《子どもの権利条約カウンターレポート(DCI)》から VIII-10-2(1)
★ 職員会議の形骸化政策の弊害
日本の学校における職員会議は、合議制の意思決定機関としての役割を持つと同時に、教師間の同僚性の核ともいえる制度的条件を担ってきた。また、それは子どもとの日常的な教育活動を営む一般教員(classroom teachers)が、学校運営に子どもの声を反映させる重要な機会しても機能してきたのである。
ところが、近年の日本における教育改革は、学校における校長権限を強調し、職員会議の伝統的な役割を形骸化させ、教師間の同僚性を切り崩し、ひいては教師の子どもに対する応答責任を困難にさせている。
1998年の中央教育審議会答申「今後の地方教育行政の在り方について」は、「職員会議があたかも学校の意思決定権を有するような運営がなされ、校長がその職責を十分に果たせない場合もある」として、合議機関としての職員会議を批判し、学校における校長の権限強化と職員会議の位置づけの明確化を提言した。
その結果、2000年の学校教育法施行規則の改正は、「校長の職務の円滑な執行に資するため,職員会議を置くことができる」(48条)と規定し、職員会議の校長の補助機関としての位置づけを明確化したのである。
また、同じ改正によって新たに省令化された学校評議員制度は、校長が保護者や地域の意見を聴取する機関として導入されたものの、2002年に小学校と中学校の学校設置基準が制定され、学校評価が努力義務化されて以降は、学校の外部評価機関として位置づけられるようになる。
学校評価の導入は、学校の教育目標の設定とその履行状況の監視が外部から行われるという仕組みをつくり出し、学校教育活動における教師の主体性を弱体化させてきたといえる。
こうした枠組みが形成される中で、2006年4月13日に東京都では、「学校経営の適正化について」と題する教育長通知が発せられた。そこでは、「学校経営に関わる事項を・・・職員会議の場で議論し、教職員の意向を挙手等で確認するような学校運営は許されない」として、一般教員の職員会議における意見を封じるための措置がとられたのである(基礎報告書360、356)。
このため、学校経営に関わる問題については、学校管理職によって構成される「企画調整会議」によるものとされ、子どもと直接関わりをもつ一般教員は、学校運営における発言の機会を奪われることとなった。
都立高校に通う教員は、この状況を以下のように語っている。
「私は教員になった初めの時から、自分が、学校を担っているとの気概を持って、体を張って、ことにあたってきました。学校運営は、職員会議を中心に行われてきました。ところが、今にいたって、それが否定されるのです。私は『実践層』に過ぎません。職員会議のあり方も変わりました。かくして、程度の差はあろうとも、東京公立学校の多くの人々がプライドを傷つけられている、と私は思います。・・・・・教員の意欲と無力感がじわじわと広がっていく気配を、私は感じています」(基礎報告書354)
このように、職員会議の性格の変容、学校評価の導入により、教師達は学校教育活動から外部化され、教育専門家としての主体性とプライドを失いつつある。そしてそのことは、一般教員が子どもの声を学校運営に反映させるルートを遮断し、学校組織としての子どもに対する応答責任を困難にしているといえる。
★ 職員会議の形骸化政策の弊害
日本の学校における職員会議は、合議制の意思決定機関としての役割を持つと同時に、教師間の同僚性の核ともいえる制度的条件を担ってきた。また、それは子どもとの日常的な教育活動を営む一般教員(classroom teachers)が、学校運営に子どもの声を反映させる重要な機会しても機能してきたのである。
ところが、近年の日本における教育改革は、学校における校長権限を強調し、職員会議の伝統的な役割を形骸化させ、教師間の同僚性を切り崩し、ひいては教師の子どもに対する応答責任を困難にさせている。
1998年の中央教育審議会答申「今後の地方教育行政の在り方について」は、「職員会議があたかも学校の意思決定権を有するような運営がなされ、校長がその職責を十分に果たせない場合もある」として、合議機関としての職員会議を批判し、学校における校長の権限強化と職員会議の位置づけの明確化を提言した。
その結果、2000年の学校教育法施行規則の改正は、「校長の職務の円滑な執行に資するため,職員会議を置くことができる」(48条)と規定し、職員会議の校長の補助機関としての位置づけを明確化したのである。
また、同じ改正によって新たに省令化された学校評議員制度は、校長が保護者や地域の意見を聴取する機関として導入されたものの、2002年に小学校と中学校の学校設置基準が制定され、学校評価が努力義務化されて以降は、学校の外部評価機関として位置づけられるようになる。
学校評価の導入は、学校の教育目標の設定とその履行状況の監視が外部から行われるという仕組みをつくり出し、学校教育活動における教師の主体性を弱体化させてきたといえる。
こうした枠組みが形成される中で、2006年4月13日に東京都では、「学校経営の適正化について」と題する教育長通知が発せられた。そこでは、「学校経営に関わる事項を・・・職員会議の場で議論し、教職員の意向を挙手等で確認するような学校運営は許されない」として、一般教員の職員会議における意見を封じるための措置がとられたのである(基礎報告書360、356)。
このため、学校経営に関わる問題については、学校管理職によって構成される「企画調整会議」によるものとされ、子どもと直接関わりをもつ一般教員は、学校運営における発言の機会を奪われることとなった。
都立高校に通う教員は、この状況を以下のように語っている。
「私は教員になった初めの時から、自分が、学校を担っているとの気概を持って、体を張って、ことにあたってきました。学校運営は、職員会議を中心に行われてきました。ところが、今にいたって、それが否定されるのです。私は『実践層』に過ぎません。職員会議のあり方も変わりました。かくして、程度の差はあろうとも、東京公立学校の多くの人々がプライドを傷つけられている、と私は思います。・・・・・教員の意欲と無力感がじわじわと広がっていく気配を、私は感じています」(基礎報告書354)
このように、職員会議の性格の変容、学校評価の導入により、教師達は学校教育活動から外部化され、教育専門家としての主体性とプライドを失いつつある。そしてそのことは、一般教員が子どもの声を学校運営に反映させるルートを遮断し、学校組織としての子どもに対する応答責任を困難にしているといえる。
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