◆ 《書評》ルポ「日の丸・君が代」強制
--戦後最大の思想弾圧事件--
◆ ついに出版!
「日の丸・君が代」強制反対運動を続けている私たちにとって待望の新刊本が昨年末に出版されました。
『ルポ「日の丸・君が代」強制』です。著者は、長年にわたってこの問題を追求し取材を積み重ねて来られた永尾俊彦さんです。
大阪にも何度も来られ、驚くほど多くの方から取材をされました。私自身も取材を受けたひとりとして、どのような本が完成するのだろうと心待ちにしていましたが、本書を手にしたとき、そのあまりの濃密な“重さ”に少したじろぐほどでした。
◆ この二十年
「日の丸・君が代」問題を扱った本としては、2000年1月に出版された田中伸尚さんの岩波新書『日の丸・君が代の戦後史』があります。
99年8月国旗国歌法が施行され、その数ヶ月後に出版されたこの本をお読みになられた方は多いのではないでしょうか。私も、出るやいなや買い求め、ことあるごとに繰り返し読み続けています。
ただ如何せん、そこには、まだ東京の“10・23通達”も大阪の「君が代」強制条例も登場しません。
そう考えると、あの国旗国歌法から現在に至る約20年はいったい何だったのか、どう位置付けられるのか、それが、本書『ルポ「日の丸・君が代」強制』に描かれているといえます。
◆ 統治のカラクリ
戦後、日本社会は日本国憲法のもと“自由と民主主義の国”として出発したはずです。
しかし、本書を通して見えてくるものは、いまだ連綿と続く天皇制のもとの「絵空事としての民主主義」であり、新自由主義のもとに呼び出された新たな「統治のカラクリ」です。
そのありようは、まさに社会の劣化であり、政治の支配下に置かれた無残な公教育の姿ともいえます。
◆ 第一部 少国民たちの道徳
第一部は、すでに歴史の領城に入るのかもしれません。
たしかに、そこにはかつての少国民と呼ばれた山中恒さんや黒田伊彦さんの話から戦前の教育が浮かび上がってきますが、そこからそのまま現在の「君が代」強制に繋がっているありさまが見て取れます。
また古代宗教・神話を研究している川口和也さんの記事からは、「君が代」がたどつて来た歴史とともに、庶民の歌だった「君が代」が、国家に「奪われ」、天皇の歌にされてしまったことに迫ります。
著者は「結局、庶民の『生と性の賛歌』から天皇の讃美歌にされてしまった『君が代』とは、権威に弱い人々の象徴でもある。『君が代』の子どもたちへの強制とは、そのような人々を再生産することを意味する。」と結んでいます。
◆ 第二部 東京篇
第二部は、強制と弾圧の中で抗う東京の教員たちの姿が、著者の取材力を通して迫って来ます。
それは、その背景にある政治や行政の事実を、おそらく膨大な行政文書を読み込み明らかにされているからこそ、伝わって来ます。
たとえば、東京における強制の意図は次の行政文書からあらわになります。
「都立高等学校における『国旗・国歌の適正な実施』は学校経営上の弱点や矛盾、校長の経営姿勢、教職員の意識レベル等がすべて集約される学校経営上の最大の諜題
であり、この課題の解決なくして学校経営の正常化は図れない。」(東京都教育庁高等学校教育指導課2003年7月9日)
“学校経営上の最大の課題”に驚かされます。
著者の取材は、裁判記録にも及びます。
再雇用職員としての地位確認などを求めた「君が代強制」解雇裁判最大の山場であった、あの“10・23通達”を出した横山長洋吉教育長(当時)への証人尋問の記録は、怒りとともに滑稽ささえ感じます。
画期的な「難波判決」から5日後に安倍政権が誕生、その3か月後には教育基本法が改悪され、翌年には、「『君が代』ピアノ伴奏拒否事件」が最高裁で敗訴します。
著者の淡々と事実を積み重ねる手法は、ここでも政治と司法の「カラクリ」を暴露します。
◆ 第三部 「大阪篇」
さて、第三部でも政治と教育のカラクリがあらわにされています。
“2・26ショック”と呼ばれる、日本教育再生機構が主催し安倍晋三と松井一郎を祭り上げたシンポジウム-それが森友事件の温床であったことがわかります。
私たちグループZAZAの面々の表情にはぜひ触れていただきたいです。
「君が代」強制への抗いはこれからも続きます。
たとえ、それが取るに足らない“歯ブラシ”のようなものであっても、歯ブラシのない生活は考えられないはずです。
永尾俊彦さん、ありがとうございました。
『大阪ネットワークニュース 第22号』(2021年5月15日)
--戦後最大の思想弾圧事件--
志水博子
◆ ついに出版!
