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東京都の元「藤田先生を応援する会」有志によるブログ(2004年11月~2022年6月)のアーカイブ+αです。

閻魔の業の深さ

2007年03月28日 | ノンジャンル
 ■閻魔の業の深さ(人が人を裁くことの重さ)
   澤藤統一郎の憲法日記


 久しぶりに鎌倉に遊ぶ。横須賀線を北鎌倉で下車し、円覚寺、建長寺、半僧坊とまわって、十王像で名高い円応寺に初めて足を運んだ。

 冥界で亡者を裁くのが十王。初七日には秦広王、ふた七日には初江王、三・七日には宋帝王‥と、七日毎、四九日までに七回。そして百か日、一周忌、三回忌を併せて、十王が十度、亡者の生前の行状について取り調べと裁定をする。十王は、取調官・訴追官・裁判官、そして行刑官に相当する。弁護人がいない。が、いかなる罪人も、地蔵菩薩に救われる道が残されている。

 十王の中心に位置するのが閻魔大王である。五・七日(死後35日目)に、それまでの取り調べの結果を踏まえて、亡者を六道(天上・人間・修羅・畜生・餓鬼・地獄)のどこに生まれ変わらせるかを裁断する。閻魔帳という訴訟記録を傍らにして判決を下す裁判長なのだ。円応寺の閻魔像は、運慶作と伝えられる重要文化財。古来「笑い閻魔」と言われるが、なかなかの迫力。

 備え付けの説明書を読んで驚いた。閻魔は、日に3度、獄卒らに取り押さえられ、灼熱の熔銅を喉に流し込まれるという。体は焼けただれ、地獄に堕ちる亡者の誰にもまさる苦痛を味わうことになるというのだ。

 これは、裁く者の罪の重さを象徴している。たとえ正義の裁きであっても、間違いのない必要な裁きであっても、人を地獄に落とすことの業の深さには、相応の報いが必要なのだ。裁かれる者以上に裁く者が苦しまねばならないというのは、なんという深い智恵と洞察に満ちた説話なのだろう。先人の教えに脱帽するのみである。

 閻魔にして、罪ある亡者を裁くことに報いを受けるのだ。人が人を裁くことの重さについて、たじろがざるを得ない。職業裁判官は、いや検察官も弁護人も、職責の重さをよく自覚しているだろうか。裁判員は、この重さを引き受けることができるのだろうか。

 このことを肝に銘じなければならない。でないと、それこそ五七日に舌を抜かれることになる。

2007年03月24日(土)20:27 この記事のURL
http://www.jdla.jp/cgi-bin04/column/sawafuji/

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