のプライドを取り戻せたという、嫌韓流の論法に引き込まれた感想である。
なお上記については「『マンガ嫌韓流』と人種主義―国民主義の構造」(「前夜」2007春)に、史実の誤りや誇張の指摘も含め、さらに詳しく分析されている。
次に「韓流」と「嫌韓流」に話が移った。
林香里さんの『「冬ソナ」にハマった私たち』(文春新書 2005.12)のアンケートによると、冬ソナをみて「韓国のイメージが向上した」と答えた人は59.8%に上る。自由回答には「同じアジア人、親近感」「明るい開かれたイメージ」「北と違う、先進国」「怖くないイメージ」といった回答が並ぶ。これは逆にいうと、それまでもっていた韓国のイメージが「異質な外国人、疎遠感」「暗い閉ざされたイメージ」「北朝鮮と同じ、後進国」「少し怖いイメージ」だったことを意味する。いわばヨンさまと将軍さまとのイメージの分断であり、日本社会に存在する「朝鮮人」のイメージと、その否定としての「ヨンさま」を示している。
このあと「韓流」のなかにも「嫌韓流」と通底した論理がみられる事例として小倉紀蔵氏の話に移った。小倉紀蔵氏は「ハングル講座」の講師を務めたこともあり一般には「韓流」理解者にして推進者とみなされている。しかし著書「韓流インパクト」(講談社 2005.7)をみると、ポストモダンの日本は韓国に先行していると発展段階論的に分析し、しかも「右」「左」など冷戦的なカテゴリーを使いながら自らは中立を装っており、「嫌韓流」に似た論理が見られる。
最後に、リベラリズムと嫌韓流というテーマで、一見リベラルと目される朝日新聞社と社会学者・東浩紀の言説へ話が移った。
「竹島に続き、対馬も韓国領土だって?いい加減にしろ、韓国人」、「対馬で韓国人を論破する」という雑誌見出しをみつけた。「正論」や「諸君!」ではない。前者は週刊朝日8月15日号、後者はアエラ8月18日号である。これは「理性なき困った韓国人」「それを論破するクールな日本人」という「嫌韓流」の論理と基本的に同じである。また、前・論説主幹、若宮啓文氏のコラムは05年に竹島(独島)放棄論で話題になったが、その後のコラムを合わせ読むと、連帯する相手は韓国だけで、東アジアの自由主義国どうしで北朝鮮に対抗しようといっているにすぎない。それを阻害するのは「異論を激しく排斥するばかり」「ひとつになって燃える」韓国という論理は、嫌韓流と同じだ。
哲学者・東浩紀氏は嫌韓流を、内容は「嫌韓」であっても、形式は「繋がりの社会性」を求めるコミュニケーションだと、内容と形式を分けた議論をする。また嫌韓=右傾化=軍国主義化と捉えるのは短絡的だという。そして差別者やネット右翼に対して「拡張されたリベラリズム」で臨むしかないと主張する。しかし繋がりの表現がなぜレイシズムなのか説明がない。右傾化=軍国主義化という把握は「右傾化」の意味の矮小化である。レイシズムをどう批判し、変えていくかが問題なのだ。
このように一見、親韓・韓流に近いとみえるサイドにも嫌韓流とそっくりの韓国・朝鮮の見方があることを示した。
米津篤八さん(翻訳家)は朝日新聞の元記者である。「朝日も岩波文化人も終わっている。マスコミ総崩れの状況だ。自分で主宰するブログの体験から、いま一番の希望は30-40代の女性ではないか」と述べた。
嫌韓流の構造についてはわかったが、なぜ納得し賛同する若者がいま増えているのかということは、まだわからなかった。
わたくし京都出身なので小中学校のころどのクラスにも在日の人がいた。容姫さん、永祚君など名前が少し違い、集住して住み、しかも貧しい人も多かったので「違い」はわかった。なかには体が弱い人もいたが、守ってあげようという人が必ずいた。そして1世代あとの子どもの時代になるとカン君、ファソンちゃんなどと呼び、国籍が違うことはわかっていても仲良く絵を描いていて、わたしは日本もやっとここまで来たと思った。
年長の人のなかには石原慎太郎など差別主義者がいることは知っているが、いまの20代、30代にふたたび「特定アジア」の差別主義者が大量に発生しているのはなぜなのか、理由がわからない。
韓国朝鮮問題に限らないことだが、たとえば今年春の学習指導要領改定のパブリックコメント募集ではウヨク勢力からほぼ「同一文面」の意見が大量に送付され、まるで政治運動のよう様相を呈した。増田都子さんの裁判でも沿道で「北朝鮮に帰れ!」などとマイクで街宣されたりしている。また気のせいかもしれないがウィキペディアでもサヨク的な言説はできる限り削除され、ウヨク的な論点は数多く紹介されている。一般の人たちはウヨクが振りまく俗説を「そういうこともあるのか」と素直に受け入れてしまう。
わたしたちは、ウヨクと同じようなやり方はしたくないと思っていたが、ここまで来ると対抗戦略を真剣に考えるべき時点に立っているのかもしれない。
『多面体F』「集会報告」より(2008年11月18日)
http://blog.goo.ne.jp/polyhedron-f/
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