「日の丸・君が代」強制反対運動を続けている私たちにとって待望の新刊本が昨年末に出版されました。
『ルポ「日の丸・君が代」強制』です。著者は、長年にわたってこの問題を追求し取材を積み重ねて来られた永尾俊彦さんです。
大阪にも何度も来られ、驚くほど多くの方から取材をされました。私自身も取材を受けたひとりとして、どのような本が完成するのだろうと心待ちにしていましたが、本書を手にしたとき、そのあまりの濃密な“重さ”に少したじろぐほどでした。
◆ この二十年
「日の丸・君が代」問題を扱った本としては、2000年1月に出版された田中伸尚さんの岩波新書『日の丸・君が代の戦後史』があります。
99年8月国旗国歌法が施行され、その数ヶ月後に出版されたこの本をお読みになられた方は多いのではないでしょうか。私も、出るやいなや買い求め、ことあるごとに繰り返し読み続けています。
ただ如何せん、そこには、まだ東京の“10・23通達”も大阪の「君が代」強制条例も登場しません。
そう考えると、あの国旗国歌法から現在に至る約20年はいったい何だったのか、どう位置付けられるのか、それが、本書『ルポ「日の丸・君が代」強制』に描かれているといえます。
◆ 統治のカラクリ
戦後、日本社会は日本国憲法のもと“自由と民主主義の国”として出発したはずです。
しかし、本書を通して見えてくるものは、いまだ連綿と続く天皇制のもとの「絵空事としての民主主義」であり、新自由主義のもとに呼び出された新たな「統治のカラクリ」です。
そのありようは、まさに社会の劣化であり、政治の支配下に置かれた無残な公教育の姿ともいえます。
◆ 第一部 少国民たちの道徳
第一部は、すでに歴史の領城に入るのかもしれません。
たしかに、そこにはかつての少国民と呼ばれた山中恒さんや黒田伊彦さんの話から戦前の教育が浮かび上がってきますが、そこからそのまま現在の「君が代」強制に繋がっているありさまが見て取れます。
また古代宗教・神話を研究している川口和也さんの記事からは、「君が代」がたどつて来た歴史とともに、庶民の歌だった「君が代」が、国家に「奪われ」、天皇の歌にされてしまったことに迫ります。
著者は「結局、庶民の『生と性の賛歌』から天皇の讃美歌にされてしまった『君が代』とは、権威に弱い人々の象徴でもある。『君が代』の子どもたちへの強制とは、そのような人々を再生産することを意味する。」と結んでいます。
◆ 第二部 東京篇
第二部は、強制と弾圧の中で抗う東京の教員たちの姿が、著者の取材力を通して迫って来ます。
それは、その背景にある政治や行政の事実を、おそらく膨大な行政文書を読み込み明らかにされているからこそ、伝わって来ます。
たとえば、東京における強制の意図は次の行政文書からあらわになります。
「都立高等学校における『国旗・国歌の適正な実施』は学校経営上の弱点や矛盾、校長の経営姿勢、教職員の意識レベル等がすべて集約される学校経営上の最大の諜題
であり、この課題の解決なくして学校経営の正常化は図れない。」(東京都教育庁高等学校教育指導課2003年7月9日)
“学校経営上の最大の課題”に驚かされます。
著者の取材は、裁判記録にも及びます。
再雇用職員としての地位確認などを求めた「君が代強制」解雇裁判最大の山場であった、あの“10・23通達”を出した横山長洋吉教育長(当時)への証人尋問の記録は、怒りとともに滑稽ささえ感じます。
画期的な「難波判決」から5日後に安倍政権が誕生、その3か月後には教育基本法が改悪され、翌年には、「『君が代』ピアノ伴奏拒否事件」が最高裁で敗訴します。
著者の淡々と事実を積み重ねる手法は、ここでも政治と司法の「カラクリ」を暴露します。
◆ 第三部 「大阪篇」
さて、第三部でも政治と教育のカラクリがあらわにされています。
“2・26ショック”と呼ばれる、日本教育再生機構が主催し安倍晋三と松井一郎を祭り上げたシンポジウム-それが森友事件の温床であったことがわかります。
私たちグループZAZAの面々の表情にはぜひ触れていただきたいです。
「君が代」強制への抗いはこれからも続きます。
たとえ、それが取るに足らない“歯ブラシ”のようなものであっても、歯ブラシのない生活は考えられないはずです。
永尾俊彦さん、ありがとうございました。
『大阪ネットワークニュース 第22号』(2021年5月15日)
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